第三部 二人の世界
心のまま
あたしと雅は、異形の恋をしている。
でも、あたしにとっては、それはちっとも異形じゃない。
他人から見ればそうでも、あたし達は、とても自然に想いあっていて、
想わないようにする事の方が不自然に感じる。
愛しい気持ちに、異形もへったくれもないのだ。
時にはけんかもするけれど、すぐに片のつくものばかりで、かえってその度に想いが深くなっていく。
夏休みには、今年は海をやめて、高原に遊びに行った。
全く快適な夏だった。
おかげで、胃もほとんどおかしくならずに済んだし。
でも、遊びに行ったと言っても、ただ遊んでばかりいたわけではない。
受験生なので、さすがに勉強のことも気になり、ほどほどに遊んでは、勉強もした。
おいしいものをたくさん食べ、涼しい風に吹かれながら勉学に励み、興味のある場所を見て回る。
と言うバランスのとれた楽しい夏休みだった。
滞在中に、高原にある教会で偶然結婚式を見た。
花嫁さんが、教会のドアから長いベールのついたウェディングドレスで現れたときには、
目の前に幸せ色の花が舞ったような気がした。
隣にいた雅も、彼女を見たまま、同じように視線が釘付けになっているようだった。
二人、花嫁さんが去ってしまうまで何も言わず、お互いの顔も見ず、そこにいた。
多分、雅もあたしと同じ気持ちで見ていたと思う。
あたし達は無言だった。
その場にいた人たちが去り、それに合わせてあたし達も教会を後に歩き出した。
雅が言う。
「綺麗だったね」
あたしは、「うん」と頷いて、それから雅を見た。
「雅ほどじゃなかったけどね」
と返したら、彼女がこっちを見て笑ってあたしの腕に、自分の腕をからめた。
雅の言葉の裏にある複雑な想いを、当然あたしも抱いた想いを、あたしは気づかなかったフリをした。
あのドレスを雅が着たら、どれほど綺麗だろうか。
けれど、人を感動させるあの儀式が、あたし達にとっても同じ意味を持つとは限らない。
それよりも、二人でいるどの時間も、とても充実している。
時間が気持ちよく過ぎていく、その事こそが今捉えるべき大事なことだ。
眩い笑顔を、あたしだけに見せる。
それがどんなに嬉しいか、それがどんなにあたしを嬉しくさせるか。
雅は知っているのだろうか。
「紅茶、どうすか?」
椅子に座って本に向かいつつ、あのとき彼女が見せた笑顔を思い出していると、
後ろからニュッと手が伸びてきた。
目の前に、琥珀色の液体が差し出される。
いい香りが鼻先をかすめる。
「あん?」
本を閉じて、振り向き加減に顔を上げると、ニッと笑った雅と目が合う。
「紅茶、いらない?」
「いる。サンキュ」
あたしは受け取って、それを口に運んだ。
うん。おいしい。
もう一口運ぶ。おいしいとも何とも口に出しては言ってないのに、
雅が嬉しそうに「ふふっ」と笑って、後ろからあたしの首に腕をまわした。
あたし、トキめく心とは裏腹にムッとして言う。
「あのね。ベタベタするの、やめなさいね」
「どうして?誰も見てないのに」
「……」
雅、黙ったあたしを、柔らかに抱きしめる。
「大好き」
抱きしめられながら、紅茶を飲む。
頬が少し火照る。
愛している。愛している。愛している。
恥ずかしくて言えないけど、いつも心はその想いで満たされている。
そんな柄じゃないから、露にしないけど、心が手足をバタつかせて、
「嬉しーっ!」
と叫んでいる。
ばかばかしい。恋って。
と思いつつ、でも、幸せだ。
