ペアレント 前編






 ここ数日、夕飯の後必ずというくらいピンポン、つまり卓球をやっている。

 といっても本当の卓球ではなく、卓球をやっているような感覚で遊べる家庭用ゲームで、

 これがなかなかよく出来ている。

 テレビにつないで、画面を見ながら、リモコンを振って操作するのだが、

 ここのテレビは大きいので迫力があって、見やすいしやりやすい。

 これに椎がハマってしまって、毎日誘ってくるのだ。

 「玲二」

 食事が終わって寛いでいると、椎が嬉々としてリモコンを俺に渡す。

 このゲーム機は、自分に似たキャラクターを作って、

 それを使って対戦をすることが可能なのだが、

 椎は自分で自分のキャラクターを作って登録してあって、いつもそれを使ってくる。

 椎が作った自分のキャラクターは、

 眼鏡バージョンと眼鏡をかけていないときのバージョンとがあって、どちらも奴によく似ている。

 特に後者はかっこよくて、ただのゲームのキャラだというのに、

 相手にするとなんだかドキドキしてしまって、しかも強く見えて、

 もう対戦する前から勝てる気がしない。

 まあ…そのキャラでなく、どのキャラでやっても勝てないのだけれども。

 ……。

 勝負は大抵いつも、長く激しいラリーが続いた後、俺の打った球がオーバーになって終わる。

 やり始めて少し経ったころ、勝てない俺に対して、

 椎がどう考えても手加減してるように思えたときがあって、

 「手加減してるだろ」

 と聞いたら、

 「ばれた?」

 と言われ、猛烈燃えて練習した。

 それでしばらく勝ったり負けたりしていたのだが、そのうち奴がさらに上達してまた勝てなくなった。

 それからは、

 「勝てる気がしないから、もうやらない」

 と言って断ろうとするのだが、懲りずにやっぱり誘ってくる。

 ちなみに、俺のキャラも作ってくれたが、二割増しくらいで(いや、三割増しくらい?)、

 実物よりいい男になっている気がする。

 椎ビジョンでは、ああ見えているということだろうか。

 「玲二、ピンポン」

 「やらないって」

 「手加減するから」

 そう言われるとなんか癪で、

 「ばかにすんなよ」

 思わず立ち上がってやってしまい、手加減されてもされなくても、

 いまだに毎晩悔しい思いをしている。

 俺の操縦法を心得てる、っていうか、その辺もなんだか悔しかったりするのだ。

 俺は、このピンポンにはもういい加減飽きているのだけど、

 奴はいつも生き生きとした表情でプレイしていて、つくづく情熱が長続きする性格だよなぁと思う。

 

 ある日、高校の友達の山田という奴から久しぶりに会わないかと電話があり、

 実家の近くのファミレスで会って喋ることになった。

 「玲二、前より魅力的になってんのに、自覚がないから本当は行って欲しくない」

 椎は嫌そうだったが、もう行くと返事してしまったので、行く。

 「昼飯食って話すだけだって。

 向こうはそんな目で見ないに決まってるし、ただの友達なんだから問題ないだろ」

 「玲二が誰かと二人っきりで飯食うかと思うだけで、嫌なんだよ」

 それは多分、相手が男でも女でもなのだろう。

 俺は嘆息して、椎をじとっと見た。

 「…独占欲、強すぎ」

 「ありがとう」

 誉めてない。

 「一生人と関わらずに生きていくってわけにもいかないんだから、行かせてくれよ」

 高校の友達に会うのもままならないっておかしい、と思う俺はおかしいのか?

