まるでデジャヴ
一人きりの、悩める夜が過ぎていった。
院内で携帯は駄目かなと思いつつ、すごく気になって携帯を手に取って電源を入れ、電話帳や通話記録、
受信メールなどをサッとチェックした。
でも、彼女らしい名前も履歴もなくて、ちょっとガッカリする。
やっぱり俺には彼女なんていないんじゃないだろうか。
頭の傷がじわじわ痛むし、彼女のことや椎のことを考えようとすると、今度はまた頭痛がした。
昼間ちょこちょこ寝たせいか、慣れないベッドのせいか眠れないし、時間は余るほどあって、考えたくないのに、考えてしまう。
そのくせ何も思い出せない。
長い夜だった。
明け方、少しだけうとうとと眠りかけたところで、朝の六時になり病院全体が動き出して、
人が行き来したり朝食が配られたりで、もう眠れそうになかった。
俺、睡眠が足りないと、調子出ないんだよなぁ。
右肩の調子を確かめるために動かしてみたが、昨日よりは痛みが引いていて、
ちょっと動くだけで呻いてしまう、ということもなかった。
午前の回診のとき、腕の包帯を取り替えたのだが、大きな擦り傷と痣が出来てそこが黒ずんでいて、
それはそれでこっちも痛々しい感じだった。
まあ、徐々に治っていくだろうし、骨折しなかっただけ良かったんだろうけど。
回診が終わり、雑誌を読む気にもなれずに、リクライニングを起こしてぼーっとしていると、椎がやって来た。
家族代わりなので、いつでも入って来られるらしい。
俺の顔を見て、苦笑する。
「もしかして、すっげぇ疲れてる？」
俺は、ふうっと息を吐いた。
「…疲れてるっていうか。眠れない」
それを聞いて、椎が不憫なものを見る目をして、眉を寄せる。
「初めて玲二のアパートに行ったときみたいな顔してる」
「もう、一日でも早く退院したいよ」
俺は、そう心からの愚痴をこぼしてから、ひっかかりを感じて、椎を見た。
「え。俺のアパートって、俺たち最初から一緒に暮らしてたんじゃないのか？」
「違うよ。だって、俺たちは入学してから知り合ったんだから。サークル見学に行った先で」
そうだった。
じゃあ、別々に暮らしていたのに、友達になって一緒に住むことに決めたってことか。
「いつごろから一緒に住んでる？」
「六月中旬、かな」
約二ヶ月…。俺にしては素早い行動だ。
だけど、住み始めたばかりといってもいい部屋を引き払って、友達になって二ヶ月の奴と、
俺は一緒に住む気になったのだろうか。
よっぽど椎の部屋が魅力的だったのか…
なんか、自分が不可解だ。
「怪我の具合はどう」
椎に聞かれて、
「ん。だいぶ良くなった気がする」
俺が答えると、椎は、
「そっか。良かった」
と笑いながら近づいて来て、
「そう言えば、朝の挨拶がまだだった」
そう言うと、スッと体を寄せた。
「おはよう」
椎が腕を伸ばし、俺をふわりと柔らかく抱きしめる。
まさか、そんなことをされるとは思ってもみなくて、俺はびっくりした。
動けずにじっとしたままでいると、いつまでも離れない。
「椎…？」
すごく優しい抱きしめ方で、悪い気はしない。
しないけど、この挨拶、ちょっとおかしいだろ。
「俺たち、いつもこんな挨拶してんのか？」
抱きしめられたまま聞くと、
「そうだよ」
耳元で、椎が答える。
「…お前、外国で暮らしてた？」
ひょっとして外国風なのかと思ったけれど、
「いや、暮らしてないけど」
そういうわけでもないらしい。
でも、昨日手を握ってきたことといい、なんかスキンシップが多い気がする。
「玲二も手を回さないと終われない」
ええっ。お、俺もかよ。ってか、俺待ち？
俺は、躊躇したが、そうしないと終わらないらしいので、仕方なく椎の背中に手を回した。
椎が、腕に一度ぎゅっと力を込めた後、やっと解放してくれる。
こんな挨拶を毎回！？どうしてっ。
離れてみたら、やっぱりどう考えてもおかしいんじゃないかと思えてきて、混乱して椎を見ると、椎も俺をじっと見る。
俺の様子を窺っているような表情だ。
こんな挨拶を俺は了承していたのか？なんで？？なんでなんだっ？？
頭の中がパニック気味になり？マークでいっぱいになる。
