旅立ち


中学生だった頃、せっかく仲良くなった友達が転校していってしまった。

その子が転校すると知ってから、本当に転校してしまうまで、

二人はそれまで以上に仲良しだった。

まるで残された時間を惜しむように仲良しだった。

ずいぶん経ってから、その子に偶然会ったことがある。

彼女は相変わらず元気で、あたしも嬉しかったのだけど、

毎日毎日バカなことを言ってふざけあってた頃のようには話せなかった。

滅多に会えない友達との場合、生活の上での点のような短時間の再会に、

バカなことを言っている暇はないわけで、あたしは今では

「バカなことを言ってふざけあう」ということには、とても重要な意味があると思っている。

何気なく思えるその行為は、毎日会っているからこそ出来ることだ。

あたしは、雅と両想いだと分かるまで、いつか彼女と別れる日が来る事がとても不安だった。

一生、毎日毎日会えると言う人間関係に、「友達」はよっぽどの例外を除いて含まれないから。

けれど、あれからあたし達は、ただの友達でなくなった。

たとえ半年離れようと「バカなことを言ってふざけあう」日々はなくならない。

だから、あたしは安心して待っていればいい。

そう。ただ待っていればいいのだ。

たった五ヶ月じゃない。そしたら、また会えるじゃない。

そう自分に言い聞かせて。

不安になんて負けてやらない。別れ際にだって、泣いたりしない。

          ☆

コンコン。

雅があたしの部屋のドアをノックした。

音楽を聴いていたあたしは、慌てて耳からイヤホンをはずして、それを引き出しの中に隠す。

「何を聴いてるの?」

なんて聞かれたら、おしまいだ。

「はい」

隠し終えて返事をすると、ドアが開いた。

雅が顔を覗かせる。

「ご飯、出来たよ」

「うん。分かった。今行く」

雅の顔がドアの向こうに消えて、あたしはホッと息を吐いて、

引き出しの中から、今度は自分で書いた歌詞カードを取り出した。

上から下まで見たあと、ニッコリする。

うん。だいぶ覚えた。

それをもう一度しまって、立ち上がると居間へ向かった。

今日は、雅が食事当番だ。

やっと当番を交代でやれるようになった。

雅の料理は、教え方がいいせいか最近メキメキ上達してきた。

「あっ」

食事を始めて、魚の身をほぐし終えた途端、一番おいしそうなところを雅に横取りされてしまい、声をあげる。

が、もう遅い。雅は楽しそうに笑って、「おいしー」と言った。

悔しくて、雅の魚に箸を突き立てると、雅も取られまいと必死で押さえる。

「ちっくしょーっ」

と言うと、雅が魚を押さえたまま立ち上がる。

あたしも一緒に立ち上がった。

テーブルをはさんで、キッと睨みあう。

お互いにけんか腰に顎を突き出し顔をグッと近づけると、唇が触れそうな距離にあった。

思わず口づける。

「魚くさい」

あたし、フンと鼻を鳴らして言う。雅も、フンと上向き加減に見る。

「ほぐし終えるまで一口も食べないなんて、食べてくれって言ってるようなもんよ」

じっと見つめあった後、力が抜けたように一緒に座り直して、続きを食べる。

出発を明後日に控えて、あたし達は異常な精神の高揚を押さえ切れず、

視線が合うだけで、チリチリと心が焼けるような音を聞いてしまう。

何かしておくべきなんじゃないだろうか。でも、何をすればいいのか分からない。

離れる寂しさを、相手に八つ当たりみたいにぶつけてケンカっぽくなって、

そのくせ愛しいもんだからイライラする。

明後日。明後日!

