蒼い林檎


「ほら、いい匂い」

あたしは、消しゴムを渡す。雅はそれを受け取って、匂いを嗅ごうと鼻の間近まで持って行く。

「あ、そんなに近づけると…」

あたしは、慌てて注意するが間に合わず、案の定、くっついていた筈の消しゴムのカスがなくなっている。

あたしは、言うのが怖くて、でも笑えて仕方がない。そんな事もあった。

それから、知り合って間もない頃、雅が鼻血を出した事があった。

あたしは、こんなかわいい子でも鼻血を出す事があるんだなぁ。

と驚き、でも「大丈夫」と微笑んだ雅は、ティッシュを鼻に詰めていてもやっぱりかわいかったので、

また驚いたのを覚えている。

それに、せっかくいい気持ちで寝ていたのに、

口が開いてるからって雅にお菓子を入れられて飛び起きた事もある(窒息するかと思った)。

いろんな事があった。怒らされ、驚かされ、笑わされ。

そして。今度は海の夢。雅と裕君の事を考えて歩いていると、急に地面が海になって溺れてしまう夢を見た。

苦しくてもがいていると、目が覚めた。

目の前に雅がいて、あたしの鼻をつまんでいる。…どうりで苦しいわけだ。

あたしがじとっと見ると、くすくす笑う。

「日曜だからって、いつまでも寝てちゃ駄目だよ」

『寝起きは不機嫌』なあたしは、雅を怒る。雅はくすくす笑ったままだ。

「ほらほら、そんなに怒ってばっかりいると、しわが増える」

「おんどれが怒らせとんじゃっ!! しわなんかないわっ!」

怒りながら、今見ていた夢を気にかける。

溺れてしまう、なんて、なんだか現実を暗示してるみたいで、やだなぁ。

「そうそう。あたし、出かけて来るね」

そう言われて初めて、雅がやけにおしゃれしているのに気付く。どこへ?と聞こうとしてやめて、ただ肯いた。

雅は「行って来ます」と笑って出て行った。

あたしは、頭を覚ます為に布団の中でしばらく本を読んだ。

それから、起きて着替えると朝食を食べ、掃除を始めた。

日曜日は、二人で掃除をする日、なんだけどな。雅は元からだけど、最近はあたしまでさぼりがちだ。

あたしは、自分の部屋を掃除した後、掃除機を持って居間へ向かおうとした。

その時、雅の部屋のドアが少し開いているのに気付いた。

ドアを閉めようと、掃除機を置いて雅の部屋に行き、でも興味が湧いたので開けて中へ入った。

本ばかりのあたしの部屋と違って、女の子している部屋。

本当に、どこも似てないね。あたしと雅は。

妙な感慨を覚えつつ周りを見まわして、何気なくステレオのスイッチを入れる。

雅の部屋へは滅多に入らないから、物の配置がよく分からない。

並んだMDの中から、目についたビートルズを選んで、大きな音でかける。ベッドに腰かける。

前にある壁を見つめて、しばらく音楽を聴く。

ふと、雅が、目も眩むような高さの橋の欄干を

歩き始めた時のことを思い出す。(今日はいろんな事を思い出す日だ)あたしが言う。

「雅、危ないっ。こら、降りなさいっ」

「あははっ。大丈夫。ほらっ」

雅、足を滑らせる真似をする。ひぇーっ。やめろーっ。頼むからやめてくれーっ。

…って、あたしだけ、馬鹿みたいに焦ってたっけ。

そんな事を思い出しながら、ぼーっと音楽に浸っているうちに、

はっと気付くと投げ出されていた雅の洋服をたたんでいた。

たたんでやる事なんかない。と思ってやめて顔を上げると、ベッドの脇にフレームに入った写真があった。

それを見た瞬間、あたしはビクッとし、ショックで心が一気にくじけそうになるのを感じた。

見たくないのに、その写真から目を離せなかった。

それは、裕君が雅の肩に手をまわして、二人で仲睦まじく微笑んでいる写真だった。

二人が恋人然としている姿を実際に見たのは、これが初めてだった。

あたしは、あまりのやり切れない想いに、乱暴に写真を伏せた。

