至福のティータイム
バイトが終わって家に帰ると、椎はまだ帰っていなかった。
クリニックの手伝いの後、買い物をして帰ると言っていたから、きっと買い物中なのだろう。
もうすぐ帰ってくるだろうし、今日の食事当番は椎だけど、
なんか作れそうなものを作っておこうかと冷蔵庫を覗いたら、中はほとんど空で、
残っていた食材だけでは、腕のない俺には何も作れそうになかった。
「腹減った」
パンか何かないかと探したけど、ない。
炊飯器を見ると、飯だけは炊いてあるようで保温の光が点灯している。
でも飯だけじゃ食えないし、
「しょうがない。待つか」
と呟いて、なにげなく脇の棚を見た。
そこには数冊の本があって、椎が買ってくるのか、名前に聞き覚えのあるベストセラー本ばかりが並んでいる。
流行りモノ好きだよなぁ。でも、読むだけ偉いよな。
と思って、ぼーっと眺めていたら、聞いたことのないタイトルの、地味な本に目がいった。
「食べ物を変えれば脳が変わる・生田哲著」というものだ。
こんなの知らないけど、これも売れてるんだろうか、と手を伸ばして開いてみた。
『亜鉛は精液に含まれるから、射精によって急速に失われる』
「え?」
開いたそのページに、そんなことが書いてあって、俺はもう一度同じ箇所を読み返した。
なんだよこれ。普通の本に、普通にこんなことが載ってるもんなのか?
俺は驚いたが、読み進めると、もっと驚くようなことが書かれていた。
亜鉛の不足は、統合失調症、うつ、不安、摂食障害、多動などの危険因子になるというのだ。
つまり、射精をすると亜鉛が失われ、亜鉛の不足で今挙げたような症状が出るかも知れない、と…
俺は、なんかすごいショックを受けた。
射精って、そんなにイケナイ事なのか!?
頭が、その事でいっぱいになり、うろたえる。
だって、椎は毎晩射精してるしっ。
「ただいま」
玄関のドアが開く音がして、椎の声が聞こえる。
椎は、手に袋を二つ提げて居間へと入ってきた。眼鏡の方の椎だ。
「玲二?」
おかえりを言うのも忘れて、続きを読んでいた俺に椎が声をかける。
「ああ、それ。いい本だろ?」
俺の手の内の本に気づいてそう言った椎を、俺は顔を上げて見て、情報が書かれたページを指差した。
「ここっ。ここに重要なことが書いてある」
本を椎の方へと差し出す。
奴は買ってきたものを床に置いて、ちょっと戸惑うようにしてから、苦笑しつつ受け取った。
「なんでこんな固い本読んでんだよ、珍しい」
そうだ。椎の言う通り、俺は本といえばマンガくらいしかいつもは読まない。
「なんとなく手にとって開いたら、そのページだったんだ」
椎は、「ふーん?」と鼻を鳴らして、本の文字に目を落とした。
そして、亜鉛についての記述のあるページをザッと読むようにしてから、顔を上げた。
俺が言おうとしていることはなんとなく分かったようで、笑って俺を見る。
「俺、ナッツ類好きだし、牡蠣も好きだから大丈夫だよ」
奴は大して気にすることでもないという様子でそう言った。
不足する分は、亜鉛を含むそれらで補充すればいいって事らしい。
だけど、好きっていっても、あんまり食べてるとこ見たことないし、きっとそれだけじゃ駄目に違いない。
「やっぱり毎日するのは、やめよう」
俺が真面目に言うと、椎はおかしそうにした。
「なんでそうなるわけ?大丈夫だって。こんなの極端な言い方してるだけだよ」
本を閉じてその茶色い表紙をポンポンと軽く叩く。
「でも…」
「社会人の仕事の後のビールみたいに、俺は一日の締めの玲二とのエッチを楽しみにしてるんだよ?
