アコギ 前編
「これ、すっげぇ痛いんだけど」
俺は、大河を見て言った。
「心配するなって、最初は誰でもそうなんだから。そのうち痛くなくなる」
大河は、色素が薄いせいか、陽に照らされると薄茶色に見える瞳で柔らかく微笑んで、そう返す。
短い髪の毛も茶色っぽくて、肌は色白だし、外人みたいだと俺は思う。
「ほら、ポーッとしてないで、次は薬指が6弦の3フレット。
中指が5弦の2フレット。小指が1弦の3フレット」
俺が今抱えているのは、アコースティックギターで、大河も同じようにして膝の上に乗せている。
俺の持っているギターは、大河のギターだ。奴は二本所有しているので、貸してもらっている。
指を大河の言った順に、弦の上の言われた場所に置いていく。
「薬指が6弦の3フレット…で、中指が5弦の…2フレット。で、小指が、なんだっけ?」
「1弦の3フレット」
「おお、そうかそうか…って、届かねぇー」
俺は、頑張って指を伸ばし、なんとか教わった通りに、三本の指を弦の上に乗せ終えた。
「それがG。鳴らしてみ」
大河に言われて、俺は弦を押さえる指に力を込める。
昨日始めたばかりの俺の指先は、練習し始めたときから、ずっと痛みを訴えつづけている。
それをこらえて、指に食い込む弦を押さえつけ、右手で弾き降ろしてみる。
ビビビーン、と思いっきり耳障りな音が響き渡って、笑った。笑うしかない。
大河も苦笑する。
「ま、最初はそんなもんだって。よく鳴ってる方だよ。
そのコード、たくさん出てくるから覚えちゃうといいよ」
思いっきり押さえているつもりなのに、押さえが甘いのかいい音が出ない。
「えー、こんなキツいのがたくさん出てくるのか?」
「こんなの全然大したことない。もっともっとキツいのが山のように待ち構えてるぞ」
語尾を上げて、笑いながら言う大河の言葉を聞いて、俺はゲッソリした。
なんだか、むちゃくちゃ遠い道のりのように思える。
初心者を最初からげんなりさせるとは、あまりいい先生とは言えないんじゃないか?
と思ってたら、
「でも、それも過ぎちまえば、なんてことなくなるんだけどな」
大河は言って、言い終えるとジャカジャーン、としっかりした音で自分の膝の上のギターをかき鳴らした。
俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
いい音。震えが来るほどかっこいい。
続けて大河は曲を弾き始め、俺はちょっとポーっとなりつつそれを聞いた。
聞き覚えのある某バンドのアップテンポな曲だった。
音もかっこいいけど、その指の動きに見蕩れた。
弦を押さえる指が変わり、次から次へと手全体の形も変わっていく。
綺麗な動きで、目が離せなかった。
早すぎて今の俺にはよく分からないが、奏法もいろんなのを使っているらしい。
これを、今から俺は習得していくのだ。
三年前からギターを触っているという大河。
山ほどのコードと奏法を覚え、練習と、磨いたセンスの向こうに、この演奏はある。
俺もそれくらいかかるのだろうか。
いや、飲み込みの早さでいったら、きっと大河の方が上だから、俺はもっとかかるかも知れない。
「ある程度弾ければいい、って言うんならすぐ弾けるようになるけど」
そう言われて、振り向いたのは一昨日のことだった。
友達と、前日に見た某アーティストのライブDVDについて、興奮気味に話していたら、
斜め後ろの席から、大河が話しかけて来たのだ。
「あーあ。俺もあんな風にギター弾けたらなぁ」
という俺の言葉に呼応した台詞だった。
「え、お前、弾けんの?」
同じクラスだったけど、それまで、あまり話したことがなかったから、どう出ようか迷ったが、
とりあえず友達と話していたままの口調と勢いで返してみた。
「うん。バンドやってるし」
「へぇ」
俺の憧れにすでに手が届いている大河の、ちょっとだけ得意げに見える表情に、
俺は面白くない気分になった。
それで友達の方へ視線を戻し、話を続けようとしたら、また大河が話しかけてくる。
「俺、教えよっか」
俺はもう一度振りかえり、
「いいよ。バンドやってんなら、忙しいんだろ」
