第一部 しあわせ


志保子


 

男でも女でも。あたしにときめきをくれる人なら。

 

 

                                            

夕飯時。志保子が言った。

「今日、一緒に寝ようか」

あたしは驚いて、箸と茶碗を持ったまま志保子の顔をポカンとみつめた。

「嫌?」

「あ、ううん」

あたし、プルプルと首を振る。そして、笑った。

「いいね」

明日、志保子は日本を発つ。それを考えれば、彼女がそう言い出すのも分かる気がした。

   

十六年前。

「結婚したくないが、子供が欲しい」

と言う一人身の変わった女が、とある孤児院を訪れた。

それが、あたしの母親、志保子だ。あたしは彼女にもらわれ育てられた。

その志保子が、パリに行くと言い出した。あたしを置いて。

二年間向こうで暮らすと言う。

以前から行きたいとは言っていたけれど、あたしが義務教育を終えてあまり手もかからなくなった事で、

その気持ちがいっそう強まったらしい。

あたしは、こころよく認めてやった。

今まで志保子はあたしの為に、自分の時間やお金を費やして来た。

志保子にもらわれなければ高校に通えたかどうかも分からない。生きていたかも定かでない。

それがなくたって、あたしは志保子が大好きだ。

だから、出来る限りのやりたい事をやらせてあげたい。やって欲しい。

   