「いつからこんな挨拶を…」
その疑問を口にすると、
「一緒に住み始める前からだけど」
椎は、言いながら、
「…うーん。まだ思い出せないか」
俺に変化がないことを見てとって、諦めたように息を吐く。
思い出す…って、椎のことを？
いつもの挨拶で思い出してもらおうとしたってことか？
じゃあ、椎もこの挨拶が普通じゃなくて特別だと認めてるってことだな。
…絶対特別だよな、こんなの。
「思い出すのは無理だったみたいだけど」
椎が残念そうに言って、でも、すぐに満足そうな顔をする。
「とりあえずチャージできたからよしとする」
俺はわけが分からずポカンとした。
チャージ？って、なんのチャージだよ？
これ以上の？マークの増殖は危険では、というくらい頭にそれが溢れて何も言えずにいると、椎が聞いた。
「この花、誰が？」
テーブルの上の花に目をやっている。
「ああそれは、菊池さん」
俺が答えると、ピクリと眉が動いた。
「来てくれたんだ」
感謝してるような口ぶりの割には、ちょっとムッとしてる感じ。なんでなんだ？
また一つ、危険レベルが上がった。
けど、さらに上げてしまいそうなことを、俺は自分から聞きたくなる。
だって、他に誰に聞いたらいいか分からないし。
「椎は、俺の彼女、知ってるか？」
思い切って聞くと、奴は動きを止めた。
「彼女…？」
怪訝そうな表情で聞き返すので、一瞬どうしようかと思うが、続けて聞く。
「俺、彼女がいたらしいんだけど、携帯の履歴見ても何も入ってないし…どういうことなんだろう」
昨夜チェックしたとき携帯にあったのは、ほとんど椎からのメールと通話履歴だった。
「俺の彼女は携帯持ってないのか？」
今どき、そんな子いるんだろうか。
「それって…菊池さんがそう言ってたの？」
「…そうだけど…」
椎なら、一緒に暮らしているんだし、俺に彼女がいるかどうかぐらい知っているだろう。
「菊池さんがなんて言ったか知らないけど、『彼女』がいたかいないかって話なら、玲二に、彼女はいないよ」
椎がはっきりとした口調で言い、俺は奴を見た。
じっと見つめて、椎の言っていることが間違っていないと判断する。
「…そうなんだ」
俺は、体を戻して、背もたれに背中を押し付けた。
じゃあ、俺は見栄を張って嘘をついてた、しょうもないやつなんだ。
どうりで、これっぽっちも彼女のイメージが湧かなかったわけだよ。
「俺…なんか自分が分からなくなってきた…」
少し落ち込んだような気分になって、目を閉じ、小さく溜息をつく。
すると、すぐに椎の声がした。
「玲二は、嘘をついてたわけじゃないよ。彼女はいないけど」
俺は目を開けて顔を上げ、奴を見る。
「それって、どういうことなんだ？」
聞いてみるけど、椎は何も答えない。
その意味について自分で考えてみたけど、理解できなくて俯いた。
「…分かんねぇよ」
「大事なピースが抜けてるからね。そこが嵌ればちゃんと繋がる」
大事なピース。椎は、たぶん知っているのに、教えてくれない。
思い出せと言うばかりで…
「……」
椎のことを思い出せば、繋がるのだろうか。
椎が、大事なピースなのか？
「いいよ、焦らなくても」
椎は、優しい言葉を口にして俺を見たけど、その後、一つ息を吐き、額に手を当てた。
「なんて言えないよな。めっちゃ焦ってんのは俺の方だよ」
そうして自嘲的に笑う。
「椎…？」
俺が、覗き込むようにして声をかけると、顔を上げた。
「昨日一人で考えてて思ったんだ。玲二が俺を忘れたことばかりに気が行って、
それをすごくショックだと思ってたけど、でも、落ち方次第ではもっと大変なことになっていて、
こんな悲しみで済まなかったんじゃないかって」
椎が、自分に言い聞かせるように、喋る。
それって、つまり、もっと大怪我をしてて下手すると…ってことか？
「もし最悪思い出せなくても、俺を忘れるくらいで済んで良かったんじゃないかって」
それは、ポジティブなようでいて、でもただ強がっているだけのようにも思える。
自分を忘れられてるってのに、そんなに無理にいい方に考えようとしなくてもいいんじゃないか？
「玲二がいなくなったら、俺…」