それを思うだけで、もうっ。ああ、テーブルをひっくり返してしまいたいっ。

グチャグチャになってる気分を、どうにかグッと抑えて食べ終え、

あたしは早々と席を立って、自分の部屋に戻った。

部屋に入ってパタンとドアを閉めると、緊張の糸が緩んでホッとする。

気持ちを切り替えて、机の引き出しからまたイヤホンを取り出し、歌を覚えることに集中する。

あたしは今、さだまさしの歌を覚えている。

雅が見送りのときに空港で歌って欲しい、と言うのだ。

一昨日それを聞いたとき、あたしは顔を歪めた。

「さ、さだまさしって、あの…暗い?そして、古い?」

と言うと、雅はムッとした。

「何?その言い方。それって、偏見だよっ。

アルバム全部聞いたわけでもないのに。綺麗な曲がたくさんあるんだからっ」

すごい怒ってる口調で言われたけれど、そんなこと言われても、

あたしは彼の歌って趣味じゃないし、雅の言うその『最終案内』という歌も全く知らない。

だいたい今時さだまさしって…

聞けば、その歌の入ったMDも行方不明になっているらしくて、

あたしは「じゃ、その案は却下ね」と、その場でキッパリ断ったのだった。

でも、昨日一日その事は頭にひっかかっていて、…結局、パソコンで動画を探して音を拾って覚えている。

もちろん、昨日あれだけキッパリ断ったからには、覚えてる最中だなんて言える筈もなく。

素直になれるようになったと思ったけれど、こんな事があると、つくづく素直じゃない、と思う。

そう簡単には治らないな、この性格は。

『最終案内』は、恋人を空港で見送ると言う、まさにあたし達そのものを描いたような内容の歌だ。

流れる風みたいで、確かに綺麗な曲ではあるけど、これって…

女の人の気持ちが少し男の人から離れていっている状態を歌ってるんじゃないすか?雅さん。

ま、いちいち歌のニュアンスの多少の違いを気にしてたら、やってられないけどね。

気にしないでおこう。

もう一度、最初から最後まで歌詞を見て小声で歌ってみて、

歌えることが分かったら、今度は歌詞を見ずに歌ってみる。

こんな練習めいたことをすることになるとは、思わなかったな。

歌いながら、今までのあたし達を思い出す。

いろんな出来事の、雅のたくさんの表情。

笑った顔。怒った顔。拗ねた顔。悲しそうな顔。いたずなら瞳。強い瞳。

雅の心が動いているのが分かる。

抱きしめあった日。キスした日。見つめ合った日。手を差し伸べた日。見守った日。

そして、苦しくて悲しくて消えてしまいたかったあの時も、いつもいつも雅はあたしのそばにいた。

音楽を止めて、やおら立ち上がる。

部屋を出て居間へ向かった。そのドアを開けると、中にいた雅がこちらを見た。

勢いよく開けたので、驚いている。

「嬌子」

テーブルの上に、今までの写真と思しきものを広げて、その中の数枚を手に持っている。

あたしは、近づいてそれを覗き込もうとし、少し屈むとそのまま雅を抱きしめ床へ倒れこんだ。

雅の手から写真がこぼれ落ちる。

雅はビックリしたのか、あたしの下でジッとしている。

あたしは、顔を上げて雅を見た。

右手で雅の前髪をかき上げると、額にキスをする。

祈るように、口づける。髪にも、髪の生え際にも。

雅の放り出されていた腕が、あたしの背中へと動く。

少し離れて見つめると、微笑んで目を閉じる。

あたしも目を閉じ、眉にキスをする。それから、目蓋に。

柔らかく唇でなぞるように。

睫毛に、頬に、鼻に、目尻に、耳に、そして白いうなじに。

キスできる全ての場所に。雅の全てに。

ゆっくりと丁寧にキスを繰り返す。

雅の着ているあたしのシャツのボタンに手をかける。

と、それ以上先へ進むのをためらうように、雅があたしの手に触れた。

進むのをやめて瞳を合わせ、しばらく見つめる。

雅は再び目を閉じて、そっとその手を退けた。

あたし、ボタンを外していく。

透き通るほどに蒼白い胸が現れる。

ブラジャーを外し、弾力のあるその膨らみにも口づけた。

