初めて会った聖人
あれは私が二十歳の頃だ、精神病院でも最も重症な患者を隔離する「保護室」にいたときのことだ。
そこは死刑囚の独房のようなところだった。いや、死刑囚の独房より人権を無視したようなこの世で最低最悪の部屋とでも言おうか?私は何も悪いことをしていないのに、なんでこんなひどいところにいないといけないんだろう。そう思うと悲しいし・・・
そこに会ったことのない女性が訪問した。
「看護婦さん?」
「いえ。先生よ。」
私にはその状況がよくつかめなかった。私は確かに自分が精神を患っていることは知っていたし、私の
先生はご老人である院長先生である。いつもパイプをくゆらせていて、そのくせなんか患者をリラックスさ
せてくれる先生だ。なんでこの女の人が私の先生なの??
「看護婦さん?23歳くらい?」
「いえ27歳よ。」
「えっ」
私の目の前にいる人はとても若い綺麗な女の子としか見えなかった。しばらくしてその女性が若く綺麗な
看護婦さんと違うのは、同じ白衣でも看護婦のそれではなく、医者が着る、私服の上にはおる白衣であ
ることに気付いた。
「名和美幸といいます。これからのあなたの主治医よ。これから一緒に病気を治しましょうね。」
状況をよくつかめないものの、そうして私の新しい主治医は院長先生から名和先生となった。
名和先生はポリオで片足が全く動かなかった。動かない足は信じられないほどに細く、痛々しく、名和
先生はいつも松葉杖をついて片足を地面にひきずって歩いていた。普通だったら、『かわいそうに・・・』と
思うような身体障害者なのに、なぜか名和先生の姿は強く神々しく頼もしかった。両の手に松葉杖を持ち
、安物のバッグを握りしめて歩く名和先生は、先生のことを何も知らない人だって、その姿を見た人を感
動させる何かがあった。名和先生は美しかった。それは先生の顔ももちろん美しいに違いな
かったがそれ以上に内面的な美しさが光り輝いていたと思う。
『なんて素敵な先生なのだろう・・・』
私は自分が名和先生の患者であることを誇りに思った。
私が入院していた精神病院には“売店”というものがなく、どこかの総合病院のようにお腹がすいたか
らといって『サンドイッチでも食べよう。オレンジジュースが飲みたい。』と思ってもそれは実現不可能だ。
『お菓子が食べたい』『コーヒーが飲みたい』と思っても我慢するしかない。そんな病院の中で二週間に一
回お菓子を売りにやってくる商売屋さんがいて、そのお菓子はどうみても売れ残りと思える古いへんてこ
なお菓子で、テレビで宣伝しているような新鮮なお菓子とはめぐりあえない。それでもお腹がすくので。我
慢して買っていた.
また、閉鎖病棟では“日用品”なるものは毎週注文できるシステムがあり、でも先ほど書いたお菓子のご
とく、自分が本当に欲しい日用品が買えなかった。私は髪が痛んでいたので、痛んだ髪用のシャンプー
を手に入れたかったのだが・・・閉鎖病棟の日用品の中には痛んだ髪用のシャンプーはなく、安い値段で
はあるが、あまり上等とはいえないシャンプーしか注文できなくて、私はそれが許せなかった。
「看護婦さん、シャンプーを買ってきて!!!痛んだ髪用のシャンプーじゃなきゃいやなの!!!!!」
「だめです、病院の日用品から買いなさい。」と、看護婦の命令があまりにも腹立たしかったので、思
わず私はかんしゃくをおこしてしまい、病棟内のやかんを放り投げてしまったのだ。ちなみにやかんは大
やかんで、中のお茶はかなりの量が入っていて薬の副作用で、喉が渇く症状のあるたくさんの患者さん
のためにしこたま作ってあるものだった。投げた即座に看護婦が五人ほどで、私の体をかかえながら小
走りにして保護室へ連れて行った。保護室という名の独房へ・・・
『シャンプーくらい自分の好きなものを使いたいのに、この人たちはどうしてこんなことをするのだろう。』
私はくやしくてたまらなかった。私は保護室の中で怒りまくっていた。
そんなさなか、カタン、カタンと無機質な音が保護室のそばで聞こえた。なんの音?
そしてガチャンギュウ
と、保護室特有の鋼鉄のドアが音を立てて開かれた。すると保護室の中に名和先生が入ってきた。カタ
ン、カタンという音は名和先生の松葉杖の音だったのだ。私はうれしかった。先生には解ってもらえる!