気持ちが盛り上がったのか、椎がまた近づいてきて、さっきと同じようにして俺を抱きしめた。
ちょ…！
「俺、そばにいなくて悪かった。なんで大事なときに離れてるんだろうな」
俺は、さっきほどではないけど驚いて、でも突き飛ばすことも出来ず、
やっぱりされるがままになって動かないでいた。
椎はその時のことを悔やんでいるようで…
俺のことをそんなに考えてくれる奴を、突き飛ばすなんて出来ないよな。
そのままの姿勢で考える。
椎って感情が激しいのかな。ひょっとして抱きつく癖があるのかも知れない。
酔っ払うと抱きついたりキス魔になる人がいるって、聞いたことあるし。
椎は酔ってるわけじゃないみたいだけど、世の中にはいろんな人がいるし…
きっとそうに違いない。これは、椎の癖なのだ。
だから、俺も、抱きしめられるたびに、いちいち驚くこともないんだ。
「しょうがないよ、そんなの。いつもいつもくっついてなんていられるわけないし、
もしくっついてたとしたら、逆に気持ち悪いだろ」
俺が言うと、椎が、離れて俺を見た。
「気持ち悪い…」
それから、うーん、と唸って眉間にしわを寄せる。
何か考え込むようにして、首を捻っていると思ったら、
「ま、それも含めてよしとする」
気を取り直したようにそう言ってから、続ける。
「焦らずゆっくり、玲二が思い出すのを待とうって頭では思うのに、
つい焦らせるようなこと言って…ごめん、俺って駄目だな」
俺を見て眉を寄せる。
さっきの大事なピースのことらしい。
俺は、首を横に振った。
「いいって、そんなの。それより、もうお互いに謝り合うのは、やめよう」
俺が言うのもなんだけど。
椎は、俺の言葉に「そうだな」と笑って、昼になると、病室で一緒に昼食を摂った。
俺は病院食を食べ、椎は買ってきたコンビニのおにぎりとサンドウイッチを食べる。
食べ終えると、おふくろの置いてった果物の中から、りんごを椎が剥いてくれた。
するすると小さなナイフで皮を剥いていく手つきの良さに驚く。
「器用だな」
俺が言うと、
「だろ？」
と笑って、フォークに刺したりんごを渡してくる。
俺は、「サンキュ」と言ってそれを受け取り、口に運んだ。
シャリという音と共に爽やかな酸味が口中に広がる。
こんなふうに、俺は怪我をする前も椎と過ごしていたのだろうか。
なんで思い出せないんだろうな。
俺の中の、椎の情報の入った引き出しは、未だ開く気配を見せない。
食べ終えて、ナイフや皿を洗って戻って来ると、椎は自分の鞄を手にした。
ちょっと申し訳なさそうな表情をする。
「俺、学校行ってくる…それとクリニックの手伝いも…。終わったらまた来るよ」
椎の実家は歯医者で、奴はいつも手伝いをしているらしい。
俺も通っていたことがあって、その歯医者は覚えているけれど、なぜか椎のことは思い出せない。
「ああ、うん」
俺は頷いてから、どうしてか罪悪感を抱いているらしい椎に言った。
「付き添いは元々いらないくらいなんだし、気にすることないよ。だいたい俺が勝手に怪我したのに、
そんなに悪そうにすることないって。ここにいたってすることもないし、俺に遠慮することないから」
椎は俺の言葉に苦笑してから、ドアを開けて出て行こうとし、
でも途中で足を止めて不安そうな表情で振り返り、俺を指差す。
「あんまりウロウロすんなよ。それから、もう階段使うな」
俺は驚いた。
階段使用禁止令…
そんな言葉が出るほど、椎は、俺のことを心配してくれているのだ。
「うん。ありがとう。行ってこいよ。お前も気をつけて」
俺は、手を上げて言った。
椎って、過剰なくらい友達思いだよな。
「こんにちは」
三時過ぎにドアがノックされ、入って来た人の顔を見て、俺は目を丸くした。
救急車を呼んでくれて、しばらく付き添ってくれていた、あの藤沢先輩だった。
「先輩っ」
まさか、わざわざ来てくれるなんて思わなかったから、ビックリしていると、
「具合はどう？」
昨日と変わらず、爽やかな風をイメージさせる笑顔を浮かべて、サラサラの髪を揺らして、聞いてくる。
「まだ一日しかたってないとは思えないくらい、いい具合です。ありがとうございます。先輩のおかげです」
