傷だらけ
今日、作文が返って来た。現国の授業で「私の父」と言う題で書かされたやつだ。
あたしには、ご存知の通り、父親がいないので志保子の事を書いたのだけど、
書いてるうちにだんだん勢いがついて来て、
読んでる方が恥ずかしくなるであろうと予想されるほど褒めちぎってしまった。
でも、その勢いが評価されたのか、まあまあな点だった。
で、ホクホクしていると、雅が放課になって作文を持ってやって来た。
嬉しそうにしているので、良かったのかなと思って見たら、あたしと同点だった。
「珍しいじゃない。現国でこんないい点とるなんて」
「うん。あの人の悪口ならいくらでもかけるから」
雅は、お父さんの事を「あの人」と呼ぶ。
「悪口、書いたの?」
「悪口しか書けないもの。書き出したら、止まらなくて」
雅の作文にコメントが書いてある。せがまれてあたしの作文のコメントも見せる。
絶句した後、二人で苦笑した。全く同じ事が書いてあったのだ。
『感情に走りすぎという気もしますが、よく書けています』
雅が、自分の作文を読み返して、しみじみと言った。
「本当に。あの人とママがやってあたしが生まれたかと思うとゾッとする」
あたしは、耳をふさいで聞こえないふりをした。言うなって、露骨に。
お母さんが通帳を持って来た事、やっぱり言わないほうがいいんだろうな。
雅の罵詈雑言が聞こえてきそうだ。
雅に嫌われた両親。嫌わないでと言った雅。雅は、あの日以来、裕君に会っていないようだ。
裕君の切羽詰まった気持ちがあるから、会いづらいのかも知れない。
とりあえず、裕君に会わず、学校にいる間は塞ぎ込んだりしない。あたしも接していて疲れない。
そしてあたしは、何事もなかったかのように雅と笑いあっているのだ。
−卑怯者。
あたしの心が、あたしに囁くのを聞きながら。
「え?」
図書室で、あたしは例の後輩の彼女−杉山さん−に声をかけられた。
「ですから、映画のただ券があるんですけど、一緒に行きませんか?」
「どうして、あたし?」
突然の誘いに、あたしはキョトンと彼女を見つめた。彼女は、ちょっと言いにくそうに説明した。
「実はその映画がちょっと難しくて、誰も行きたがらないんです。で、先輩なら大丈夫かな、と思って」
あ、そう言う事か。ふーん、映画ね。映画と言えば、もうずいぶん前に行ったきりだ。
このところ面白い本にも出会ってないし、たまには映画を見るのもいいかも知れないな。
「でも、本当にあたしでいいの?」
杉山さんは、それを聞いてくすっと笑った。
「いいから、誘ってるんです」
そりゃそうだ。あたしも笑った。
床のオレンジが目に眩しい。小声で喋る図書室は、西日が射し込んでいて綺麗だ。
あたしはその誘いをOKし、次の日曜日、杉山さんと映画に出かける事になった。
「今度の日曜日、映画見て来る」
その日の夜、雅に言うと、台所の雅は食器を洗う手を止めずに聞いた。
「映画って、一人で?」
雅はあたしのジーンズを履いている。彼女は、最近よくあたしの服を着る。
ないなぁ、と思っていると、ちゃっかり着ているのだ。
体型にメリハリがあるので、あたしが履くより女らしくかっこよく見えて、悪くない。
履き心地がいいと言って、なかなか返してくれない。
「ううん。後輩の子と」
あたしが言うと、雅は手を止めた。
そして少しの間何ごとか考えていたが、そのうち「ふーん」と言ってまた洗い始めた。
あたしは、英語の予習をする。
まったく頭が痛い。いけないと思いつつ、どうしても分からないので、雅のノートを写してしまう。