切なげに目を閉じる雅は、さながらこぼれる真珠。

唇を雅の肌に押し付けると、雅は甘い吐息をもらす。

この肌も、唇も瞳も髪も胸も、心も傷跡も、全てあたしのもの。

「待って」

雅が、上気した顔で言うと、起き上がってあたしの服のボタンを外し始めた。

あたしがしたと同じようにシャツを脱がし、ブラジャーを取ると、あたしに抱きついて唇を重ねる。

あたしの胸と雅の胸が触れ合う。

そのしっとりと吸い付くような感覚に、頭の中で何かが弾け飛んだ。

夢中で雅の熱い唇を吸うと、雅があたしのジーンズのジッパーを降ろして、手を滑り込ませてくる。

雅の肌が滑らかで、気が遠くなるほど―

気持ちいい。

「……っ」

声にならない声をあげたのは、あたし。

抱いているのはあたし、抱かれているのは雅、そう決め付けていたのが間違いみたいに、

これじゃあ、まるで気持ちの上では、あたしが抱かれてる。

視界の隅には、投げ出されたジーンズと下着。テレビのリモコン。ばらまかれた写真。

聞こえるのは、心臓の音と雅の喘ぎ声、あたしの喘ぎ声。

熱い。息が乱れる。心臓が破裂しそう。目が霞んで…ああ、離したくない。

          ☆

「起きた?よく眠ってたね」

目を覚ますと、雅の顔が目の前にあった。

毛布がかけてある。電気が消えていて暗い。

じゃあ、まだ夜なんだ。体が痛い。そうか、ここは居間だった。

闇の中に、雅の細い首筋から鎖骨の窪みにかけての線が、浮かび上がって見える。

あたし達は何も纏わないまま、絨毯の上で横になって向かいあっていた。

雅のぬくもりが心地いい。

「あたし、いつの間に」

「あの後、すぐ寝ちゃったよ」

あの後、の「あの」を思い出すと同時に、ほとんど体が動かせないほど疲れてることに気づく。

赤面する余裕もない疲れに、ゆっくり仰向けになって再び目を閉じる。

「雅はずっと起きてたの」

目を閉じたまま聞くと、雅は、あたしの左胸に手を置いた。

少し冷たいその指先と手の平は、けれどすぐにあたしの体温を吸い取り、溶け込むように同化した。

「ううん。少し寝て、それから嬌子の寝顔を見てた」

「…そう」

あたし、左胸に置かれた雅の手に自分の手の平を重ねる。

疲れているけど、満たされている。

ずっとこうしていたい。

広い宇宙にいるような、世界に二人きりのような、このひとときが永遠に続いて欲しい。

朝なんか来なければいい。

目を閉じているうちに、また眠くなって来た。

睡魔が襲って来て、今にも眠りという穴に吸い込まれてしまいそうだ。

その気配を察したのか、雅が毛布を引き上げた。

「寝ていいよ。まだ、夜は明けないから」

そう言うと、少し上体を起こして、あたしにキスをくれる。

雅の唇を感じて、それに応えようとしたのだけど叶わず、あたしは眠りに引き込まれていった。

          ☆

次に目覚めた時、時計はもう昼近くを指していた。

隣の雅はまだ寝息をたてている。

その寝顔をじっと見つめていたら、抱きしめずにはいられなくて、腕を伸ばした。

そっと抱きしめる。

「ん…」

雅が目を開ける。

あたしは、まだ眠気に包まれている雅の首筋に、口づけて肌を思い切り吸った。

「あ…っ」

雅が小さく声をあげるのが聞こえる。

五ヶ月間、持つとはもちろん思っていないけど…。キスマーク。

雅の心が、あたし以外の誰かに傾いたりしないように、おまじない。

それは、紅い花びらが舞い降りたみたいに、雅の白い首筋に痕を残した。

それから、あたし達はしばらく足を絡めたり、それぞれの弱いところをくすぐったりしてふざけあった。

そのうち、いい加減お腹が減ってきて、あちこち痛む体を互いに笑いながら起きて、遅いブランチを食べた。

昨日までのキリキリした気持ちは、もうなくなっている。

気分が落ち着いて、穏やかに時の流れを受け止められる。

明日を迎えられる。

雅と瞳を合わせても、心がチリチリと焼けたりしない。

暖かなまなざしを感じるだけ。

 

