七夕ならぬ棚ぼた

 

 

棚からぼた餅という諺があるけど

私にとっての棚からぼた餅は

イエス様との出会いだ

 

本当に思ってもいなかった

イエス様を信じるようになるなんて

 

と七夕に思った

イエス様に毎日祈るということは

毎日が七夕だということになる

 

しかしその

毎日が七夕と言うのは

そう楽しいものでもない

 

祈るという行為は

イエス様に助けてもらいたい何かがあるということだし

キツイと言えばキツイ

 

だから一年に一回七夕を

楽しみながらするだけでいい人と

本質的な違いは確かにある

 

 

一年に一回願い事をするだけでいいやって思う楽な人生

それを自分自身が赦さない

そういう変なところがあるのは確かだ

 

 

そう言う風に私が変だから

イエス様が私を救ってくださったんだ

きっときっと

 

 

私は少女の頃

世界人類を救わねばならない!!!

と思いつめて

病気になった

 

そんな私のような凡人が

どうやって世界人類を救えるものかと

思えば簡単に答えは出るはずだ

 

それでも私の意識は

世界人類のことを深く考え

 

結局躁状態になるだけだった

 

今はもうあまり世界人類を救おうなんて思いやしない

それは一言

「無理」

 

その言葉で片付けられるだけだ

 

しかしそう簡単に

「無理」

焼印を押すように

片付けることもなかろう

 

と最近気づいた

 

そうか・・・

イエス様に頼めばいい

 

私は毎日お祈りをするのが日課となった

 

「主の祈り」

というものがある

 

「天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり

地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を

今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください

わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

アーメン。」

 

これはイエス様が生前

教えてくださった祈りだと聞いた

 

「主の祈り」

は優しい表現で示されている

そして

祈りの中では

全て

「わたし」

ではなく

「わたしたち」

と表現されていることに目を向けねばなるまい

 

この祈りは完璧な祈りなのだ

この祈りを唱えれば

世界人類を救うのも夢ではない

 

 

イエス様にもたれきっていれば

「大丈夫!!!」

とか思いつつ

 

最近の私は世界人類のことを忘れて

自分の悩みばかり祈ってしまう傾向にあるからこそ

 

毎日「主の祈り」

を唱える

 

聖書にこんなことが書いてあった

「神を愛する人がいれば

その人は神に知られているのだ」

 

そんな風に言ってもらえれば

私はナルシズムに浸れる

 

なんか私が何が言いたいか諸君も解らないだろう

 

一言で言えば

私はイエス様が大好きなのである

そう思えるまでの道のりは険しかった

 

そう・・・

私は神様を愛している

だから神様に愛されている

 

そう思うと

物凄く安心感が出る

 

そして世界人類のことも

 

自分だけでしょってしまわなくても

良くなった。

 

棚からぼた餅の本当の意味は

なんにもしないのに

急に幸運が舞い込んでくるという意味ではないらしい

 

私は少女の時から

苦悩して苦悩して

 

それで

やっとお餅がいただけた

 

・・・と言いつつ・・・

 

まだお餅を食べてはいない