記憶、喪失






 目を覚ますと、俺はベッドに横になっていて、脇に置かれた椅子に座った男と目が合った。

 「あっ、気がついたね。今先生を呼ぶから」

 男がそう言って、ナースコールに手を伸ばし、ボタンを押す。

 その部屋は、どうも病室らしかった。

 白い壁。ベッドの周りの白いカーテン。

 これが普通の家の部屋だったら、味気ないことこの上ない。

 それにしても、俺はなんで病院にいるのだろう。

 「あの、俺、どうしてここに?」

 俺が聞くと、

 「ああ、階段から落ちたんだよ。頭十二針も縫って、大変だったね」

 気の毒そうな顔をしながら、男が説明してくれた。

 彼の視線が、自分の頭に注がれるのを見て何気に手をやると、そこは包帯でグルグル巻きの状態になっていた。

 そして、頭を触っている右手も、手首から肘にかけて、広く包帯が巻かれている。

 落ちた時に擦ったのだろうか。

 その白い布がおおげさに思えて顔をしかめていたら、

 「でも良かった。命に別状がなくて。僕は君が落ちてきて、血が広がるのを見たとき、

 そのまま死ぬんじゃないかと思って心臓が止まりそうになったよ」

 男が、泣き笑いの表情を浮かべて言った。

 サラサラでおかっぱを短くしたような髪型に、色白の肌。スッと通った鼻梁に、男にしては赤くて薄い唇。優しげな瞳。

 年上なのか、とても落ち着いて見える。

 俺を見ててくれたようだけど、誰なんだろう。

 「慌てて救急車を呼んだんだけど、本当に大事に至らなくて良かった」

 え。この人が救急車を呼んでくれたんだ。つまり、俺の恩人?