「そう、良かった」
「でも、…どうして？」
不思議に思って、先輩の顔を上目遣いに見ると、先輩は眉を寄せて俺を見た。
「ちょっと気になったから。大丈夫かなって」
そんなふうに気にかけてもらっていたなんて、全然思ってなくて、なんだか感激する。
だって、落ちた時たまたまそばにいただけなのだ。
なのに、救急車を呼んでくれた上に、お見舞いにまで来てくれるなんて。
どんだけいい人なんだ。
「これも何かの縁だし、きっと退屈してるだろうと思ったし、それに」
先輩は、ふっと笑うと、瞳にいたずらな色を浮かべて、
「暇だったから」
続けてそう言った。
きっと、気を遣わせまいとしているのだろう。
本当に暇だとしたって、なかなか親しくもない人の見舞いに病院に向かおうという気になれるものじゃない。
「これ、お見舞いっぽくないけど、駅前で売ってたから。ドーナツ。良かったら食べて」
先輩がポップな絵の描かれた箱を差し出して、俺はお礼を言った。
「お母さんがいるかもと思ってこんなの買って来ちゃったんだけど、甘いの、嫌いじゃなかった？」
「全然大丈夫です」
その箱を見ながら、思いついて、提案する。
「先輩、一緒に食べませんか」
せっかく来てもらったけど、何かもてなしが出来るわけでもないし、
ドーナツの量は椎と一緒に食べても余りそうに思えた。
「え、ほんと？実は、ひょっとしてそう来るかもと思って、ジャーン」
先輩が嬉しそうにして、鞄から何かを取り出す。
それは、小さな牛乳のパックだった。二つある。
「ドーナツと言えば、牛乳だよね」
俺は笑った。
そうかなぁ。合うといえば合う気もするけど。
「どれがいい？」
先輩が、丁寧にもストローを牛乳パックにさして俺に渡してから、箱を傾けて中身を見せながら聞いてくる。
「じゃあ、これで」
それぞれにドーナツを選んで、話しながら一緒に食べた。
その後、先輩が趣味で絵画をやってることとか、バイト先の雑貨屋の話とか、
いろいろ話してくれて、先輩も俺のことをいろいろ聞いて来て、話が弾んだ。
「一人じゃ、退屈だね」
俺は力強く頷いた。
「もう、やることなくて。先生に早く退院させてくれるように言ってみようと思ってます。
今日は先輩が来てくれて良かったです」
俺の言葉に、先輩が嬉しそうにする。それから、
「服部君に、時々メールしてもいい？メアドと電話番号教えて」
そんなことを言われ、俺は、ちょっと驚いたけど快く承諾した。
なんだか懐にスッと入ってくる人で、こんな風に誰かと知り合ったことなんて今までなかったから、
ちょっと現実味のないような妙な気分になった。
先輩が立ち上がって、帰る気配を見せながら、思い出したように聞いてくる。
「昨日、帰り際に飛び込んできた、あの人は友達？」
俺は頷いた。
「友達です。同じ大学ですよ」
先輩は、笑って俺を見る。
「そっか。彼、凄く取り乱してたね。そうとう心配してるみたいだったし…仲がいいんだ」
「え…ええ、まあ」
なんだろう。何かを読み取ろうとするように、俺の顔を見つめてくる。
でも、そんな空気はすぐに消えて、「そろそろ行くね」といって先輩は立ち上がった。
「はい。ありがとうございました」
俺が笑って頭を下げると、いつもの笑顔を浮かべて出ていった。
ドアがパタンと閉まる。
椎は夜の七時ごろ、クリニックの手伝いを終えて病院にやって来た。
あろうことか、俺の顔を見た途端、
「玲二、会いたかった」
などと言ってまた抱きついて来ようとするので、
「調子に乗んな」
抱きつく前に左手を椎の胸元に押し付けて、グイッと遠ざけてやった。
「抱きつく癖があるのは分かった。挨拶までは許す。でも、いつもいつもなんて俺は嫌だから。
男同士なんだぞ。俺たちは」
まったく。
記憶をなくす前、俺は一体どういう態度を取っていたんだ？
まさか、いつもいつも抱きつかれるのを許していたとか…
ハハ…ないよな。
「飯は食って来たのか？」
病院の食事時間は早くて、もう夕飯を済ませていた俺は聞いた。
椎が頷く。
「一緒に食べたかったけど、病院の夕食の時間に間に合いそうになかったから、外で食ってきた」