それなくなったら何を毎日の糧にすればいいんだよ」
椎は、少し首を傾げるようにして、俺を見てくる。
毎日の糧、とか、また大げさな表現だな。
「だけど…」
そりゃ、俺だってエッチがしたくないわけじゃないけど、でも椎にとって良くないことなら、
ちょっとくらいは控えてもいいと思う。
仕事の後のビールがなくたって、死なないし。
俺がまだ納得しない顔をしていると、椎がさらにつけ加えた。
「俺は毎日するって決めてるし、だいたい一日に二、三回出すぐらいで、
体がどうにかなるとは思えない。検査もたくさんしたけど、亜鉛不足なんて言われたことないし。
それに、前に言っただろ?心配はしなくていい、って」
椎は、説得材料をズラリと並べてきっぱりと言い切った後、
「それより…」
俺に近づくと、抱きしめてきた。耳元で囁く。
「まだおかえりって言ってない」
椎の、そっちの方が大事だといいたげな口ぶりに、まだスッキリしなかったけど、
俺は「おかえり」と呟いて、いつものように抱きしめ返した。
「腹減っただろ?すぐ飯にするから」
離れると、椎がその流れで買ってきたものを持ってシンクの方へ行き、飯の支度を始めた。
俺、もしかしてばかばかしい事言ってるのか?
なんかモヤモヤが消えない、けど…確かに、今は空腹を満たすのが先だな。
めちゃくちゃ腹減った。
俺は、椎のそばに行って、飯の支度を手伝った。
今日は時間がなかったので、椎はすぐ食べられるようにと、惣菜をいくつか買って来ていた。
そこに汁物を作って足して、それで夕飯を済ませる。
俺は飯の後、テレビを見ながら明後日のことで頭を悩ませていた。
明後日はホワイトデー。
椎が『お返し』を欲しがってるのは知ってる。
だけど、バレンタインの時と同じで、それ専用のレジで、何か買うのは恥ずかしい気がする。
だからといって、変わりになるような品物も、具体的に何も考えつけずにいた。
ああもう。バレンタインデーとかホワイトデーとか、なくなって欲しいかも。
最終的には、そんな後ろ向きな考えに辿り着いてしまうくらい、何も思いつかない。
恋人を喜ばせるって大変だ。サプライズ、とかって気が遠くなるよ。
それだけでも頭が痛いってのに、さっきの亜鉛のことも気になるし。
ちらっと椎を見ると、居間の隅のパソコンデスクでパソコンと向かい合っている。
椎が欲しがってるもの。…なんだろう。
と考えていたら、風呂が沸いたことを知らせるピピピッという電子音が響いた。
椎が振り返る。
「玲二、先に入っていいよ。俺、まだちょっとやることあるから」
「うん」
俺は返事をして風呂に向かい、風呂の中でも考え続けたけど、やっぱり何も思い浮かばなかった。
夜。
先にベッドに入っていると、しばらくして椎が布団の中へと潜り込んできた。
椎の方へ背中を向けていた俺を、後ろから手を伸ばして、抱きしめる。
俺は、その姿勢のまま聞いた。
「やっぱりするのか?」
「もちろん。玲二が目の前にいるのに、我慢できないって」
椎は当然のように肯定する。
「だけど俺、今日はあんまり…」
俺が躊躇していると、後ろで椎が手を止めて、苦笑するようにフッと息を吐くのが聞こえた。
いまいちソノ気になれずにいる俺の耳元で、椎が、安心させるように言う。
「亜鉛はサプリメントで摂るよ。今度買って来る」
俺は驚いて、椎を振り返った。
「亜鉛のサプリメントなんてあるのか?」
「あるよ。今はいろんな種類の栄養がサプリで摂れる」
「へぇ…そうなんだ」
「だから安心して」
感心していると、そのまま唇を塞がれた。
舌が差し入れられ、体を椎の方へと向けさせられる。
「椎…んっ…ふ…」
だんだん気持ちよくなって、このままだと流されてしまう。
唇が離れると、椎がなにか思いついたような顔をした。
「そうだ。精液に含まれるなら、玲二のを飲めばいい」
「えっ」
「あー、でも、挿入しながらは飲めないし、できれば直接飲みたいし、
玲二は俺のでイきたいんだし、どうすればいいかな」
椎が、大事な相談事のような口調でもって、そんなエッチなことを口にする。
「バ、バカ、そんなこと真剣に悩むなよ」
ちょっと怒り気味に言うと、
「だって玲二は真剣なんだろ?」
そう返されて、俺は自分の、この話題への執着の強さに気づき、
「そうだけど…」
何も言えなくなった。
俺、なんでこんなにあの情報にとらわれてるんだろう。
なんか自分、しつこいかも知れないと思い、少しだけ自己嫌悪に陥る。
椎はこんなに元気なのに。ウザイよな。
「玲二…」
椎が、俺を見つめて、
「ありがとう」
愛しげな口調でそう呟いた。
「そんなに心配してくれて、俺、めっちゃトキめくんだけど」
椎がそう言って嬉しそうにしながらも、
「でも、本当に心配はいらないから。その話はもうやめよう」
その点については、きっちり釘をさすように言う。
奴の気持ちは分かる。釘をさしたくもなるよ。さされてもしょうがない。
「玲二はあんまり読まないから分からないかも知れないけど、
ああいう本は、すごく気になる書き方をしてるもんなんだよ。全部真に受けてたら、きりがない」
そういうものなのか…?