 俺は慌ててお礼を言おうとした。

 ところが、体に力を入れた途端、上半身、特に右肩に激痛が走って、

 「うっ」

 俺は、顔を歪めた。

 「ああ。動かない方がいいよ。体も思い切り打ったと思うから」

 この人は、俺が落ちるところを一部始終見ていたらしい。

 なんだって俺は階段から、そんな落ち方をしたんだろう。

 よっぽど気を抜いていたとしか思えない。

 いや、そんなことよりも。

 「あ、ありがとうございましたっ」

 俺は、仕方がないので横になった姿勢のままで、彼にお礼を言った。

 彼はにっこりと微笑んだ。

 「救急車を呼んだだけだよ。僕は三年の藤沢。よろしくね」

 ものすごく気持ちのいい、爽やかな風が吹き抜けるような笑顔と口調の自己紹介だった。

 サラサラの髪が揺れる。

 こんな人がいるのか。

 まるで少女マンガから抜け出て来たようじゃないか。

 俺より、一つ上の先輩。

 「あの、俺は二年の服部玲二です」

 続けて俺がそう自己紹介した時、ドアをノックする音がして、先生が入ってきた。

 先生は自分の名前と俺の担当であることを告げると、カルテを見ながら、

 「具合はどうですか?」

 まず決まりごとのようにそう聞いた。

 怪我をして体中痛いのだから、いいわけがない。

 「最悪です」

 と言うと、目を丸くしてから、

 「そりゃそうだよね」と苦笑して俺の容態を説明し始めた。

 頭に十二針縫う裂傷。脳に異常はなし。あと骨折はしていないものの全身を打っているので、しばらく入院が必要。とのことだった。

 そして、薬を処方した後、

 「看護師さんが入院の手続きのための書類を、後で持ってくるから」

 と言い残して、先生は去っていった。

 「僕もそろそろ行かないと」

 藤沢先輩が立ち上がる。

 「あ、そうですよね。すいません。偶然近くにいただけなのに、こんなに良くしてもらっちゃって」

 「いいんだよ、それに、そんなにかしこまらないで。また大学で会ったら、そのときはタメ口でいいから。早く良くなるといいね。じゃあ」

 本当に、憎いぐらい爽やかな空気を残して、先輩は部屋を出て行こうとした。

 そのとき。

 再びドアをノックする音がした。

 「あれ、看護師さんかな?」

 先輩がドアノブに手をかけようとすると、

 「玲二っ」

 俺の名前を呼びながら、ものすごい勢いで男が飛び込んで来て、先輩は、驚いて身を引いた。

 「はい」

 俺は名前を呼ばれて、ほとんど条件反射で、返事をした。

 この人が看護師さん?…なわけないか。

 白衣着てないし、どっかから急いで走って駆けつけたようで、息を乱してキツそうにしている。

 彼は、俺の姿を見てショックを受けているようだった。

 「玲二…こんなに包帯巻かれて…ひどいのか?」

 呆然としたまま呟いた言葉に、先輩が答える。

 「十二針」

 それから、クスッと小さく笑ったような気がした。

 「じゃあ、僕はこれで。お大事に」

 「はい、ありがとうございました」

 先輩が出て行き、ドアが閉まると、部屋には男と俺だけになった。

 男は太くて黒いフレームの眼鏡をかけて、前髪を長く伸ばしている。

 顔があまりよく見えなくて、ちょっと胡散臭い感じ。

 「今の男、誰」

 いきなり、強い口調で聞いてきた。

 不躾な言い方で、あの人は俺の恩人なのに、と思ったらちょっと不快な気分になる。

 「誰って…三年の藤沢先輩」

 ってか、お前が誰だよ。と俺は聞きたい。

 「なんでここにいたんだ?」

 「……救急車を、呼んでくれたんだ」

 そう言うと、男はハッとして、ものすごいミスを犯したようなリアクションをした。

 「そうだったのか。うわっ、お礼言わなかった」

 俺は、やけに親しげに話しかけてくる男を無言で見つめた。

 男の言うことに、何故か聞かれるままに答えてしまう自分。

 知りあい…みたいな雰囲気だけど、俺は、この男を知らない。

 男が近づいて来て、

 「玲二…」

 あろうことか俺の名を呼びながら、手を握った。

 げっ…

 「ごめん。そばにいられなくて。こんなことになるなら、離れなければ良かった」

 「……」

 俺は固まった。

 なんでそんな愛しそうな声で、顔で言うんだ?

 まるで俺のこと、好きみたいじゃないか。

 ホモなのか?