それから、テーブルに置かれたドーナツの箱に目をやって、俺を見た。
「このドーナツは？」
「ああ。藤沢先輩がお見舞いに来てくれた。一緒に食おう」
椎が眉間にしわを寄せた。
「藤沢先輩？」
「昨日、救急車を呼んで付き添っててくれた人。椎も見ただろ」
椎は記憶を辿るようにしていたが、思い出したのか「ああ」と呟いた。
それから、ちょっと驚いた表情になって言う。
「えっ、わざわざ見舞いに来てくれたんだ」
やっぱ驚くよな。普通、なかなかそこまでしない。
「そうなんだ。なんか悪いよな。いつかちゃんとお礼しないと」
「…そうだな」
「あの人、同じ大学で、駅前のマンションに住んでるんだって。ほら１２階建ての立派なのあるだろ。
あそこの３階だって言ってた」
俺は、いつかお礼に行くかも知れないマンションを頭に思い描いた。
「ふぅん。それで一緒にドーナツ食ったんだ」
椎が、ゴミ箱に捨てられている二つの牛乳パックを見ながら、言う。
「ああ、うん。先輩が買って来てくれて…飲みながら食べようって」
「へぇ」
なんでか、ちょっとムッとしてる感じの椎に首を傾げる。
何か気に入らなかったんだろうか。
「ひょっとして、不機嫌になってる？」
俺が、思い切って聞くと、椎は首を横に振った。
「いや、全然」
と言いながら、醸す雰囲気はすごく不穏なんだけど。
…まあいいや。
「これ、俺一人じゃ食べきれないから、椎にも食って欲しいんだけど」
「いいよ」
椎は頷いてドーナツを選び、俺も同じようにしてそれを食べながら、喋っていたら、
次第に眠気がやって来て「ふあ」とあくびが出た。
「なんか俺、眠くなって来た。昨夜寝てないし、今日は眠れそう」
それを聞いて、椎が笑う。
「そっか。よく眠るといいよ」
それから、部屋の設備を見回すようにして、
「…ここ、泊まれたらいいのに」
椎は言ったけど、俺はその必要をまったく感じなくて、
「いいよ。泊まらなくて」
そう返したら、椎がむちゃくちゃ淋しそうな顔をした。
ええっ！？と思うくらいに。
目を閉じて何かを堪えるようして、再び目を開けて俺を見る。
俺はただ単に、俺に気を遣わず自由に動いて欲しかっただけなのに。
「……そっか」
なんでそんな顔すんだよ。
わけが分からなくて、ポカンとしていると、
「おやすみ。玲二」
また抱きしめられる。
挨拶は許すと言った手前、突き飛ばすことは出来ない。
「…おやすみ」
俺は、椎の心で何が起きているのか分からないまま、オウム返しに言葉を返し、椎は、
「もう帰るよ」
そう言ってから、小さく付け足すように「いい夢を」と囁いて、部屋を出て行った。
次の日。
なんとかもっと早く退院できないかと先生に聞いてみたら、許可が出た。
「家で安静にしていること」「毎日通院すること」を守るという条件つきだけど。
家に帰れる。
「ベッドが空くのを待っている患者さんがいるので、そう言ってくれるのは正直ありがたいんだけど、
決して無理はしないこと。守れる？」
「はい。守れます」
先生の言葉に、俺は即答した。
早く退院できるなら、何でもする。
とにかく、そんなわけで俺は三日目の夕方に退院することになり、
椎に連絡するとクリニックの手伝いを休んで迎えに来てくれた。
まだ少し痛む腕を気遣って、椎が荷物を持ってくれる。
「本当にもう退院していいの？」
マンションに向かう車の中で、椎が心配そうに聞いてきた。
「先生は、安静にしていればいいって言ってた」
「…そう」
マンションの外観には、なんとなく覚えがある気がしたが、部屋のレイアウトはまったく覚えていなかった。
部屋に入ると、探検するように歩き回って、どこに何があるかチェックする。
そんな俺の様子を、椎が少し離れた場所から眺めている。
「なんか、あのときみたいだ」
椎がポツリと言って、目を細めた。
「あのとき？」
俺が聞くと、
「うん。玲二が初めてうちに来たとき」
感慨深げに俺を見つめたけど、俺には覚えのないことで、何の感情も湧いて来なくて、
「ふーん」
椎から目を逸らすと、ひき続き家の中を歩き回った。
風呂を見て外に出たら、横にドアがあったので、そこを開けてみた。