!!そう思った。私は爆発するようにしゃべった。先生は熱心に私の話を聞いてくれた。先生になら私の
気持ちがわかるはずだ。そう思った。しかし名和先生は意外な言葉を発した。
「頭を洗わなくても死なない!」
名和先生の顔つきはとても厳しかった。“頭を洗わなくても死なない”というその言葉はまだ二十歳とい
うおしゃれざかりの年頃の私には意外だった。また、名和先生のように美しい女性が言うこととしては不
思議という他は無かったが、コペルニクス的展開とでもいおうか?名和先生の言葉は妙に説得力があり
、有無も無くうなずかせるものがあった。その言葉によって、私の人生観が変わった。強く生きることを・・
・名和先生が教えてくれたのだ。
病状がだんだん良くなってきた時、私は名和先生に言った。
「どうして私はこんな病気になってしまったのだろう。」
名和先生がおっしゃった。
「マリちゃんは病気と闘う青春よ。それはとても素晴らしい青春なのよ!」
『病気と闘う青春・・・』
すぐには受けとめられなかったが、その言葉は名和先生が不自由な身体を持っても、強く生きている
事実を目の前にして、すごくリアルに感じたのだ。
私は先生の人生を考えてみた。先生は夏に水着を着て海にいけない。スキーもできない。踊ることもで
きない。ボウリングもできない。走ることもできない・・・と、もろもろと思い浮かべた。
「私はね、夢の中では走っているのよ。一度も走ったことはないのにね。」
先生が何げなく言ったその言葉は楽しげに感じた。本当なら悲しいことでも名和先生は楽しく受け止めら
れたと私は想像した。
ある日先生は自分の生い立ちを語ってくれた。先生は子供の頃自分の家の階段を昇る練習をして、全
部昇れるようになるまでに“三ヶ月”かかったそうだ。また、先生の親も厳しくて、片足が不自由でも、家に
上がるとき、玄関で靴をそろえて脱がなかったら、殴られたという。また、精神科医になったのは、生涯
結婚できないから、自立するために、ずっと座ったままで仕事ができるという理由だとおっしゃっていた。
名和先生の根性を知った。そんな名和先生の憧れの女性は「サッチャー首相」であった。
「民衆に生卵をぶつけられても、へへへ〜と笑っているでしょ。そういう強い女性に憧れるわ」という名和
先生の言葉が今でも印象に残っている。
『強い女性・・・』
それは私の辞書にはなかった。
名和先生は強い女性であるがゆえにすべての宗教を否定していた。
「この世で宗教ほど悪いものはありません。宗教によって戦争がおきたりするでしょ。十字軍と
か宗教の犠牲なって亡くなる人は多いのよ。」
私は名和先生に会う前に天理教の修業をしていて、その修行が厳しすぎて躁状態になった。でも天理教
の信者さんで歩くことができなかった人が歩けるようになったと、感謝し、信仰に生きる人を実際に見た。
「先生、先生だって神様を信じれば歩けるようになります。」
「いえ、私の足は治りません。例えば私の足に何かの霊が取り付いていて、それを追い払って、足が治
るとか。そういう考えは愚かな考えよ。」
と先生は言いきった。
そういう完璧な無神論者の名和先生に、天理教を深く信仰している私の叔母が説得したという。
「どうして神様を信じることがそんなにいけないことなのですか!!!」
とはじまってそれは大喧嘩になったそうだ。その場に私は居合わせてはいなかったが。
先生と喧嘩した後、叔母さんは泣いていた。
その一件があった次の診察で名和先生は私にこうおっしゃった。
「これからはお薬と神様でマリちゃんの病気を治していきましょうね。」
そう言った先生の声は少し震えているような気がした。
私がその時感じたこと。先生の足はどんなに一生懸命に神様に祈ったって治らない。物心ついたときに、片足が動かないと
いう運命を背負った先生が宗教を否定して当たり前だ。それくらい先生は悲しく、しかし自分だけの努力
で不自由な体と闘ってきたんだ。そして私にお薬と神様で病気を治しましょう。と自分の主義を曲げてま
でも言ってくださったこと。それにはものすごく深い思いやりを感じた。
名和先生は自分では生涯結婚できないと思いつつ、花嫁になった。ご主人も精神科のお医者様であ
った。新婚旅行はエーゲ海へ行ったとおっしゃっていた。海で水着姿になれなれなかった名和先生にとっ
て、エーゲ海はひとしお奇麗に見えたに違いないと、私は想像した。
名和先生は結婚して南部先生と苗字が変わった。それからも随分お世話になった。しかし南部先生と