なるほど、こう訳すのか。さすがだな。
「この蛇口、壊れてるね」
雅の英語力に感心していると、彼女が唐突にそう言った。洗い終わったらしい。
「ああ、うん。昨日からだね。修理屋さん、呼んだほうがいいかな」
あたしは、写しながら答える。
昨日から、蛇口を締めても雫がポタポタと落ち続けるようになってしまった。
雅は、それには答えずに、居間の方へやって来た。
あたしが彼女の英語のノートを写すのはいつもの事なので、全然気にかけずに座ってテレビの電源を入れる。
あたしは、顔を上げて画面を見た。
写し出された映像は、丸い地球。以前見たより、茶色い部分が多くなっている。
もう少し見ていたい気もしたけど、すぐに雅によって映像は変えられた。
チャンネルは転々とし、やがてドラマにおさまった。
大学のキャンパス。柳の枝が、微風に誘われては誘い返すように揺れている気だるい午後。
それを眺めてから、今売れている女優が出て来たところで、またノートに目を落とす。
「あんた。あたしの服、着ないでよね」
書きながら言うと、笑ってごまかそうと言う魂胆が見え見えに、あははっと笑った。
「だって、気持ちいいんだもん。あーっ、人のノート写してー」
今更、さも悪いことのように言う。他の科目はあたしのを写してんだから、お互い様じゃないか。
あたしは、無視して写し続けた。
だってね。あんたが着てるのを見ると嬉しくなっちゃうじゃないの。
雅の全てが胸に響かないように、必死で踏ん張っているのに。
時は流れ、日曜日。快晴。
果たして、駅の改札を抜けたところで、杉山さんは待っていた。
キュロットスカートのスーツを着ていて、やけに大人びて見える。一見、誰か分からなかったほどだ。
あたしを見ると、嬉しそうに微笑む。
「おはようございます」
「おはよう。ごめんね。待った?」
「いえ、今来たところです」
本当かどうか分からないけど、あたしは笑い返した。
映画館に向かって歩き出す。そして、ただで映画を見たわけだ。
映画は−。
題名からは分からなかったけれど、これのどこが難しいのだろうと首をひねりたくなる、楽しい作品だった。
そのうち難しいと言われた事などすっかり忘れてのめり込み、大いに笑っていた。
有名じゃないけれどレベルも高い。いい作品だった。
その楽しい映画が終わった後、あたし達は中華料理店に入ってお昼を食べた。
「今日は、誘ってくれてありがとう。凄く面白かった」
「そうですか?そう言ってもらえると嬉しいです」
五品の料理がセットになった定食を食べながら話す。
「でも、確か難しい映画って言ってなかったっけ」
ふと思い出してそう言うと、彼女は箸を止めて、バツが悪そうな顔をした。
「覚えてたんですか」
「そりゃ」
それくらいの記憶力はあるよ。でも、今の反応は忘れてて欲しかったって事?
本当は、難しい映画じゃないと知っていて、嘘ついて誘ったって事?
その予想通り、彼女が告白する。
「あれは、先輩を誘う口実です。先輩と行きたくて。それに…」
そう言った後、彼女は言ったものかどうかちょっと迷って、それから白状した。
「実は…こんな事、余計なお世話かも知れないんですけど、
最近…その、先輩、元気ないような気がして」
今度はあたしの箸が止まった。下を向いたまま、口の中のものをゴクンと飲み込む。
「私、おせっかいな性格で…。あの、間違ってたら、ごめんなさい。でも…違いますか?」
「……」
あたしは、彼女を見た。何も言えなかった。
どうして分かるの?
