花ぬすびと 2
男の家は、市街地の外れにある古いアパートの二階だった。
コンクリートの階段を上がって、右から二つ目のドア。
そのドアの鍵を開けて、男は俺に中に入るよう促した。
玄関を入ってすぐ居間があり、小型のテレビと、
今どき珍しい卓袱台(ちゃぶだい)が置かれていた。
脇にシンクとガス台がついていて、小さな冷蔵庫がある。
奥にもう一部屋あって、そこにはベッドが置いてあった。そばには本棚も見える。
二部屋ともフローリング、というか板の間で、
卓袱台のそばに座布団が一枚置いてある。
テレビの真ん前。そこが、男の定位置なのだろう。
男が靴を脱いで上がり、押入れから座布団をもう一枚出してきて、
向かい側に置いた。
「座りなさい」
俺は黙って上がり、その意外に座り心地のいい厚手の座布団の上に座った。
「今お茶を入れるから」
男が、やかんを取って水を入れ、それを火にかける。
「おっさん、いったいどういうつもりだよ」
万引きを見逃そうとする男の気持ちが分からなかった。
関わる必要もない、俺みたいな人間を家に上げたりする気持ちも。
子供たちの将来を案じるタイプの大人なのか?それとも、よっぽどの世話好き?
「私には君があの本を欲しがっているようにはどうしても見えなくてね。
聞いてみたら、盗った目的は『帰るとこがないから』だなんて言う」
男が食器棚から湯呑みを一つ取り出し、それをざっと洗う。
「あの本は、欲しいと思っていない君に盗られるより、あそこにいた方が幸せだ」
そして、洗った湯呑みを布巾で拭いて、トレーに乗せた。
もう一つ大きな湯呑みも取って、隣に乗せる。
そっちは普段使いのものなのか、
使い込まれて茶渋の色が染み込んだような色になっていた。
「そう思ったから、万引きを止めた」
俺は、男の話がよく分からなくて首を傾げた。
「つまり、万引きを見逃したのは、俺のためじゃなく本のためだと…?」
「まあ、そうだな」
すんなり肯定されて、ムカついた。
なんだよコイツ。
「そんなわけで君は何も盗っていないから、万引きという罪は成立しない」
男が、続いてお茶の葉を急須に入れる。
「が、そうすると、君の目的は叶えられないわけだ」
お茶の葉の入った容器の蓋を閉めて、俺の顔をじっと見た。
「私が邪魔したせいで」
なんだかこのおっさん、時々気迫のこもった目で見てくるときがあって、
ちょっと怖く感じる。
「すまなかったな」
でもすぐに破顔して、柔らかな声音でそう言った。
いや…そこでそんな顔で謝られても、どう答えりゃいいんだよ。
どう考えたって、悪いのは俺だし。
俺が何も言えないでいると、おっさんは
「ところで、どうして帰るとこがないんだ?」
次の質問をぶつけて来た。
「家族は?」
「……」
聞かれても、すぐには答えられなかったし、答えたくなかった。
「家出でもしてるのか」
おっさんがシンクの前に立って俺を見下ろす。
「ほら、私の世代では考えられないが、
今の若い人たちは簡単に家出したりするらしいから」
やかんのお湯が沸いたかどうか気にしつつそう言うのを聞いて、
首を横に振った。
「そんなんじゃない」
俺はおっさんを見上げる。
口を開いた勢いで、そのまま続けて理由を喋ってしまおうかと思ったが、
思いとどまった。
やめよう。
さっき会ったばかりのおっさん相手に、俺は何を言おうとしているのか。
信用なんてできないし、おっさんを巻き込んでいいわけもない。
俺は、期待の目をしているおっさんから、顔を背ける。
「言わねぇよ」
おっさんは、ちょっと肩の力を抜くようにしてから、「そうか」と呟いた。
やかんから急須に湯を注ぎ始めて、しばらく待ってお茶を湯呑みに注ぎ、
それを俺に渡してくれた。
俺は、受け取った湯呑みの側面に手のひらをくっつけて、手を温めるようにする。
「帰るとこがないって言ってたけど、今夜はどうするんだ?」
おっさんが聞いて来て、俺は笑った。
「なんとかするさ」
軽く言い放ったつもりだったけど、おっさんがじっと見て来て、俺はドキッとした。
なんとかする為のアテなんか実は何もない。
おっさんは見透かしているのかも知れなかった。
「もし困ったことがあったら、ここに来るといい」
言われて、部屋を見回す。