と、この話を終わらせようとしたが、奴はのんびりした口調で、
「別に忙しくないし。週に一度、メンバーと会って合わせるだけだから」
話を続けようとする。
「悠人、教えてもらったら?前も覚えたいような事、言ってたじゃん」
一緒に喋っていた友達の健太が口を挟んで、俺は大河をじっと見た。
確かに、前からギターが弾けるようになれたらと思っていたし、それを口に出して言ってもいた。
だけど。
「俺、ギター持ってないし」
「二本持ってるから、貸してやるよ」
「……」
俺の周りでギターやってるやつっていないし、教えてくれる人もいない。
独学でやろうかと思ったこともあるけど、楽譜もろくに読めないし、
ギター教本を開いても何を言ってるのかちんぷんかんぷんだった。
ひょっとすると、これはいい機会なのかも知れない。
「難しいだろ?」
俺が上目遣いに聞くと、
「ある程度弾ければいいってんなら、そんな難しくないよ」
大河はそう言って、ニカッと笑った。
大河は続けてそのまま数曲を弾き、それが終わると、
「すげぇ、すげぇ」
俺は、羨望半分、嫉妬半分の感情をこめて、パチパチとゆっくり手を叩いた。
羨ましいが憎たらしい。
憎たらしいから、拍手もしたくないくらいだが、でも、生の演奏は、本当に迫力があって圧倒される。
叩かずにいられない何かがあるから、しょうがない。
俺は、その反応にまんざらでもない様子でいる大河に聞いてみた。
「大河は歌わないのか?」
俺が今の奴ぐらい弾けたら、絶対合わせて自分で歌っちゃうけど。
大河は、俺の問いに、
「バンドのときはボーカルがいるから」
と答えた。続けて俺が、
「…今は?」
と聞くと、少し顔を赤くする。そして、ボソッと呟いた。
「歌は苦手なんだよ」
どうやら下手だから恥ずかしいと思っているらしい。
「ふーん。そうなんだ?」
と、茶化すように笑ってやると、大河がギターを置いて、
「ちょっと休憩しようか。お茶かオレンジュ、どっちがいい?」
と言いながら立ち上がる。
「じゃあ、オレンジュ」
そう答えると、大河は部屋を出て階下へ降りていった。
部屋に一人で残される。
ここは、大河の家。奴の部屋で、防音のために窓を閉め切って、ギターを弾いていた。
今の時間、奴以外家には誰もいないらしい。
部屋を見回しながら、なんで大河の家にいるのか、ちょっと不思議な気分になる。
だって、一昨日までほとんど口をきいたこともなかったのだ。
名前呼びも、実はちょっとだけ違和感を感じている。
みんなが大河と呼んでいて、苗字で呼ばれているのを聞いたことがないから、
俺もなんとなく倣って呼んでるけど、そこまで親しいわけじゃない。
しばらくすると、飲み物を持って奴が戻ってきた。
「サンキュ」
それを受け取って、口をつける。
大河が眉を寄せて、申し訳なさそうに俺を見た。
「暑くて悪いな。窓閉めないとまずいからさ」
「いいよ。まだそれほど暑くないし」
今は、7月中旬で、今日は雨が降っている。
梅雨で雨が続いているせいか、それほど気温は高くなかったが、
窓を閉め切るとその閉塞感も加わってか、ちょっとだけ暑く感じた。
でも、教わっている身で文句も言えない。
それに、教わっている間って夢中で、意外に暑さとかって忘れてて、
本当にそんなに苦にならなかったりするのだ。
オレンジジュースを飲んでいたら、ふとギターケースに貼ってあるシールに目が行った。
それは、某お笑い芸人がいつも服につけているライオンのアップリケの絵を、
トラに改造したものだった。
かわいいんだか、妙なんだかよく分からない。
「これ、お前のアイデア?」
それを指差して聞くと、
「え、ああ」
ニカッと笑った。
「トラが俺のトレードマークなんだ。ほら、俺の名前、大河だろ。タイガーっつうことで。
そのシールはもらったから遊んでみた」
俺は、もう一度そのシールを見てから、
「ダジャレ?」
と笑いつつ顔を歪めた。
俺の言葉に、大河が瞳に強気な色を浮かべて言う。
「あ、今しょうもないって思ったな?この名前、ばあちゃんが付けてくれたんだぞ」
そこでおばあさんを出されて、俺は黙った。