午後は、雅の出発の支度を手伝った。

手伝った、と言っても、もうほとんど荷造りなんかは終わってしまっていたので、

ようするに一緒に過ごしたかっただけだ。

夜になると、居間で寝るのはもうこりごりだったので、あたしのベッドで二人して休んだ。

「夫婦みたいだね」

指先を絡めて見つめあっていると、雅が言った。

あたし、苦笑する。

「んー、どっちかって言うと、同棲してるって感じ」

「それは、事実そのままでしょ。結婚せずに一緒に住んでるんだから」

「…そっか」

とぼけた相槌を打つと、今度は雅が苦笑した。

それから、小指に力をこめてくる。

去年の夏に教会で見た花嫁さんが、脳裏を過ぎる。

あの時の想いが、胸に甦る。

溢れる想いが目に見えてしまうんじゃないかと心配になって雅を見ると、雅もあたしを見つめ返す。

「結婚しようよ」

「えっ」

考えてみた事はあっても、口にする事はないと思っていた言葉をたやすく口にされて、あたしはたじろいだ。

そんなあたしをよそに、雅、平然と続ける。

「だって、お互い結婚したいと思わずにいられないほど、愛し合ってるんだもの」

いたって真面目に言い放つ雅に、ポカンとした後思わず笑ってしまう。

「そうだね」

そう答えてから、今まで何度も考えては少し悲しくなった、同性であるが故の問題点を口にする。

「でも、子供が出来ないよ」

「それが何なの?志保子おばさんのように、もらえばいいわ」

あたしは、その大胆な意見にビックリして、本当に呆気に取られて、それから笑って雅を抱き寄せた。

雅がいれば、あたしは一生トキめいていられる気がするよ。

それって、きっと幸せなことだ。

雅や志保子のいる、あたしの人生は、とてもいい人生に違いない。

          ☆

雅の頬をかすめて、風が渡っていく。

あたしは、車のトランクをパタンと閉じた。

「忘れ物はない?」

雅が頷いて、家の鍵を閉める。

あたし達は車に乗り込み、家を後にした。あたしの運転で、空港へ向かう。

前から免許を取ると言っていた雅は、一向に取る気配がなく、先にあたしが取ってしまった。

そして、濃紺の軽自動車を購入したので、今うちには車がある。

空港までの道の途中、高校の横の道路を通る。

登校時間なので、自転車の群れとすれ違った。後輩達の危ない運転にヒヤヒヤする。

遅刻寸前に駆け込むので、みんな相当無茶をするのだ。

ちゃんと余裕持って出なさいよ。あたしゃ轢きたくないぞ。

などと、卒業してしまって車を運転する側になったあたしは、思ったりする。

「すごい数とスピードだね」

雅が呆れたように言った。

「うん。あの中にいたときは気づかなかったけど、割と危ないよね」

学校を過ぎると、国道に出る。

通勤時間なので、道が少し混んでいるが、十分余裕を見て出たから慌てることもない。

車内には、洋楽が流れている。

それに合わせて雅が歌うので、あたしも一緒に歌う。

一曲終わると、雅が言った。

「手紙書くから、返事ちょうだいね。たくさん書くけど面倒臭くても出してね」

あたし、「うん」と頷く。

「でも、勉強しないで書いてるようなら、考えるからね」

「大丈夫。勉強はちゃんとするよ。あたしって、これでも現実派だから」

それを聞いて笑いそうになり、でもそうかも知れないと思う。

あたしは、雅は現実のこととなると弱い、って決め付けていたけど、

英語の先生になりたいと思ってて、着実にそれに近づいて行こうとしているのを知ると、

あたしなんかよりずっとしっかりしていると思う。

そういう発見が楽しかったりするから、誰かを好きになるのは幸せなことだ。

