女子閉鎖病棟の歌姫


 
初めて会ったとき彼女はまるでジプシーのように見えた。何者にも束縛されず、自分だけの世界で一人歌を歌っていた。優雅に煙草をくゆらせ、すい終えると、ウエーブのある長い髪をなびかせ、歩きながらろうろうと大声で歌う。誰も彼女の世界に入ることはできない。彼女は精神病院の女子閉鎖病棟の中でも目立つ存在だ。誰もが彼女を廃人だと思っていた。しかし真相はそうではなかった。
彼女は誰にも心を開かなかった。ある日私は彼女の部屋へ偶然入った。怖いもの見たさというか興味本位で彼女の荷物を見てみた。なんだか難しそうだけど面白そうな本が7,8冊紙袋に入っていて、本の題はなぜかみんな神秘的な題であった。そんな彼女の本に私は魅力を感じ、彼女の本を読んでみたいという衝動にかられた。
そんなこともあって、私は彼女に声をかけてみることにした。勇気のいることだった。正直言って、少し彼女が怖かった。狂いの世界にひたりこんでいるような彼女だったからだ・・・
「本を貸してくれない」と彼女に言ってみたら
「煙草15本くれたらいいよ」という返事が来た。当時喫煙者だった私だが、煙草15本はきつかった。病院では煙草は一日一箱までという鉄則があり、それでも十分きつかった。でも私は彼女の本を読んでみたかった。だから何日かかけて、少しずつせこくためてなんとか15本たまった。それで彼女に本を貸してもらった。「植物の神秘学」といった題だったと思う。植物が人間の言語を理解しているといったことが書いてあった。厚さ6センチくらいあったその本は、難しかったが神秘的で魅力のある本だったと記憶している。
そうこうするうちに私は彼女と少しずつコミュニケーションがとれるようになった。話をしてみると、彼女は名古屋の高校の、東大進学率がトップの高校で主席であったこと、そして東大を卒業していることなどが見え隠れしてきた。彼女を知れば知るほど奥深い人物であったのだ。
精神病院の生活は暇だ.だから皆はよく歌を歌っていた。しかし皆、彼女ほどうまく歌える者はいない。ある日、皆で歌をテープに吹き込んでみようということになった。彼女にも歌ってもらおうと、皆で彼女を誘った。彼女は歌ってくれた。彼女はテープレコーダーに向かって叫ぶように歌い始めた。それはただうまいというだけではなく、ものすごく感情がこもっており、歌う歌も個性的で、知らない歌ばかりだったが・・・すごみがあった。
 それを境に、彼女は皆とうちとけるようになり、彼女のことを“ゆうちゃん”と呼ぶようになった。
ある日ゆうちゃんが微笑みながら、私に「これあげる」とコアラとアザラシの可愛いぬいぐるみをくれた。ゆうちゃんはきっと皆とうちとけられて嬉しかったのだと思う。煙草15本の成果は有効だったのだ。
女子閉鎖病棟の歌姫ことゆうちゃんはジョークさえ言うようになった。ゆうちゃんのユーモアのセンスは冴えていた。ゆうちゃんは昔の孤独のイメージも見せず、皆と楽しく過ごすようになった。しかし時というものは残酷なもので、退院というものがあり、私もゆうちゃんと仲の良かった仲間もゆうちゃんを残して女子閉鎖病棟を去っていった。それから何年もたって、ゆうちゃんの重い病気も治ったらしくゆうちゃんも退院したそうだ。
正直言って、ゆうちゃんは廃人でなくとも病院で一生を過ごす人だと思っていた。女子閉鎖病棟を窓越しにのぞけば,ゆうちゃんに会える。いつまでもいつまでも・・・
 そんな夢を抱いていた。後から知った話だが、ゆうちゃんは本当に歌手を目指していたそうだ。どうして夢やぶれたかは定かではないが、もしゆうちゃんが歌手になっていたなら、超一流の歌手になれたと思う。今の芸能界を見渡して、ゆうちゃんよりうまい歌手はほとんどいないと思う。
ゆうちゃんは今どうしているのだろう。入院して友達になった人とは住所とか電話番号を教えあって、病院を退院した後も付き合いがある人もいる。でもゆうちゃんは一生入院しているだろうから・・・と思い、住所も電話番号もきかなかった。
 それは私の大いなる偏見に違いない。と、残念でならない。