ゆず


 

十二月二十一日、冬至。夜。

母親の「ゆず入れといたから」と言う言葉に、浴室を覗いてみると、確かにゆずが四つ浮かんでいた。ゆず湯。

さっそく入って湯船に浸かる。

冷えていた体を熱い湯に沈めると、縮こまっていた体がほぐれるような気がして心地良かった。

ゆずの一つを手に取り、爪を立てた。湯の中で皮を剥く。

みずみずしい薄黄色い実の部分が露(あらわ)になる。房の中に指を入れて、中の果汁を湯船に溢れさせる。

ぐずぐずと崩れたゆずが豊かな芳香を放っている。

その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 

気持ちがいい。湯気に満たされた世界。温かくて、いい匂いがして。

「……」

だけど、その匂いは、知っている何かを思い起こさせた。

記憶の中の何かがひっかかる。記憶の中の何かとダブる。

風呂場を満たすゆずの香り。目を閉じて身を任せるうちに、私はやがて、その何かに辿りついた。

それは、桐人(きりと)の匂いだった。彼も柑橘系の匂いがした。

シャツの襟元から、汗ばんだ背中から。

その事に気づいたら、なんだかとても懐かしい気分になった。初恋、と言ってもいいかも知れない。

今では、自分でさえ青臭いと思える年頃の話だ。

だけど、匂いから辿りつくなんて、なんだか妙になまめかしい。

そう思って、改めてゆずの匂いを胸いっぱいに吸った。

湯気まで吸って、おぼれそうな感覚に襲われる。

 

桐人のことは、たまに思い出す。高校の時だから、六年前のことだ。

何もなかった。

想いを打ち明けもしなかったし、手をつないだことさえない。でも、一緒にいたかった。

私は間違いなく彼を好きだったけれど、向こうはそう思っていてくれたかどうかも分からない。

「付き合おう」とどちらも言わなかったし、自然に会わなくなった。

自分の思い過ごしの恋と言っても、間違いではないかも知れない恋だった。

 

あれから。私は二人の人と付きあったけれど、どちらとも上手く行かず、

今ではもう、恋などしなくてもいいかもと思い始めている。

母親は、早く結婚しろと言うが、今の私にそんな気はまったくない。

もう恋なんてウンザリ。そう思っていた。

なのに、ゆずの香りが、高校の頃のドキドキする気持ちを、強烈に懐かしく思い出させた。

ゆずの香り。特に強く感じたのは、あの時だ。私は目を閉じた。

思い出す。あの時の光景を。あの残像を。

今は冬だが、あれは眩しい夏の事だった。

              

高校二年の時のこと。一年生のように、高校に入ったばかりで校風や友達に慣れるのに必死というわけでもなく、

三年生のように受験勉強に忙しいというわけでもなく…

夢や恋にうつつを抜かしていても、誰からも文句を言われることもない自由で気楽な毎日を送る日々。

私はその日、学校から帰ると、同級生の桐人を自宅で待っていた。

外は暑かった。何日も暑い日が続いていて、暑さのピークと言われる二時を過ぎ、

約束の三時半になっても気温はまったく下がる気配を見せていなかった。

私はクーラーのスイッチを入れ、その風にあたりながら私服に着替えると、そわそわしながら彼を待った。

胸の中は、桐人への想いでいっぱいだった。

二人きりで会えるのが嬉しいはずなのに、苦しく感じるくらいに。

好きだと言ったことはなく、そんなそぶりも見せないようにしていた。だって、桐人はもてるのだ。

私だけでなく、どの女の子にも優しい。

学校での桐人は女の子に人気があって、本人がそれに気づいていないらしいところが、

また好感度をアップさせていた。

彼が私に優しいからって、自惚れてはいけない。告白したら、木端微塵になる気がした。

学校でよく話しかけてくれるのも、こうやって家に来る約束をするのも、ただ単に友達として、なのかも知れない。

 