「とうぶんハモるのはお預けだね。キスも。これだけは、体が離れてると出来ないもんね」

信号待ちで止まるとそう言って、雅があたしの頬にキスをした。

横断歩道を渡っていたおじさんとおばさんが、それを見てギョッとする。

通り過ぎてからも、何度もこっちを振り返っている。

変わったものを見たと言いたげに。

ハンドルを握る手に力がこもる。

卑屈になることなんかないのに、あんなふうに見られると、普通でいられない。

悪い事をしたような気分になって、悲しくなる。

「あんな目で見ることないじゃない?」

雅の強い調子の言葉で、我に返る。

彼女を見ると、いたずらな瞳で言う。

「もっと見せつけちゃおうか」

信号が青に変わる。

あたしは、アクセルを踏んだ。くじけかけた気持ちを立て直す。

この愛を選んだときに分かっていた筈なのに、こんな事くらいで心折れそうになるなんて。

これからいくらだって遭遇することなのに。

強くならなくちゃ。せめて雅くらいに。

          ☆

雅がカウンターで、パスやら必要な書類やらを受け取って、荷物を預けるのを少し離れた場所から見る。

漠然としていた留学と言うものが、徐々に現実味を帯びてくる。

雅があたしから離れる手続きが、滞りなく済んでいく。

「ふぅ。緊張しちゃった」

雅が、身軽になって戻ってくると、強張った顔で言う。

あたしは、鞄からお守りを取り出して、雅のバッグのポケットに入れた。

「何?」

「お守り。いつでも雅を守ってくれるように」

そう言うと、雅はあたしの顔をじっと見つめた。

それから、泣きそうに笑って「ありがとう」と呟く。

もう一度お守りを取り出して眺め、右手に握り締めると、表情を隠すように額に左手を当てる。

「…嬉しい。大事にするね」

そうして、俯いたまま、動きが止まっている。

「雅?」

「ごめん。見ないで。泣いてないけど、泣きそう…。大丈夫。泣かないから」

あたしに涙を見せないよう、目を覆って必死でこらえている。

泣いたってかまわないのに。

でも、雅は泣かないつもりでいる。それは多分、あたしと同じ心づもり。

あたしは言われた通り、雅を見ないように視線を外した。

彼女の気持ちが落ち着くのを待つ。

しばらくして雅は顔を上げた。涙はない。

ふーっと一つ、大きく息を吐く。そして、何もかも振り切ったように笑った。

「嬌子と出会ってから、いろんなことが変わっていって、嬌子のそばにいればこんなに暖かいのに、

どうして離れるのかと思ったら泣きそうになっちゃった。でも、あたしが泣くわけにいかないもんね。

こんな事決めた自分が憎らしいけど、…行くね」

あたしも、軽く心を踏ん張って、笑い返す。

「うん。この間、あたしが本読んでるの見るの好きだ、って雅言ってくれたけど、

あたしも夢を叶えようと頑張る雅を見るのが好きだよ。五ヶ月すれば、また会えるよ。頑張れ」

あたしが、頬をムニッとつまむと、雅は、とびきりの笑顔で頷いた。

あたし、つまんだ指を今度は雅のシャツの襟にひっかけて、キスマークを確かめる。

「ついてる?」

雅が逆側へ首を傾げて不安げに聞く。

果たして、赤い痕はちゃんと残っていて、あたしは「うん」と頷いた。

その時、近くの表示板がパタパタと音をたてるのが聞こえた。

一番上の飛行機が飛び立って、表示が次々に繰り上がっていく。

雅の乗る飛行機も、搭乗時刻が近づいてくる。

あたしは、それを見上げながら急かされるような気持ちになった。

それと同時に、必死で覚えた歌の歌詞が頭にフッと浮かんだ。

それを口にしてみる。

「表示板が君の飛行機を示す」

一緒に見上げていた雅が、驚いて振り返る。