「ハン、大した住処だな」
古いアパートで、広さもない。
でも、綺麗に片付いていて、住み心地は良さそうだった。
「ああ。住めば都だ」
結局、俺は一時間くらいおっさんのアパートにいた。
おっさんが何者か知りたくて、どんな仕事をしてるか聞いたら、
市立図書館の司書だと言う。
俺は図書館なんか行かないし、本も漫画くらいしか読まないから
どんな職業なのかよく分からないけど、おっさんの言うことを信じるなら、
とにかくそっちのスジの人間ではないようだった。
よく知らないおっさんの家で、俺はお茶と即席カツサンドと
小倉あんトーストをご馳走してもらって、そこを後にした。
不思議な時間だった。
「なんか食うか?飯を炊いてなかったから、パンしかないが」
トーストした分厚いパンに、レンジで温め直したカツを挟んだり、
マーガリンと小倉あんを塗るおっさんの手の動きが、なんだか頭から離れない。
実は、かなり腹が減ってたから、それはすごく美味くて、ありがたかった。
「じゃあな。何かあったら相談に来るんだぞ」
「……」
でも、俺のひねくれた口は、お礼の言葉を発することが出来ず、
俺はそのままアパートの階段を降りようとした。
「ああ、そういえば」
おっさんが呼び止めるように言って、俺は振り向いた。
「…なんだよ」
「名前、聞いてなかったな」
俺は下を向いて嘆息した。
なんで俺がおっさんに、名前を教えなきゃなんねぇんだよ。
そう思ったが、カツサンドと小倉あんトーストのお礼代わりに
言ってやることにした。
「敦也。三杉敦也」
俺の名前を聞いて、おっさんが驚いたような顔をする。
「敦…」
言いかけたまま、じっと俺の顔を見つめている。
「敦也、だって。なんだよ。俺のこと知ってるのか?」
どこか過剰な反応ぶりに、胡散臭さを感じて聞いたが、
おっさんは首を横に振った。
「いや。そうか…敦也っていうのか」
おっさんが、何気に也、の部分に力を込めて、
頷くようにして俺の名前を口にする。
「ああ。別に変わった名前でもないだろ。
名前言ってそんなに驚かれたの、初めてだ」
俺は、笑って足元に目をやった。
「じゃあな」
階段を降り始める。
少し離れた場所まで歩いて、アパートを振り返ると、
おっさんが手すりのところからじっとこちらを見ていた。
慌てて、体の向きを戻して歩く。
変なおっさん。
あんな見ず知らずのおっさんに、相談になんて来るもんか。ばっかじゃねぇの。
心の中で悪態をついてから、でも親切だったな、とちょっとだけ和んでいると、
今自分が抱えている問題を思い出し、
すーっと気持ちが暗くなっていくのを感じた。
「そんな場合じゃないだろ」
自分に言い聞かせるようにして、俺は溜息をついた。
両親が離婚したのは俺が三つのときだった。
母親は兄貴を連れて出て行き、俺は父親の元に残された。
飲んだくれの親父でどうしようもなかったが、そんな親父の元で俺は育てられた。
生活はいつも貧しかったし、
離婚するまで一切家事をしたことのなかった親父の作る料理はまずくて、
小学校に入ると俺は学校の給食を何より楽しみにしていた。
でも学校も楽しいところじゃなかった。
普通なら母親が用意してくれるだろう様々なものを、
父親は全く用意してくれなかったので、俺は忘れ物の常習犯だった。
事情を知らない先生にはよく怒られたし、知っている先生の中には、
あまり叱らないでいてくれる先生もいたが、
それを特別扱いと感じたクラスメイトに、「ビンボー、どビンボー」とからかわれ、
仲間はずれにされ、苛められることも少なくなかった。
苛めは大きくなるとともにエスカレートし、
俺が、酷い仕打ちに我慢できなくなって相手を殴ってしまったとき、
相手の親が家まで文句を言いに来た。
でも、親父はただへこへこと頭を下げるばかりだった。
どんな状況だったのか聞くことも、俺を庇うこともなくただ謝って…
相手が帰ると、いつものように酒をかっくらって寝てしまった。
それからも、何度か同じようなことがある度に、
親父は同じようにして嫌な事から逃れるように、
ただその場だけを取り繕ってやり過ごすと、酒を飲み眠るのだった。
実際、母親が出ていってからはもぬけの殻のようになってしまって、
