精神障害者の結婚
四十代を過ぎても、一度もお見合いの話がないのは、私がキチガイだからだろうか?
身体障害者だろうと、知的障害者だろうと、精神障害者だろうと、人並みの幸せを望んでいる。でも人はそれに気付かない。
父が年若くして亡くなってからというもの、私の目標は「幸せな結婚」だけだった。小学校に入学して間もなく父が亡くなった。母は言った。
「勉強しなさい。」
「公立の商業高校に入って、いい会社に入りなさい。そうすればエリートと結婚できるから。お母さんはマリちゃんが幸せなお嫁さんになるのが、一番の幸せなの。」
母のその言葉の裏に、どんな気持ちが込められていたのだろう。私の父は、物凄いハンサムで背もとても高くて、ルックスには申し分なかったけれど、職を何度も変わり、亡くなる最後の二年間は病院のベッドで暮らした。生活を支えていたのは、父ではなく母であったのだ。
「公立の商業高校に入って、いい会社に入りなさい。そうすればエリートと結婚できるから。お母さんはマリちゃんが幸せなお嫁さんになるのが、一番の幸せなの。」
6歳の頃からそう言われて育った。私もそれはまっとうな事だと思っていた。
我が家は貧しいので大学へはいけない。せめて高校だけにだけは行かせてあげるから。と・・・。いい忘れたが私は一人っ子だ。
まるで洗脳されるように・・・そう言われて、それに疑問も持たなかったが、わずか6歳の時から幸せな結婚をするために勉強するというのは、今思うととても酷なことだ。母は父が死んでから、自分の人生に何も希望をなくし、自分の叶わなかった夢を全て私に託したのだ。
公立の商業高校に通うなら、普通科の高校へ行くよりも勉強をしなくていい。授業を受けてさえいれば、宿題をしなくても、予習・復習をしなくても、十分だ。そう思った。私には勉学の意欲は全くなかった。
運良く、私は公立の商業高校に入学できた。そして、商業高校での初めてのテストで、私の成績は、1番だった。それ以来ずっと学校の成績は常にトップクラスだった。でも一生懸命勉強したわけではない。テストの前の日に一夜漬けをしただけだ。
でも母としたらとても嬉しかっただろう。公立の商業高校で常にトップクラスだった私のことが。
しかしその幸福は長く続かなかった。就職試験を目指す、高校三年生になって私の心の歯車はだんだん、狂ってきた。潜在意識で母への憎しみが増していき、それがストレスになっていたのだろうと思う。
そして高校三年生になった6月に私は狂気におちいった。なぜか母の誕生日に精神病院へ救急車で運ばれた。
ショックだったのは私よりも母だったに違いない。
もう「エリート」との結婚の夢は、その時点で諦めざるをえなくなったのだ。
7月に入り、夏休みがやってきた。担任の先生と母が二人で、私が入院していた精神病院の面会室に「通知表」をもってきた。
成績は出席日数が足りないせいで、ほぼオール「1」
私はがく然とした。
出席日数が足りないということで、私は就職試験すら受けられなかった。でも不幸中の幸いとでも言うべき事は、発病したのが6月ということだったので私の精神病院の入院期間が3ヶ月の半分以上は“夏休み”に入ったので、落第せずにすんだ。高校を無事卒業することができたのだ。
高校を卒業してから色々なアルバイトをした。「いい会社」とは言えないところで。
「いい会社に入ってエリートと結婚する」今はもう社内恋愛なんて、狭い世界だという人もいる。
でも私と私の母の切なる夢だったに違いない。二人三脚でやってきたのだ。
結婚だけが幸せなのではないと言う人がいる。でも私にとって結婚は、父が亡くなったときから目指していた「目標」だった。
でも・・・
あれは5年前。従弟の結婚式が終わってから、親戚一同で喫茶店でコーヒーを飲んでいるとき、叔父が言った。
「もう結婚式は当分ないな。」
それを否定する人は誰もいなかった。
その言葉に私はどれほど傷ついただろう。
“まだ私がいるじゃないか!!!”
私は一人前とはみなされていないことを、その時初めて悟った。
精神病の人は結婚なんてできなくて当然。世間一般の考えは悲しいけどそうなのだ。