しばらくして、窓から桐人が来るのが見えた。

「来たっ」

私は、思わず叫んだ。

その後すぐ、

「別に待ち遠しかった、とかそんなんじゃない。だってただの友達だもの」

心の中で自分に言い聞かせて、昂ぶる気持ちを抑えようとする。

クーラーの効いた自分の部屋を出て、私は階段を降りた。玄関に向かう。

どうしようもなく心が弾んでいた。

サンダルを引っ掛けてドアを開けると、自転車から降りた彼が、門を開けるところだった。

夏の学生服。白い半袖のシャツと黒いズボンが、細身の体によく似合っている。

「あれ、お出迎え。それはどうも」

桐人は私に気づくと、ちょっと茶化すように言って笑った。

熱い太陽を背にした眩しい笑顔。

「あち…」

目を細めてそう言うと、桐人は陽射しの中から私のいる日陰へ飛び込んで来た。

一瞬、息が止まるかと思った。

まるで私に飛びこんで来たようで、まるで抱きしめられそうで、ドキッとした。

ちょっと嬉しかった。いや、かなり。

ただ、日陰に飛びこんで来ただけなのに。

やだ何で。ただの友達でしょ。

「学校から直接来たの?」

「そうだよ。水野の家で涼もうと思って」

「あー、人んちの電力でいい思いしようとしてるな」

「どっちみち一人でも使ってんでしょーが。入れてよ」

桐人、眉を寄せてちょっと弱った顔をする。

何でだろ。この顔見るの、好き。

私は、桐人を家の中へ招き入れた。

何でだろ…って。決まってるじゃない。彼が好き、だから。

自分ばっか好きになっていくのが悔しくて、ただの友達って思い込もうとしても。もう限界。

告白したいけど、そうして振られたら?もう今までみたいに会えないの?

彼は…彼のほうこそただの友達と思っているんじゃないだろうか。

そうだとしたら、呼び鈴押す前に彼を出迎えたりして、待ち焦がれてたのバレバレじゃない。

だけど、だって本当に好きになっちゃったんだもん。止められないよ。

「あれ、一人?」

人の気配がしないことを感じとったのか、階段を上がりながら桐人が聞く。

「うん。そうだよ。ママは仕事」

「ふーん」

どうでもいい事であるかのように、桐人は鼻を鳴らしたけれど、その質問はとっても重要。

この家には、今二人きりなの。

ほんとは意識しているんじゃないかと勘ぐって、妙に緊張したりして。

あーあ、また私だけ?逆に、こっちからふっかけてみようか?