彼女は、答えがない事で、間違ってないと確信したらしく、フワリと笑った。
「少しは元気になれましたか?」
とても魅力的に、まるで雅みたいに笑うので、ドキッとする。
あたしが元気じゃない事を見抜いてたなんて。
それとも誰の目にも分かるほど、無意識のうちにあたしは沈んでいたのだろうか。
「あたし、そんなに元気ない?」
目を反らして情けなく笑う。そんな事はおかまいなしに、彼女は、キッパリと答えた。
「はい。少なくとも私の目には。あ、いつも見させてもらってます」
ペロッと舌を出す。
その仕草が不自然じゃない事で、彼女が、思っていたよりずっとかわいいと言う事に気付く。
「そんなに、いつも見てるの?」
その問いに、彼女は頬を赤く染める。
「はい。先輩が好きですから」
あたしは、驚いて彼女を眺めた。
本人を目の前に、なんて率直な子なんだろう。誰かさんを思い出してしまう。
「どうして元気がないのか、聞かないの?」
あたしが言うと、彼女はちょっと残念そうにする。
「私が聞いて、先輩が元気になるなら。でも、多分そうじゃない気がするから」
あたしは、また驚いた。この子って、なんか賢そう。
それから、優しい気持ちになる。本当に考えてくれているから出る言葉だ。
「…ありがとう」
本当に。彼女に言って楽になれるなら。でも、言えるわけがない。
「若尾先輩に相談したらどうですか?若尾先輩は気がついてないんですか?」
突然、雅の名前が出てギクッとする。杉山さんは無邪気にあたしを見て、続ける。
「若尾先輩なら何でも分かっているんでしょう?」
若尾先輩、と言う言葉が胸にきつい。杉山さんの前だと言うのに、震えそうになる。
「そうだね。彼女に言ってみるのもいいかもね」
見当違いな質問に、合わせて笑って答える。ちょっと滑稽だ。
その後店を出て、街を夕方までフラフラと歩いた。
ファッション関係の店をひやかしたり、アイスクリームを食べたり、本屋で立ち読みをしたり。
本屋が一番長かった。いろんな本をめくりながら、思った事を言い合った。
楽しい一日だった。抱いていた杉山さんのイメージは、一緒に過ごしてみて大きく変わった。
思っていたより、ずっと明るくて、しっかりしていて、頭がいい。 別れ際に改札のところで、彼女が興味ありげに聞いた。 「卒業しても、あの図書館に来ますか?」 いきなり卒業なんて言葉が出て驚く。でも、言われてみれば夏も間近だし、もう高校生活も残り少ない。 三分の二以上が過ぎてしまったなんて嘘みたい。 「うん。あそこには行くと思うよ」 「良かった。私、本が好きなんで、本が好きな人と会えるのが嬉しいんです」 杉山さんが、あんまり素直に言うんで、いい子だな。としみじみ思ってにっこりした。彼女も笑い返す。 その笑顔がやっぱり雅みたいだったので、あたしはせつなくなった。 手を振って、別々のプラットフォームへ向かう。 卒業…。あの学校で、雅とずっと一緒に過ごした。あの学校でなければ雅と出会わなかった。 「……」 杉山さんには悪いけど、心から元気にはなれそうにない。 いつもなら、一人で努力して、今ごろはとっくに元気になってる。 だけど、今回のはどうすれば元気になれるのか、見当もつかない。 こんなに長く、心が曇っているなんて初めてだよ。いつ、なくす日が来るか怖くて。 二年間一緒にいて、少しずつ好きになった。もう、好きになる前のあたしには戻れない。 夕方の六時ごろ。あたしは家に着いた。ドアを開ける。 「ただいま」 そう言った途端、家の空気がいつもと違う事に気付く。 かすかに馴染みのない整髪料の匂いが漂っている。男の人がつけるような。 誰か、来ている? のんびり気分で帰って来たあたしは、にわかに緊張した。 あたしは、すぐ靴を見たが、雅の靴とあたしの靴しかない。 雅が男の人を上げたのだ、と言う考えと、あたしの勘違いでありますように、 と言う願いが入り交じった気持ちのまま靴を脱いで上がる。