 走ってきたのか、手は少し汗ばんでいて熱かった。

 俺は、握られた自分の手をパーにして、無言のまま振って、離そうとした。

 男が怪訝そうな顔をする。

 「玲二?」

 俺は、眉間に皺を寄せて男を見た。

 「心配してくれるのは嬉しいけど、これはちょっと…それより、あの…誰…?」

 男が固まった。瞬きもせず、俺を凝視する。

 「ひょっとして、俺が誰だか分からない、ってこと?」

 確認するように聞くので、俺はコクリとうなずいた。

 しばらく俺を見つめた後、男は、ちょっと笑った。笑いつつ、

 「嘘だろ?」

 絞り出すように言う。

 嘘じゃないので俺は黙っていた。

 俺の様子に、男は信じられないという表情になり、呆然とした。

 俺は少しの罪悪感にとらわれる。

 やっぱり知り合いなのか?誰とか言っちゃって、失礼だっただろうか。

 ……。

 でも、しょうがないよな。本当に分からないんだから。

 「俺のこと…本当に忘れたのか?」

 長い事俺を見ていた男が真顔で問いかける。

 俺はちょっと申し訳ない気持ちになり、俯き気味に彼を見た。

 「悪い。たぶん友達なんだよな。なんで思い出せないんだろう」

 なんとか思い出そうとしてみたら、だんだん頭がズキズキと痛みだした。

 「どこまで忘れてるんだ?まさかみんな?おふくろさんの事は覚えてる?」

 言われて、俺はおふくろの顔を思い出そうとした。

 すぐに明るい笑顔が浮かんで、俺は頷いた。

 「覚えてる」

 「じゃあ、喫茶店の人たちは?」

 喫茶店…。ああ、バイト先の。

 俺は喫茶店の風景を思い出し、そこで働くスタッフの菊池さんや店長を頭に思い描いた。

 あのいつでも明るいテンションや、人懐こくて犬みたいな雰囲気も、それにちゃんとそれぞれの顔も思い出せる。

 「大丈夫」

 「じゃあ」

 男が、ごくっと唾を飲み込んで、一番聞きたかったらしいことを聞いた。

 「俺、椎雅之が玲二にとってなんなのか、言ってみて」

 これ以上ないだろう、真剣な表情をする。

 眼鏡越しに怖いくらいに見つめられて、思わず少しだけ体を遠ざける。

 俺に忘れられて、すごいショックを受けてるみたいだ。

 そりゃそうだよな。俺だって友達に忘れられたらショックだよ。

 椎雅之。だけど、名前を聞いてもピンと来ない。何も思い出せない。

 他の人のことは覚えているのに、この椎という男のことだけ、記憶がスッポリと抜けてしまっている。

 椎雅之って、俺にとって…

 自分の記憶を探ろうとすると、頭の痛みがズキズキから、ガンガンに変わった。

 …思い出せ。こんな痛みくらい、友達に忘れられることに比べたらなんでもないはず。

 痛みを無視して思い出すことに専念しようとした。

 が、無理だった。

 「いででででっ」

 尋常でない痛みが襲ってきて、俺は思わず大声で叫んで頭を抱えた。

 「いでーっ!」

 やっぱなんでもなくないっ。頭割れるっ。

 「玲二っ」

 驚いた男−椎?−が慌てて近づいて来て、頭を押さえている俺をぎゅっと抱きしめた。

 「ごめん。もう無理しなくていいから。ほら、ドラマなんかでよくあるよな。そのうちなんかのきっかけで思い出すってやつ」

 「うう」

 痛くて唸っている俺に、優しく言い聞かせるように呟く。

 「大丈夫。きっと、思い出せる」

 気持ちを切り替えたらしく、前向きな調子でそう言って、

 「ちょっと先生と話してくる」

 俺を離れると、ドアを開けて外へと出て行った。

 なんなんだよ。なんで抱きしめんだよ。お前、誰なんだよ。

 

 椎は、しばらくして戻ってきた。先生も一緒だ。

 先生は俺を診て、うーんと唸り、「一時的な記憶喪失でしょう」と言った。

 「記憶が部分的に失われる例は決して珍しいことではなくて、特に服部さんは頭を打ってますから、原因もハッキリしてます。

 記憶は、なにかがきっかけで思い出すこともありますし、周りの人がいろいろ教えてあげることで

 支障なく生活できるようになったりしますよ。

 …まあ、無理に思い出そうとせずに、ゆっくり構えて様子をみましょう」

 そのいかにもな言葉に、椎は不満げで、なにか言いたそうだったが言わずにいるうちに、先生は忙しそうにして出ていった。

 特効薬があるわけでもないし、先生もどうしようもないのだろう。

 もう頭痛は治まっていた。無理に思い出そうとしなければ、大丈夫らしい。

 二人きりになると、沈黙が訪れた。椎がじっと俺を見つめる。

 まさか自分が記憶喪失なんてものになるなんて、思ってもみなかった。

 忘れたくて忘れたわけじゃない。

 でも、椎は穴があくんじゃないかと思えるくらい瞳に力を込めて、こちらを見てくる。

 ショックなのは分かるけど、俺にどうしろって言うんだよ。

 俺は、椎の視線に耐えられず、目を逸らした。

 「一言だけ文句を言わせて欲しい」

 椎が口を開き、俺はもう一度奴に目をやった。

 「不可抗力だってことは、わざとじゃないってことは、分かってる。でも、その上で言う。

 他の人のことは覚えてるのに、俺のことだけ忘れるって、ひどいだろ」

 瞳にむちゃくちゃ悲しそうな色を浮かべる。

 わざとじゃない。思い出せるものなら、思い出したいと思ってる。でもどうする事もできないんだ。

 なのに、俺が悪いのか?

