管理人からのメッセージ
ホームページ引っ越しのご挨拶をかねて。
『人には名前がある』
 
 
堤 剋喜
 
今、僕がパソコンの前に座っていられるのは、動物学的な運・不運、
社会的な巡り合わせの結果である。
もちろん、この中には僕の怠慢や選択の占める部分もある。
しかしながら、それは思っているより小さくて、
全体から見れば、自分ではどうしようもない偶然の積み重ねの中で生かされている、
という方がきっと正しい。だいいちプロバイダの都合でホームページの移設を迫られなければ、
手持ちの原稿に加筆して、挨拶兼ねた文を書き連ねることもなかったでしょう。
なお、移設前のアクセス数は8600ほど。
どなかたかが以下の拙文を読んでくださったとしたら、書き手としては光栄かつ幸運です。
ここまで来て下さりまして、ありがとうございました。
 
トップページへ戻る
 
 
こんなエピソードを伝え聞いている。ある幼稚園が園児の保護者向けの講演会を開いた。
講師は故・藪野正雄氏。洋画家で二期会の重鎮。講演の中で、「子どもの絵について巧いとか
下手とか言ってはいけない」という趣旨を話された。講演の後の茶話会の席で、
壁に張り出されていた絵の中の1枚を目にとめ、
「この子は絵がとても上手だなあ。おっと、私がこんなことを言っちゃいけなかった」
製作も絵画指導も一流。「うちの中で子どもたちがガヤガヤしているのが好きな人だった」
とも聞いたことがある。講演の中身を僕は知らないが、発達の進みには個人差があるし、
その子が本気になって全力で描いた絵かどうかは、
本人とその場にいた親しい人たちしか分からない。
気乗りがしないのに書かされたものや落書きを見て「下手だ。画才がない子だ」と言われたら、
その子に立つ瀬がない。どこかを褒めるか、どう褒めていいか分からなければ、
話題にしないのが得策だ。
そんな講演だったのだろうと勝手に想像している。それにだ。どんなアドバイスや補作を
どのタイミングで受けるか、あるいは受けなかったかでも、絵の出来映えは違ってくる。
その子にしか書けない絵とか、線や打てない点というものもきっとある。
 
帰りのホームルームで、文化委員が立ち上がる。「生徒会主催のイラストコンクール、
このクラスからはまだ1つも作品が集まっていません。誰か出してください」反応なし。
落胆した様子で自分の席に戻る。「作品が集まらなくても君に責任はないだろ?」と聞く。
作品を集めるのが文化委員の仕事。クラスで参加者、作品がゼロでは格好がつかず、結局、
PR不足で、彼の怠慢と見なされそうだ、との返事。どこか理不尽。「いつまでだっけ?」
「明日まで」一瞬ひるむも、やれそうな気がした。やりりたい。でも、一応予防線を。
「まあ。僕でよければ。今晩やってみるけど、出せないかも。期待しないでくれよ」
「いや、大いに期待してる。もう任せた」
絵画や水彩画でなく「イラスト」と指定されているのなら、色を塗る必要はないと踏んだ。
濃いめの鉛筆1本とレポート用紙で済ませるしかない。9時まで宿題と予習で、その後か。
 