何がどうなってもいいみたいだった。
何にも興味がなく、俺にも興味がないのだ、と思った。
思ったら悲しくて、淋しくて、なんでちゃんと向き合ってくれないのかと、
本気で殺意を抱いたこともある。
でも、親父を殺したって、事態が好転するわけでもない。
苛めの対象の俺と友達になりたがる奴はいなかったし、母親たちの間でも、
俺の悪い噂は広がっていたようで、あまり親しくしないよう言われているのか、
俺は友達ができたことがなかった。
学校なんて行きたくなかったけど、他に行くところもなく、
しょうがなく登校しては、ひたすら時間が過ぎるのを待った。
学校が終わっても、何の温かみも潤いもない家が嫌で、まっすぐには帰らず、
暖かい日は郊外に設けられた自転車道をどこまでも走った。
寒い日は、知り合いに会いそうもない遠いショッピングモールなどへ行って
ブラブラした。
自転車は、メンテさえきちんとすれば、
ただで俺をいろんな場所へ連れていってくれた。
思えば何もかもが足りなくてスカスカなままで、学生時代を過ごしたように思う。
母親を恨んだこともある。
なんで俺を一緒に連れていってくれなかったのかと、
なんで兄貴だけだったのかと思ったことも、
なんで自分が先に生まれなかったのかと考えたことも数え切れないくらいある。
一緒に連れていってくれなかった理由を、母親は
『一人で二人を育てる自信も経済力もないから』と言っていた
と親父は教えてくれたけど、
理屈ではそうかも知れないけれど、全然納得出来なかった。
そして、そばにいるのになんで親父が俺を愛してくれないのか、
それも考えるたびに俺を淋しくさせた。
時が過ぎるのをひたすら待ち続け、なんとか高校を卒業する時期まできた。
春には就職も先生が骨を折ってくれたおかげで、内定が決まっていた。
俺は、働き始めたら金を貯めて、
相変わらず飲んだくれで俺に興味がなさそうな親父のそばを、
なるべく早く離れようと心に決めていた。
ところが、春休みのある日、通う予定だった会社から書類が届いた。
不景気の影響で、経営状態が思わしくなく、
俺を雇うことが出来なくなったという通知だった。
それを読んだ瞬間、頭が真っ白になった。
そんなこと、こんな時期になるまで、誰も分からなかったっていうのだろうか。
予想も出来なかったって、いうのだろうか。
いい大人たちが分からなかったのだろうか。
何年もいる人だっているに違いないのに…
俺は奈落の底に落とされた気分になり、
その会社に殴りこみに行ってやろうかと思った。
でも、そうしたところで俺に有利に働くことなんて、一つもない。
そして、俺は食っていかなければならない。
貯金をして早くあの親父のそばを離れなければならないのだ。
俺はすぐに求人情報を集め、バイトを始めた。
その合間に、いくつか会社の面接を受けてみたが、
大卒だってなかなか就職口のない昨今、採用してくれるところはなかった。
そうして、とりあえずいくつかバイトをかけもちでする生活を続けていた。
幸せにとことん縁がない自分だけど、いつか…
いつか、ちょっとだけ幸せを感じられる日々がくるんじゃないかと、
それでも儚い夢を抱いていた。
それなのに。
今日の朝、親父が失踪した。
『俺はもう駄目だ。お前も逃げろ』
テーブルにそんな書き置きがあって、俺はわけが分からなかった。
お前も逃げろ、ということは、親父は逃げたということだ。
切迫した文章からは、ただごとではない雰囲気が漂っていた。
その短さが深刻な印象を余計に強くした。
逃げる。逃げるって、どこへ。
思わずその紙を握り締めて、この場にはいない親父に疑問を投げかけた。
何やらかしたんだよ、親父。
一言の相談もなかったことと、
俺を置いて逃げたことが今更ながらショックだった。
やっぱり俺はその程度の存在だったのだと思い知らされた。
それから、背中を嫌な汗が流れ落ちるのを感じた。
俺もヤバイのか?
紙を握りつぶしてごみ箱に放ると、鞄を掴んで家を飛び出した。
何かが背後から迫ってくるようで、心臓が縮むような想いがした。
そして、気づいたら俺は、あの書店で読む気のない、欲しくもない小説を、
鞄に入れようとしていたのだ。