 ちょっと開き直りたくなったが、でも、やっぱり、目の前で悲しそうにしている椎を見ると何も言えなかった。

 言えるとしたら、この言葉だけだ。俺はその言葉を発しようとした。

 「ご」

 「よし。文句言った。こっからは、気持ちを切り替える」

 俺の言葉は椎に遮られた。

 「え」

 「仕方ないから、説明する」

 俺がポカンとしていると、椎が首を傾げる。

 「俺のこと、何も知らないんだろ?」

 「あ、うん」

 俺が素直に頷くと、苦笑した。

 言われたままの勢いで頷いたけど、やっぱり簡単に頷かれたら、そりゃガックリくるよな。

 「ご、ごめん。俺、考えなしで」

 慌てて謝ると、

 「いいよ」

 椎は、目を伏せ気味にして笑って、もう一度気を取り直した感じで顔を上げる。

 「俺は椎雅之。四月十一日生まれ。誕生日を迎えたばっかりの、二十歳。B型。178センチ。

 俺と玲二は、大学のサークル見学に行った先で知り合って、友達になった。それから部屋をシェアして一緒に暮らしてる」

 俺は驚いた。

 ルームシェアして一緒に暮らしてるなんて、かなり深い仲の友達じゃないか。

 そんなに親しい仲の友達を、俺は…

 自分に呆れてがっかりしかけていると、椎が続けた。

 「訂正したい箇所と付け足したいことがたくさんあるけど、さっきの態度からして、

 今はきっと受け入れられないと思うから、しないでおく。でも、絶対思い出してもらう」

 訂正したい箇所と付け足したいこと?

 つまり、間違ってるとこと足りないとこがあるってことか?

 「……」

 なにが間違ってるって言うんだ?足りないならもっと教えてくれればいいのに。

 「次は、玲二の番」

 「え?」

 俺が考えていると、椎が明るい声でそう言った。

 「俺に玲二のこと、教えてよ」

 「それは…そっちは、言わなくても知ってるだろ」

 「いいから。聞きたい」

 変な奴。

 俺はそう思ったが、とりあえず椎が今どんなふうに言ったか思い出しながら、真似をして自己紹介をしてみた。

 「えーと、俺は服部玲二。歳は十九で、六月六日生まれ。O型。172センチ。お前とルームシェアして一緒に暮らしてる」

 「それから?」

 椎が聞いてくる。

 「それから?」

 俺が聞き返す。

 「続けて」

 つ…続けてって言われても。何を言えばいいんだ?何が聞きたいんだ。

 「もうない」

 「なくないだろ。俺との関係が抜けてる」

 「ああ…友達」

 椎が複雑な笑顔を浮かべた。小さく溜息をつく。

 「どうかしたのか?」

 「いや。いいよ、それで。今は」

 なんとか平静を保とうとしているような雰囲気で言葉を区切ってそう言った後、

 「おふくろさんに連絡入れとくよ」

 俺に実家の電話番号を聞いて、病室を出ていった。

 椎が出て行って静かになると、することもなく、麻酔も切れてきたのか、包帯の下の傷口が地味にじわじわと痛くなってきた。

 さっきの痛みに比べたら全然ましだけど、体を横たえてそれをこらえてじっとしているうちに、眠気に襲われる。

 ふーっと息を吐いて、目を閉じた。

 忘れているのは、椎のことだけ。

 「……」

 生活には、あんまり支障はなさそうだな…

 

