桜貝

 

「これ、遠足のお土産だよ。」
母はそういって私に手渡した。小さなガラスの小瓶に美しい桜貝が入っていた。
『遠足って何のことだろう』
私は今高校三年生だ。ということがやっと思い出せた。本当なら自分が遠足に行ったはずだ。それなのに遠足のお土産とは変なことを言うお母さんだ・・・
そのとき私は小さなうす緑色の部屋にいた。三畳ほどの部屋なのにご贅沢にもトイレがついていた。うす緑色のきれいな部屋。でもそこには四本ぐらいの丸く大きな太い柱が立っていて、そのすきまから看護婦が行ったりきたりしているのが見える。きれいなのに変な部屋。陰気な部屋。後から知ったことだが、この部屋は精神病院の観察室という特殊な部屋だった。(余談になるがこの部屋は個室なので値段が高い。この部屋にいたせいでどれだけ入院費が高ついたことか・・・)
私はこの部屋で寝転んで過ごすという毎日だった。精神病院の五病棟という女子閉鎖病棟の中で、私はさらに自分の心を閉鎖していた。精神病院の中でさらにひきこもり、ほかの入院患者とも接触しなかった。私は生まれて初めての“鬱”を体験していたのだ。ものすごい嵐のような躁状態が終わり、嵐の後の静けさという言葉のように、悲しい鬱の時間を観察室で過ごしていたのだ。
何もする気力がなかった。理由のない悲しみにどっぷりとつかりながら、ただただ美しい桜貝を見つめていた。そんな日が続いた。
『そうか・・・』
 これは親友たちが私に買ってくれた遠足のお土産なのだと、ある日やっと気づいた。うれしいようであり悲しいようであった。