実際、少し馬鹿にしてたけど、身内の目上の人を出されては、その雰囲気を引っ込めざるを得なくなる。
「ばあちゃん、『とら』って名前でさ。お揃いで孫はタイガーにするって」
「お、面白いばあちゃんだな」
なんとなく愛情を感じる話ではあるけれど。
「漢字は両親が考えたんだ」
「ふーん。なんかみんなが一生懸命考えたって感じで、いいじゃん」
大河はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
「いい名前だろ」
どうやら自分の名前をむちゃくちゃ気に入ってるらしい。
こんなに自慢げに自分の名前のことを話すやつもいない。
みんなが奴を名前で呼ぶのは、これが理由なのかも知れないな。
みんなにもこんな話をしているのだろうか。
名前の話が一段落ついて、ジュースを飲み終わると、俺はまたギターを手にした。
「なー、俺、早く曲やりたい」
ギターを膝に乗せて、適当に弦をはじきつつ言うと、大河が苦笑する。
まだ全然弾けない、どころかコードも押さえられないし、覚えてもいない分際で
と思われるだろうことは分かっていたけど、
コードを必死に押さえては鳴らなくてガックリくる練習ばっかじゃ、
つまらなくってやる気も失せる。
大河は、コード譜付きの楽譜の本を手にとって開いた。
「そうだなー。曲やりつつ覚えていった方がやる気は出るよな」
気持ちは分かってもらえたらしい。
俺は嬉しくなってきて、何をやらせてもらえるのかと、本を覗き込むようにした。
「これにしよう」
パラパラとめくっていた大河が、そう言って開いたのはスピッツの『チェリー』が載ったページだった。
思わず顔をしかめる。
「ええっ、スピッツ?俺、スピッツ、そんなに好きじゃない」
それを聞いて、大河がフッと笑った。
「って、お前はそんな贅沢言える実力なのか?」
「……言えないけど、でも、スピッツはなぁ…なんか他のがいいんだけど」
俺はスピッツのことを好きでも嫌いでもなくて、マジでなんとも思ってなくてそう言ったが、
大河は説得するようにして俺に言い聞かせた。
「これは簡単で初心者にすごく向いてる曲なんだ。
有名だから悠人も知ってるだろ?覚えるコードも少なくて済むし」
「……」
言えないよ。どうせ俺は、わがままも言えない初心者だよ。
ちょっと拗ねてみても、選曲は変わらず、
大河の強い勧めで、俺はその日からその楽譜とにらめっこすることになった。
『チェリー』を練習し始めてから、三日が経った。
家で暇さえあればギターをさわっていたが、まだまだ全然下手だった。
当たり前だ。三日で上手くなれたら苦労はしない。
俺は、三日ぶりに大河の家を訪れた。
部活が終わった後に寄るので、時計は六時を回っている。
梅雨は一昨日明け、今日は暑くて、締め切った部屋の温度にはさすがに耐え切れなかったのか、
行くとクーラーがついていた。
涼しい部屋で、三日間の練習の成果を大河に披露する。
聞いてる相手は同級生なんだけど、緊張した。
ゆっくりと丁寧に弾いたが、相変わらず耳障りな音がする。
コードは頭に入っていても、指が追いつかなくて、なかなか押さえられない。
終わったら、なんだかボロボロの演奏だった気がして、へこんだ。
「上手くなったじゃん。だいぶ練習した?」
ところが、大河の第一声は思っていたよりずっといい感じで、誉められてることに気づいた俺は、
「ん、まぁ」
と答えた後、照れくさくなって自分で自分に駄目出しした。
「でもFがなー」
「Fは難しいんだからしょうがない。そのうち押さえられるようになるよ」
俺は、嬉しくなった。それから左手の指先を右手で擦る。
弦を押さえたあとの指の腹は、すごく痛くて、つい擦ってしまう。
気づいたら、大河がその動きをじっと見ていた。
俺は笑って、
「指先、固くなって来た感じで、感覚が変」
左の手の平を上に向けて、大河の方に差し出して見せた。
大河が、俺の手を取って、指先を確かめるように触る。
「そうだな。この感じを通り越して、だんだん痛くなくなるんだよ」
「すげぇな。体って、順応するんだな」
俺が言うと大河は、クスッと笑った。
「なんかその言い方、エロい」
え。