胸がドキドキしてくる。 居間へ行くと、雅が一人でテレビを見ていた。 「おかえり」 居間にまで匂いが漂っている。これは「玄関先に来た新聞屋さん」の類じゃない。男の臭い。 ちょっと前まで、ここに誰かいた…?。 なにげない顔でテレビを見ている雅に、高ぶって来る感情を抑えながら、あたしもなにげなく聞く。 「ただいま。今日は一人でいたの?」 「うん」 雅が、何喰わぬ顔で肯定するのを見て、腹が立つ。どうして、嘘をつくの? あたしは、手を洗いに洗面所へ向かった。その途中、台所を通ると蛇口が直っている。 あ…ひょっとして、修理屋さんが来たのだろうか? 「蛇口、直ったんだね」 「あ、うん。さわってたら直ったの」 あたしの予想とはチグハグなその言葉を口にする雅に、疑惑の念が膨らむ。 そんな事があるものか。 そして、ある物を見てハッとした。 洗った食器を置くカゴに、出かける時にはなかったコーヒーカップが二つ、洗って置いてある。 そして、多分、彼が忘れていった、見覚えのある眼鏡。 普段はかけてないけど、細かい作業をする時だけかけると言っていた。 裕君の、眼鏡。 冷たい指で、その眼鏡を持ち上げた。体が熱くなっていくのを感じる。 ここで、裕くんと…この場所で。あたしに黙って、あたしに嘘をついて。 その時、電話が鳴った。立ち上がって電話に出ようとする雅に、きつい声で言う。 「あたしが出るっ」 雅は、立ち上がったまま驚いたようにあたしを見た。あたし、受話器を取る。 「もしもし」 「あ、嬌子さん?三木だけど」 裕君だった。上機嫌な声。雅と、ここで、楽しい時間を過ごした証拠の…。 「こんにちは。蛇口、直してくれてありがとう」 あたしが言うと、あたしを見ていた雅の顔色が変わった。 「いえいえ。あんな事ぐらいなら俺、いつでも引き受けるよ。 それはいいとして、そっちに眼鏡忘れてないかな」 「あ、やっぱり?裕君のだと思った。あとで、雅に持って行かせるね。じゃ」 それだけ言うと、「嬌子さん?もしもし…」と言う声を聞きながら、一方的に電話を切る。 「あの…」 気まずそうに笑いかける雅に、眼鏡を見せる。 「行けばいい。裕君のところへでも、どこでも。勝手にすればいい」 怒りが心頭に発して、手が震える。 雅が蒼ざめる。あたしは、眼鏡を雅の手に押し付けた。背を向ける。 怒りの感情が増して行くのを止められない。 「ちょっと待って。ね、」 「うるさいっ」 「ね、聞いてっ、話があるのっ」 雅が、すがるようにあたしの右腕をつかむ。 「あれほど、家に上げるなと言ったのに。その上、嘘までついて」 違う。あたしが怒っているのは、悲しいのは、嘘をついてまで『裕君を』上げたからだ。 「だって、裕君ってね、蛇口直したりするの得意なの。修理屋さん呼ぶの、もったいないでしょ?」 だから呼んだって?そうして呼んで、修理だけして帰ったって?そんな馬鹿なことがあるもんか。 「ね。そんなに怒らないで。もう二度と呼ばないから」 雅の甘えた口調に余計腹が立って、大声を揚げる。 「何も聞きたくないっ。あたしの留守をいい事に内緒で呼んだりしてっ」 それを聞いて、雅の顔が悲しげに歪んだ。 「だって、面白くなかったんだものっ。後輩の子なんかと映画に行ったりしてっ」 感情的になってそう叫んだ後、雅、掴んでいたあたしの腕に抱きつく。 あたしは、驚いた。抱きつかれたまま、動けない。 雅が、嫉妬していた…杉山さんに? そして、それを言うなら、あたしのこの気持ちもたぶんそれと同じこと。 「……」 でも、それが何だって言うの? 状況は、少しも変わらない。何を聞いても同じ。雅を裕君から奪うなんて出来ない。 あたしは、雅の腕を振りほどいて玄関へ向かった。靴を履く。 「嬌子っ」 雅が追いかけて来る。あたしは、ドアを開ける。 「行かないでっ。あたし、裕君より嬌子が好きなのっ!!変かも知れないけどでも、そうなんだものっ!! 悲鳴に近い声。