 俺は少し眠ったらしい。

 目を覚ますと、ベッドの脇の椅子におふくろと椎が座っていた。

 「母さん」

 呼びかけると、おふくろが腰を浮かして俺を覗き込む。

 「玲二、大丈夫?」

 心配そうな表情で聞いてくるおふくろに、俺は笑って「うん」と頷いた。

 その返事に、おふくろは安心したように椅子に座りなおすと、大きな声で言う。

 「もうびっくりしたわよー。なんだって階段から落ちたりするのよ、ちゃんと前向いて歩いてた?まったくドジなんだから…」

 いつもの調子に戻っての物言いに、苦笑する。

 声、でかいよ。

 「大事に至らなくて良かったけど、頭を怪我したんだから先生の言うこと聞いて、しばらく大人しくしてなさい」

 おふくろは、俺の頭に巻かれた包帯に目をやって、ちょっと顔をしかめた。

 「分かってるよ」

 これ、そんなに痛々しく見えるんだろうか。

 「まわりの人に心配かけるんじゃないのよ、もう。ねぇ、椎君。ごめんなさいね、この子ってばいつも迷惑かけてるんでしょ?」

 椎は、そう振られて笑った。

 「そんなことないですよ。今回のことは、ちょっとびっくりしたけど、それも、ひたすら心配なだけで…迷惑だなんて、全然」

 椎がはにかみながら言うと、

 「あんた、いい人と暮らしてるじゃないっ」

 おふくろが感激したように俺の右肩をこづく。

 「いでっ」

 痛みが体を駆け抜けて、小さく叫ぶと、おふくろが慌てたようにこづいた箇所をさすった。

 「あ、ごめんごめん。体も打ってるんだったっけ。痛いの?」

 「痛いよ」

 「そっか」

 申し訳なさそうに笑うおふくろの横で、椎が立ち上がった。

 「じゃあ、あの、俺一旦帰って、玲二の着替えとか持ってきます」

 「うん。悪いわね。でも本当にいいの?任せちゃって」

 「いいですよ。時間はどうにでもなる身なんで」

 椎は、それだけ言うと笑みを浮かべておふくろに軽く頭を下げ、病室を出ていった。

 「何?」

 何の話かと思っておふくろを見ると、

 「ん、入院中、椎君がそばにいてくれるって」

 と言った。

 おふくろは仕事があって、しかも今すごく忙しいようなので困っていたら、椎がそう申し出てくれたらしい。

 「病状が急に変わる病気ってわけでもないし、看護師さんも定期的に様子を見に来てくれるみたいだから、

 付き添いもいらないみたいだけど、まったく一人じゃ玲二も心細いだろうから、来れるときには来てねって頼んだの」

 「ふーん…」

 俺は、自分が椎のことを忘れてしまっていることを、おふくろに話そうかどうしようか迷ったけれど、結局言わなかった。

 「初めて話したけど、いい子ね」

 「……うん」

 きっとそうなんだろう。

 おふくろが、ほくそ笑みつつ、

 「彼、イケメンだよね。顔隠してるから、分かりづらいけど」

 思い出すようにして言って、俺は声をあげた。

 「ええーっ、そうかぁ?」

 「ああ…あんたは、あんまり人の顔とか気にしなさそうだけど。特に同性だしね。

 でも、眼鏡取って髪をサッパリしたら、きっとかっこいいと思うよ」

 俺は、頭の中で椎の眼鏡をはずしてみようとしたが、うまくいかなかった。

 眼鏡越しの目の印象だけは、すごく残ってるけど、あとはなんだかボヤッとしてよく思い出せない。

 「一週間くらい入院することになるらしいから、その間来れたら来るわ。また何かあったら電話して」

 「うん。分かった」

 「椎君によろしくね。今度、お礼しなくちゃね。いつもお世話になってるだろうし」

 俺は、自分がどんなふうに椎と過ごしていたのかも分からなくて、

 「うん…」

 曖昧に返事をした。

 それを元気がないと受け取ったのか、おふくろが左肩にポンと手を置いて言う。

 「何しょげてるのよ。長い人生にはこういうこともあるわよ。せいぜい骨休めしなさい」

 別に階段から落ちて怪我したことをしょげてるわけでは全くなかったけど、俺は励まそうとするおふくろの気持ちを感じて、笑って頷いた。