俺をからかうようなその笑みに、俺は意味が分からなくて慌てて手を引き戻し、眉間にしわを寄せた。
「どこが?」
「だから、言い方」
「俺の言い方のどこがエロいんだよ。そんなこと言うお前がエロいだろ」
そんなつもりは全然なかったのにそんな事を言われて、なんかムッとする。
「そんなにマジになることないだろ」
おかしな奴だと言わんばかりの顔で大河が俺を見て、俺は黙った。
確かに俺は過剰に反応しているのかも知れない。
他の友達と喋っているときだってエロい話題ぐらい出るし、そんなときはサラッと流している。
だけど、なんか大河に言われると、俺の中のイラッとくるツボを押される感じがした。
「俺、もう帰る」
俺がケースのファスナーを開けて、ギターをしまい始めたら、大河が聞いてくる。
「なんか用があるの?」
「ないけど、今日はもう帰る」
イラッとした気分はおさまらず、俺はそんな自分のまま大河のそばにいたくなかった。
「別にいいけど…」
と大河は、少し考えるようにした後、
「じゃあ、また三日後にここで、この時間な」
俺が来るのが当然みたいに言う。
別に、どうしても教えてもらわなければいけないというわけでもない。
なんでこいつは、こんなに教える気満々なんだろう。
俺は、大河が、わざわざ時間を割いて俺にギターを教えてくれる理由を、聞いてみたい気持ちになった。
けど、なんとなく聞けず、
「…忙しかったり、もう教えるの嫌になったら言っていいからな」
代わりにそんな言葉が口を突いて出て、それを聞いた大河が笑った。
「なんで。ある程度弾けるようになるまで責任持って教えるよ。
もう少しきちんと押さえられるようになったら、今度は違う弾き方を教えるから」
玄関まで出たとこでそう言われて、ドアノブに手をかけた俺は、動きを止める。
違う弾き方…。つまりコードを押さえる左手の方じゃなくて、右手の奏法の方を教えてくれるってことか。
今はただ単調に弾き降ろしているだけなので、それを聞いたら、ちょっとだけやる気が出た。
イラついていた気分が、少し軽くなって、やっぱり引き続き教えてもらわなければ、という気持ちになる。
「三日後だから。練習怠るなよ」
「ああ」
玄関先で、そんな会話を交わしてから、俺は外に出た。
大河にギターを教わってはいるけれど、学校で奴と話す頻度は、教えてもらう前と変わらなかった。
つまり、ほとんど話すこともなく、俺はいつも、仲のいい健太や他の気の合う友達とつるんでいた。
「もうすぐ夏休みだな」
休み時間に、真剣な顔で携帯を弄っている健太に話しかける。
「そうだな」
健太が、心ここにあらずな感じで返してきた。
なにか悩んでいるような、険しい顔で画面を覗き込んでいる。
どうしたのかと思っていると、そのうち「はあーっ」と、大きな溜息をついた。
「なんかあったのか?」
聞くと、奴が眉間にしわを寄せて顔を上げ、俺を見た。
「美咲と連絡が取れなくなった」
「えっ」
俺は驚いて、健太を見返した。
美咲と言うのは健太の彼女で、中学の頃から付き合っていて、遠距離恋愛をしている女の子だ。
彼女はどうしても行きたい高校があって、遠い学校を受験して寮に入っていて、
健太は、いつも彼女にまめにメールしたり電話したり、
休みには会いに行ったりしていた。
それがそんなことになっていたとは知らなかったので、驚きだった。
「だんだん返事が返ってくるのが遅くなったと思ってたら、
昨日からプッツリ何の反応も連絡もなくなって…俺、振られたんかなぁ」
健太が沈んだ感じで言う。
「そんなことっ、まだ分からないだろ。他に連絡つく方法ないのか?」
俺は、ハッキリしてもいないのに沈んでいる健太に、強い口調で言った。
健太はしばらく何か考えるようにした後、首を横に振って薄く笑い、諦めたような表情をする。
「…でも、もういいんだ。なんとなく気持ちが離れていってる感じはしてたから」
「……」
俺は黙ったが、どうにも不満に感じて、もう一押ししてみた。
なるべく穏やかな言い方で提案してみる。
「まだ好きなんだろ?とにかく休みの間にでも一度会いに行って、
彼女の気持ちをちゃんと聞いて来いよ」
健太はその言葉に、苦笑してから、