よろよろと立ちあがって、ステレオを消し、部屋を出ようとする。

戸口まで来ると、降り返って伏せられたそれを眺める。

「……」

あたしは、もう一度部屋に入って、写真を元に戻した。

気持ちを落ち着けるようにして、心が嫌がる、その写真をじっと見る。

これが、二人。正しい二人だ。

あたしは、部屋を出てそっとドアを閉めた。

掃除機を押し入れにしまう。今日は、掃除はやめ。あたしは、自分の部屋へ行った。

こんな想いを、あたしはいつまで抱えるのだろう。

こうして、誰かに渡すまで、今までと変わらぬ素振りで接するのだろうか。

雅といるのが楽しいから。雅が好きだから。

「いい恋をして、幸せになる事」

志保子。どうすればいいのか、分からないよ。

   

雅は、その日。明るい顔をして帰って来た。

でも、それが空元気だと言う事はすぐ分かった。そして、少しすると、案の定ふさぎ込んでしまった。

最近、裕君と会って帰って来ると、いつもこうだ。あたしは、見て見ぬ振りで夕飯の後片付けをした。

今、あたしは本を読んでいる。

雅がつけたものの、全然見てないテレビのバラエティ番組が、やけに浮いている。

そう思っていたら、リモコンでテレビを消した。

「凄く」

雅が、唐突に口をきく。あたしは、パタンと本を閉じた。雅はあたしを見ずに続ける。

「嫌な話、してもいい?」

あたしは、何となくどんな話か分かるような気がした。

「聞きたくなければ、拒否権を発動してもいいよ」

その下手に出た言い方に、笑って首を振る。雅はそれを確かめると、自分は笑わずに、告げた。

「裕君が、『一緒に暮らしたい。』って」

あたしは、愕然とした。

目の前が、真っ暗になる。鳥肌が立つ。あたしは動揺して、けど、落ち着いてるふりを装う。

裕君の事だろうとは思ったけど、まさかそんな話とは。

それは、雅があたしのそばを離れるって事?

いつか切り出されるかもとぼんやり思っても見たけど…。こんなに早く?

あたしは、本をぐっと握って、いつもの口調で聞いた。

「それで?雅は何て?」

「『嬌子を一人には出来ない』って」

あたしは、石のようにかたまってしまっている自分を感じた。口元が震えそうになる。

それを抑えて、強張った頬のまま、ぎこちなく笑う。

「ば、馬鹿だね。そんなこと、いいのに。だって、もともと一人だったんだし。雅が、そうしたいなら」

嘘だ。行かないで。

「春には、志保子も帰って来るし」

違う。本当はそうじゃない。でも、言えるわけがない。

想いと言葉が裏腹で、それがばれないように視線を反らす。

雅は、そんなあたしの顔をじっと見つめて黙っている。

「それで、裕君は納得したの?」

あたしが聞くと、雅が手を伸ばしてそっとあたしの頬を両手で包んだ。あたし、驚いて雅を見る。

「何…」

雅は、あたしの目を覗き込んでいる。頬がかあっと火照って来る。やがて雅がぽつんと言った。

「本当に?」

それを聞いて、更に頬が火照った。耳まで熱くなる。

本当にそうしてもいいの?つまり、そうしたい、と言う事?

それとも、そうしても平気なの?と聞いてるの?

あたしは、答えなかった。雅も黙ったまま何も言わない。

そうして、二人して向かい合って、しばらく沈黙の音を聞いていた。

やがてあたしは、我慢できずにきつく目を閉じると、雅の手を振り払った。

「好きにすればいいでしょっ。雅が決めることなんだからっ」

そのまま、雅の顔を見ずに居間を出て、足早に自分の部屋へ向かう。

雅をなくしたら、雅をなくしたらっ。きっと毎日がつまらない。

だけど、こんな事ももう、終わりにしたいよ。

部屋に入ると、ドアを閉めて床にへたりこんだ。涙が出た。心が叫ぶ。

こんな事、馬鹿げてるっ!!!