一瞬振り返り、次の瞬間外に向かって駆け出した。 それで。それで、どうなると言うの?雅はあたしのほうが好きだと言ったけれど、あたしは雅に言えない。 もう、一緒にいられないよ。 だんだん暗くなる空の下、一人でいられる場所を探してフラフラと歩いた。 ふと気付くと、学校の門のそばまで来ていた。 あたしは、躊躇せずに門を通って中へ入ると、教室に行きたくなって渡り廊下の方へ向かった。 けど、当然の事ながら、休みなので校舎に入るドアには鍵がかかっていた。 そのドアにもたれて、ずりずりと座りこむ。そのまま膝を抱えこんで、顔を埋める。 すっかりくじけてしまっていた。涙が出ないのが、不思議なくらいだ。 振り返った時に見た、雅の顔を思い出すと、永遠に立ち直れない気がして来る。 …泣いていた。何があっても、泣いたことなんてなかったのに。 あたしは、ぐったりと顔を埋めたまま、ずっと動かなかった。 この現実から逃れたくて、いつまでもそうしていた。 やがて。どれくらい時間が過ぎたのか分からないけれど、あたしは、顔を上げた。 辺りはすっかり夜だった。十時くらいだろうか。街灯がともり、星や月が出ていた。 小さな物音が、とてもよく響いた。 中庭を照らす光を見つめながら、考える。 雅が待ってる。だから帰らなきゃ。 「……」 雅が待ってる。だから帰れない。 どうすればいい?あたしはこのうずくまった場所から動けない。 正反対の感情に縛られて、こんなに苦しいくらいなら、この場でなくなってしまいたい。 泣きそうになるのを、ぐっとこらえる。空を仰いだ。 それでも、帰るしかない。そして、告げるのだ。裕君の元へ行きなさい、と。 告げられるだろうか。これっぽっちも、終わりになんかしたくないのに。 終わりにせずに済む方法は? 最後の救いを求めようとして自問するけれど、首を振って立ち上がる。 そんなものは、ない。恋を友達になる事で終わりにせずに済ませられる人もいるのかも知れない。 でも、これを恋と言うなら、あたしは今更友達として『裕君の雅』を見ているなんて出来ない。 歩き出す。雅が待ってる家へ向かって、二人の終章へ向かって。 もうすぐ夏だよ。夏休みは一人で過ごすよ。 胃の調子がおかしいのに海に誘われなくて済むね。読書の邪魔もされないし。 雅は、裕君と楽しく過ごすんだろうね。学校では話しかけないでね。 うちの学校は進学校だから、夏が終われば授業がコース別になるし、 だんだん出てくる人も少なくなるし、あんまり会わずに済むね。 妙に現実的な事に頭をめぐらす自分を不思議に思いながら、 また一方ではそうするのが自分の使命のように、考え続けた。 けれど、ずっと考え続けたかったのに。あっと言う間に家に着いてしまった。 顔を上げて、悲しい想いで、家を見上げる。 こうするしかないのだ。 自分に言い聞かせ、ドアを開ける。鍵はかかっていない。玄関先に靴が転がっている。 雅を見たら、何と言おうかと身構えながら居間へ行く。 そして、居間へ入った瞬間、あたしはその光景に立ちすくんだ。 雅は、ソファに横たわっていた。左手首を赤く染めて。落ちているナイフ。床に飛び散る血。 「雅!」 慌てて駆け寄った。肩をつかんで揺する。 「雅、雅っ」 返事はない。目も開かない。ガクガクと震え出す足にぐっと力を入れて、救急箱へと走った。 包帯を出して、雅の手首にきつく巻いていく。 巻いていると、頬を涙が伝って落ちて来た。 それを手の甲で拭いながら急いで巻いて、巻き終えると電話して救急車を呼んだ。 受話器を置くと、そのまま床にへたり込んだ。涙がポロポロこぼれる。 そのぼやけた視界で雅を振り返る。雅は、微動だにしない。 生きてるの? 怖くて確かめられない。ぎゅっと目を閉じる。哀願するように、叫んだ。 「死なないで」 明るい白い病室。その白いベッドで、雅は眠っていた。 蒼白いほどに透き通った頬をして。柔らかな髪で。左手首に包帯を巻いて。 生きていた。 