あたしは、続けて歌う。

「もう二十五分で君は舞い上がる」

雅の顔が、嬉しそうに輝き始める。

この表情を見たくて、あたしは頑張ったのだ。

雅は、あたしが覚えたことを知ると、続きを一緒に歌い始めた。

周りの人が、一瞬何事かと視線を寄越した。

でも、すぐにそれぞれの知人とのお喋りに戻る。

行き過ぎる人たちも、不思議そうに振り返るだけで、すり抜けて行く。

歌っているあたし達と彼らとは、ガラス板を隔てた別世界にいるよう。

飛び立って行く人たちに、何通りもの別れがあるのだから、そう思えてもおかしくないのかも知れない。

「君をのせた鳥がやがて翼はためかせて

赤や緑のランプを飛び越えてゆく」

あたし達は歌い続ける。

次第に心の中が清々しくなっていく。

別れの歌なのに、少しも暗くないこの歌。

歌うほどに、この別れは、少しも悲しい別れじゃないと思えてくる。

雅の夢を果たすための、第一歩なのだから悲しいはずなどない。

「人ごみのデッキざわめきの中で

僕は最後の風をひとり受け止める」

さぁ、これで笑って送り出せる。

歌い終えると、雅が少し睨むように笑って言った。

「覚えたなんて言わなかったじゃない?」

あたしも笑って「うん」と頷く。

時計を見れば、時間が迫っている。

あたしは、雅に言った。

「もう行かなきゃ。体に気をつけて。いつも遠くで抱きしめてるよ」

雅はその後、ちょっと離れがたそうにして、

それからあたしにギュッと抱きつくと「大好き」と呟いて離れた。

その瞳を見つめる。

雅を初めて見たとき、あんまり綺麗でハッとした。

そして今、もっと綺麗だと思う。

あたし、彼女を抱き寄せる。雅の唇に口づけた。柔らかな唇。

見られたって構わない。この唇に触れられるのはあたしだけ。

見たくない奴は、目を逸らせばいい。

愛している。

離れて、雅がクスッと笑ってあたしの唇を人差し指でなぞった。

「口紅、ついちゃったね」

指先には、淡いピンクのマニキュア。薬指に光るのは、あたしがプレゼントしたリング。

あたしが小さい頃から持ってた指輪。

安物だからあげたくなかったのに、欲しいと言って聞かなかった。

「手紙書く。じゃ、行く」

雅、自分に言い聞かせるように言って、クルリと背を向ける。

歩き出す。雅が離れて行く。どんどん遠ざかる。

「雅」と声をかけたい。だけど、今声をかけたら、振り返ったら、駆け寄ってしまう。

雅も同じ想いなのか、振り返らない。

その後ろ姿を見ながら泣きそうになって、強く目を閉じる。

泣くわけにいかない。雅は帰ってくる。雅の心は離れない。

一粒の涙も、この別れには必要ないのだから。

次に目を開けると、雅がちょうど見えなくなるところだった。

睫毛についた涙越しに、雅の姿が消えるのを見届け、あたしも出口に向かって歩き出す。

待つしか出来ない。と言えば、かなり苦しい。

待てばいいのだ。と思っても、やっぱり苦しい。

駐車場へ行って、車にもたれて雅の飛行機が飛び立つのを見た。

雅を乗せた飛行機が、彼女の未来へ向かって飛んでいく。

もう、引き止めることも、呼び戻すことも出来ない。

五ヶ月間。彼女なしの生活が始まる。

口の中で呟く。

「ライト・ヒア・ウェイティング」

そして、車に乗り込み、エンジンをかける。

 

ライト・ヒア・ウェイティング。

 

あたしは、ここで待つのが正しい。

 

     

 

                                        了

 

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