お手本を3冊用意した。今の僕の描き方とはずいぶん違う。やろうとしているのは模写。
でも、紙の上に残っていくのは僕が引ける線と打てる点であって、模写にはならない。
僕の絵が紙の上にあった。馬の絵が8枚、鳥の絵が2枚できた。11時を過ぎていた。
時間切れ。絵が下手でもそれと解りそうな特徴的な恐竜、剣竜・ステゴサウルスや
角竜(トリケラトプスのなかま)に出番はなかった。絵の中にはサインは入れなかった。
10枚の絵を封筒に入れ、まとめて1度だけ署名した。やるだけはやった。
所要時間、1枚あたり10分30秒。
不思議と、平日の夜中のお絵かきは楽しくて、苦痛ではなかった。
とにかく、約束は守れた。これで寝られる。…
翌朝、封筒を手渡す。
「ありがとう。助かったよ。じゃあ、今すぐ提出してくるね」
職員室の方へ出て行った。提出先は美術の先生だったらしい。 彼との約束は果たせた。
一件落着と思っていたら、
「堤君、あのイラストだけど、入賞する可能性が十分あるよ。
見た先生たちが、皆、褒めていたから。本当だよ」
話半分と聞いていた。でも、うれしかった。
参加した手前、作品展示を見に行く。出入り口で
「ぼくのミキちゃんをよろしく」と聞き覚えのある声。
オリジナルキャラで参加したからしっかり見ていってくれ、という意味。
「分かった。ゆっくり見てくるよ」会場へ入る。
ああ僕に勝ち目ないな。これが第一印象。
カラー作品ばかり。額に入ったセル画まであり、手間のかけ方では雲泥の差。
ところが、友達の予想が当たり、6位入賞となった。応募作品総数68点。
なぜか参加人数は伏せられた。
7位以下はない。最下位入賞者として僕は賞状を受け取った。
「以下同文。おめでとう」と。文化委員だった高木康広さんには感謝したい。
よい思い出をありがとう。
全校で約40クラス。1クラスの作品数は1点か2点。
そこへ、想定外の参加者が期限ぎりぎりに一人で10枚を持ち込んできた。
審査側は教育的配慮として、賞状を1枚追加した。そんなところではなかったか。
文化委員の顔は立った、と思う。けれど、クラス内で僕はいささか目立ちすぎた。
内申書のために参加して、賞状まで取りやがった、と揶揄された。
(この6位入賞の件は高校に伝わったらしい。
障害児だが絵が好きで、そこそこ書ける生徒だ、は好材料だったろう。
入学後、入試の面接官の一人で、習ったことのない先生から、
県美術館で開催中の展覧会について問われた。本番の面接ではないから気楽。
たまたま観に行ったばかりだったから、
好きな作品を数点挙げ、「全体に地味な展示でしたけど」
と答えた。のんきにも、相手が美術部の顧問だとはまだ知らなかった。)
 
下校時、同級生の一人に「よかったら、うちに寄っていかない?すぐ近くだから」
と声をかけてみる。あっさり快諾してもらえた。
自分の部屋へ案内する。当然、制服のまま。部屋に2脚しかない椅子に腰掛ける。
学習机は仮名タイプで埋まり、中央のテーブルの奥半分には英文タイプが鎮座していた。
テーブルの手前半分で応対。飲み物1杯で、30分ほど談笑した。部屋を見回して、
「努力家なんだね。堤君は」久しくかけられたことがない言葉だった。
「そんなことはないよ。怠け者だよ」
「毎日見ているんだから分かるよ」と返された。
 
国際児童年の記念イベント(ミニ万博)。
パビリオンの一つに子どもの絵と造形作品の展示があった。
幼児の作品には大人のひらがなで署名してある。学齢を超すと自筆になり、
学年が上がると署名の中に漢字が増えてくる。
ここに僕の絵があったらなあと思い始める。
異様な一角に出た。
作者の名前がない。障害名と年齢しか見当たらない。
事前に、自分がこんな扱いをされると知っていたら、誘いがあっても参加を拒んだろう。
 