 椎は、つまらなそうな表情で俺を見た後、渋々という感じで頷いた。

 「…分かった」

 それから気を取り直したような目をして俺を見る。

 「じゃあ、行ってもいいからさ、玲二からキスしてよ」

 「え」

 「『こんなキスしてくれるんだから、絶対浮気はないな』って思わせる熱いやつ」

 な…。そんな器用なキス、俺には出来そうにないけど。

 躊躇していると、椎は眉を寄せて笑った。

 「もう、適当にごまかせばいいのに、そういうとこが心配なんだよ」

 「う、だって…」

 なんか押され気味になっていると、椎が俺のそばにやって来て、

 腰に手をまわして引き寄せつつ、耳元で囁く。

 「俺のこと、好きだよな?」

 首筋に息がかかって、ゾクッとする。

 「んっ」

 椎の手が背中を撫ぜるように動く。

 「玲二、キスして」

 唇が今にも触れそうな近さまで顔を近づけて言って来て、

 俺は言われるまま目を閉じて唇を重ねてしまう。

 柔らかな唇。俺は、この唇以外知らない。

 でも、椎と付き合い始めてから、他の誰かとキスしたいとか思ったこともない。

 やっぱり椎のこと、好きなんだよな、俺。

 「絶対浮気しない、って思った?」

 唇が離れるのと同時に、椎が聞いてきて、俺は上目遣いをしてから目を逸らした。

 キスの最中に、椎が好きだと再確認した。ってことは思ったってことなんだろう。

 「…ああ」

 思った。むちゃくちゃ思いました。

 「俺、車で送ろうか?」

 車でファミレスまで連れて行ってくれるということらしいが、遠慮した。

 「いいよ。電車で行くから」

 なんか一緒にファミレス行ったら、そのままついて入ってきてしまいそうだ。

 「だってお前、店まで入って来る気がする」

 それでは、高校時代の話を心置きなくすることが出来なくなってしまう。

 山田だって椎に気を遣うだろうし、俺も聞いていて欲しくない。

 「そんなことするわけないだろ。店に着いたらすぐ帰るって。車で送りたいだけ」

 「本当か?」

 椎が大きく頷く。

 「だって今、玲二は絶対浮気しないって思ったんだろ?なら俺は玲二を信じる。だから送らせて」

 俺は、目を丸くした。

 信じる、なんて言葉初めて聞いた。

 いつも勝手に妄想膨らまして、見当違いな嫉妬をしまくるばっかなのに。

 だけど、信じられてると思えば、悪い気はしない。

 「一瞬でも長く玲二と一緒にいたいんだ」

 椎が真剣な顔で、なんだかしおらしい口調で言って来て、俺は息を吐きながら奴を見た。

 「…分かった。じゃあ、頼むよ」

 

