おまえなんて死ね!!!
喧嘩両成敗というものの、それはないだろう。
「お前なんて死ね〜〜〜死ね〜〜〜死ね〜〜〜〜!!!!」
と電話の向こうで大声で叫ばれた後、受話器をガチャンと切られた。
そのとき私は微妙な年齢だった。26歳の女で、結婚に希望を抱いていた。あれは親族の法事のときだ。30歳になる従姉が「結婚することになりました。結婚したら伊藤になります。」と言ったそのときに皆が拍手した。私ももちろん拍手した。そこまではよかった。私もこの30歳の従姉の結婚がなかなか決まらないことには少々気にしていたのだ。
親族の法事。それは父方の親族の法事だった。誠に申し訳ないことだが、誰の法事であったかは忘れてしまったのだけど。それほど父の親族の数は多い。父方の親族は今で言う“勝ち組”とでも言うのだろうか?皆、容姿たんれいで頭もいい。性格も積極性があり、明るい。しかし、それゆえに他人に対してキツイところがある。どちらかというと毒舌家でもある。
従姉が「結婚することになりました。結婚したら伊藤になります。」と言ったとき皆が拍手した。その後、部屋の隅でボソッとした声が聞こえた。親族全員には聞こえなかったと思う。そのボソッとした声はたぶん三人の人間にしか聞こえなかったと思う。
「今度は、あんたの番だね。大番狂わせで向こうかもしれんけど。」それは、ある意味で祝福の言葉だった。大番狂わせと言われたのは、私自身である。そして「あんた」といわれたのは私よりも六歳も年下の従妹だったのだ。「今度は〜大番狂わせ」という言葉はけっして嫌味でいったことではなく、かる〜く言った真実の言葉であったと思う。この言葉は、私と六歳年下の従妹と、言葉を発した父の兄弟の末っ子の朋子叔母さんだけにしか聞こえていなかったと思う。
「大番狂わせ・・・」その言葉に傷ついた。私は根に持った。
朋子叔母さんには確かに世話になっていた。お正月、お盆などは、朋子叔母さんの家に寝泊りさせてもらっていた。可愛いがってもらっていたのだ。でも叔母さんの私のことが可愛いいがゆえに発する、なにげない毒舌には何回も心が痛んだ。その度私はその言葉を根に持った。それがたまっていた。そして今回の「大番狂わせ」の言葉で私はとうとうキレタのだ。
私は朋子叔母さんに自分の思いを手紙に書いた。でも私の失敗は、自分の思いに“嫌味”をいっぱい散りばめたことだった。
私は朋子叔母さんに二通の手紙を書いた。その内容は全部忘れてしまったが・・・その手紙は私にとっては復讐の気持ちで、こてんぱんに朋子叔母さんをどん底に追いやるようなものだった。
朋子叔母さんから返事は来なかった。それで私はまたキレタのだ。今思うと恐ろしいことだが、ティッシュペーパーの箱をはさみで葉書大に切って、それにまた嫌味を書き、切手を貼って送った。「おまえなんかに、葉書を使うことすらもったいない。」というようなことを書いて。
それでも、返事は来なかったので私は動揺してしまった。母に手紙のことを打ち明けた。私は母にどう打ち明けたかは覚えていないが、自分のしたことを、悪いことと受け止めないで、ただ「返事が来ない、私は動揺している・・・」というふうに言ったと思う。母にとってはまた私が動揺して状態が悪くなったらどうしよう・・・という気持ちが先にたったと思う。じゃあ親族の中で一番年上の、私たち親子にとって気兼ねが無い聡子叔母さんに相談してみよう。ということで、聡子叔母さんに電話してみた。
そうしたらその聡子叔母さんはすでに朋子叔母さんから、私の書いた手紙のことで相談を受けていて、私に対して、物凄い怒りの念を持っていたのだ。老眼で私の書いた手紙が読めないという聡子叔母さんは、朋子叔母さんに、私の手紙を朗読させたという。
「朋子は泣きながら読んでいた。あんなにおまえに親切にしていたのにどういうつもりだ。おまえなんて死ね〜〜〜死ね〜〜〜死ね〜〜〜〜!!!」と聡子叔母さんが叫んだ。
私と私の母がどれだけ事を説明しようとしても相手にしてもらえなかった。
そうだ。嫁である母よりも姪である私よりも血は争えないもので、妹のほうが可愛いのだ。私の父は死んでいるのだ。もういないのだ。母と私は泣き伏した。
私は逆上してビタミン剤をたくさん飲んで本当に死のうとした。でもビタミン剤では死ねるはずはなかった。でもそれは私にとっても母にとっても親族すべてにとっても,幸運なことだったのだ。もしもあのとき私が死んでいたら、「死ね〜〜〜」といった聡子叔母さんはどういう気持ちになったろうか?朋子叔母さんもほかの親族も・・・・
そのことがきっかけで私たち親子と父方の親族は絶縁状態になった。
それから一年くらいたって例の次はあんたの番だねと祝福を受けた従妹が本当に結婚することになった。大番狂わせは本当に無かったのだ。
「これをきっかけに仲直りできない?結婚式に出席してくれない???」
と年若くして結婚することになった従妹に懸命に頼まれたのだが、私たち親子はがんとしてことわった。
しかしそのがんとした、気持ちも月日がたつうちに、徐々にうすれていった。そして父方の祖母が亡くなったとき、聡子叔母さんは、おばあさんの亡き骸にむかって
「おばあさん、マリの病気を治してやってよ。おばあさん、マリの病気を治してやってよ」と泣きながら懇願していた。
聡子叔母さんはかつて私に、「死ね」といったことは、もう忘れていると思う。でも聡子叔母さんが泣きながら他の誰でもなく、私の病気が治るようにとおばあさんの亡き骸に懇願している姿を見て
「おまえなんて死ね〜〜〜」
と叫んだのも、血族だからこそ言えた言葉だったのかな?と思うようになれた。