「あんた、かわいくないわよっ」

夜十時。志保子はすっかり出来あがっていた。

あろうことか酒を一升瓶ごと、未成年のあたしの部屋に持ち込んで、

あたしにも勧めつつ、自分もガバガバ飲んでいる。

いいんだろうか、こんなに飲んじゃって。

明日、二日酔いで飛行機に十時間以上乗るなんて辛いもんがあると思うけど。

なんて思ってると、またグラスになみなみと酒を注ぐ。…やれやれ。

「なによ、その目は。だいたいねぇ、かわいくないのよ」

「さっきから、かわいくないかわいくないって、なんなのよ、一体」

あたしが聞くと、志保子、座った目の顔のままむくれる。

本当の子供でないのが悔やまれるほどの、いつもの美貌が台なしだ。

「だって、あんたってば母親と二年も会えなくなるってのに、淋しそうな様子のかけらもないんだもの」

あたし、目が点になる。

「だって、あんたってば母親と二年も会えなくなるってのに、止めもせず『分かった』なんて言うんだもの。

冷めてるわよ。かわいくないわよ」

志保子、あたしをむーっとした顔で見る。あたしは、思わず「けっ」と嘲笑ってしまった。

しまった。と思った時にはもう遅い。

びしゃっ。次の瞬間、酒が飛んで来てあたしはびしょ濡れになっていた。

「何すんのよっ」

びしゃっ。あたし、志保子に向かってグラスの酒を浴びせ返す。

一瞬、志保子の顔が歪んだ。と思ったら泣きだした。

「わーん、こんな子に育てた覚えはないのにーっ」 

あたしは、眉間にしわを寄せて空になったグラスに酒を注ぐと、揺れる水面を見つめた。

そっちこそ、なーんも分かっとらんじゃないの。

「はーっ」

大きく息を吐いて、泣いてる志保子に向かって言う。

「娘が淋しがってるかそうでないかの見分けもつかないの。十六年も母親やってて」

志保子が驚いた表情で顔を上げる。

「娘を置いて外国に行こうなんてほうが、よっぽど冷めてると思うけど」

あたし、ふっと暗く笑ってみせる。と。え?がばっ。

「嬌子ーっ。ごめんねーっ」

わーっ。抱きつくなぁっ。

あたし、抱きつかれてじたばたする。

か、顔が火照って来た。

酒のせいだろうか、それともくさい事言っちまったせいだろうか、抱きつかれたせいだろうか、…全部だな、こりゃ。

あたし、じたばたするのをやめて、そっと志保子を抱きしめる。

ああ。あたしってば、こんなに志保子が好きだぁ。血がつながってない事なんか大したことじゃない。

志保子が、あたしを離してじっと見る。そして、髪の毛をいじったり、頬をなでたりしながら言う。

「大きくなったね」

「うん。志保子も歳とったね」

ごんっ。な、殴られたっ。

「痛い」

「もうっ。あんたって子はっ。言うにことかいて歳とったとは何よっ、せっかく人がっ、…もう寝るっ」

志保子は、かんかんに怒って、あたしのベッドにそそくさと潜ってしまった。

だってぇ、やんわりムードが苦手なんだもん、しょうがないじゃない。痛いなぁ。

頭をさすりながら、ベッドに滑り込む。途端に、志保子が喚いた。

「冷たい足くっつけないでくれるっ!?」

あたしのベッドだぞ、これはっ。と言う言葉が喉元まで出かかったけど、やめた。

体をくっつけないようにして、志保子の隣に寝る。

セミダブルのベッドに二人は、ちょっと苦しい。しかも離れて寝ようとすると。

「もし、私の留守中に本物の母親が現れたらどうする?」

背を向けて黙っていた志保子が突然、口をきいた。

何を言っているのか、理解するのに数秒かかり…把握した途端、かぁっと頭に血がのぼった。

げしっ。あたし、志保子をベッドから蹴り落とす。

「ばかたれっ。あたしの母親は、世界に一人きりだ」

大きく目を見開いて、あたしを見上げている志保子。その目から涙がポロポロこぼれ出す。

あたしもめちゃくちゃ頭に来過ぎて泣けてきた。

「嬌子(きょうこ)ーっ」

「志保子ーっ」

あーあ。もう、ぐしゃぐしゃのびしょびしょだ。

その晩。あたしと志保子はくっついて寝た。あったかかった。

   

そうして。次の朝早く、志保子は旅立った。

巷では、沈丁花が心地良く香り、大好きなオオイヌノフグリを始め、

ナズナ、タンポポ、菜の花、スミレが咲き乱れる四月の事だった。

「見送りには行けないけど、元気でね。なるべく早く帰って来るんだよ」

「ありがとう。愛してるよ」

「うん。あたしも」

志保子が既に泣きそうな顔をしているので、その知的なおでこにそっとキスをしてやる。

志保子は、嬉しそうに微笑んで、あたしの頬にキスを返した。

他の家ではキスなんかしないらしいけど、うちは志保子が外国かぶれなせいか、する。

友達の雅(みやび)なんか、家族と上手くいっていないせいか、

あたしと志保子の仲が死にそうなくらいうらやましい(と、言っていた)。

でも、そのあたしと志保子も別れる時が来たのだ。うっ、うっ。

しかし、何で出発日と始業式がいっしょなんだ。休み中だったら良かったのに、見送りにも行けやしない。

もっとも志保子は、見送りには来ないで欲しいと言ったけど。

…泣くから。

「じゃね」

「忘れ物はないっ?」

出て行こうとする志保子に慌てて言う。

そんなあたしを見て、志保子は苦笑した。

ぱふっ。あたしの頭に手を乗せる。それから、こっくり頷いてドアを開けた。あたしも一緒に外に出る。

「体に気をつけて。ボンボヤージュ」

「ふふっ。サンキュ」

あ、このやろ。人がせっかく覚えて、恥ずかしいの我慢して、フランス語で言ってやったのに。

と思ったら、志保子もう一度あたしの頬にキスして、家の前に待たせてあったタクシーに向かって駆け出した。

「志保子っ」

「じゃね。手紙書くからっ」

志保子、手を振ってタクシーに乗り込む。

あたしは、慌てて駆け寄ったけれど、タクシーは走りだし、角を曲がって見えなくなった。

なんだか、あっと言う間の出来事で、あたしは唖然とした。でも、その後なんとなく笑ってしまった。

ああでもしなきゃ、いつまでも行けないもんね。

あたしは、ゆっくり戻って家に入った。目を閉じて、今の志保子を焼きつける。

二年後、志保子がどんなに変わっていようと、あたしが志保子を愛してる事に変わりはない。

そして、目を開けるとむんっと背伸びをした。

さっ、学校行く支度しなくちゃ。今日から、高二だ。

学生にとっての新しい一年が始まる。初めての一人暮しも始まる。

志保子は、親戚の家へ行くかと聞いたけど、

いまさら、あたしの事で志保子を悪く言う親戚連に世話になるなんざ吐き気がするので断った。

多少の血のつながりがあったって、彼らは、ちっとも志保子を分かっていない。誰が行くもんか。

と言うわけで、あたしはこれから、志保子と暮らして来たこの家で一人暮しだ。

 

     

 

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