 そんなこんなで椎に送ってもらうことになり、俺は車でファミレスに向かった。

 ファミレスの駐車場に着くと、

 「玲二」

 椎が眼鏡を外して顔を寄せて来て、

 俺は店の敷地内に誰もいないことをサッと確認して、短く唇を合わせた。

 ドアを開けて、車を降りる。

 「ありがとな。帰りはいいから。いつになるか分からないし、歩きたいから電車で帰る」

 「分かった」

 運転席の椎に告げると、奴は眼鏡をかけ直し、俺はドアを閉めた。

 車が駐車場を出て行くのを見送ってから、

 ファミレスの入り口に向かい、ドアを押して中に入る。

 見渡すと、山田はすでに来ていて、俺と目が合うと手を上げた。

 「服部、こっち」

 俺は呼ばれるまま山田のいるテーブルまで行き、向かいの椅子に腰掛けた。

 「久しぶりだな。ちょっと痩せた?」

 「ああ。ちょっとな。お前はまた後退したんじゃないか?」

 俺が笑いつつ言うと、奴は額に手を当てた。

 「ひどいな、気にしてることを」

 山田は苦笑しながら、髪の毛を気持ち前に持ってくるようにして手で梳いた。

 後退してるわけじゃなく、もともと額が広いだけという気もするのだが、

 高校時代友達にいろいろ言われていたし親父さんが薄いので、

 自分の前髪の行く末をものすごく気にしている。

 「大丈夫。言うほど後退してない」

 俺は、心から言ったのだが、

 「それ、フォローになってない」

 山田は、ちょっとへこんだように情けない顔をした。

 それから、メニューをみながら食事を選んで注文し終えると、奴が聞いてきた。

 「なぁ、服部、彼女できた?」

 「え」

 俺は突然の質問に、ちょっとうろたえて水の入ったコップを倒しそうになり、

 慌ててそれを掴んだ。

 「ま、まだだけど、なんで。お前は出来たのか?」

 聞くと、山田は得意げな顔になって「ああ」と答え、鞄から財布を出し、その中から一枚の写真を取り出した。

 「この子なんだけど」

 言われて見てみると、そこには金髪碧眼の、モデルみたいにかわいい顔立ちをした女の子が写っていて驚いた。

 「外国人!?」

 「そう。アメリカ人で、うちの大学に通ってるんだ」

 俺は、もう一度その写真をじっくり見た。

 「へぇー。むちゃくちゃかわいいじゃん」

 正直な感想を言う。

 すると、山田が感激したようにテーブル越しに俺に抱きついた。

 「だろーっ!?ああ、やっぱり服部に話して良かったっ。

 他の奴だとやっかみ半分で本当のこと言ってくれないし、見る目はないし、

 からかったりスケベなこと言ったり、ろくな反応してくれないんだよな」

 …そうなんだ。

 俺は苦笑した。

 だけど、山田が外人と付き合うとは思ってなかった。

 以前から目鼻立ちのはっきりした子が好きだってのは知ってたけど。

 大丈夫なのかなぁ。なにかと大変なんじゃないだろうか。

 「すごいなぁ外人だなんて。付き合うようになったキッカケは?」

 「ああ、俺の一目惚れ。もう、彼女の周りだけ空気の色が違って見えて、

 それからがんがんアタックした」

 「へぇー」

 それで今付き合ってるってことは、OKしてもらえたってことで……やるなぁ。

 幸せそうな顔をしている山田を見ていると、奴と彼女の仲が順調なことがうかがえる。

 「会話はどうしてるんだよ。彼女、日本語できるのか?」

 「それが、あんまり。だから俺が英語で喋るようにしてるんだ」

 「ふーん。俺、英語全然駄目だけど」

 「俺だって、得意じゃないよ。

 でも、彼女と仲良くなりたいから、頑張っちゃうんだよな。学校の勉強なんか全くやらないのに」

 俺は、感心した。

 強制されるとやらないのに、好きな子のためには頑張れたりする。

 人間って不思議だ。

 「でさ、今度彼女の里帰りに、一緒について行くことになっちゃって」

 「えっ。里帰りって、アメリカに!?」

 「そう。ま、観光も兼ねて、って言うか」

 俺は、自分の生活には起こりえないだろうことに、驚いて山田の顔をじっと見た。

 外国に行くこと自体凄いのに、その目的が彼女の里帰りの同行だなんて。