そうやって一人で心の手足をバタつかせていると、雅が甘えるように耳元で言った。
「ねぇ。今度さぁ。海行こ」
思わず本を手から離す。
これはもう、条件反射だ。
しかし、落ち着いて考えてみれば、今は九月も終わりと言う頃である。
あたしは、上からハラリと目の前に落ちてきて頬に触れた、雅の髪の毛をつまんだ。
少しくせ毛のやわらかな髪。
「いいけど、もう泳げないよ」
「うん。泳がなくていいの。見に行こう。人もいなくて空いてると思うんだ」
好きだなぁ。海が。
と呆れながらもOKして、あたしは次の日曜、雅と出かけた。
電車の中。
少女が二人、シートに座っている。
右側の女の子が熟睡していて、左側の女の子に思いっきりもたれかかっているので、
左側のボーイッシュな女の子の上着が、引っ張られて首が苦しそうだ。
「……」
あたしと雅である。
昨夜、遅くまで起きていたらしいから、あたしはそのままでいた。
やがて、窓の外に海が見えて来たので、雅を起こす。
「着いたよ」
あたし達は、駅で降りると海岸へと向かった。
もうすぐ十月を迎えようとしている海は、本当に夏の名残りさえ感じさせないくらい静かだった。
人もいない。
さざなみが、遠慮がちに押し寄せては、誘うように遠ざかっている。
波とじゃれつつ砂浜を歩いた後、あたし達は芝生の生えた堤防の斜面に、並んで座った。
二人、飽きる事もなく波の残す線や、波自体を眺めていた。
それを見ながらあたしは、昔、友達と見た夜の海を思い出していた。
中学の修学旅行。
海のそばの旅館に泊まったので、あたしは夜友達と一緒に、そっと抜け出して海を見に行ったのだった。
夜の海。
それは、あたしにとって、格別だった。
友達は、「生き物みたい」と言ったが、あたしは、そんなふうには思わず、ただただ見とれていた。
波は、果てしなく重そうで、黒い液体が盛り上がり、うねりながら迫っては、崩れて引いていった。
真っ黒で、コールタールのようで不気味だった。
コールタールの波は、そんなはずはないのだけど、温かみを帯びて見えた。
そして、あたしはどういうわけか、ふと、その波に呑まれてしまいたくなった。
黒いコールタールの波を作り出す海の底に、あたしの求めている物、
あるいは場所がなんとなく潜んでいて、温めてくれるような気がしたのだ。
あたしは歩を進めた。
友達が、あたしを覗き込むようにして、
「まだ行くの?」
と不安げに聞いた。
あたしは、波うち際にどんどん近づいて行った。
止まる気配を見せないあたしの腕を、突然友達がつかんで、
「もうやめよう、怖いよ」
と泣きそうに言った。
別に波が噛み付くわけじゃないし、悪くてもびしょ濡れになる程度だったけど、友達は本気で怖がっていた。
あたしは、その友達の顔をちょっと見つめてから、諦めて、安心させる為に笑って、宿へと戻った。
彼女を怖がらせてしまった事を、悪い事をしたと感じた。
もう三年も前のことだ。
でも、あたしは今でも夜の海が嫌いじゃない。
写真集で、夜の海を写した写真なんかあると惹かれてしまう。
暗闇の中、月の光だけを浴びて不気味に美しいその様は、確かにちょっと怖いけど目が逸らせない。
…雅はきっと、夜の海、好きじゃないだろうなぁ。
でも、それでいい。あたしは、あたしと別の人間である雅が好きなんだから。
雅は、隣で同じように海を見つめている。
強烈な潮の香り。穏やかな陽気。沖の方で光る海。
気持ちよくて目を閉じる。
一番そばにいて欲しい人が、実際にそばにいる喜びを、どう表現しよう?
