岩城嬌子の一人の生活
雅が行ってから、一ヶ月が経った。
考えてみれば、まったく一人の生活は実質初めてで、最初は妙に淋しかったけれど、
それでも雅から手紙やメールが届き始めると安心して、一人にも慣れてきた。
大学で話す人も増えてきたし、家庭教師のバイトをしたり、充実した毎日を過ごしている。
「ねぇ、岩城さんって彼氏いるの?」
前までは、そんな質問には笑って誤魔化していたけれど、今は新しくできた友達に聞かれたら、頷いて、
「いるよ」
と答えてから心の中で呟く。
彼氏じゃないけどね。
「ほんと!?今度会わせてっ?」
「ああ、今留学中だから」
「ええーっ!?かっこいいーっ。どんな彼氏?」
聞かれて、あたしは雅を思い浮かべる。
「…ちょっとわがままで、でもかわいくて、いたずら好きで、綺麗な人」
浮かんだイメージをそのまま口にすると、
友達がちょっと引いたようなリアクションをした。
黙ってあたしを見て、それ以上は何も聞かずに「…ごちそうさま」と言うので、思わず笑う。
愛しく思っている気持ちも出てしまっていたらしく、そんなにのろける人だとは思わなかった、
という目で見られたけど、あたしは素直に答えただけだ。
「いいなぁ。私もそんなふうに言える彼が欲しい」
「だけど、会えないんだよ?」
「あ…そっか。それは淋しいね。いつ帰ってくるの?」
「あと四ヶ月したら」
あたしは雅を誇りに思っているから、今では二人の仲を何が何でも隠そうなんて思っていない。
でも、その場で恋人が女性だと打ち明けることは控えた。
せっかく出来た友達に警戒されてしまう可能性がないとは言えないので。
「ふーん」
彼女が鼻を鳴らし、
「ねぇ、今度みんなでスイーツの食べ放題行かない?」
話題はその後すぐに、別の話へと切り替わった。
大学から帰って、雅が送って来た、咳込みそうにミントの効いたガムを噛みながら本を読んでいたら、
ポストに手紙の落ちる音がして、あたしは本から顔を上げた。
雅からだ!
何通届いても、何万通届いても、きっとその都度このトキめきは訪れる。
あたしは電光石化のごとく本を閉じて立ち上がり、玄関に向かった。
手紙は週に一度の割合でやって来る。
気持ちが高まると、一度に何通も来ることもある。
パソコンでメールを送ってくることもあるけど、
前から手紙のやり取りに憧れていた雅だから、断然手紙の方が多い。
雅の息も詰まるような情熱が、あたしの情熱も呼び覚まして、ここに生きていることを嬉しくさせる。
果たして、郵便物はやはり雅からの手紙で、それをポストから出して来ると、
ハサミで丁寧に封を切る。大好きな雅の文字。
最初は近況報告。どんな授業だったか、どこへ出かけたか…
けれどそれは、やがてあからさまなラブレターに変わる。
「イギリスにも嬌子よりいい女の子はいません。浮気しないように。日本は遠いです。
愛しています。手紙をください。唇をください。指をください。嬌子に早く触れたいよ」
あたしは嬉しくて、目を閉じて高鳴る胸を便箋で押さえる。
浮気が心配なのは、あたしの方だ。
あの雅に、誰も言い寄らないなんて考えられない。
「イギリスは割りと治安がいいと聞いているけど、雅が危ない目に遭っていないか、
悪い奴にひっかかっていないか、とても心配です」
あたしも想いを込めて、返事を書く。
特に男性に声をかけられていないか、ものすごく心配になる。
それで雅が落ちてしまうようなことがあったら、
もうあたしに勝ち目はないんじゃないだろうかという気がする。
相手は「ノーマル」と呼ばれる男でもって、こっちは今すぐには会いに行くことも出来ないのだ。
どうか、どうか、そんなことがあったとしても、心変わりしないで欲しい。
途中バイトの時間になったので外に出かけて仕事をこなし、軽く食事を摂って戻ってから、また続きを書いた。
ふと顔を上げて時計を見ると、十一時ちょっと前を指していて、テレビをつける。
「世界の天気」がもうすぐやる筈。
最近、これを見てロンドンとパリの天気をチェックするのが癖になってしまっていた。
ロンドン、晴れのち曇り。パリ、晴れ。
良かったね。雅、志保子。青空の下、それぞれの街での元気な二人の姿が目に浮かぶ。
(のちの雅談「イギリスの天気は、そんな単純じゃない!」だそうだが)
正確に言うと、雅の学校はロンドンじゃなくてオックスフォードにあるんだけど、
予報はロンドンしか言ってくれないのよね。何て大雑把。
雅への手紙を書き終えると、次は志保子への手紙を書き始める。
夏休みに、パリに行くことになっている。
また志保子が誘ってきて(しぶとい)、なんだかんだと断ろうとしたものの、言いくるめられてしまった。
「雅ちゃん、イギリスにいるんでしょ?誘って皆で会えばいいじゃない」
と提案されて、雅に会えると思ったら、ついその気になってしまったのだ。
そんなわけで、今度パリで三人で会う。
その為の打ち合わせのような手紙だ。
どこで会って、何をして何を食べたいなどとプランを練りつつ、その日に想いを馳せる。
手紙には書かないけれど、志保子と会ったら、二人のことを打ち明けようと思っている。
驚かれるかも知れない。ひょっとして、嫌がられるかも知れない。
でも、そうしないと前に進めない。
そうすることは、雅にも話してあって、了承済みだ。
あたしは、志保子にも想いのこもった手紙を書き上げ、封をした。
愛する雅へ。愛する志保子へ。
二通の手紙に、それぞれ軽く口付けて、心で呟く。
二人に会える日を、あたしは、心待ちにしています―
了