 その後、看護師さんの持ってきた書類に目を通して、手続きを済ませ、おふくろは帰っていった。

 また一人になると、本当にやることがなくて退屈だった。溜息が出る。

 一週間も入院しなきゃいけないのか。できるなら二、三日で退院したい。

 持て余し気味の時間と、病院の独特の臭いに、この数時間でもう嫌気がさしていた。

 一人に一台ずつ配置されたテレビを見るには、専用のカードを購入しなきゃならないようで、別にそこまで見たい番組もない。

 面会時間は午後三時から八時。と言ったって、誰が来るわけでもなく。

 窓の外をぼんやり眺めていたら、俺はまた眠っていたようで、次に目が覚めたときには脇に椎が座っていた。

 「ああ。起きたね。看護師さんがさっき聞きに来たんだけど、今日夕食が必要かって。食欲ある?」

 俺が起きたのに気づくと、そう聞いてきて、俺は自分の腹に意識をやった。

 「あるけど…」

 そう答えると、椎がナースコールを押して、応答があった後、

 「すいません。今日の夕食からお願いします」

 スピーカー越しにそう告げた。それから、俺を見て嬉しそうにする。

 「良かった。食欲があるなら、大丈夫だ。それと、バイト先に連絡入れといたから」

 そうして、今度は横にある物入れの扉を開けて、

 「必要だと思ったものを持ってきて、ここに入れといた。うちで使ってる洗面用具とか下着とか」

 と教えてくれた。

 「ありがとう。椎って…すごくいい奴?」

 というか気が利く奴?

 俺が言うと、椎がはにかむ。

 「さあどうかな。ここで俺がそうだと言ったところで、信じていいのか判断つかないだろ?」

 ま、そりゃそうだ。

 「とにかく、玲二に自然に思い出してもらいたいけど…いつになるのか分からないのが辛いな…」

 そう言って、慈しむようにこちらを見る。

 「ま、いつになるとしても、俺は待つけど」

 その瞳のまま真剣に言うので、俺はどうしていいか分からない気持ちになった。

 恥ずかしいような、トキめくような、認めたくない心境になって、そうなっている自分に戸惑う。

 どうしてなんだろう?

 俺は、ふとおふくろと交わした会話を思い出した。

 「椎、一回その眼鏡、取ってみてくれないか?」

 そう頼んでみる。

 椎が「えっ」という顔をして、

 「ひょっとして、なにか思い出した?」

 どうしてそれが思い出したことになるのか分からなかったけど、期待を込めた表情で言うので、俺は慌てて首を横に振った。

 「いや、そうじゃないんだけど、顔、よく見えないから。ちゃんと見たら、もしかしたら、何か思い出すかも知れない…と思って」

 最後の方は、とって付けた理由だった。

 『実はおふくろが椎のことをイケメンと言ってたから、それを確かめたい』だなんて言えなかったし、言いたくない。

 「いいよ」

 椎が、そう返事をして、おもむろに眼鏡のフレームを指でつまんだ。

 それを外して、前髪を分け、目に力を込めるようにして顔を上げる。

 その椎の顔を見て、俺はポカンと口を開けた。

 誰…?と言いたくなるくらいの変わりようだった。

 椎は、確かにイケメンで、眼鏡をかけている時のイメージと今のイメージとでは、全く違う。

 びっくりして、しばらく奴を無言で見つめたあと、

 「お前…すげぇな」

 俺は言った。

 「こんなイケメンだなんて、全然分からなかった」

 もうイケメンと言うことに抵抗はなかった。

 悔しいけど、認めざるを得ない。

 「分からないようにしてるから」

 椎が、伏目がちに笑って、眼鏡をかけ直し、前髪を戻す。

 「なんでだよ。外した方がかっこいいのに」

 何気なく言った俺の言葉に、椎が黙った。

 それから真剣な顔で、

 「……理由は玲二も知ってる。だから俺の口からは言わない」

 そう言った椎は、少し寂しげでもあり、俺は眉を寄せた。

 俺、なんか言っちゃいけないことを言ったのだろうか?