最近、綺麗なものを見るとき、あたし達は無口になる。
胸に湧いてくるせつない想いを上手く言えなくて、
下手に口に出したら台無しになってしまうから、ただ黙ってそばにいる。
あたしと雅の間で、心が木霊する。
あたし達はその日、長い長い時間、そうして海を見ていた。
☆
「あのね。プレゼントがあるの」
「え!」
二月のある日。
あたしは、あたしの部屋へ入って来た雅の、思いもかけない言葉に驚いた。
「今日、バレンタインでしょ。だから」
雅、そう言って、包装紙に包まれた筒状の物を差し出す。
そして、机の上にポンと置くと、
「じゃね。開けてみて」
と言って、あたしの部屋を出て行った。クスクス笑いながら。
あたしは、唖然とした。
突然バレンタインだなんて言われても…そうかぁ、バレンタインかぁ。
あたし、持っていたペンを置いて、その筒状の物を手に取ってみた。
小さい割には重い。何だろう。
包装紙を破らないように注意を払って開けてみると、中からコインチョコが顔を出した。
一枚ずつ金色の紙に包まれた、大きめのコインチョコが数枚、白い網に入っている。
バレンタインにチョコはノーマルだけど、コインチョコとは懐かしくもおしゃれな選択ではないか。
などとちょっと感心しながら金色に輝くそれを眺めた。
網から一番上の一枚を何気なく取り出して、金色の紙を剥いた。
紙は何故かしわになっている。
でもすぐに、その謎は解明した。一度開けて、また戻したらしい。
チョコには、表面にホワイトチョコで文字が書いてあった。雅の字だ。
『EAT ME』
あたしは感激して叫んだ。
「すごい!凝ってる!」
これはアリスの真似だ。「私を食べて」。
か、かわいい。し、しかも、こんな事が出来るようになったなんて、
おかずも少し作れるようになったし、この料理の上達ぶりは、嬉しい。
最近、雅は料理にも興味を持ち始め、メキメキと腕を上げている。
いろいろと作っては持ってきて、食べさせてくれる。
恋って、素晴らしい。
興奮しながら、ドキドキしながら、そのチョコを口に放り込んで、二枚目も剥いてみた。
『KISS ME』
と書いてある。
「……」
…もしかして、全部違うのだろうか。
ちょっとアリス路線を離れて来たような気が…
ちょっと気になって、三枚目も剥いてみた。
『HOLD ME』
やっぱり。
恐る恐る四枚目を剥いて、額に手をやった。
『SHAKE ME!』
…あのね…。鼻血出るぞーっ!
あとは何枚剥いても『SHAKE ME!』だった。
ったくもー、かわいいと思ったあたしがバカだった。
あたしはムカムカしながら、ウズウズしながら、剥いてしまったチョコを、また金色紙で包んだ。
ほんとにもーっ、あたしが悩んでるってのに、こんな事しか考えとらんのかーっ、嬉しいけど。
あたしは、裏返した手紙を表に向けて、はあっ、と溜息をついた。
「……」
あたしは、悩んでいる。
志保子に手紙を書くにあたって悩みが生じて、筆が止まっているところへ雅が入って来たのだった。
ちょっと前から気にかかっている事。
今年の四月には帰って来る予定の彼女の事。
まだ、あたし達のことを知らせていない。知らせない方がいいのだろうか。
志保子。あたしは、志保子の望む恋をしていない。
だけど、恋をして幸せな気持ちになっているのは本当の事。
この恋を知ったら、志保子は何と言うだろう。
思うに、四月は「あっ」と言う間に来てしまうに違いない。
そうしたら、雅はどうするんだろう。どうしたいんだろう。
三人で暮らすのだろうか。となると、二人の仲を志保子に告げずにはいられないわけで、
別に隠すつもりのない恋ではあるけれど、それが志保子となると、ちょっと抵抗がある。
うーむ。
なんて考えこんでいると、ドアをノックする音がした。
「いいよ」
と言うと、雅が楽しそうに入って来た。
「開けてみた?」
「うん。鼻血出るでしょ」
「出た!?」
「出ない」
雅、ガックリと肩を落とす。
つまらなそうに「なーんだ」と鼻を鳴らした。
「出たことないのに、今更出ないよ」
あたしは視線を手紙に戻した。
生まれてこの方、あたしは鼻血を出したことがない。
自慢でもなんでもないが。
ホワイトデーに何かやらんと拗ねるだろうな。なにか考えなければ。
途中まで書いた手紙を読み返し始めると、雅があたしの手元を覗き込んだ。
頬が触れそうなほど雅の顔がそばに来る。
雅は、ますます綺麗になりつつある。
実際に綺麗になっているのか、あたしの心があたしにそう見せているのか、分からないけど、綺麗だ。
「何書いてるの?」
「手紙だよ。志保子への」
雅は何も言わない。でも、雅の周りの空気が少し強張ったのが分かる。
やがて、読み終えたらしい雅が、あたしの頭に顎を乗せて聞いた。
「その先は?」
「まだ考えていない」
と言うと、
「ふーん」と鼻を鳴らす。
真剣なのかと思ったらふざけているようでもある。
あたしは、何も考えていないような雅の態度にちょっとイラついた。
「雅も考えてよね。もうすぐ志保子帰って来るんだから。どうする?一緒に住む?雅はどうしたい?」
「うん…」
上の空みたいな返事の後、黙っている。
もう、現実的な事となると、何も考えられなくなるんだから。
あたしは、ふーっと溜息をつくと、しょうがないから一人で考えようと、また手紙と向き合った。
「あのね」
雅が、後ろから声をかけてくる。
「何」
あたしは面倒臭くて、前を向いたまま聞いた。
「嬌子、びっくりするかも知れないし、考えるたびに泣きそうになるから言わなかったけど」
え?