「もういいって」
とりつくしまもない感じで、眉を寄せて笑った。
「ショックじゃないわけじゃないけど、なんかこうなる予感はしてたんだ」
「……」
「やっぱり近くにいないと駄目だな」
意外とサバッとした感じで健太が言って、俺はなんとも言えない気持ちになった。
本人にしか分からないこともあるし、健太が駄目だと言うなら駄目なのだろうという気もする。
なんと言うか、慰めの言葉もなくてじっと見つめると、
「そういうわけだから、しばらく放っといて」
健太はそう言って、自分の机の上に突っ伏した。
人が失恋するところを見てしまった。
失恋した友達を励ますって、どうしたらいいんだろう。
…下手に励まさない方がいいのか?放っといてって言ってたし。
などと思っていたら、健太はその日いっぱいは沈んでいたものの、次の日からは割りと元気だった。
もう諦めることに決めて、吹っ切れたらしい。
周りの友達や女の子たちとも普通に明るく喋っていて、その様子は、気になっていた俺としては、
見ていてちょっと拍子抜けするほどだった。
三日後。大河の家に行き、練習の成果を見てもらった。
「うん。すごく上達してると思う」
今回も誉められて、いい気分になっていると、聞かれた。
「夏休みは、何か予定ある?」
「え、別にないけど。大河は?」
「俺も別にない。午前中は部活あるけど」
「それは俺も」
ま、運動部に属していれば、みんなそんなものだろう。
「じゃあ午後からは結構長く練習できるな。この休み中にグンと上手くなれる」
大河が言って、俺はなんかもう上手くなった後のような気になって、笑って「おお」と声をあげた。
実際には、たくさんの練習と努力が必要に違いないのだが。
「うちの親、共働きだから昼間はいつもいないし、
夜中は近所迷惑になるから駄目だけど、結構遅くまでやれるよ」
いや、そこまで頑張る気はないんだけど。
そりゃ上手くなりたいとは思う。でも、俺はそんなに必死になってやろうとは考えてない。
出来れば、楽しくやりたいし。
と思ったが、大河が大真面目な顔をしているので、言わないでおいた。
まさか本気で毎日そんなに練習する気じゃあないよな。なんか特訓みたいで嫌だなぁ。
「大河、兄弟は?」
「姉ちゃんがいるけど、もう家を出て一人暮らししてる」
「ふーん」
心おきなく練習できるわけだ。
なんかちょっと逃げたくなって来た。
そんな話をした二日後には、夏休みに入り、
俺は部活が終わると毎日という感じで、大河の家に行くようになった。
大河は本当に熱心に、いろいろ教えてくれた。
どうしてそんなに、と不思議に思えるほど力を入れて、
とにかく俺が早く上達出来るよう考えてくれているのを感じる。
友達なんだから、もうちょっと気楽に、合間に遊んだり喋ったりしてもいいんじゃないかと俺は思うけど、
そんな時間はもったいないと言いたげだ。
一生懸命教えてもらえてありがたいことなんだろうけど、ちょっとウンザリすることもあった。
よくついて行ってるよ、俺。自分をほめてやりたい。
と心で呟く。
まあ、そのおかげで耳障りな音も減ってきて、大分弾けるようになって来たのだから、大河様々だけど。
そんなある日、いつものように大河の家に行って練習していたら、途中で、
「ちょっとコンビニ行ってくるから、そのまま練習続けてて」
と言われ、俺は大河の家に一人で残された。
それはすごく珍しいことだった。
これは長い休憩になりそうだから、のんびりできるな…
スパルタ大河から解放されて、気持ちが緩む。
少し練習に飽きかけていた俺は、ギターをひかずにそれを床に置き、ボーッとした。
クーラーのきいた部屋で、床に座ってベッドにもたれてじっとしていたら、
部活の疲れもあったせいかどうにも眠くなってきて、いつの間にか眠ってしまっていた。
何か聞こえる。
これは大河の声だ。大河が歌っている。
俺は、大河の歌う声で起きた。
小さな声だったが、確かに奴は歌っていて、俺は思わず聞き耳をたてた。
なんだ、苦手って言ってたけど、上手いじゃん。
俺はなんとなく心地よくて、そのまま寝たふりをして、大河の口から紡ぎだされるメロディを聞いていた。