あたしは、じっと雅の寝顔を見つめていた。と、病室のドアを叩く音がした。 あたしは、立ち上がって、ドアを開ける。 裕君が立っていた。雅の無事を確かめてから、呼んだのだった。 「雅は…」 心配そうに呟く裕君を、中へと導く。ドアを閉める。 裕君は、雅が寝息を立てているのを確かめて、ホッと息をついた。 「良かった」 心底、安心したような口調に、複雑な想いにかられて目を閉じる。 「眠ってる」 あたしはポツリと言って、裕君に椅子を勧めつつ、自分も雅を見るようにして椅子に座った。 あたし、黙って包帯を見つめる。 芯のほうがジンとしびれたようになってしまっている頭で、 さっきから考えているのは、何が雅にとって一番いい事なのか。 その事だけ。 しんと静まりかえる部屋。長い沈黙。裕君も何も言わない。二人、雅を見つめている。 こうしていたら、きっと時が止まってしまうに違いないと思えるほど長い沈黙だった。 止まってしまえばいいと思った。けれど、時が止まるわけもなく。 しばらくして、沈黙を破って裕君が口をきいた。 「何があったのか、聞かせてくれないか」 その言葉は風のように耳元を撫ぜて過ぎ、後からのんびり意味が届いた。雅を見たまま、答える。 「いいけど。裕君、ショック受けるよ」 その言葉に、彼、一瞬言葉をなくす。でも、すぐに続けた。 あたしを横から見ていた視線を、雅に戻して。 「いいよ。これ以上ショック受けても大して変わらないだろうし、なんとなく、分かる気もする」 あたしは、前を向いたまま口元だけで笑った。 本当の事を言ってしまうべきか、もし、言ってしまっても裕君は、こうやって平静でいられるのだろうか。 かなり長い間、迷った。やがて、あたしは決断を下した。重い口を開く。 「雅は、あたしを好きだって言うの」 「うん。知ってる」 本当に? あたしは、顔を上げて窓の外の暗闇を見た。抵抗のあるその言葉を、喉から押し出す。 「裕君よりも」 体を固くする。裕君の心が傷つかない事を祈った。空気はしんと静まりかえる。 誰も傷つけたくないよ。なのに、こんな事を言わなきゃならないなんて。 「それも、知ってる」 「……」 あたしが何も言わずにいると、裕君は、雅を見たまま言う。 「続けて」 言われても、すぐには口を開けなかった。暗闇を凝視する。 あたしが抵抗があると思った言葉が何でもないほど、これまで傷ついて来たの? じっと見つめてから、暗闇から目を反らして続けた。雅とけんかした時の様子を思い返す。 「あたしは我慢が出来なくて、家を飛び出した」 「…どうして。雅は、嬌子さんが大好きなのに。雅を、嫌いなの?」 雅を、嫌いなの?裕君の質問を心の中で繰り返す。 嫌いなわけがない。雅を失う事は、闇の一番深い所、冷たさの極みへ身を投げる事だ。 あたし、笑って首を振る。 「ううん。大好きだから。だから、これ以上いると、もっと好きになって雅といるのが辛くなるから」 「どうして、雅も嬌子さんが好きなんだから、構わないじゃない」 あたしは、裕君の言い方に、少し腹が立って口をつぐんだ。 そう思えなかったから、家を飛び出したのだ。 裕君より好き、と言う想いに応えてしまう事は、異常な事で、裕君を傷つける事だ。 あたしはグッとお腹に力を入れて、ずっとそう信じて来た言葉を口にした。 「雅は、裕君と付き合うほうが幸せになれる」 でも、その言葉は、たやすく否定された。 「違うね」 裕君の口調は、確信に満ちている。それで、あたしは何も言えなくなる。 「雅は、嬌子さん次第で死にもすれば幸せにもなる」 あたしは、思わず膝の上に置いた手をぐっと握った。 裕君は、言葉の重さとは裏腹に、穏やかな表情で続ける。 「俺じゃ、そこまで雅の心を動かせない」 膝の上で拳を握ったまま、裕君の声を聞いた。 「俺は…始めは、二人の事を微笑ましいと思ってた。ああ、凄く仲がいいんだな、って。 俺も嬌子さんと仲良くして、二人の仲を大切にしよう、って。