「五月から五ヶ月間、留学するから」
あたしは、弾かれたように顔を上げた。
後ろを振り返る。
「なんて?」
雅、淋しそうに笑う。
「留学するの」
「誰が」
思わず、責めるような口調になる。
雅はすでに瞳に涙を浮かべている。今にも崩れそうな表情で無理に微笑む。
「嬌子の大好きな雅」
あたしは、雅の顔をまじまじと見つめた。
とても信じられなかった。雅は何を言っているのか。
雅が逝こうとした「あの日」から、まだ半年とちょっとしか経っていないのに、
また、あたしを離れると言うの?
あたしを離れられると言うの?
「ごめん。大学のカリキュラムに組み込まれてるの。どうしても必要なの。本当の英語を身につけたいの」
雅の声が潤んで、涙がポロリと頬を転がり落ちた。
あたしは、目を逸らして机に向き直った。
あまりに突然の事で、どう反応していいのか分からない。
雅はN大学の英語科に推薦入学が決まっている。
英語教師を目指す雅。彼女の為を思うなら、認めるべきだ。
志保子の時だって、そうしたじゃない。
だけど。心に正直になるなら、あたしは志保子の時だって「行かないで」って言いたかった。
言ったら、志保子が困ると思ったから言わなかった。
「怒ってるの?」
雅が震える声で聞く。
あたしは、机上の手紙を睨むと、絞り出すようにして聞いた。
「あたしが、『行かないで』って言ったら、行かないの」
雅が、絶句する。あたし、体を固くして返事を待つ。
雅が困るかも知れなくても、知るもんか。
あたしは意思表示くらいしたっていい筈。
「行かないで」って口にするくらい、許される筈。
ややあって、雅の声が聞こえた。
「…ごめん」
あたしは、目を閉じた。泣きそうになる。
雅が、あたしを後ろから抱きしめる。
「ごめんっ。ごめんねっ」
謝ることない。「行かないで」って言いたかったけど、
あたしが止めたくらいで行くのをやめる程度の決意なら、逆に腹が立ってた。
あたしのせいで雅が夢を諦めなきゃならないような事があるなら、あたし達、恋人である意味がない。
「大好きだからっ。どんなに離れてたって、どこにいたって嬌子の事想ってるから。感じてるからっ。
電話もするし。手紙も書くよっ。嬌子しかいないからっ」
雅の必死の声に、あたしは我慢出来なくなって立ち上がると、振り返って雅を抱きしめた。
あたしだって、きっと離れても雅を感じる。雅しかいない。それは確かだ。
だけど、留学という形ないものに、雅を奪われるような気がして不安が胸を締め付ける。
行かないで。あたしが守りきれないところへ。
あたしの大好きな人は、いつも遠くへ行ってしまう。あたしをここに残して。
抱きしめたまま、雅に口づける。
柔らかな感触をとらえて絡める。
誰にも、何にも渡さない。
「忘れないで」
長い接吻の後、唇が離れて思いがけない言葉が口を突いて出た。自分でハッとする。
自分を惨めにするようなそんな弱気な言葉、今までのあたしなら言わなかった。
信じているつもりなのに、雅の心が離れるのを、あたしは心配している…?