も「転勤」という形で、お別れすることになった。とても辛かった。南部先生には4年間、診ても
らった。今思うと長い歳月だ。私の病気と闘う青春・・・20歳から24歳までの凝縮した時間・・・
南部先生は私の青春を総天然色で彩ってくださった。
そう。南部先生に出会わなかったら、私の青春はきっととても暗いものになっていたことだろう
。病気は辛いんじゃない。病気というのも考え方によっては素晴らしい人生の出来事なのだ。
そして精神の病にならなかったら南部先生という素晴らしい女性と出会うこともなかった。それ
は幸運という以外何物でもないと思う。
南部先生が転勤されて3年の月日が経ち、私は初めて南部先生と会った時の先生と同じ年
齢になった。
私は感慨深く感じ、先生に手紙を書いた。ご丁寧に先生はお返事を下さった。その手紙に
書かれている字は雑でなくとても丁寧に書かれたものだった。今でもその手紙を大切にしまっ
ている。
「マリちゃん。お誕生日おめでとう。
時の経つのは本当に早いものですね。
静岡に転勤してきてからもう2年半になるというのに、私のことを忘れずにお便りしてくださって
本当にありがとう。お元気な様子嬉しく読ませていただきました。
お手紙では私のことを随分買いかぶってみえるようですが、病気を持ちながら様々な苦労を
乗り越えて来たあなたのほうがどれだけ素晴らしいかわからないと思います。私はこちらの病
院に来てからもマリちゃんのように頑張っている多くの患者さん達と出会いました。そしていろ
いろな意味で教えられることが多く、私の方こそ患者さん達を尊敬せずにいられないと思う今
日この頃です。
実は、今年12月一杯でこの病院を退職することにしたのです。私は元来病院勤めでなく自分
の診療所を持ち、地域医療に専念したいと考えておりましたので、そろそろその考えを現実
のものにしたいと思い、退職する決断をしました。(この病院はとても居心地の良い所だった
ので、後ろ髪を引かれる思いでありますが・・・)まだどうなるかわからないけれど、来年中にも
名古屋で開業したいと考えているのですよ。
この間テレビを見てましたら「長生きの秘訣は何ですか?」と質問された高齢のおじいさんが「
いつでも希望を持ち続けることだね。」と答えられたんです。その答えに私はひどく感じ入ってし
まいました。「そうだ!どんな時にも希望を持とう」と自分に言い聞かせました。マリちゃんもど
うかこれから何があってもどんな時にも“希望”を持ち続けて頑張ってくださいね。私も陰なが
ら応援しております。
では、この辺で」
私たち精神障害者は今でも世間から偏見を持たれ、ひっそりと生きている。そんな私たちを
尊敬しているなどと手紙に書いてくださった南部先生・・・先生は本当に本当に心が美しく
また自分のことをたえず謙遜し、素晴らしい人格者だと思った。
そして私は先生がくださった手紙の中にあるように、いつも“希望”を持てるように自分を律す
ることができるようになった。
それから3年経って南部先生は事故でこの世を去ってしまわれた。それは人づてに聞いたこと
で、私は南部先生のお葬式にさえ行くことができなかった。それは、もう、あまりにも突然で・・・信じられ
なかった。まだ30代の若さで・・・
南部先生が亡くなったなんて・・・その事実は悲しみを通りこしたものだった。
南部先生の御主人は亡くなった南部先生との結婚生活はまるで天使と暮しているように楽しかったと言
って、泣き伏したそうだ。
南部先生が亡くなったとき先生のかねてからの夢であった、開業医になること。そして開業し
て医院がやっと医療法人になったばかりだったという。南部先生は貧しい患者や倒産が原因で病気になった患者からは医療費を貰わ
ないことにしたと生前おっしゃっていたそうだ。
南部先生は寝言でも患者さんのことを心配していたという。
お亡くなりになる前に里帰りして、母親にこう言ったという。
「弱肉強食は動物の世界で、人間は弱い人がいれば手を差し伸べて助けてあげられる。私は
小さい頃から色々な人に助けられて今まで生きてこられたわ。私もこれから弱い人に手を差し伸べて
助けてあげたいわ。精神科医になってよかったわ。」
南部先生が亡くなってから、もうそろそろ20年経つ。私の病気はまだ完全に治らない。でもいいんだ。精神の病と戦っている今この時も青春なのだから。
この世に生を受けて、彗星のように消えてしまった、南部先生。それはジャンヌ・ダルクの生き方よりも
ずっとずっと素晴らしいと思う。
私にとって南部先生は、聖人なのである。いつまでも、いつまでも。