花ぬすびと 1
(敦也視点です)
あの頃。自分は誰からも愛されることなく死んでいくのだと思っていた。
誰からも愛されず、誰かを愛することもなく、空しい人生を終えるのだ、と。
ドラッグストアでのバイトを終えてアパートに着くと、夜の八時だった。
古ぼけた建物の前に立ち、山城さんと暮らす二階の部屋を見上げても、
明かりがついていないし人気も感じられない。
真っ暗で誰もいない部屋を思って、思わず回れ右をしたくなったが、
そうしたところで行くところもない。
俺は、仕方なく重い足取りで階段を登った。
薄暗い照明が足元を照らしている。
コンクリートの硬い感触を足裏に感じながら登り、
部屋の前に立つとちょっとだけ急いで鍵を取り出し、ドアを開けた。
滅多にないことだが、稀に隣人と顔を合わせてしまうことがあって、
別に悪いことをしてるわけじゃないんだけど、なんとなく気まずい思いをする。
部屋に入り、電気を点ける。
とりあえず腹が減っていたので、冷凍庫から牛丼の素を取り出して鍋で温めた。
その間に、炊飯器の蓋を開け丼に飯をよそう。
テレビをつけると、犯罪特集のようなものをやっていた。
スーパーで万引きをする人間と、
それを捕まえるのを専門の仕事にしている人間とのやりとり。
俺が働くドラッグストアでも、万引きは少なくない。
本当にお金がなくてする人もいれば、そうでない人もいる。
手癖、という言葉があるだけに、
もう病気のようになってしまってやめられない人やスリルを求める人、
それから寂しくて…という人。
俺は、食べながらしばらくそれを見たあと、チャンネルを変えた。
一人の食事は味気ない。
山城さん、早く帰って来ないかな。
山城さんは市立図書館で司書の仕事をしている。
一度その姿を見てみようと思って、行ってみたことがあったが、いなかった。
後で聞いたら、カウンター業務や表の仕事をするのはパートやアルバイトで、
自分はほとんど裏方の仕事なのだと言っていた。
俺は司書の仕事といったら、てっきりカウンターでバーコードを読み取ってる
ああいうのかと思っていた。
山城さんの言う「裏方の仕事」は結構大変らしく、
朝早く出かけて夜遅く帰ることが多い。
多分、今日も残業なのだろう。
たまに山城さんの方が帰りの早いことがあるが、
帰ってきたとき彼が家にいると物凄く嬉しく感じる。
山城さんは不思議な人だ。
俺は、彼と住むまでこんなに誰かを好きになったことがなかった。
なれるとも思ってなかった。
人間としてちょっと欠陥があるんじゃないかと思ったりもしていた。
でも今は、彼を思うと心があったかくなるし、
抱き合うと『このまま一つになれたらいい』と思う。
よくあるありふれた想いなのかも知れないけど、本当に心からそう思う。
できれば、山城さんと毎日したい。
だけど、彼は自分からはなかなかその気になってくれない。
そうすると溜まるから、自分で抜いたりするけど…
でも、抱かれた時とそれとは全然違う。
山城さんに触られると、
もう体のどこもかしこもが無茶苦茶感じるようになって、
その間中全身を痺れが包んで、
他の何からも得られない最高に満たされた気持ちになる。
牛丼を食べ終わり、使った食器をシンクで洗った後、ベッドに横になった。
誰も見ていないテレビはつけっ放しで、バラエティ番組の乾いた笑い声が、
かえって一人でいることを感じさせる。
目を閉じたら、さっきの犯罪特集の司会者の言葉が、脳裏をよぎった。
「万引きは犯罪ですから」
そう。万引きは犯罪で、俺も犯罪者になっていたはずだった。
自分が罪を犯そうとしたあのときのことが甦る。
あのとき、山城さんが止めなかったら、あの出来事がなかったら、
俺は今頃どこにいただろうか。
「何するんだよ。離せよ」
もう何がどうなったって構わなかった。
「この本を置くんだ」
「警察に通報すればいいだろ」
大きな本屋の片隅。レジから死角になったその場所で、
俺は握られた手を振りほどこうとしたが、無駄だった。
力のこもったその手は少しも緩む気配を見せなかった。
「この本が欲しければ、お金を払いなさい。
作者は想いを文章にして、それを仕事にしている。
ただで持って行かれては困る」
「何言ってんだよ、あんたっ」
体が大きく、妙な説教をする奴だった。
本を鞄に入れようとした俺の手をつかんでいた。
歳は三十代半ばぐらいに見えた。
名札や店員のつけている揃いのエプロンをしていないところを見ると、
店の人間ではないようだった。
「お金を払いなさい。その本はいい本だ。何度も読み返せばすぐに元が取れる」
どこかピントがずれている。そんな説教なんか聞きたくない。
俺はこんな本が欲しかったわけじゃないんだ。たまたま近くにあっただけ…
「違う」
「金がないなら、私が払ってもいい」
違う。違うと言うのに。
「どうかされましたか」
異常を感じた店員が近づいて来た。
「いや、こいつが、欲しいなら買ってやるというのに、