「二人きりだからって、変なこと考えないでね」

なるべく。なるべく軽ーく、冗談以外の何物でもないって口調で言ってみる。

桐人は思いっきりキョトンとして、「んなこと考えるか、バーカ」と言った。

この表情と言い方からすると、本当にまったく考えていなかったらしい。私は、小さく溜息をついた。

なんだ。桐人の中では、私、全然昇格してないのね。それこそ、ただの友達、か。…つらいかも。

「ほら、これが言ってたCD。かけてみてよ」

桐人は、学校で話題に出たCDを持って来ていた。貸してくれると言う。

さっそくセットしてかけてみる。

エアコンを入れてあるので、窓もドアも閉まっている。閉ざされた空間に、音が溢れ始める。

涼しくて、好きな音楽があって、桐人もいる最高の時。

「そう言えば、水野ってさぁ、少年マンガとか読む?」

屈託のない笑顔で、他愛のない話をする彼。

「え?あんまり読んだことないけど、何?面白いのあるの?」

「あるある。すっげー面白いから絶対読んでみて欲しい」

「じゃあ今度貸して?」

「ああ。また持ってくるわ」

「やった、楽しみ」

「ところでさぁ。今日の宿題やった?俺、わけ分からんのだけど」

「宿題って、数学?まだやってないけど」

私と桐人は数学の教科書を出して来て、あーでもないこーでもないと、話し合ったりした。

でも、私は、数学のことなんてどうでもよかった。

彼と顔つきあわせて、息がかかるほどの近さでそばにいることが、この上ない幸せだった。

ずーっと、こうしてそばにいて欲しい。

その言葉をどれほど口にしたかったか。どれほど桐人といるのが楽しかったか。

数学の宿題が、やっと何とか解決されると、桐人は今度は、鞄からぎょっとするほど古い本を取り出した。

思わず笑ってしまう。

「何それ。どうしたの?」

茶色くてぶ厚い表紙に、堅いタイトルのついた本。

そのタイトルも、色褪せて読み取るのがやっとなほどにかすんでしまっている。

「おばけ図書館で借りて来た」

いたずらっぽい瞳で桐人が言った言葉を聞いて、私はさらに大笑いした。

「桐人、あ、あんなとこ行くのぉ!?」

「うん」

桐人も笑っている。

おばけ図書館とは、町のはずれにある私設図書館のことだ。

こんもりとした林の中に、ひっそりと建っていて、堅い本ばかり置いてある。

ずっとこの町に住んでいるが、誰かに教えてでももらわない限り、誰も図書館とは気づかない古い建物。

誰でも本を借りることができるが、木に囲まれて薄暗く、今にもおばけが出そうな雰囲気から、

通称「おばけ図書館」と呼ばれていて、実のところ利用する人はほとんどいないようだった。

「なんで?この本、面白いの?」

桐人は、手の内の本を眺めて首を傾げた。

「さぁ」

「さぁ、って」

「読むために借りたんじゃないんだ。ほら、これ見てよ」

彼は、本の一番最後を開いた。

そこには、貸し出しカードが入っていて、少し黄ばんだカードに、桐人の名前だけが書き込まれていた。

「あそこ、いまだにこういうカードで管理してて、しかもこの本借りるの俺が初めてなんだ」

私は、驚いた。初めてって、あそこ、もうずいぶん前からあるのに。

「ってことは、多分これからも誰もこれを借りない」

桐人はそう言って、不敵に笑った。

でも私は、そこまで聞いても、彼が何を言いたいのか分からなかった。

「この本、入口から入って一番奥の棚の一番右上の本なんだ。

誰も借りないし、多分開くこともないだろうから、中に手紙なんかが挟まってても、誰も気づかない。だろ?」

私は、その説明にこっくりと頷いた。

「もしお互いに、何か伝えたいこととかあったら、ここに挟んでおく。

誰も予想もつかない場所に、秘密の手紙があるなんて、ちょっと面白くない?」

まるでスパイ映画か何かのワンシーンみたいに、誰かに聞かれたら台無しだとでもいうように、

桐人は小声で素早く楽しそうに喋った。

すぐに想いを伝達する手段が他にいくらでもあるというのに、そんなまどろっこしいこと、誰も考えつかないだろうね。

私は、心の隅で、ちょっとだけそう思った。

でも、秘密の場所を私と共有することを考えてくれたことが嬉しくて、つられるようにだんだんと楽しい気分になる。

「俺がまず挟んでおく。遅くなってもかまわないようなことを書くから、いつでも好きなときに見に行って」

「うん。分かった」

そんなやりとりをして時計を見ると、ママが仕事から帰る時間だった。

「じゃ、俺帰るわ」

(えっ。もう!?)

桐人との時間は、あっという間に過ぎて、結局何もないまま

(桐人は友達としか思ってないんだから当然かも知れないけど)、その日、彼は帰っていった。

でもこの日の、私に飛び込んで来たように見えたあの桐人の姿は、

後ろの眩しい太陽ごと切り取られて、まるで一枚の絵のように私の心にくっきりと残った。

多分、一生忘れない残像。

あの、抱きしめられるんじゃないかと思った瞬間。あの瞬間だった。圧倒的なゆずの香りを感じたのは。

                   

あの頃。桐人に関するものなら、何でも宝物だった。

それこそ、彼のノートの切れ端だって、大切に折りたたんで机の中にしまっていた。

それが今では、例えばプレゼントをもらうとしたなら、ちゃんとした物をもらいたいと望んでいる自分がいる。

大人になったということなのか、それとも、その人を本当はそれほど好きじゃないということなのか。

桐人に告白した子の話を、二回ほど噂で聞いたことがある。

でも、それをきっかけに誰かと付き合っていると言う話は一度も聞いたことがない。

ホッとした反面、私は「やっぱり告白できない」という想いを強くした。

桐人は「誰にでもやさしい」し、もてるのだから。

桐人がうちに来る事は、あれからも何度かあったが、ただの友達以上の関係になることはなかった。

例の本を、何度かわざわざ「おばけ図書館」まで見に行った。

一度だけ、何かの本に載っていたという「感動した言葉」が書かれた紙が挟まっていたことがあったけれ ど、

その後は何度行っても、何も挟まっていることはなかった。

それに、本人と会っている時にあの本のことが話題に出ることもなかった。

桐人にとっては、その時だけのちょっとした思いつきで、もう忘れてしまっていたのかも知れない。

やがて、私も図書館を訪れるのをやめた。

私が何か書いてもよかったのだろうけど、桐人に向かって何かを書こうとすると、

それは結局、本には挟めない言葉になり、泣けてきそうになったのでやめた。

そうして、高校を卒業して大学へ進学すると同時に、桐人と会うこともなくなった。

彼が遠くの大学を受験し、そっちで一人暮しを始めたからだった。

                    

