パソコンの誘惑
子供を小学校へ送り出すと、家事(やらなければならないこと)を、片付ける。
雨の中、犬の散歩に出かけ、それが終わると洗濯。今日の天気は雨でも、洗濯物はたまっている。
除菌の出来る洗剤を入れて洗濯機を回す間に、朝食の食器を洗う。
洗濯物を干して、部屋に掃除機をかけ終われば、あとは自由な時間。子供が学校から帰るまでは
何をしてもいい。
隣の部屋に干した衣類から、洗剤のいいにおいが漂ってくる。
私は、いつものホームページを訪れる為に、居間のパソコンの電源を入れた。
キッチンに行きコーヒーを淹れ、窓の外を見る。
雨は降り止まない。湿った空気が、外も部屋も世界中をも満たしているようだ。
梅雨らしい梅雨。
テレビの言っていた言葉をそのまま心で呟いて窓を離れると、コーヒーカップを片手にデスクに向かった。
コーヒーはいい香り。これほど落ち着く飲み物は他にないと思う。
椅子に座り、「お気に入り」に登録されたそのページを開くと、トップ画面が現れる。
本人の写真と、二人の子供の写真。
わざとなのか自然となのか、素人っぽい色づかいの素朴なホームページ。アットホームな雰囲気に溢れている。
個人の、幸せを絵に描いたような家族の退屈な、いかにも「趣味でちょっと作ってみました」的なサイト。
でも、私はここを訪れる。訪れるのを、やめない。やめられない。
ここに来れば、かつての恋人の今の生活を見ることが出来る。
もちろん、向こうは私に見られているなんて、夢にも思っていないだろうけど。
ほとんど毎日のように更新される日記のコーナー。子供との会話や出来事を綴ったページ。
ちらっと登場する明るくユーモアのある奥さん。幸せそうな彼。
別に嫉妬などしていない。もう終わった恋なのだし、私も結婚しているのだからお互い様だ。
幸せな結婚をした彼を、心から祝福している。私のほうも、優しい夫がいて子供にも恵まれ、なんの不満もない。
ただ。ただちょっと覗き見に似たスリルを味わっているだけ。
別れた恋人の「その後」をこんなに詳しく知っている人間もそういないに違いない。
彼は、ホームページを作るのに夢中で、とにかく家族の何もかもを盛り込んでいる。
こんなに無防備でいいのかと心配になるほどだ。何かをやり始めると、とことんのめり込む。
熱しやすい性格は、今も変わっていないらしい。
中森哲也。
ほんの気まぐれで、検索の枠にそう打ち込んだのは一ヶ月ほど前。
そうしたら、見事にヒットした。訪れてみると、そこに別れた彼の顔写真があった。
驚いた。まさか、この四角いディスプレイの中に、もうほとんど忘れかけた顔が浮かびあがるとは
夢にも思わなかったのだ。
二人の子供までいる。
この機械は、そんな事まで出来てしまうのだ、とその時少し恐ろしくなった。
「てっちゃん」
付き合っていた当時の呼び名が、口を突いて出た。
それは、もうずいぶん前のことなのに、その頃の出来事が、景色が、私の脳裏に蘇った。
まるで昨日のことのように鮮明な頭の中の映像。
それに比べて、画面の中の彼は少し老けて、夫と父親の顔を見せている。そのギャップが不思議に思えた。
そして私は、彼の今の暮らしぶりを、遠く離れた場所にいながら把握したのだ。
それから毎日、彼のホームページを訪れている。どこかに変化がありはしないかと、くまなくチェックする。
これは、これから先もずっと続くだろう。
別れてしまって、もう会うことがなくても彼の人生が私の人生と平行してあることを、当たり前のことを、
改めて感じている。
いつまで続くかは分からない。自分からやめる事はきっとない。
平凡な毎日の密やかな楽しみになってしまっているのだ。
だから、これをやめるのは、彼がホームページを閉じる時だ。
どうしてこんな事をしているのだろう。自問してみる。こんな事をして、何になるのだろう、と。
自分でもよく分からない。
ただ、もう染みついた癖のように、朝目が覚めた瞬間から、指先がパソコンへと向かっている。
夫が家を出るのを待って。
朝食を用意している間も、指先はスイッチを押したがっているのだ。
皿を拭きながら、食パンをトースターにセットしながら。