ご不快を承知ながら、記憶頼みの引用を許されたい。
「オレたちが堤をハクガイするのは、おれたちに責任はない。堤の親の責任である。
俺が親なら、子どもが障害者だったら、生まれてすぐにぶっ殺す」
クラス担任が道徳の時間に読み上げた作文の一節である。
書いたのも聞いているのも同級生だった。
この書き手は迫害という語の意味を知らずに使ったらしい。
迫害する側が自分から「迫害する」とは言うまい。僕にとっては迫害だったが。
これをいじめに置き換えればわかりやすいかもしれない。
そんなことよりも、この文面を淡々と朗読していく担任の声におびえた。
「親戚の子は動けないし、話せない。学校だって行ってません。なぜ堤君のように?」
クラス全員の前での発言。当時、就学猶予とか就学免除の制度が生きていた。
これは普通教育を受けさせる親の義務を免除し、国が義務を放棄する意味合いが強く、
子どもの側からすると、学校教育を受ける権利や機会を奪われることにつながるものだった。
「俺よく考えてみたよ。俺はおまえと過ごしたくない。
お前もここにいるのはつらいだろう。
だからお前が養護学校に転校したら?みんなうまくいくとおもう」
3年生の時の級長が僕に直接言った言葉。議論しても無駄と見切り、黙殺した。
すでに、入試目前で、転校の選択肢はなかったから、
卒業まで登校できないようにするための言動だったかもしれない。
 
数年前12月初め、この元級長から突然、電話がかかってきた。
簡単な挨拶だけで謝罪する気配はない。
様子を見る間もなく用件に入った。正月2日に開く同期会への出欠の問い合わせだった。
大急ぎで自分の立場を整理してみる。在学中、あれだけ僕を排斥した人物から、
事務的な勧誘を受けている。それも同期会とは。
腹立たしいが、どこか滑稽というかギャグっぽいというか。
正月に開催するのなら、秋口には会場を押さえてあるはずなのに、連絡が12月。
それ自体、「来るな」というメッセージと取れる。見下した話しぶり。
彼は変わっていない、そう感じた。それならば。
危険に近づかない権利は僕にもある。それを行使して、欠席を伝える。
そして相手が電話を切るまで待った。すぐに切れた。和解の難しさを思う。
 
あまり触れたくないが、忘れないうちに書いておくことにしよう。
神奈川の障害者施設で起きた殺人事件の報道に最初に接した際、
まず覚えたのは危機感と言うよりは、違和感、既視感と既読感の混ぜ物だった。
なぜ、加害者は人格を持った個人として扱い、主張まで伝えるのに、
殺された人たちのほうは人数しか出ないのが?
亡くなられた方々の年齢と性別だけが記された建物の見取り図のニュース画面と、
差別戒名の話とが僕の頭の中で重なった。
差別戒名といわれのは、被葬者が被差別部落の出身者であることを示すために、
戒名の中に、わざと畜や愚などの忌避すべき文字を入れたものだ。
つまり、死後もずっと続く差別である。死者の名誉のために改葬すべしという意見と、
負の歴史の証として残すべきだという声があるようだ。
教職にあった友人が部落差別について学校で教えることへのためらいを話してくれた。
「だってねえ、大人が余計なことを教える必要はないよ。知らせない方がいいと思う。
せっかく仲よくやっている子供らに」と。
 
不利益を受ける恐れがあるのは事実だし、平穏な時を守るためにも、
ご遺族への配慮やサポートは必要だ。
しかし、事件や事故などの犠牲者の名を報じる意義は死者への表敬と、
その死を防げなかったことを社会として詫びることにある。
もし仮に、どこかで大事故か、無差別殺人が起きたとして、
その犠牲者の中にたまたま一人か二人障害者がいたとしたら、
多分全員の氏名が報じられるはずだ。そう考えると、なんともやるせない。
 
確かvocoというラテン語の動詞がある。呼ぶという意味。voxが声だっけ。
ヴォーカルとかvocation(職業/天職)の語幹だ。生まれてくることが決まったとき、
人はどんな声を聞くのだろうか?残念ながら、僕は覚えていない。想像してみる。
「しばらく生きてみなさい。」かな。
この<しばらく>が、どれくらいの期間かは神様がお決めになる。
 
命の尊さを教えるために殺されていい人はいない。
平和の大切さを知るために戦争する必要はないし、そんな余裕もなさそうだ。
生まれてきた以上、自然死でない死、避けることができる死から逃れる権利があるし、
 避けられる死を回避する義務は、みんなで負わないと果たせない。           
 
        あらしの前の夜に。
 
                      トップページへ戻る