大河が歌っていたのはチェリーのサビの部分だった。
ちゃんと弾けるようになったと言うための目処は、とりあえずチェリーを完璧に弾けるようになることで、
今では、チェリー以外の曲も練習に加わっていたけれど、
それでも俺は毎日必ず一度はチェリーを練習していた。
この選曲はそのせいだろうか。
しばらく聞いた後、薄目を開けて、大河の歌う姿を見る。
すると、奴もこっちを見ていて目があった。
色素の薄い髪と瞳が、陽に透けて光っている。
「あ、ひょっとしてうるさかった?」
俺が起きていて、歌を聞いていたことに気づいて恥ずかしくなったのか、
大河が少し顔を赤らめながら言ってきて、俺は、首を横に振った。その後、
「ずるいなぁ」
しみじみとそう思った気持ちが、口に出て言ってしまった。
「え…」
「苦手だとか言っといて、上手いんだもんな」
ギターもかっこよく弾けて、歌も上手いって羨ましすぎる。
でも、大河は強い口調で慌てたように否定した。
「何言ってんだよ。俺下手だろ?いいよ。本当のこと言って」
「え。本当に上手いと思うけど」
そこまで否定する理由が分からなくて驚きつつ大河を見ると、
「全然っ。上手くないだろっ」
すごいムキになって言ってくるので、
「十分、上手いよっ」
こっちも強い口調で返したら、なんかケンカしてるみたいな雰囲気になった。
ちょっと睨み合いのようになった後、溜息をつく。
「なんで誉めてんのに、そんなに怒るのか分かんねぇ」
そのなんとも頑なな感じに、思わず苦笑した。
すると、大河が重い口を開いて白状する。
「俺、バンド仲間に、メンバーの中で一番歌が下手だって言われてる」
「……」
あー。そういう背景があったのか…それで自信喪失してるわけだ。
「他がよっぽどレベル高いんじゃねぇの?」
俺は言ったが、大河は何も言わず黙っていた。
「認めないなら、それはそれでいいけどさ、俺は上手いと思うよ。
今度またギター弾いて聞かせてよ。歌つきで」
そう言うと、大河は顔を赤らめた。
黙ったまま立ち上がって、部屋を出ていく。
閉め切った窓の向こうから蝉の鳴き声が聞こえてくる。
大河、起こさなかったんだな。
暑そうな蝉の声を、涼しい部屋で聞きながら、思う。
あんなに厳しいんだから、寝てたら起こしそうなもんだけど…
結構長い時間一緒にいるのに、大河のことがよく分からない。
そんなことを考えていたら、大河が戻ってきた。
「部屋の外、すっげぇ暑い。かき氷、食う?」
そう言ってカップに入ったイチゴ味のかき氷と、スプーンを差し出す。
俺はちょっと驚いたが、
「うん。食う」
ちょうど何か甘くて冷たいものが欲しかったから、嬉々としてそれを受け取った。
「コンビニで買って来たのか?」
「え。ああ、うん」
食べているうちに、カップについた水滴が、手の平を、そして腕の内側を通って肘まで伝い、
ズボンに落ちてシミを作る。
それを気にしないフリで食べ続けていると、先に食べ終わった大河が、ギターを取って膝に乗せた。
ジャーンと弾き降ろして、いきなり弾き始める。
俺は、その音に圧倒されてスプーンを持つ手の動きを止めたまま、大河の全体を眺めた。
ギターを抱え込むようにする姿勢とギターの角度。
手元を見る茶色がかった瞳と、それから、滑らかに動く指に見入る。
いつまでも見ていたいと思う。
なんて綺麗なんだろう。この動きを見るのが、すごく好きだ。
続きを食べるのも忘れて見ていたら、大河が弾き終わったときには、
かき氷はすっかり溶けてイチゴ水になっていた。
それを飲み干して、手の平についた水滴を蒸発させるようにして、手を擦り合わせる。
「ごちそうさん。美味かった」
「うん」
「演奏も上手かった。生演奏聞きながらカキ氷食えるなんて、最高」
俺はそう言って笑った。
歌つきじゃなかったのが残念だけど。
それを聞いて、大河もニカッと笑う。 でも、空気が和んだのも束の間、
「さ、練習しようか」
一瞬後には、スパルタ大河に戻っていた。
その日俺は、ストローク(右手)の弾き方を教わって帰った。
鬼のように繰り返し練習させられて、クタクタになって、帰った。
2010.07.24