 それってつまり、外国人の彼女の家族に会うってことだよな。

 俺には考えられないかも。

 だって、家族に会うってことは、自分を認めてもらうってことで、

 つまり、つまり…結婚を意識してる、みたいな…

 「結婚するつもりなのか?」

 俺は、考えたことをズバリ口にして聞いてしまった。山田が慌てる。

 「いや、そんな、結婚の挨拶とかじゃなくて、

 ただ遊びにいくつもりでいるんだけど。だって俺らまだ若いし」

 確かに、結婚適齢期と言われる年齢と照らし合わせると、俺たちはまだ若い。

 でも、結婚出来ない年齢でもない。

 「そりゃ、出来ればしたいけど」

 山田は、少し照れくさそうにしながら言った。

 それが本音らしい。

 「そうか…」

 それだけ好きなんだな、と思ったら、なんかちょっとだけ羨ましいような気持ちになる。

 彼女は、一つ年上だという話だった。

 外国人であることも年上であることも、山田にとっては何でもない。

 好きだという想いで、なんであろうと乗り越えて行く気満々でいるのが伝わってくる。

 そのあと、食事をしながら、山田の彼女の話をもっと詳しく聞かせてもらったり、

 ついに買ったというiPhoneを見せてもらったり、

 高校時代の友達の知っている限りの近況とか、諸々の話をしてから俺たちは別れた。

 別れ際に、山田が何か財布から取り出した。

 「これ、話聞いてくれたお礼。

 苦労して手に入れたんだけど、この日用事が出来てどうしても行けなくなっちゃったんだ。

 誰か好きな子でも誘って、行きなよ」

 それは大物アーティストのコンサートのチケットだった。二枚ある。

 「え、お礼…って、俺何にもしてないし」

 「いいから取っとけって」

 山田が、チケットを俺の手に押し付けて渡す。

 「でも、高いんだろ?」

 「気にすんなって。俺はお前にも幸せになって欲しいんだ」

 う、いい奴だ。

 俺がチケットを受け取って自分の財布にしまうと、奴は俺の顔を覗き込むようにする。

 「服部、本当は彼女いるんじゃないの?なんかちょっと雰囲気変わった気がするけど」

 「…まあ。うまくいったらまた教えるよ」

 俺は、なんか咄嗟にごまかしてしまった。

 言いたい気もするけど、「外国人と付き合ってる」と打ち明けるよりも、ずっと打ち明けにくい。

 「もう男と付き合ってる」だなんて、やっぱりどう考えても言えない。

 俺の態度が不自然なのを見て取って、勘違いしたのか、

 「不倫とか、やめとけよ」

 山田が真面目な顔をしてそんなことを言って、俺は苦笑した。

 「してねぇよ」

 俺が否定すると、安心したような表情になって笑う。

 「…だよな。服部に限って、ないよな」

 「ないない」

 顔の前で手を振って、俺も笑った。

 なんで俺に限って、ないと言い切れるのかよく分からないが。

 山田は、俺とは別の方向へと歩き出し、手を上げた。

 「じゃあな」

 「おう。頑張れよ」

 「お前もな」

 俺も、駅へ向かって歩き出す。

 そうかぁ。

 山田のやつ、もしかして数年後には外国人の奥さんがいるのかも知れないんだ。

 そんなことを考えながらしばらく歩いていると、道の向かい側に、

 大きな家の前で車庫から車を出して洗車している人がいた。

 なんかどっかで見たことがあるような顔だ。

 俺は通り過ぎながら、その人を見てそう思った。すると、向こうもじっとこちらを見てくる。

 「服部君?」

 え。

 名前を呼ばれて、足を止めた。

 ふと、その人の後ろにあった門の表札が目に入り、そこに書かれた文字を見て、

 「あ゛ーっ!!」

 心の中で叫ぶ。

 そこには趣のある字体で、「椎」と書かれていた。

 白衣を着ていないから分からなかったけど、思い出したっ。

 この人はクリニックの先生だっ。

 つまり、椎の親父さん…

 「こんにちは。久しぶりだね」

 右手にブラシ、左手にホースを持ったまま気軽に話しかけてくる。

 「こ、こんにちは」

 俺は、突然のことに驚きながらも、挨拶を返した。

 椎の実家がクリニックの近くだって聞いたことはあったけど、

 高校時代よく行ったファミレスと駅の間にあるとは知らなかった。