それを聞いた雅の顔が歪んだ。
「忘れない、忘れるわけないじゃない!」
心のまま思い切り怒りをぶつけてくる。
その様子に、あたしもカッと来て負けないくらいの大声で叫んだ。
「信じてないわけじゃないけどっ!不安になったんだから、しょうがないじゃない!
あたしを置いてくくせに怒らないでよっ」
今度は、雅がハッとする。そして、俯くと、
「ごめん」
と言った。
あたしは怒ったけど、雅のその急にしゅんとした様子がかわいくて、すぐに許してもう一度抱きしめた。
雅といると、あたしはどんどん素直になっていく。
今までなら言わずに済ませた言葉、今までなら言えなかった言葉を、ぶつけてる。
一枚ずつ皮が剥がれていくように、自分が変わっていくのを感じる。
そうして、あたし達また一つ分かりあう。
「ごめんね」
腕の中で、雅が繰り返す。
あたしは、目を閉じた。
罪の意識を感じている声。その声色から、どんなに悩んだか、容易に想像のつく声。
それが分かるから…
あたし、ふっと息を吐いて笑う。
「もう、いいよ。雅が自分で決めた事なんだから。悪い事したわけじゃないんだから」
雅は、驚いたようにあたしを見つめて、それから俯いた。
しばらく黙って、不思議そうに呟く。
「ほんとに…こんなに好き」
どこにそんな力があるのか、少し痛いくらいに、あたしを抱きしめる。
そして、鼓動を聞くように、あたしの胸に耳を押し付けて目を閉じた。
「どうして嬌子の事考えると、心が宇宙より広いみたいに思えるんだろう。
あたし、いつも自分はちっぽけだと思ってたけど、今は全然そんなふうに思わないよ」
安心したように微笑む。それを見ると、あたしは少し申し訳ないような気分になる。
胸に湧いて来る想い。
もっともっともっと、優しくなりたい。
全然足りない。優しくしたいと言う思い通り、優しさを注ぎたい。
自分で冷たいと思うのに、それが不満なのに、どうして変われない。
もっと素直に優しく出来る人間になりたい。
雅がくれるトキめきに、応えられるほどの人間でありたい。
そんな想いに弾けそうになってドキドキ言ってる胸の鼓動を、雅は耳を澄まして聞いている。
「生きてるって、それだけで凄いね。命っていう目に見えないエネルギーで動いてるんだもん」
しみじみと言うその言葉が、特別な意味を持って響く。
『あの日』の雅がいるから、今の雅は生きることをとても大切に思っている。
生きることに幸せを感じている。
でも、あの日の後しばらくは、雅はまだ暗さを引きずっていて、朝をとても怖がっていた。
「朝が来るたびに、嬌子が愛してるって言ってくれたのは、自分の見てた夢で、
やっぱり現実では嫌われてるんじゃないかって不安になるの。
だから、起きたら何度も何度も何度も現実だったかどうか考えるの」
そう言う時の雅は、とても儚げでこっちまで辛くなるので、
あたしは毎朝早起きしてあたしから雅を起こしに行き、笑顔を見せるようにしていた。
今はもうそんなことをする必要もない。
雅はどちらが現実かよく分かっている。
「嬌子が生きてるのを確かめると、あたしも生きてるのが分かるね」
あたしは、無言で笑う。
愛しいのは雅。泣きたいくらいに。
「嬉しい」
腕の中の雅が、溜息まじりに繰り返すので、
「うん。生きてるのはいいよね」
と言うと、
「ううん。そうじゃなくて…」
と首を振って、あたしを見る。
「嬌子。怒ってくれたから。あたしの為だから、
とか言って留学すんなり認められちゃうんじゃないかと思ってたから」
「……」
「それに」
雅、色っぽい伏し目がちな瞳をする。
「素敵なキスくれたから」
そう言って、あたしが赤くなるのを確かめると、いたずらっぽく笑って上向き加減に目を閉じた。