 「今の玲二は、俺を知らない玲二だから何を言っても許される。もし、俺がへこんで見えても、気にしなくていいから」

 「待てよ、それって、へこんだってことか?」

 「…かも知れない」

 俺は慌てた。

 「なんでへこんでんのか、教えてくれよ。俺、分からないんだから」

 俺の言葉に、椎は一瞬どうしようか迷ったようだったが、何か考えた後、結局首を横に振った。

 「駄目なんだ。説明して分かってもらうのは、なにか違う気がする」

 「……」

 そう言われると、何も言えなくなる。

 だから早く思い出せと…?

 でも、焦ったからって、きっと何も思い出せない。

 俺が黙っていると、顔を上げて、少し明るい表情を浮かべて、

 「ほんと気にしないでいいから。いつまでもへこんでる俺じゃないのは、玲二も分かってるはずだよ」

 じっと俺を見る。

 「……」

 それだって、今の俺には『分からないこと』だ。

 「明日、また来る。ここ、完全看護制だから、よっぽどの理由がないと泊まれないし、今日は帰る。ちょっと用事もあるし」

 椎が腕時計を見る。

 もうこれ以上聞いても、何も話してはくれないのだろう。

 用事があるというのに、引き止めることもできない。

 「…うん。分かった。ありがとう、いろいろ」

 「あとこれ。退屈だろうと思って買ってきた。暇だったら読んで」

 椎は、鞄から何冊かの雑誌を取り出した。

 「椎ってほんと気が利くな。確かに退屈してたんだ」

 俺がそれを受け取ると、

 「何か必要な物や頼みたいことがあったら、また言って」

 手を上げて、外へと出て行った。

 俺、何かやらかしてるような気がものすごくする。

 椎は気にするなと言ったけど…

 ……。

 椎のこと、分からないはずなのに、それにしては、とても話しやすかった。

 知らない人と話すなら、俺、いつももっと身構えるのに、そんなこともなくて話し慣れてる感じがした。

 やっぱり俺は椎と、かなり仲のいい友達だったのだ。

 俺は手にした雑誌の表紙をぼんやり見ながら考えた。

 気にするなとは言われたけれど、俺は、もっと奴の気持ちを考えるべきなんじゃないか?

 椎は俺が思うよりずっと、大きなショックを受けている。

 でもなかなか奴の気持ちを思いやることができない。

 忘れられる側の気持ち。

 想像するのと実際に忘れられるのでは、きっとかなり違う。

 椎は、どうしても思い出して欲しそうだった。

 でも、もしずっと思い出せなかったら…?

 そんなことを考えていたら、だんだん頭が痛くなってくる。

 その時、ドアがノックされて、

 「服部さーん、お食事です」

 夕食が運ばれて来た。

 俺の思考は中断され、それと同時に頭痛がスッと引く。

 