俺が、本に載っていた文章を思い出していると、椎が、くすっと笑いつつ言う。
「心配性」
それを聞いて、俺はムッとした。
「俺は、心配性じゃない」
「十分心配性だと思うけど?」
椎は笑いが引くと、何か考えたようで、伏し目がちな瞳をして目を逸らす。
表情にどことなく影がさしたように見えた。
「やっぱり病気のことは伏せておきたかったな」
「え」
「こんなに心配させるなら、黙っておけば良かった」
「そんな…」
そんなふうに、思わせてしまうなんて…そんなつもりじゃなかったのに。
「俺…俺は、話してくれて良かったと思ってる」
俺は、慌ててそう告げた。
それから、気持ちを切り替え、
「分かった。もうあの本に書いてあったことは気にしない」
そう決めて、断言する。
これ以上、しつこく考えたりしない。
それを聞いた椎の視線が俺に戻ってきて、キラリと光った。
「本当に気にしない?」
「ああ」
「じゃあ、存分に愛し合えるね」
椎がニッと笑って俺の上に乗り、体重をかけつつのしかかってくる。
「え、あの」
「玲二の中、俺のでいっぱいにしてもいいんだ」
椎が、股間を俺の下腹に押し付けつつ、耳の横で、
耳たぶに唇が触れるほどの近さで言ってきて、ゾクッとする。
「んっ」
椎の手が俺のモノに伸びて、パジャマ越しに、その輪郭をなぞるように撫でる。
そのまま上からぎゅっと握られて、
「あっ」
腰がガクッと揺れる。
「ほんと玲二って感じやすいよな。毎日触ってんのに」
そう言われて、悔しいけど、感じるのは止められない。
「大好きだ」
首筋に口づけが降りてきて、思わず目を閉じる。
椎が左手で俺のを握ったまま、右手でパジャマのボタンを外して、前を開いた。
唇が首筋を這いながら、下へと降りていく。
どんどん降りて行って…やがて椎の唇は胸の突起に辿り着き、それを口に含んだ。
「んっ、椎…」
吸い上げるようにしてから、チュッと音をさせて離れると、俺をじっと見てさっきと同じ言葉を繰り返す。
「大好きだ」
俺は眉間にしわを寄せた。
ん。なんで二回…?と思ってから、ああ、と気づく。
「…俺も」
そう返すと、嬉しそうにして唇を重ねてきた。
返事、欲しかったんだ。
「んっ、んっ」
椎に口の中を舐められ舌を絡め取られて、次第に息遣いが荒くなってくる。
握られたモノも、固く大きくなっていて、椎の手が布越しなのが歯がゆく感じられる。
「早く…」
たまらなくなって気持ちが口に出てしまい、それを聞いた椎が、俺の下を全部脱がして、
自らも全て脱いでから、それを改めて直に握った。
「は…あ」
少しひんやりとした椎の指がペニスに絡みついてきて、自然に腰が引き気味になる。
「玲二…」
椎が呟いて、空いた方の手で俺を抱きしめた。
胸と胸が合わさり、握られた俺のモノと、同じように大きくなった奴のモノが触れ合う。
「大好きだ」
ものすごく感じてきて困りながら、でもおかしくて俺は笑った。
しつこさでは、負けてないよな。
「俺も」
即答すると、また俺の唇に唇を重ねた。
もう感じて、腰が疼いてたまらない。
「椎、欲しい」
「いいの?玲二の中、俺のでいっぱいにするよ」
「い…いいから」
俺のモノを握っていた椎の指がほどけてサオを辿り、
袋をさするように過ぎて後ろのすぼまりへと移動する。
「ここ?」
「あ」
椎の指先が、その周辺を撫でるように動く。
「んっ、早く…」
その動きが意地悪をしているように思えて、俺は急かすように言った。
「だって、玲二の感じてる顔、もっと見たいんだ」