あたしはふいっと横を向いたけれど、いつまでもそうしているので、笑えて来てもう一度唇を重ねた。
唇と唇を合わせるだけの軽いキス。
離れて見ると、雅、満足げに微笑む。
決めた。二人の事は、この家に三人が揃ったときに、志保子に告げよう。
認めてもらえなければ、話し合って最良の方法をとるしかない。
「留学先は?アメリカ?」
「ううん。イギリス」
イギリスかぁ。ほとんど志保子と同じ距離。遠いなぁ。
あたしは、雅を見つめて真面目に言った。
「ちゃんと待ってるから。絶対待ってるから。あたしは、ここにいるから」
雅も同じように見つめ返して、答えた。
「うん。たとえ飛行機が落っこちても帰って来るよ」
雅がここにいる三ヶ月。一緒に暮らす三ヶ月。あと三ヶ月。
雅を愛する。
☆
腕まくりをして茶碗を洗っていた雅が、洗い終えて居間へやって来た。
まくったままの腕に虫に刺されたような小さな赤い痕があるのに気づく。
「どうしたの、それ」
と聞くと、
「キスマーク」
と言う。
あたしは、一瞬言葉に詰まった。雅を見て笑う。
「冗談」
「冗談じゃないよ。自分でつけたの」
あたしは、再び言葉に詰まった。そして、今度は苦笑する。
「どれくらい持つものかと思って。もう丸一日経つけどまだ消えない」
そう言って嬉しそうに眺めている。
その様子をじっと見て、これはまた何か考え付いたな、と思う。
でも、あたしはあえて聞かない。ただ、その痕をボンヤリ見つめる。
綺麗だなぁ。透き通るように白い腕に赤くポツンと。
なんて見とれていたら、雅が甘えるようにあたしを見た。
嫌な予感がして身構える。彼女は言った。
「五ヶ月間消えないキスマークつけて」
「な…」
あたしは唖然とした。
それから頭がクラついて、眉間に手をやりガックリとテーブルに突っ伏す。
「あのね、雅」
気を取り直して顔を上げると、雅、拗ねて横を向く。
「分かってる。そんなの無理だって」
「いや、そうじゃなくて」
「だけど、欲しかったんだもの。行く間際につければなんとか…」
人の話を聞いとらんな、こいつは。
あたしは、本当は触れたくないことでもあるのだけど、雅の左腕を掴んで、傷跡を人差し指でなぞった。
「キスマークなんてなくたって、あたしはここにいるじゃない。
そんなのなくたって、あたしは雅のものだし、雅はあたしのもの」
そう言うと、雅、ハッとしてあたしを見た。
あたしは、言ってしまってからちょっと熱くなった。
傷跡に触れることは、「あの日」を思い出すことで、
それは二度と味わいたくないあの痛ましさと重さを感じてしまうことだ。
そんなものを、わざわざ雅の発想の引き合いに出すこともない。
だけど、それは紛れもない事実で、雅の傷跡がある限り、あたしは雅の中にいるのだと確かに思う。
雅は、しゅんとして大人しくなった。
と思ったら、なにやら考えこんでしまった。
あたしは、予想外の静まりように、少し戸惑った。
「雅?」
顔を覗き込むと、上目遣いにあたしを見る。
「そうなんだけど。でも、やっぱりキスマークも欲しいの」
その窺うような表情に、あたしはうっと詰まって、そして笑いながら溜息をついた。
しょうがないなぁ。
「分かった。行く前でいいんでしょ」
雅の瞳がキラッと輝くのが見えた。
「やったー」
雅は叫んで横からあたしに抱きついた。
本当にもう、妙なことばっか熱心なんだから。
雅が抱きついたまま、柱のカレンダーを見上げる。あたしもつられて見上げた。
「あと二週間になっちゃったね」
耳元でポツリと言う。
そう。雅の旅立ちまで、もう二週間になってしまった。
早いもので、今は四月半ば。時は流れ、あたし達は高校を卒業し、大学生になった。
鮎川さん、S君その他、ちょっとばかりあたしに興味を抱かせてくれた人たちを見ることも、もうない。