「おばけ図書館」。正式名称はちゃんとあるはずだけど、覚えていないし覚える気もない。

何か長々と漢字が並んでいた気がする。

十二月二十二日。日曜日。私は、車でそこに向かっていた。

今まで、行ったってしょうがないと思っていたのに、昨日むせかえるようなゆずの香りを嗅いだせいか、

桐人に関するものに触れたくて仕方なくなっていた。

天気は良くない。空はどんよりと暗く、朝から冷え込んで、ちらほらと雪が舞っている。

あの図書館…。当時でさえボロボロで、建て替えが必要なように見えたから、

六年経った今では、もう変わってしまっているか、悪くすると建物自体がないかも知れない。

フロントガラスに当たっては溶けていく雪を見ながら、苦笑する。

こんな寒い日にわざわざ車を出して、何もないかも知れない場所へ向かっている。

建物がたとえあったとしても、本がないかも。本があっても、手紙など…。

何かを期待している。バカだね。何もないに決まってる。

「……」

何もなくてもいい。何もないことを確かめたい。

そう思って行ってみると、なんと「おばけ図書館」は、まだあの頃のままの姿で存在した。

コンクリートのうちっぱなしで、四角い灰色の建物。

こう言ってはなんだが、そのボロさにはさらに磨きがかかり、もう本当にその辺の木々の隙間に、

ふとおばけが見えてもおかしくないように思えた。

 

駐車場に車をとめて、入口に向かう。重厚な造りのドアが、まるで入るのを阻むようにして立っている。

他に人のいる気配もなく、入りづらいことこの上なかったが、思い切って押して足を踏み入れると、

カウンターらしきところに座っていたおじいさんと目があった。

「こんにちは」

彼に声をかけて、中へと進む。自分の声だけが妙に響いて、不自然な気がした。

おじいさんは、頭を少し下げただけで何も言わなかった。

館内は落ち着いた雰囲気で、静けさに包まれている。ここだけ時が止まってしまったかのようだ。

書棚へ寄ってみると、どれもこれも難しそうなタイトルがついていた。

申し訳ないけれど、興味が湧きそうな本は一冊もなかった。

以前来た時も感じたが、研究用なのか専門書と思しい本ばかりで、とても読めそうにない。

適当な一冊を手に取って開いてみる。

本の管理は、相変わらず紙のカードでしているらしい。

その本を元に戻すと、自分を落ち着けるように息を吐き、ゆっくり歩き出す。足は自然に奥へ奥へと進んだ。

一番奥の書棚。その一番右上の本。

あれから六年も経っている。配置変えをしているかも知れない。なくなっていないとも限らない。

果たして。

私がその書棚の前に立ち、その場所へと目をやると、目的の本は六年前とまったく同じ位置にあった。

驚きとともにこみ上げる懐かしさ。それを見ただけでも、来た甲斐があるような気がした。

手を伸ばして、その本を取る。

少し怖かった。中を見たいような見たくないような…。

だけど、ここまで来て、見ずに帰るわけにもいかない。

私は、一番最後を開いた。あの日、私の部屋で開かれた箇所。

そこに挟み込まれたカードには、桐人の筆跡で彼の名前だけが書かれてあった。私は、笑った。

やっぱり、あれから誰も借りなかったんだ、この本。

分厚い本をパラパラとめくる。ひらりと何かが落ちた。緑色のもの。草みたいな…

かがんでそれを拾う。

それは四つ葉のクローバーだった。乾燥して押し花になっている。幸せを呼ぶという四つ葉のクローバー。

桐人…が?これを私に?

私は、せつなくなった。なんだか子供っぽく感じた。のに、とびきり嬉しかったから。

宝物だ。

心で呟く。こんな宝物は見たことがないよ。

桐人。ここへまた来ていたんだ。これをくれるために?