そして、やるべきことが終われば、パソコンの前へ行く。待ち焦がれた恋人に会うような気分で。
今日も、パソコンと向かい合っているうちに時間が過ぎた。子供が帰って来る。その少し前に電源を切る。
夕飯の支度をして。やがて夫も帰って来る。
何食わぬ顔で、家事をこなす。家事さえきちんとしていれば、誰に何を言われることもない。
そして、特別不満も変化もない一日が、いつものように終わる。
それが私の日々の流れだった。
夫が、それを言い出すまでは。
その日。いつもより寡黙な夫ではあったけれど、気にもかけずにいた私に、子供が寝たのを見計らって
彼は話を切り出して来たのだ。
「お前、俺に隠してることがあるだろう」
お風呂から上がってパジャマ姿の夫は、ソファに座った姿勢で見上げるように声をかけて来た。
別に怒っている表情でもない。口調も穏やかだ。
私は、突然の問いにドキリとしながらも、平静を装ってどう答えようか言葉を探した。思い当たる事と言えば、
パソコンの事だけだ。
夫は、気づいたのだろうか。
パソコンをさわる仕事ではないし、機械が苦手だからと言って、うちのパソコンはほとんど私専用の物に
なっている。
夫がさわる時は、ゲームをする時ぐらいだ。それも、よっぽどたまに、私に聞きながら立ち上げるような始末。
私は、パソコンのことではないだろうと踏んで、否定した。
「隠し事なんかないよぉ。なんでそんな事言うの?」
その他には、何も思い当たることがなく、本当に隠し事もない私は、笑った。
すると、夫は立ち上がって、まっすぐパソコンに向かった。
私は、その後ろ姿を見ながら、血の気が引いていくのを感じた。
待って。まさか。
デスクの上のパソコン。そのスイッチが、夫の手で押された。思わず、声をあげそうになる。
駄目。そのスイッチは、私が、私だけが…
心臓が早鐘のように高鳴る。
ばれていた…?こんな事なら、素直に言えば良かった…?
昔の彼のホームページを毎日楽しみに見ていることが、そんなに罪になるとは思えないけど、隠し事がないと
言い切ったことは罪に値するだろう。
夫は、どこで覚えて来たのか、意外とスムーズに操作を進め、やがて「お気に入り」の例のページを開いた。
外は、しとしとと雨が降り続いている。静かな夜に、照明を落とした部屋に、パソコンの画面が怪しく光を放つ。
私は、何を言われるかと、身を固くした。両手をぎゅっと握りしめて。
夫は、最初のページをじっと見つめて、それから他のページもいくつか見た。
一言も喋らない、その間が耐えがたかった。
耐えられずに声をかける。
「あの」
「毎日見てるの?」
怒っているのかと思ったら、思いがけず優しい声だった。私は、夫の顔を見た。
「う、うん」
「どうして?面白い?」
なんだかきつく怒られるよりも、優しい口調で言葉をかけられるほうが、つらかった。
私は、彼に向かって謝った。
「隠し事がないなんて、嘘ついてごめん。でも信じて。今でも好き、とかそういうんじゃないの、
ただ興味本位で見てるだけなの」
夫は、私の言葉に眉をしかめた。不審げに首をかしげ、考え込む。気に障ったのかと思って見ていると、
突然はっとして、
「ええっ!」
大声をあげた。夫の驚きように、私も驚く。
何?どうしてそんなに驚くの?
夫は、びっくりした顔のまま、私を見つめている。私も見つめ返す。
「ちょっと待った。話を整理しよう」
彼が、自分を落ち着けるように言う。
「と言うことは、お前が見てるのは、この男なんだな?」
夫がそう言いながら指差したのは、大写しの「てっちゃん」だった。ちょっと間抜け面。
私は、夫の迫力に押されながらも、頷いた。
「そ、そうだけど」
どぎまぎしながら肯定し、今度こそ怒り出すかと身構えたが、彼は、
「どうして…?」
と呟いて、気が抜けたようにソファに向かい、腰掛けた。
私は、向かい側に腰掛けて、彼を見つめた。視線を落として、また考え込んでいる。私も考えた。
どうも、今の話からすると、夫は、私がてっちゃん以外を見ていると思ったらしい。
てっちゃん以外、と言うと、奥さん?子供?なんで?