頬が熱くなってきて、同時にソコも熱を帯びてくるように感じる。
椎が、自分の指を口に二本咥えて唾液で濡らし、それをそのままソコに押し当てて、グッと沈めた。
「ああっ」
声をあげると、唇で唇を塞いでから、指に力を込め、奥へと進める。
「ん、んー…っ」
中がビクビクと震えて、椎の指をゆっくりと受け入れていく。
唇が離れて、椎が指の出し入れを始める。
「は、ああっ、椎、もう」
何回か出し入れを繰り返すと、そこがいやらしい音を立て始め、
すでに十分にほぐれているのが分かった。
早く入れて欲しくてたまらなくなる。
椎は、指を抜いてそこに自分のモノをあてがった。
「んっ」
望んだ通りの欲しかったそれが押し込まれ、最奥まで満たされると、
ものすごい気持ちよさに包まれる。
椎が、グッと突いて、それをきっかけに出し入れを始めた。
「あっ」
もっと上の気持ちよさが押し寄せてくる。
「あ、んっ、マサユキ…」
椎が、腰を前後に動かして激しく突き始める。
「あっ、ああっ」
「こんなにいいのに、やっぱりやめるなんて無理だろ?」
「んっ、ああっ」
「玲二…」
椎が突き上げながら、俺のモノを握り、唇を塞ぐ。
「んっ、んっ」
そして、乳首を摘んでつねるようにする刺激を加えられた途端、
痛みと快感の入り混じった感覚が背中を駆け抜け、
「んーっ!!」
俺は達して、椎のモノを締め付けた。
椎も俺の中でイったのが分かる。
椎が繋がったまま、俺を上から抱きしめた。
「玲二…愛してる。これ以上どうすればいいのか分からないぐらい」
俺はもう慣れてるけど、他の人が聞いたら、クサイかキショイと思われそうな言葉を口にして、
奴がまた唇を合わせてきた。
どんだけキス好きなんだよ。…俺も好きだけど。
椎のキスを受けているうちに、体が眠気に包まれる。
「玲二…愛してる」
ん?ああ。
「俺も」
重い口を開けてかろうじてそう答えた後、俺はスッと眠りに落ちていった。
次の日。バイトで喫茶店に行ったら、
「服部君、ちょっと手伝ってくれる?」
と、店長にエプロンを渡された。
「え、俺、厨房は無理ですよ」
「大丈夫。クッキーの型、抜くだけだから」
聞けば、明日のホワイトデーに、手作りクッキーを飲み物に添えてサービスで出すのだそうだ。
あと、レジ横で販売する分も作るらしい。
ハートの型と丸い型。俺は簡単な方ということで丸型を渡される。
うわー。こんなの初めてかも。
俺が型を手に舞い上がっていると、店長が見本を見せてくれた。
鉄板の上に乗せられ麺棒で伸ばされた生地を、型に粉をつけては抜いていく。
同じようにやって欲しいと頼まれた。
「こっちはプレーンで、こっちはナッツ入りだから」
ナッツ。ナッツは体にいい…。
って、やっぱ気にしてるかも、俺。
でも、これぐらいならいいよな。
「俺、ナッツの方から、やってもいいですか?」
「ああ、頼むよ」
教えられた通り、型の内側に薄く小麦粉をつけつつ、生地を型で抜いていく。
ホールの方は、菊池さんがやってくれていて、お客さんもそんなに多くないし、負担にはなっていないようだ。
「服部君はつきあってる子、いるんだったよね」
店長が手を動かしつつ、聞いてくる。
俺は、知られてることに驚いて、一瞬戸惑い、どうしようか迷ったけど頷いた。
その情報の出所は、あの彼女ですよね。
一人、心の中で苦笑する。
隠しようもない。
「ええ」
「チョコはもらった?」
「ああ、はい」
酒入りチョコ一つだけど。