 俺は道路の向かい側から離れたまま話すのもなんなので、先生のそばへと歩み寄った。

 「その節はお世話になりました」

 「なんの。また歯の具合が悪かったらいつでもうちにいらっしゃい」

 「ありがとうございます」

 緊張して、ドキドキする。

 「マサが世話になってるらしいけど、あいつのこと、よろしく頼むよ」

 椎の名前が出て、一瞬心臓が跳ねた。

 せ、世話に…

 「いやー、世話になってるのは俺の方です。椎は器用だから、なんでもやってくれて助かってます」

 あー、心臓バクバクする。

 先生がゲイだってことも、俺と椎の仲を知ってるってことも、奴から聞いて分かってる。

 分かってるはずなのに、とても普通ではいられない。

 今まで椎以外の誰かとそっち方面の話題について話す機会などなかったから、なんかすごく抵抗ある気がする。

 二人の仲を知っていて、椎の言うことが本当なら応援してくれているはずの人と話すだけで、

 こんなに抵抗を感じてるなんて、これからどうするのかと俺は自分に問いたい。

 先生はブラシを動かす手を止めて、俺を見た後、

 「…そうか。うん。仲良くやってるのなら、それでいいんだ」

 そう言って、近くの栓をひねって水を止め、ホースを巻いて車庫の中に移した。

 ブラシも水道の横のフックにかけて、手を洗う。洗車は終わりらしい。

 「今、時間ある?ちょっと話がしたいんだけど、いいかな」

 先生が手をタオルで拭きながら、聞いてきた。

 「え、はい。大丈夫です」

 今日の用事は友達と会うことだけで、この後は特に何もない。

 「じゃあ、そっち乗って」

 そう促されて、言われるままに助手席に乗り込む。

 話って、なんだろう。

 と思っていたら、先生はエンジンをかけて車を発進させた。

 ど、どこに行くんだろう。

 だんだん不安になってくる。

 「ああ。そんなに緊張しないで。

 話っていっても、大事な話ってことじゃなくて、服部君と喋りたい、ってことだから」

 先生にそう説明されて、ホッとした半面、別な意味で緊張する。

 車は5分ほど走ると、ある喫茶店の駐車場に止まった。

 先生と一緒に降りて、店の中に入る。

 「ここはね、喫茶店なのに和菓子もあるんだよ。服部君は和菓子嫌い?」

 「いや、好きです」

 和菓子がある喫茶店って、確かに珍しい。

 コーヒーと、せっかくなので和菓子を注文して、先生と話す。

 向かいあっているので、先生の顔を真正面から見ることができた。

 物腰が柔らかくて優しい印象は、クリニックに通っていた頃と変わらない。

 治療中は面と向かって話すこともなかったし、椎と比べることもなくて分からなかったけど、

 やっぱり親子だけあってよく似ている。

 「まさか、服部君とあそこで会うとは思わなかったな」

 「俺もです。椎の実家があそこだってことも知らなくて、びっくりしました」

 コーヒーと和菓子が運ばれてきた。小さな湯呑みに入った緑茶もついてくる。

 和菓子は、きれいな色づかいの、お茶会なんかで出てくるような上生菓子だ。

 店員が立ち去ると、先生はそれを竹フォークで切り取って口に運んだ。

 俺も倣って食べてみた。

 甘すぎず、あっさりしていてコーヒーにも合う。

 「マサから、服部君が緑茶好きだって聞いて、もし会えたらここに連れて来ようと思ってたんだよね」

 俺は、驚いて先生の顔を見た。

 あー、なんかそういうとこ椎に似てるかも。それに話し方も。

 「ありがとうございます。これ、すごくおいしいです」

 そんなことまで知ってるなんて、あいつどこまで話してるんだ、

 と頭の隅で考えてどこか不安な気持ちになりながら、頭を下げる。

 「今日はどうしてこっちに?実家が近いんだったっけ」

 「実家も近いんですけど、今日は高校時代の友達に会いに」

 「へぇ。もう会ったの?」

 「はい。帰るところです」

 「そう」

 先生は、頷いて残りの和菓子を口に運んだ。

 それから、おかしそうに言う。

 「マサは、服部君のこと凄く好きみたいなんだけど」

 それを聞いた途端、俺は噴き出し、

 「ゲホッ!ゴホッ!」