夫はいつまでも喋らない。何か言いたいのは確かなのに。夫婦で隠し事はなしにしようって、言ったじゃない。
とは、とても私からは言えない。
「あの男とは、どういう関係?」
やっと重い口を開いて、夫が言った。
「あなたと付き合う前の彼氏。たまたま彼のホームページを見つけて、見てただけ。それ以外のなんでもないよ」
「そうか」
と言ったきり、また黙っている。
「ねぇ、どうしたの?何を考えてるの?」
そのままでは埒があかないので、こちらから切り出してみると吐露する気になったらしく、話し始めた。
「この間、会社の奴がインターネットのやり方を教えてくれたんで、ちょっとやってみようと思って、
お前が出かけた時に開いてみたんだ。
それでいろいろ触ってたら、このページが出てきて…」
彼は、うーんとうなって、手をうろうろさせてテーブルに煙草を探り当てると、取り出して火をつけた。吸って、
一息吐く。
「見たら、昔付き合ってた彼女の写真があって、むちゃくちゃ驚いた」
私は、彼の顔を見た。
昔付き合ってた彼女?まさか…
「なんで俺の元彼女が出てるページを、お前が『お気に入り』に登録してるんだ?と思って、それよりなんで
話したこともないのに、俺の前の彼女を知ってるんだ?と思って、それで聞いたんだけど」
彼、ちょっとだけ吸った煙草を、灰皿でもみ消す。
「驚いた。こういう事もあるんだな。嘘みたいだけど、お前の以前の彼と俺の彼女が、結婚してたんだ。すごい
偶然。世の中って、狭いな」
「……」
えーっ!?
私は、聞きながら、卒倒しそうだった。
てっちゃんの奥さんが、夫の昔の恋人ーっ!?
「世の中って、狭いな」って、そ、そんな簡単に結論づけないでよーっ。そんな事って…
「でも、なんでお前、元彼氏のページなんか登録してんだよ。未練があるのか?」
驚いてポカンと口開けてる私に、ちょっとだけ厳しい声で夫が言う。言われてはっとする。そこだけは、ハッキリ
言っておきたい。
「だから、さっきも言ったでしょ。ただの興味本位。未練じゃないの。だって、奥さんに焼きもちとか
焼いてないもん。ほら、同窓会とか行くとみんなが変わっちゃってて、その変化が面白かったりするじゃない。
それを楽しむのと同じようなものよ」
夫はじっと私を見た。
「ほんとだって。あの、隠してたのは悪いと思ってる、ごめん」
私が謝ると、彼はふーっと息を吐いて言った。
「そう言うことか」
それから、すっくと立ち上がって、もう一度パソコンへ向かう。ぽつりと呟く。
「俺も見よ」
がくっ。私は、一気に肩の力が抜けるのを感じた。
でも。と、真剣な顔で画面に見入る夫の、後ろ姿を見ながら思う。
昔付き合っていた人が、今どんな風か、誰でも多少なりとも知りたいんじゃないかな。
今ときめくのは困るけど、ときめいた事を思い出すくらいは許される範囲だと思いたい。
それからしばらく、そのホームページ閲覧は、夫婦間の楽しみとなっていた。(どういう夫婦じゃ。)
が、梅雨が終わり、夏が本番を迎えようとする頃、毎日のように更新されていたページに変化がなくなり、
やがて閉じられた。
作成に飽きたのか、家庭で何かあったのか、それは知るよしもない。
ホームページが閉じられた数日後。私は、テレビを見ながらのんびりしている夫に聞いてみた。
「彼女とはどんなふうに別れたの?すんなり?こじれた?」
夫は、ちょっと驚いてから笑った。
「変なこと聞くなよ」
だって、知りたいんだもの。どんな青春、どんな恋愛があったのか。あの朗らかそうな女性と、どうして
別れたのか。
夫は、テレビのほうへ顔を向けたまま、
「俺は、今のままで幸せだ。家族の絆を壊したくない。だから、お前もヤツと連絡を取ろうなんて、ぜったい
思うなよ」
そう釘を刺した。頭をペシッとはたかれたみたいに、その台詞は効いた。
過去を知りたがるのは女の悪い癖、か。家族を大事に思ってくれてるのは悪いことじゃない。
だけど嬉しいような、肩透かしを食ってつまらないような。
重大な真実を知ってしまった事について、もう少し話したい気がする。…これも女の悪い癖だろうか。
複雑な気分で、夫の隣に座る。
「分かってるって」
連絡を取りたいなんて毛頭思ってない。私に、そこまでの行動力はない。
家から一歩も出ずに情報を得られたから、続けていただけで、わざわざ彼に会ってまで情報を仕入れたり
気を引いたりしようなどと…
面倒な事この上ない。何度も言うけど、もう終わった恋なのだ。
「夏休みはどっか行くか?」
夏休み。イコール子供が家にいる。つまり、パソコンになどかまけていられない。
「いいね。どこ行く?」
ちょうど良かった。
そう思いながら、一抹の淋しさを感じるのを、禁じえなかったりする。
了