「じゃあ、このクッキーあげるから持っていきなよ」
「え」
俺は、顔を上げて店長を見た。
「彼女、きっと喜ぶよ」
店長がそう言って、不器用にウィンクする。
「あ、ありがとうございます」
俺は、なんか恥ずかしくなって照れ笑いをした。型を抜くスピードが上がる。
店長、すごくありがたいんですけど、俺、恋人を紹介する勇気はまだありません。
クッキーはその後オーブンに入れられ、いい色に焼きあがった。
網の上で冷まされるその様子は、数が多いから圧巻で、自分が関わったと思ったらなんか感慨深かった。
「今日は手伝ってくれて、ありがとう」
店長は帰りに、焼きあがったクッキーを袋に詰めて、俺にくれた。
ホワイトデーは明日だけど、このクッキーは余裕で一週間以上もつらしい。
俺は、それを鞄に入れて持ち帰る。
こうして―
俺の悩みは嘘みたいに消えた。こんな形で解消されるとは。
もう悩まなくてもいい。あとは明日、これを椎に渡すだけだ。
ホワイトデー当日。
俺は夕飯の後、食器を片付けてから、バイトに持って行っている鞄から、ラッピングされた小さな袋を取り出した。
昨日もらったクッキーだ。
ソファに腰を降ろそうとした椎に声をかける。
「あの…椎」
椎が、ん?という感じで動きを止める。
なんか、こういうの、すごく恥ずかしい。
でも、せっかく作ったのに渡さないってのもなんだし…
どっちみち恥ずかしいんだし、ためらっているうちに、日が変わってしまったりしないよう、今渡してしまおう。
そう思って意を決し、椎の前にクッキーを差し出す。
中の透けて見える、英字が印刷された袋に入っていて、かわいらしく水色のリボンがかけられている。
「こ、これ…」
「えっ」
椎が、目の前のものを見て、驚いた顔をした。
俺の顔をじっと見て、まさか、という表情をする。
「玲二が、俺に?買って来てくれたんだ…?」
俺は、それを聞いて首を横に振った。
「違う」
だんだん頬が火照ってくる。
「え、違うの?」
「買ったんじゃない」
俺の言葉に、椎の表情が真顔になる。
「もしかして、玲二が、作った…?」
ほとんどありえないことだと思っているらしく、椎が言葉を一語ずつ区切って、口にする。
俺は、小さく呟いた。
「…店長と一緒に、だけど」
椎が固まって、何度か瞬きを繰り返す。
それから、その顔に、みるみる嬉しそうな色が広がる。
そ、そんな顔させたくて作ったわけじゃ…作ったわけじゃ…
作ったんだよな、俺。
椎が、俺の手からクッキーを受け取って、それをじっと見つめる。
すごく長いと感じる沈黙が流れた後、奴が顔を上げて言った。
「俺、今、最高に幸せなんだけど。ひょっとして、俺の人生、もう終わるのかな」
「バカ。終わったら困るだろ」
「ひょっとしてこれは夢」
「夢じゃねぇ」
「なんか俺、感激しすぎてどういうリアクションとったらいいか、分からない」
いや、その態度がすでにオーバーリアクションだと思うが。
そう思いつつ、椎と一緒にクッキーを見ていたら、椎の淹れる紅茶が飲みたくなってきた。
「…とりあえず、紅茶でも淹れてくれるといいと思う」
そう言うと、椎は大きく頷いた。
「分かった。最高においしいの淹れる」
椎の淹れた紅茶のいい香りが広がる。
俺は、家にあった皿に、袋のクッキーを全部出してソファの前のテーブルに置いた。
小さく見えたけど結構たくさん入っていて、店長の気遣いに頭が下がる。
「うまいっ」
隣で椎が、一枚食って、叫ぶように言った。俺も手を伸ばして口に運び、頷く。