いらないって意地張るもんだから」
男は、まるで俺の知り合いであるかのように言って、明るく振る舞う。
「そうか。いらないならもう置いて、行くぞ」
実際は小説だったが、
まるで絵本をねだった子供に言い聞かせるような口調だった。
俺の手首を握ったその男は、
逆の手で俺の手から本をむしるようにして取り上げると、元の場所へ戻した。
俺を引きずるようにして歩き出す。
「お騒がせしてすみません」
店員は、呆気にとられた表情のまま「いえ…」と呟き、男につられて会釈をした。
店の外へ出てからも、男はしばらく手を離してくれず、そいつと俺は歩き続けた。
「どこ行くんだよっ。離せよっ!」
通りを数十メートル歩き、人通りが途切れたところで、いい加減頭に来て、
精一杯の力を込めて掴まれた腕を振り下ろした。
反動でやっと男が手を離し、俺は自由になった。
「何なんだよっ。あんたは!」
赤くなった手首をさすりながら怒鳴った。
「こんなことしたって、
俺はまたやるからな!いいことしたとか思ってんじゃねーよっ、バーカ」
男は、熱くなる俺の前に無言で立っていた。
血気に逸(はや)る俺を見ても、少しも揺るがない様子で、
力のこもった鋭い目でこちらを見返すので、俺はちょっとだけたじろいだ。
男はじっと見つめた後、落ち着いた口調で言った。
「万引きは犯罪だ」
少し哀れみを含んでいるように聞こえた。
「し…知ってるさ。そんなこと」
そして、俺の身なりを、つまり靴や鞄や着ているものに目をやってから、
もう一度真正面から俺の目を見据えた。
擦り切れたスニーカー。使い込んでヘタッた鞄。着古したジーンズにTシャツ。
俺の格好は、金持ちのそれではなかったし、
決して余裕があるようにも見えなかっただろう。
「なぜ本を?なぜ罪を犯そうとする?」
俺は男の顔をじっと見つめた。
盗ろうとしていた本は、どうしても欲しい本というわけではない。
金が欲しくての万引きなら、もっと金になるものを盗ればいい。
ならなぜ、罪を犯そうとするのか。
男はその目的を聞いていた。
「…あんたに関係ないだろ」
言いながら、さっきまでの気持ちの昂ぶりが治まっていくのを感じた。
俺の目的は、ただ『捕まりたい』それだけだった。
いや、それもあえて理由をつけるなら、ということであって、本当は前述のように、
もう何がどうなったって構わなかったのだ。
「私は、君が『もう万引きをしない』と約束するまで君から離れない」
おっさんが言い、俺は顔を歪めた。
捕まるなら警察に捕まりたかったのに、なにかとんでもない、
もっと力のある強いものに捕まったのを感じた。
この男はなんなのか。どっかの学校の先生か。いまどきこんな先生がいるのか。
そう思いながら彼をよく見れば、少しごついが男前な顔立ちで、
和服が似合いそうな雰囲気だった。
体も何か運動をしているのか絞まっていて、腹も出ていない。
俺の前で仁王立ちになって、俺が約束するのを待っている。
「俺は…」
俺はちょっと引きつつも口を開いた。
「俺は、捕まりたかったんだ」
彼から視線を逸らして俯く。
「どうして」
なぜ喋る気になったのか。
この、まるで先生のような雰囲気を醸し出す男に話して
どうするつもりだったのか、分からない。
分からないが、気づいたら本当のことを口にしていた。
「帰るところがないから…」
男は、俺が素直な口調になっているのを感じたのか、
それを聞いてふっと表情を和らげた。
それから周りを見回して言う。
「こんなところじゃなんだから、話のできる場所へ行かないか。店に入るとか」
確かにそこは人通りのある場所で、
真剣な話をする場所としては適当でなかった。
「なんであんたと話さなきゃならないんだよ」
「帰るところがないんだろ?力になってやれるかも知れない」
黙って返事をしないでいると、男はうーんと考え込んで
「それとも、汚いが私の家に行くか?」
と提案した。
俺は顔を上げて聞いた。
「あんた、家族は?」
「いない。一人暮らしだ」
「…そうなんだ」
「来るか?」
聞かれて、俺は男の目をじっと見た。
この男について行っていいだろうか。
一見親切でいい奴に見えて、悪い人間なんていくらでもいる。
もしかして、ヤバイ世界の人間だったらどうする。
犯罪を犯そうとした人間を、自分の家に連れていくなんて、普通考えられない。
本当にその世界の人間なんじゃないだろうか。
なにしろこのガタイに、さっき見せた鋭い目つき。
俺はその世界で、やりたくもないことをやらされたりして…
麻薬とか拳銃とかが頭をよぎった。
俺のような奴は、捨て駒としては最適に違いない。
が、そこまで考えて、笑いがこみ上げて来た。
ついさっきまで、どうなってもいいと思っていたのは、他ならぬ自分だ。
「いいよ。行っても」
そう答えると、男は歩き出した。俺はその後をついていく。
空は青空で、風もほとんどない日だった。
あの日の空気の匂いを、今も覚えている。