それから、もう一度パラパラとめくってみた。一枚の紙が挟まっていた。それを見て胸が締めつけられる。

そこには、大きく「綾」と書いてあった。私の名前。

私は、それを握りしめると、本を書棚へ戻した。足早に出口へと向かう。

「ありがとうございました」

カウンターのおじいさんに挨拶をして、外へ出た。

 

雪はさっきと変わらず、ちらほちと舞い降り続けている。

空は黒い雲におおわれていて、やがて雪が激しくなるだろうことが予想された。

恋人がいるかも知れない。結婚している可能性だってある。

それでも、いまさらだけど、想いをうちあけたい。うちあけなければ。

私は、携帯を取り出して桐人の家のナンバーを押した。

こっちへ戻っているのか、まだ向こうにいるのか、それさえも知らない。

いなかったら、向こうの電話番号を教えてもらおう。

何度か呼び出し音が鳴って、女性の声がした。

「はい。小島ですけど」

どうやらお母さんのようだった。

「あの、水野と言います。桐人さん…いらっしゃいますか?」

「水野さん、ですか?ちょっと待ってくださいね」

彼は家にいるようだった。こっちに帰って来ているのだろうか。

しばらく保留音が鳴った後、電話に出たのは、まさしく桐人だった。

「もしもし。水野?」

どれくらいぶりだろう。桐人の声を聞くのは。

「うん。久しぶり。四つ葉のクローバー、ありがとう」

「ああ。いつ気づいた?」

「…今」

一瞬、間を置いた後、電話の向こうで桐人が噴いているのが分かった。何で噴くかなぁ。

「今、か。じゃ、今いるのはおばけ図書館?」

「うん。そう」

「じゃあ今から行くから。待ってて」

ガチャン。電話はすぐに切られた。

こっちの都合も聞かずに…別に用事もないけど。

桐人の家から、ここまでは車なら五分足らずだ。

私は、待っている間、寒さと緊張で震えながら、ずっと桐人の気持ちを考えていた。

桐人はどう思っているのか。私の気持ちを知っているのか。期待してもいいのか。

相変わらず、ただ優しいだけなのか。

知っていて何も言わないなら、脈なしってことだし。それとも私が鈍感なのか。

分からない。

 

次第に雪で視界が遮られるほどになって来た。そこへ一台の車が入って来る。

バックで駐車場にとめられる黒い車。その動くさまは、かぶと虫を連想させた。冬のかぶと虫。

そして、止まった車から降りて来たのは、まぎれもなく桐人。

図書館の入口。屋根の下にいる私のほうへと彼が駆けてくる。

あの日のように、まるで抱きしめられるんじゃないかと思う勢いで、飛び込んで来た。

柑橘系の香りがふわりと舞う。懐かしい香り。冷たい空気の中、届く香りは彼の体温を感じさせた。

「すごい雪」

ずっと会っていなかったようには、とても思えない笑顔で、彼が呟く。私の顔を覗き込んで、

「元気だった?」

そう聞く桐人の瞳は、あの頃と変わっていない。

「うん」

笑って頷いてから、首を振る。

「ううん。本当は、ちょっと元気をなくしてた」

それを聞いて、桐人が驚いた顔をする。

「でも、これを見たら、元気出た」

私、クローバーを見せる。桐人、ホッとして。

「そうか。良かった。本当は、もっと早く気づいて欲しかったけど」

「そんなに前から挟んであったんだ…ゴメン」

その後、二人して黙る。

どんなに取り戻そうとしても、二人の間に長い時間が流れていることは確かだ。

でも、言わなければ。遠回りだったけど。木端微塵だっていい。

冷たい空気の中、彼の体温が醸すのだろう。

昔と変わらないあのゆずに似た柑橘系の匂いがフワリと香るのを感じる。

「あのね。桐人。聞きたいことがあるの」

私は、恐る恐る、けれど思いきって切り出した。

「今、付き合ってる人いる?」

言ってしまってからうつむいて、右手におまじないのように握った紙を見る。

「綾」と優しく呼びかけている、その文字。

淡い期待と裏腹に、脳裏をかすめる全てがダメになってしまうイメージ。

勇気を出して顔を上げた時、桐人が首を横に振った。

私に向かって、手を差し出す。

私は、彼の顔を見つめながら、その手にそっと自分の手を重ねた。

桐人の手のぬくもりが、胸にまで染みて広がっていく。

彼が、私の好きな弱った顔をして、

「さむ。どっかであったかいもん、食お」

と言った。私は笑った。

「うん」

雪は、見る間に辺りを白くした。

手をつないだまま歩き出すと、髪にも顔にも降りて来て、傘を持たない私達の体の上で、積もったり溶けたりした。

 

 

 

                                               了

 

 

 

     

 

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