わが町に作業所ができるまで

 

私は精神障害者です。今でこそ精神障害者なんて言いますけど、差別用語としたらきちがいとでも申しましょうか?最近でこそ身体障害者、知的障害者と一緒に「障害者」と言ってくださいますが、私が精神を病んだばかりのころは、今よりもっともっとひどい偏見を持たれていました。精神障害者なんて言葉はわたしにしてみたらつい最近にできたばかりの言葉です。私は今精神障害者のための作業所というところに通っています。

 

作業所は精神を病む人間にとってはとても有効な場所です。私も詳しいことは知りませんけど、作業所と言う施設は最近できた文化であり、デイケアとか言う施設もあるのですけど、それに比べればとても素敵な場所です。何と言っても行くとお金がもらえるというのはデイケアにない魅力でしょう。今でこそ作業所はけっこうありますけど、昔はさほどなかったようです。私が通っている作業所はできて6年目に入ります。私はその作業所へ社会復帰のために通っています。社会復帰のために通っている私ですが、未だに社会復帰というものができません。私は近所に作業所ができてからずっと通っています。ベテランです。でも未だに就職できずにいるのですけれど、私よりあとから入った人で作業所を巣立って今は元気に働いている人もたくさんいます。そういう方でも作業所というところへ登録しています。作業所はなんだかとても温かい所だからでしょう。

でもそんな作業所ができるまでの道のりはたいへんでした。私が住んでいる地域には作業所なんてありませんでしたから。最初は保健所で行われる「社会復帰教室」というものが週一回水曜日にだけあって、それに通えるだけでも幸せでした。精神障害者の子供を持つ家族会が必死になって今私が通っている作業所を作りました。それは本当に必死でした。作業所には指導員といわれる職員が必要です。

「作業所ができると指導員さんがいるんだって。」

と私はその指導員さんという人を思い浮かべるのなら、なんかそれは宇宙人みたいに思ったものでした。

作業所ができる前に家族会というものができました。それでも家族会に入った精神障害者の子供を持つ親は10人も集まりませんでした。

そしてそのころ作業所へ行きたい精神障害者も3人しかいませんでした。私はその中の一人です。家族会の会長さんに言いました。

「作業所を作ってください。」と

家族会の会長さんは言いました。

「じゃあ3人から始めよう!」

と。今思うとそのころの情熱はすごいものでした。

「宝くじを当てて3億円あたったら、作業所ができるかもしれないと・・・私は宝くじを買う!!!」

という親御さんもいました。もちろん当たりませんでしたが。

最初は作業所にする物件を歩いて探しました。でもなかなか良い条件の物件はみつからず、本当に苦労しました。

でもやっと見つけて今の作業所ができました。そして宇宙人だったような「指導員さん」もみつかりました。

作業所ができたものの、まず仕事がありませんでした。で細々と千代紙で作った「つまようじ入れ」をみんなで作っていました。あと牛乳パックでできた「座椅子」を一生懸命に作りました。

とても地道に活動していまして、指導員も最初は一人だけのスタートでした。メンバーも10人もいなかったと思います。

 

そういった感じで私の通っている作業所は始めました。そして今では利用する人が多くなりまして、今の物件では狭くなってしまいましたので、今年中になんとかもっと大きな物件を見つけねばなるまいということで、今では3人に増えた指導員さんたちは、必死に頑張っています。

昔は「精神病」というだけで眉をひそめるかたが多かった。今でもまだまだ多い。でも精神障害者やその家族や、指導員さんが必死になって作って、今でも精神障害者が少しでも幸せになりたいと努力する場である作業所の存在を健常者がもっと認めてくれたらな。と思います。

では、この辺で、作業所というものがどういう場所か少しまとめてみました。健常者の人は少しでも理解してくれたでしょうか?