「うん。うまい」
我ながら。
っつうか、ほとんど店長が作ったようなもんだけど…
「あ、これは気が利いてる」
袋には、プレーンタイプとナッツ入りのクッキーの他に、スティックタイプのクッキーが二本入っていた。
こんなのも作ってたんだ。
椎がそのうちの一本を手に取り、
「玲二」
それを口に咥えると、人差し指を上に向けて、クイクイと曲げて俺を誘うようにする。
逆側を咥えろと言っているらしい。
店長、こんなことまで考えて作ってたんだろうか。
「やらないよ」
俺が顔を背けて言うと、クッキーを手に持ち直して、
「なんだ。ノリが悪いなぁ」
手でグイと俺の顔を自分の方に向けさせ、クッキーを俺の口に差し込んだ。
「…!」
突然のことにびっくりしていると、逆側に食いついてきて、そのままボリボリと食べ進む。
驚いたまま何もできずにいるうちに、椎の唇が俺の唇に辿り着いて合わさった。
椎が満足した表情で離れて、口の中のクッキーをポリポリと咀嚼する。
俺も、奴を見ながら同じように口の中のものを噛んで飲み込んだ。
「こういうの、一度やってみたかったんだ」
それは幾つ目の夢なんですかね。
それから、残りのクッキーを食べつつ、紅茶を二人で何杯もおかわりする。
「あー、幸せだなぁ」
椎がしみじみと呟いて、それを聞いたら、
「うはは」
なんかムズムズして来て、変な笑い声をあげてしまった。
「なんだよー」
椎が、ちょっとムッとしながら、でも笑いつつ見てくる。
だって、溶けそうな顔してるし、それに。
「そんなこと、あんまり口に出して言ってる人見たことないから」
俺も笑うと、
「玲二、知らないの?幸せだと思ったら、口に出して言った方がいいんだよ。
その方が余計に幸せだって感じられるから」
丁寧にもそんなことを教えてくれる。
「ん、そうか。そうかもな」
俺もいつもなら、そうかなぁと思って首を捻っていたかも知れないけれど、
今は何故かそうかも知れないという気になって、というかごちゃごちゃ言うのが面倒で、
うんうんと頷いた。
「まだ桜咲かないかな」
「もうそろそろだろ」
「俺、やりたいことあるんだ」
ああ。お前はやりたいことだらけだよな。
そう思いながら、とりあえず聞いてみる。
「なんだよ」
「ここの横の桜並木、ずーっと南の方まで続いてるって知ってた?」
「いや。そんなに続いてんのか?」
「うん、どこまでかは知らないけど続いてるらしい。…玲二の自転車って、荷台ついてたっけ?」
「ああ」
「横の道、玲二を後ろに乗せてどこまでも走ってみたい」
俺は、椎の顔をじっと見た。
自転車の二人乗りか…
椎が見そうな夢だ。幾つ目の夢かは知らないけど。
「いいな、それ。気持ち良さそう」
「だろ?」
俺は、自分が椎の漕ぐ自転車の後ろに乗っているところを想像してみた。
季節は春で、風が気持ちよくて、奴はばか力だから、
俺なんて乗ってないみたいにスイスイと自転車のペダルを漕いでいく…
「風になれるかもな」
なんか思わず詩人のようなことを言ってしまった。
「千の?」
「…いや、春の。それ、まずいだろ」
椎が紅茶で酔ったみたいに、上機嫌で笑う。
「もう少しあったかくなったら、やってみよう」
奴がナッツの入ったクッキーを齧りながら、嬉しそうにする。
それを見て、俺も嬉しくなる。
日に日に気温は上がっている。分厚い上着もいらなくなった。
そして。
もうすぐ、椎と付き合って初めての、桜の季節がやってくる。
了
2010.03.04