 食事を摂って、雑誌を読んでいると、ドアをノックする音がした。

 おふくろか椎だろうと思ったら、

 「こんばんはー」

 なんと菊池さんが顔を覗かせて、俺は驚いた。

 「菊池さんっ」

 「服部くーん。大丈夫?」

 「来てくれたんだ」

 「うん。来ちゃった。なんちゃって」

 菊池さんが、ちょっと照れくさそうにして言い、俺は彼女の後ろに視線をやった。

 他にも誰かいるんじゃないかと思ったのだ。

 でも、菊池さんの他に誰かいる気配はなかった。

 「一人で?」

 「うん。誰かと一緒に、と思ったんだけど、来れる人がいなくて。五時あがりって私だけだから」

 俺を除くと、五時あがりは確かに菊池さんだけで、この時間に来れるのも彼女だけだろう。

 「そうだよね」

 俺が頷いて笑うと、菊池さんも笑って、手にしていた鮮やかな黄色い花のアレンジメントを、テーブルの上に置いた。

 パッと周辺の空気が明るくなった気がする。

 「ありがとう。買ってきてくれたんだ。こういうのって高いんじゃない?」

 「いいの。服部君に早く元気になってもらって、戻って来てもらわないと」

 あはは、と元気に笑う。

 さすがに病院ということもあってか、ちょっと声のトーンを抑え気味にしている感じがする。

 ま、元気に喋ってくれる相手が一緒にいたら、病院でももっと弾けてたかも知れないけど、一人だし。

 「それにしても、階段から落ちるなんて、危なかったね。頭、痛い?」

 菊池さんが気の毒そうな顔になって、俺の頭を見る。

 この包帯は、よっぽど痛々しく映るらしい。

 「今日縫ったばっかで、麻酔も切れてきた感じで地味に痛いけど、それほどでもないよ」

 「どれくらいで退院できるの?」

 「一週間くらいって言われてる。でも、できればもっと早く退院したい」

 俺は苦笑した。

 「なにしろ退屈で」

 それを聞いて、菊池さんがおかしそうな表情をする。

 「まだ初日なのに!?」

 「だって、することないし、いつも使ってる物は周りにないし…」

 なにげに不満を口にすると、彼女が

 「私、毎日来てあげようか」

 そう言って、いたずらな瞳をして、俺は苦笑した。

 冗談だよな?

 「あー、彼女に誤解されちゃうか」

 俺は、それを聞いて真顔になった。眉間にしわを寄せる。

 彼女?

 俺の表情を見て、菊池さんがキョトンとした。

 「え。ひょっとして彼女、まだこの事知らないの?」

 「……」

 彼女、って…俺、彼女いたのか?

 彼女のことなんて、全然思い出せない。

 俺、彼女がいる、って言ってたっけ。

 ……。

 俺は嘘つきなのか?いないのに、いるって見栄張ってたのか?

 それとも、椎と同じように、彼女のことも忘れてしまった…?

 もしそうなら、それはそれで、ちゃんと連絡を取らないと…

 じっと俺の顔を見ていた菊池さんが、怪訝そうな表情をする。

 「服部君。服部君って、ほんとに彼女いるんだよね?」

 菊池さんが聞いてくる。

 俺は顔を上げて、「どうして?」と聞き返した。

 彼女は、言っていいかどうか迷うようにして、でも思い切ってという感じで、

 「服部君って、好きで付き合ってる子がいるって言ってるわりには、女のにおいがしないんだよね」

 そう言ってから、自分で自分の口に手を当てた。

 「ごめん、女のにおい、とか言っちゃって。でもほんとにそう。

 私、もう一回聞いてみようと思ってたくらいなんだから。『付き合ってるんだよね?』って」

 「……」

 俺は、彼女の言ったことを考えてみた。

 付き合ってる子がいるのに、そういう空気皆無って、どういう事なんだろう。

 それに、何も思い浮かばないって、どうしてなんだろう。

 「う…」

 そんなことを考えていたら、ズキリ、と頭が痛んだ。

 「服部君?大丈夫?」

 思わず顔をしかめた俺を、菊池さんが心配そうに見てくる。

 「ごめん。変なこと言っちゃって。気にしないで。まだ連絡入れてないなら、早めに入れてあげてねって話だから」

 それから、また俺の頭をじっと見た。

 「怪我したばっかなのに、長居しちゃってゴメン…もう帰るね」

 「そんなこと…。来てくれて嬉しかった。ありがとう。なるべく早く戻るから」

 そう言うと、彼女は、主婦がよくやるような手の平を上から下に振り下ろす仕草をして、笑った。

 「やだ、さっきのは冗談。無理しなくていいから、ゆっくり休んで」

 そして、ドアの向こうに消えかけながら、今度はいつもの別れ際と同じ、手を小さく激しく振る動作をして、

 「思ったより元気そうで、良かった。それじゃあね」

 菊池さんは帰っていった。

 

 

 

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