有能なごみ箱
「優しい人と言われていて」という私の詩は、ネットに発表すべきか、どうか、とても迷った。
この詩はジャンルとしては「自虐的」なものである。自分を追いつめて書いたものだ。この詩を発表したら優しく繊細な人を傷つけることになるのでは・・・と思い、発表するのを悩んでいた。優しい人と言われている自分は本当に優しいのではなく、お人よしにすぎないのではないか?人に優しく接ししているうちに、自分が愚痴を言う人のゴミ箱になっているのではないだろうか?という内容の詩だ。
優しさにも色々ある。私の精神科のドクターの山内先生はある意味私が知っている人の中で、一番優しい人だと思う。でも私は最初は山内先生の優しさが理解できず、山内先生が大大大嫌いだった。
山内先生の優しさはある意味ライオンが自分の子供を崖から蹴落とすような、そんな優しさだ。
今から10年位前私は躁状態がひどく、病院にしょっちゅう電話をかけていた。そのころ山内先生は今みたいに開業医ではなくて、私立の病院の勤務医だった。そのころ山内先生は私の主治医ではなかった。当時の私の主治医は優しく、迷惑だったろうけど他の患者の診察中にでも私の電話に応じてくれた。それは本当の優しさではない。それは人がいいというだけで本当やさしさではないと今はそう思う。
夜遅く病院に電話をしたら山内先生が当直をしていて私の電話に出て
「あなたはどのくらい人に迷惑をかけているんですか!」と怒鳴り、ガチャンと冷たく電話を切った。私はそのことはたいそう恨んだ。
でも今思うと山内先生のその行為は、人に憎まれるのを承知でした、心底優しい行為だったのだと思う。
ある患者が
「山内先生は私にこう言った。“そんなに死にたければ、あなたは死になさい。”と。あまりにもひどいじゃないか!!!」と怒り狂っていた。
でもその患者は「死になさい」という言葉を恨むゆえに“生きる”ことに執念を燃やすようになった。その患者はオーバードーズの常習犯だった。死ねと言われてからはオーバードーズをしなくなった。
山内先生は自分が憎まれても患者の命を救ったのだ。
それは並大抵の人にできることではない。そして「死になさい」と言われて生きることに執念を燃やすであろうと思われる患者の性格を、みごとに見抜いていたのだろうと思う。
「優しい人と言われていて」という詩を発表して、自分もあるいは第三者も人の愚痴を根気よく聞いている“ゴミ箱”になるのは悪い事ではないという感想をもらった。それは私としては意外な感想であったが、よく考えると精神科のドクターというのはゴミ箱だ。
私は山内先生ほど有能なゴミ箱には一生かかってもなれないけど、今は自分も人に対してゴミ箱でいられるように努力したいと思う。あの詩は発表して良かったと思う。