 思いっきりむせた。

 和菓子のかけらが喉の奥にひっかかった感じで、咳が止まらなくなる。

 「大丈夫?」

 先生が腰を浮かせ、手を伸ばして俺の背中をさすった。

 「ごめんね。直球過ぎたかな」

 そう言って、苦笑した後、俺の咳の調子が治まって元に戻るのを待っている。

 なんとか持ち直した俺は、咳払いを一つして、もう一度喉の調子を整えてから、先生を見つめた。

 「もう、大丈夫です」

 俺の言葉に、先生が笑って続きを切り出す。

 「おかげでマサは毎日楽しそうでね。私の目から見て、物凄く元気になったなぁと思って。

 ひどい時なんて、見てるこっちが辛かったから」

 その頃のことを思い出したのか、眉を寄せる。

 そう言う先生の表情は、完全に父親の顔になっていた。

 「でも、私は服部君のことも心配でね」

 「え」

 「あいつが勝手に好きになって、迷惑かけてるんじゃないかって」

 「そんな、それはないです」

 俺は今までの自分と椎のことを振り返ってみる。

 最初のころはともかく、俺は、確かに今椎のことを好きになっている。

 「迷惑だなんて思ってません」

 俺はハッキリそう口にして、コーヒーカップを持ち上げた。

 「君が傷つくこともあるかも知れない」

 いきなりそんなことを言われて動きを止める。

 俺が先生を見ると、先生も俺を真剣に見つめてくる。

 確かにこの恋は普通の恋でなく、傷つく可能性は普通のそれより高いのかも知れなくて、

 先生がそう言うのも分からないではなかった。

 特に俺の場合、男同士云々の前に誰かと付き合うこと自体、椎が初めてで、

 まだ恋愛で傷ついた経験はほとんどないと言っていい。

 免疫がなくて、そのせいで余計に大きくて深い怪我をする日が、ひょっとしたら来るのかも知れない。

 「それは、ないとは言い切れないですけど」

 だけど、傷つくかも知れないからって、この先どうなるのかなんて誰にも分からないし、

 それを恐れて付き合うのをやめるってのもおかしいことだろう。

 先生が、俺の顔色を窺うようにして見つめてくる。

 俺は、もしかして俺の覚悟を試されているのだろうか。

 それとも…遠まわしに別れることを勧められてる?

 先生はいったい何を言おうとしているんだろう…

 俺が思考の深みにはまりかけていると、先生が破顔した。

 「ごめんごめん。考え込ませちゃったね」

 高まった緊張感を打ち壊すように、砕けた感じになって言う。

 「私はただ、君が傷つくことがあるかも知れないけど、それでも、

 勝手かも知れないけど、出来ればそばにいてやって欲しいって」

 先生がちょっと照れくさそうにして、

 「そう言いたかっただけなんだ」

 そんな言葉を口にし、俺は呆気に取られながら、手にしていたカップをゆっくりとソーサーに戻した。

 まさか椎のお父さんに、そんなことを言われるとは思ってなかった。

 先生が俺の反応を待っていて、二人の間の空間が、妙な雰囲気に包まれた。

 どれほど先生が、奴のことを考えていて、想っているかが分かる。

 その空気の中、それにしても普通そんなことを頼むだろうかと思ったら、なんか笑えてきてしまった。

 「本当、勝手ですね」

 俺は、少し呆れたように先生を見る。

 それから、口が動いて自然に言葉が出た。

 「でも、俺は、もうそのつもりでいます」

 言ってしまってから、体中から汗がどっと噴き出すのが分かる。

 何言っちゃってるんだ、俺。

 かなり恥ずかしいことを言ってるんじゃないか?

 一瞬そう思ったけれど、でも、それは偽りでもなんでもない本当の気持ちだ。

 よく考えてみても、それは確かだと思えた。

 だから、訂正もしない。照れ笑いもしない。

 「そうか」

 先生が笑顔を浮かべて、大きく頷いた。

 先生の目に、俺がどう映っているのかは分からない。

 「俺でいいんですか」

 と一瞬聞きたい気持ちにかられたが、それをしなかった。

 ちょっと卑屈とも取れるそんな言葉を口にしたって、しょうがない。

 そばにいてやって欲しいって言われたってことは、俺の印象は悪くないと思ってもいいんじゃないだろうか?