そこにはまた部屋があって、ダブルベッドがでんと置かれている。
物凄く寝心地の良さそうなベッドだ。
俺は、椎を振り返って聞いた。
「お前、ここで寝てるのか？」
「そうだけど」
辺りを見回してみる。
他にベッドらしきものは見当たらない。
「じゃ、俺は？」
「え、玲二も」
そこまで言って、椎はハッとしたように俺を見た。
「俺も？」
俺は、思わず眉間にしわを寄せる。
椎が慌てたように寄って来て、ベッドを指差して言う。
「いや、その、こんだけ広いだろ？わざわざベッドをもう一つ買うのももったいないなって話になって…一緒に」
俺は、唖然とした。
そ、それって、もったいないとかいうより、なんか…しょっぱ過ぎねぇ？
「俺、それ、了承して寝てたんだ？」
「うん」
椎が、にっこり笑って肯定する。
俺はベッドに目をやった。
確かに、広いし、高級感溢れる気持ち良さそうなベッドだし、寝つきのいい俺のことだから、
その辺を優先して、大して深く考えもせずに寝ていたのかも知れないな。
それはなんとなく俺らしいことのように思えて、そう思ったら、意外にすんなり納得出来て、俺はベッドを離れた。
椎が、後ろで何かぼそぼそ言っている。
「一線を越えるのに、しかたなく荒っぽい方法を取ったのに、また振り出しに戻ったなんて、信じられない」
一線を越える？荒っぽい方法？
なんのことだろう。
「何言ってんだ？」
問いかけると、また笑顔を浮かべた。
「いや、なにも」
さっきから表情が、作り笑いっぽいのが気になる。
「椎って、変わってるよな」
そう言うと、がくっと肩を落とした。
「ああ、俺は変わってるよ。変わってるよな、確かに」
なんか後ろの方で、一人で笑いながら怒っているという感じの表情をしている。
そんな椎を見ながら、俺は、ちょっと困った気分になる。
うーん。どうしよう。椎が掴めない。
夕飯を椎が作ってくれた。
どれもすごくおいしくて、びっくりする。
「うまいな。料理屋にも負けてないよ」
俺の言葉を聞いて、椎がなぜか苦笑する。
「ありがとう」
椎は本当になんでも出来るみたいで、感心する。
俺なんか足元にも及ばないくらいだ。
椎は、なんで俺と一緒に暮らそうと思ったんだろう。
そういえば、藤沢先輩もなんだか普通じゃ考えられないくらい、俺のこと気に入ってくれてるみたいに思える。
自惚れてるわけじゃないけど…どうしてなのか、ちょっと不思議だ。
夜。
風呂に入って寝る準備もして、夕方見たベッドに横になってみた。
広々として、寝心地もいい。
ちょー気持ちいいな、このベッド。
大きく息を吐いて目を閉じたら、吸い込まれるように眠くなる。
何度だって眠ったことがあるはずのベッドなのに、初めての感触に思えた。
横になっているうちに、俺はそのまま眠りこんでしまい、しばらくして振動で目が覚めた。
椎がベッドに乗って来たらしい。
「椎…遅いんだな。今何時…」
「一時過ぎだよ。ごめん。起こした」
ちょっと真ん中寄りに寝ていた俺は、ずれて椎の方を空けた。
椎も横になって、仰向けに寝た状態の俺の方に体を向ける。
椎は寝る時はその体勢なんだなと思い、気にしないようにして、また目を閉じたとき、
「早く思い出してくれないと、俺…」
なんだか切羽詰ったような雰囲気を漂わせて椎が呟き、俺は目を開ける。
早く思い出さないと、なんだよ。
俺は、また抱きつかれるんじゃないかと警戒して、身構えた。
ベッドで抱きつくのだけはやめてくれ。しゃれにならない。
そう思っていると、椎がガバッと起き上がって、ベッドを降りた。
居間へ向かって歩き出す。
どうしたんだろうと思っていると、
「俺、ソファで寝る」
椎は呟き、俺は声をあげた。
「え！？なんでだよっ」
俺の言葉に、椎は足を止める。
「玲二は怪我してるんだし、安静にしてないといけないんだろ？俺、自分を抑えられそうにないから。
…また同じことをしてしまいそうな気がする」
振り返りもせずにそう言ってから、居間まで行くと、ソファに横になったようだった。
同じこと…同じことって、なんだ？
教えてくれよ。俺、まだ思い出せそうにないんだから。