わずかに袖触れ合った彼らは、けれど、あたしの全く知らない彼らの道を歩んでいく。
それは、あたしの道とは確実に違う道。
…なんて、卒業式の頃にはセンチメンタルな気分になったりもしたけど、
今は新しい生活のサイクルに慣れるのに忙しい日々だ。
春には、春の花が咲き、訪れた別れと引き換えのような出会いがそこここで生まれている。
あたしも友達とまでは言えないけど、個性豊かで楽しませてくれる何人かと知り合いになった。
彼女たちは、付き合いの悪いあたしに、
「あー、彼氏と会うんでしょう」
なんて一方通行的親しさで言ってくる。
そんな時、あたしはニッコリ笑って無言で去ることにしている。
そうそう。
今月帰って来る予定だった志保子は、仕事の都合で帰国が半年延びた。
だからまだ、二人の事は言ってない。
淋しいような、良かったような複雑な気分。
これで、打ち明けるのはだいぶ先の事になる。
あと二週間で雅も行ってしまうし、今度こそほんとの一人暮らしが始まる。
巷では出会いが生まれているけど、あたしと雅には二週間後に、少し時期外れの別れが待っている。
「また難しい本読んでるね」
テーブルの上の、雅と話す為に閉じられた本のタイトルを見て、彼女が言った。
あたしは「ああ、これ?」とそれを手に取ると、
「面白いよ。ちょっと文章が長くて面倒臭くなるとこもあるけど」
パラパラとめくりながらそう言って、その本を雅へ差し出した。
名作と呼ばれる長編小説だ。
雅は受け取って開いて眺めてはみたものの、首を左右に振ってパタンと閉じ、あたしに返した。
「読めそうにない。あたし、文字を追うのって苦手」
残念そうにする雅になんて言っていいか分からず、ただ笑い返す。
すると、雅も笑う。
「でもね。本に夢中になってる嬌子を見るのは好き。
あたし、本読めないし、どこが夢中になるほど面白いのか分からないけど、
ああ、嬌子は本がないと駄目なんだなぁ。って、それだけは分かるの。
それが分かるのって嬉しくて、で、そう思いながら見る嬌子って凄く愛しい」
急に、愛しいなんて言葉で言われて、ドキッとする。顔が赤くなる。
「赤面する嬌子は、もっと愛しいけど」
あたしは、かーっと熱くなる耳を押さえた。
何もかも言葉にして発してしまうのは、雅のいいところでもあるんだけど、…遊ばないで欲しい。
雅は、楽しそうに笑ってあたしにもたれかかると、テレビの電源を入れた。
そして、あたしはそれを合図のように本に目を戻して、本の世界に没頭する。
そういう時は、お互いがお互いにとって空気になる。
存在しないようでいて、いないと困る。ないと生きていけない。
いるから、それが雅だから、安心して違う世界に行ける。
「ああ、嬌子は本がないと駄目なんだなぁ。って、それだけは分かるの」
あたしは、さっきの雅の言葉を思い出した。
そして、ああ、それでだったのかと納得する。
前まで、「本ばっかり」と呆れて敬遠していたあたしの部屋に、雅はよく遊びに来るようになった。
そればかりか、
「居心地がいい」
なんて言ったりする。
それを聞いた時、どういう風の吹き回しだろうと首を傾げたりしたものだけど、今分かったような気がする。
たくさんの本を見ながら、そんなふうに思っていたんだ。
一緒にいるうちに、想いも理解も深まっていく。
なのに、二週間後には雅は旅立ってしまう。
二人離れても、想いは凍りついたりしないだろうか。
信じてはいるけれど…
離れたくない。心はこんなに嫌だ嫌だと泣き喚いている。
どうにか雅を手離さずに済む方法はないかと模索している。
でも、行かないことが雅にとっていい事じゃないのも知っている。
だから、その日が来たなら、あたしは笑って送り出す。