 「悪いね。変な話して、おせっかいで」

 俺は気まずそうに俺を見る先生に、首を横に振った。

 「マサには言わないでね」

 俺は笑って竹フォークで残りの和菓子を半分に切り分ける。

 「あの、先生と椎は仲がいいんですね。椎は歯医者を継ぐって言ってましたし」

 俺が言うと、それを聞いて先生が、訝しげな顔をした。

 「歯医者を継ぐって?マサが?」

 普通、子供が親の後を継ぐという意志を見せるのは、親にとって嬉しいことだろうと思っていた俺は、

 先生のその反応に、「あれ?」と思う。

 「はい。あ、継ぐ『かも知れない』だったかな」

 そういえば断定はしていなかったような気がする。

 先生は、黙ってカップを持ち上げ、中身を一口飲んでから、

 「あいつ、なんでそんなこと言ったかな」

 ポツリと一人言のように呟いた。

 それから注意深く考えつつ、という感じで話し始める。

 「服部君、歯科医師になるにはね、歯学部のある大学で6年間学ばないといけないんだ」

 「え…」

 俺は驚いた。

 歯科医師になるための知識なんて全然持ってなかったから、それは初耳だった。

 「そのあと国家試験を受けて、合格すると免許がもらえるんだよ」

 そ、そうなんだ。知らなかった。

 「でも、君たちの大学に歯学部はないよね」

 俺は固まって、その言葉の意味することを考える。

 そうだ。俺たちの大学には歯学部などない。

 歯科医師になりたいのなら、歯学部のある大学で6年間学ばないといけないのに、

 奴はなんで俺と一緒の大学に通ってる?

 「服部君」

 先生に呼びかけられて、顔を上げる。先生が俺を真っ直ぐに見つめる。

 「あいつが自分で決めたんだよ。服部君と大学生活を送ることを」

 「そんな」

 先生は、呆然とする俺に、笑みを浮かべる。

 「ここ、恋人なら喜ぶところ」

 「あ、え…でも」

 とてもそんな気にはなれなかった。

 先生が笑顔のまま、俺を安心させるように話す。

 「歯学部のある大学に行かなかったのはもちろん君のせいじゃなくて、

 病み上がりのマサには、ちょっとハードルが高いと思ったから、私も勧めなかったんだ。

 浪人するって方法もあったけど本人にはその気がなくてね」

 俺は、ちょっとだけホッとした。

 自惚れてるかも知れないけど、俺のことだけ考えてそうしたんだとしたら、どうしようかと思った。

 でも賢い椎のことだから、いろいろ考えてのことに決まってるよな。

 「だから、マサが家を継ぐと言ったなら、違う形でかも知れないな。

 それともどこかにまだ吹っ切れない気持ちがあるのか…」

 先生がちょっと首を捻った後、気を取り直したようにこちらを見る。

 「でもね、あいつが服部君と同じ大学を受けるって言い出したときは驚いたけど、

 今はその選択肢を選んで良かったと思ってる。

 なにより明るくなったし、歯科医師にはなれないかも知れないけど、

 他にもいろんな道や生き方はごまんとあるわけだからね」

 先生の、気楽とも取れる口調には、なにか突き抜けたものがあった。

 「今、マサには私の助手をしてもらってるんだけど、ものすごく助かってる」

 確かに、歯科医師としてでなくても、別の形で親父さんをサポートする方法はたくさんあって、

 いくらでも力になることは出来るだろう。

 「それに、実情を明かすとね。景気が悪いのに加えて、歯医者の数が増えすぎててね。

 開業しても潰れてしまうところが結構多くて、歯医者としてやっていくのもなかなか大変なんだよ」

 俺は、そんなこととは知らなくて驚いた。

 歯医者にしろ、なんにしろ、やっぱり医者になったりそれを続けたりってのは、簡単なことじゃないんだな。

 「うちも、なんとかやっていけてるけど、この先どうなるか分からないよ」

 俺は、謙遜してるんだろうと思った。

 他はどうなのか知らないけど、あのクリニックはこの先生がいる限り大丈夫な気がする。

     

 「結局、大事な話、になっちゃったかな。悪かったね、こんな話するつもりじゃなかったんだけど」

 「いえ、なんかだんだん慣れてきました」

 帰る頃には最初の抵抗感はどこへやら、もう先生に対する緊張も全くなくなっていた。

 その後、俺は先生に車で駅まで送ってもらった。

 「今日は、時間取らせてごめんね。

 今度また、どこかに遊びにでも行こう。それとも、お邪魔かな」

 車を降りた俺に、窓を開けて先生が話しかけてくる。

 「そんなことないですよ。連れてってください。楽しみにしてます」

 俺が笑って言うと、先生も笑って手を上げ、窓を閉めて車を発進させた。

 その車を見送って、俺は駅の構内へ向かって歩き出す。

 なんか遅くなってしまった。椎、待ってるだろうな。

 そんなことを考えながら、俺は切符を買って、改札機を通り抜けた。

 

 

                              後編へ続く…                                     

 2010.03.25

 

 

 

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