   

あたしは、それから眠りにつくまで、自分の部屋に閉じこもっていた。

大好きな雅に、今は会いたくなかった。視線を交わしたくなかった。

そして、その夜。雅に会わないまま、現実から逃れるように眠りについて間もなく、

あたしは自分の部屋のドアが開く音で目を覚ました。

まさか泥棒?と思ってドアの方を見ると、戸口からの明かりで、雅が黒いシルエットになって立っている。

なんだ、雅。

あたしはホッとして声をかけようかと思ったけど、さっきの事もあるし、何も言わずにいた。

用なら起こすだろうし、何か欲しいなら勝手に取っていくだろう。

ところが、雅は起こす気配も動く気配も見せない。あたしは、ちょっと不安になった。

暗闇の中、動きも喋りもせずに突っ立っているのだ。

あまり長い間何も言わないので、異様に思って、ついに声をかけようとした時、

雅が小さな声で、怯えるように言った。

「嫌わないで」

その言葉を聞いた瞬間、あたしは言葉を失った。

まるで、弾丸を打ち込まれたように、目を見開いて暗闇を見た。

どうして。

あたし、奥歯を食いしばる。

どうして、雅がそれを言うの?

雅はそれきり痛々しい様子で力なく立ち尽くしている。

あれからずっと、考え続けていたのだろうか。

あたしは、たまらずに「雅」と呼びかけようとして、思いとどまる。

けど、あたしに嫌われたって、雅には裕君がいるのだ。あたしは、雅をなくしたら、何もない。

それに、あたしはこの想いを言えないでいるのに、多分隠し通すのに、雅だけ言えるなんてずるい。

あたしは、何か優しい言葉を待っている雅に、あえて何も言わずに、寝てるふりをした。

雅は尚も待っていたが、かなりたって、ドアを閉めて出て行った。

わざとやっておいて、胸が痛む。結局。裕君は、納得したのだろうか。

あたしは、「一緒に暮らしたい」と言い出した裕君の胸の内を思った。彼も、雅が好きでたまらないのだ。

この想いは、決して口外できない。

   

あたしは、いつまでたっても起きてこない雅を起こしに、雅の部屋へ行き、ドアをノックした。

返事がない。あたしは「開けるよ」と断ってドアを開けた。

昨夜の事もあって、本当はまだ雅の顔を見たくなかった。

でも、どんな事情がある時でも日々のサイクルはいつも通りまわってくる。

…学校に行かなければならない。

実を言うと、今、自分の強さ(冷たさ?)に少し呆れていたりする。

雅は、布団を頭までかぶって寝ている。

「雅、遅刻するよ」

「学校なんて行かない」

あたしは困ったが、雅が口をきいてくれたので、ホッとした。

「行かないの?」

優しく聞くと、雅が布団から顔を出した。

あたしが、いつものあたしだと言う事を確認するようにじっと見て、それから、

「だって、プライベートがごちゃごちゃしてるのに、どうして学校なんて行かなきゃならないの?

プライベートのほうがずっと大事なのにっ」

自分の考えが正しいと言う信念のもとに、眉をしかめた顔で勢い良く言いきる。

「こんなんで授業聞いたって、何も頭に入らないっ。

きっと、途中で我慢できずに逃げ出すに決まってるっ」

あたしは、雅らしい言い方に苦笑した。

こういう時の雅の瞳の力強さと言ったら、誰も叶わないと思ってしまう。

雅の顔を見た。視線も交わした。あたしは、安心して背を向けた。

「じゃあ、あたし行ってくるから」

そう言って、雅の部屋のドアを閉める。歩きだすと、すぐにドアが開いて雅が出て来た。慌てている。

「待ってっ。行くっ。行くから、支度するから待ってて」

パジャマ姿で、頬を赤らめて言うと、またドアを閉めた。

あたしは、笑った。そして、泣きそうになる。

やっぱり、かわいいと思ってしまうよ。大好きだと思ってしまう。雅といるのは、楽しいのに、悲しいよ。

雅の支度が出来るまで、あたしは居間でテレビを見た。

雅がバタバタと走りまわる。画面の時刻が無情にも過ぎて行く。

あー。こりゃ、遅刻だ。あたしは諦めると、開き直って雅を待った。

この日。あたしと雅は、初めて揃って遅刻した。

 

 

     

 

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