そう思ってた。 でも、…違うんだ。雅は、嬌子さんしか見てない。嬌子さんを失うくらいなら、死んだほうがましだと思うくらい」 それから裕君は、しばらく雅を愛しげに眺め。そして、突然、自分の額に手を置いて、項垂れた。 「死なせたくない」 悲痛な声だった。絞り出すような苦しみ。 「守ってやりたいのに。俺以外の奴に渡したくないのに。どうしても俺じゃ駄目なんだ。 こいつに必要なのは、嬌子さんなんだ。…こんなのって、ありかよ」 裕君が取り乱している。普段は静かな彼の、雅への深く熱い想いを知る。 愛している。愛している。愛している。 裕君の心の叫びが聞こえる。 あたしは、きつく目を閉じて唇を噛んだ。 雅を守るのに、適切なのは、間違いなくあたしじゃなく裕君だ。たとえそれで、あたしの心が壊れても。 「雅に本当に必要なのは、やっぱり裕君だよ」 あたしが言うと、裕君は顔を上げて唖然とした表情であたしを見た。それから、笑う。 「俺は、死なせたくない。と言ったんだよ。 分からない?必要なのは俺かも知れなくても、雅が、欲しているのは嬌子さんなんだ。 今、嬌子さんが去ったら、雅は生きていられない。俺が去っても、生きていられる。それほど大違いなんだ」 笑った表情のまま、雅を見る。 「もうこれ以上、俺をみじめにしないでよ。…いてやって。嫌わないでやってよ。 こいつ、嬌子さんの事、ほんとに好きなんだから」 裕君は、雅の額に手を当てて、いとおしむ。彼は、雅の事だけを考えている。 雅は、あたしを好き。こんな、ちっとも優しくないあたしを。 「女が女の事、こんなに好きなんて変な奴だけど」 裕君の言葉に、胸を突かれた。 雅は、裕君よりあたしを好きだと言った。あたしは何を言っただろう? 正しいか正しくないかばかり考えて、何も言葉にしなかった。自分の気持ちさえ信じず認めなかった。 大好きなのに。離れるなんて、出来やしないのに。 裕君は、かなり長く雅を見つめた後、「もう、会わない」と呟いた。 「雅が、嬌子さんでなければ駄目だと言うのなら、…こんなの変だけど、嬌子さんに譲る」 体が震えた。裕君を見つめる。 「…本当に…」 それで…いいの? 裕君は、無言の相槌を打った。あたし、さらに拳を固く握る。 それは、間違っているよ。間違っている…でも。 「俺だけを想ってくれない人を想い続けるなんて、つらいから。 雅をこの世からなくしたくないから。その代わり、雅を不幸にしたら許さない」 あたしは、奥歯を噛み締めて裕君を見た。裕君が真剣な眼差しであたしを見る。 あたしは、その時初めて、想いを言葉にした。 「雅を、愛している」 この世に投げ出されたそれを、自分の耳で聞いた瞬間、それが紛れもない事実だと確信した。 愛している。愛している。愛している。 あたしの心も叫んでいる。 こんなに好きなのに、雅も同じ気持ちでいるのに、あたしは非常識だと言うだけで、諦めようとしていた。 裕君は、あたしが認められずに悩んだ事を、あたしと雅の仲を、難しい事なのに認めようとしている。 間違っていると知っている。あたしも、裕君も、知っている。それでも。 裕君は、緊張の糸が解けたように俯いて、つらそうに笑った。 「だから、不幸にしたら許さないよ」 受け取るからには、あたしは雅を、大切にする。悲しませたりしない。約束する。 「不幸になんかしない」 震えそうになる声を抑えて断言すると、裕君、立ち去る気配をさせて立ち上がる。 「裕君」 あたしもつられて立ち上がる。すると、彼が雅を見下ろして言う。 「雅といた時間、楽しかった」 そして、顔を上げてあたしを見た。真正面から見据える。 「殴って、いいだろうか」 彼の肩が震えている。あたしは、肯いて目を閉じた。 それで、彼の気持ちが少しでも静まるなら。 奥歯を食い縛る。ところが、いつまでたっても彼は殴らない。 やがて、 「……やめた」 小さく呟くと、あたしの横を擦り抜け、出て行った。 「裕君」 振り返って思わず呼び止める。けれど、彼は立ち止まらなかった。 そのまま、歩き去って行く。その足音が消えるまで、あたしは立ち尽くしていた。 裕君みたいにいい人に、つらい思いをさせて…。 約束する。雅を守る。幸せにする。 あたし、ゆっくり雅を振り返る。 ベッドの脇に寄って、雅を見下ろす。 一人で逝こうとした雅。 あたしは、正直でなかったばかりに一番大事なものを、自分の手でなくすところだった。 もし間に合っていなかったら。もしあと少し帰るのが遅かったら。 …取り返しのつかない事になっていた。 「……」 でも、間に合ったのだ。だから伝えなければならない。正直にならなければ、同じ事を繰り返す。 雅は眠り続けている。 あたしは、呼び戻す。この世で伝えなければならない事があるから。 「雅」 耳元で呼んでみる。雅が目を覚ましたら、一番に言わなければならない事がある。 何よりも先に伝えなければならない事がある。 薬が効いているのか、なかなか目を覚まさない。何度も、呼ぶ。長いまつげは、ピクリともしない。 白い包帯。綺麗な腕だったのに。 立ったままで、雅を見つめる。 「雅」 辛抱強く呼びかけると、何度目かの呼びかけに、まつげが震えた。 ぼんやりとした瞳は、焦点が定まっていない。あたしを見上げている。 やがて、焦点が合って来た。雅の瞳があたしを捕らえる。その途端、目を大きく開いて悲鳴を挙げた。 「いやああああっ」 「雅っ」 どうしても、伝えなければならない事がある。 「いやっ、見ないで!」 雅は、触れようとしたあたしの手を払って、背を向けると布団の中にもぐり込んだ。 布団の中でも叫び続けている。 「嫌わないでっ。嫌…」 雅の言葉が、胸に突き刺さる。あたしは、動けなくなる。 雅は、布団をかぶってあたしを拒否している。 ごめん、なんて言えない。そんなんじゃ済まない。だけど、生きてて欲しいと強烈に思っている。 今の気持ちを全部言い表す言葉が見つからない。何を言っても、きっと嘘に聞こえてしまう。 あたしのいない所へ行こうとした雅。そうさせたのは、あたし。 涙が溢れ出す。 こんなに生きていて欲しいと思う自分が、死んだほうがましだと思わせた本人なのだ。 傷つくのが怖くて、何もしなかった。逃げてばかりいた。情けなくて、馬鹿なあたし。 どれほど謝れば許してもらえるだろう。 とめどない涙が、顎を伝って床に落ちた。パタパタと音をたてる。止まらない。 逝かないで。ここにいて。愛している。 嘘じゃない。嘘じゃないのに…。 ふと冷たい指先が、手に触れるのを感じた。ハッとして目を開ける。 痛々しいものを見るような瞳の雅と目が合う。 「泣かないで」 雅が、あたしの手に触れたまま、言った。 あたし、その指先を両手で包んで雅を見つめる。涙がまたあらたにこぼれる。 「愛してる。ずっと、言えなかったけど。本当は、雅を」 今まで口にしなかった想いを、やっと口にした。隠し通すつもりだった想い。 「ほんと?」 「うん。言えなくて…あたし、馬鹿だった。どうしたら許してくれる?何でもする。謝るから…」 涙が溢れて、続きは声にならない。 「何もしなくていい。嬌子がいればいいの。だから、泣かないで」 雅が、あたしの右手をぎゅっと握った。 あたしは、左の手の甲で涙を拭うと、雅に顔を寄せて、その頬にキスをした。すると、雅が唇にそっとキスを返した。 目を閉じる。 もう離れない。何があっても。 あれから、雅は一言も裕君の事を言わない。 そして、あたしは考える。どうすれば雅を幸せに出来るのか。 「大好き」 雅に言われて、考えるまでもないと言う事に気付く。 「あたしも」 生活は続いて行く。たくさんの愛しいと思う瞬間にキスを交わしながら。 雅は、傷口を隠さない。あたしを手に入れた勲章のように、時々、いとおしげに見つめている。 あたしも、二人の仲を隠さない。誰に知られようと、何と思われようと、雅を確かに好きなのだから。 了