花ぬすびと 3


 

おっさんの家を出て、俺は自分の家に戻った。

おっさんの家と同じような、古いアパートの一室だ。

ひょっとして親父が戻っているかも知れないと思ったし、

もし本当に逃げなければならないような事態になっていたとしても、

それは親父がしでかしたことであって、俺には関係ないんじゃないか。

頭のどこかで、そんなふうに考え始めていた。

家に戻ってじっとしていると、呼び鈴が鳴った。

 

親父なら呼び鈴を鳴らしたりしない。

俺が様子を窺うようにしてそっとドアを開けると、

そこにはいかにもヤクザ風な男たちが数人立っていて、

その雰囲気に俺は息をのんだ。

みんなスーツ姿で、やたら威圧感がある。

時刻は夜の九時を過ぎていて、外はもう真っ暗だった。

一番前の、背が高くて頭が小さく銀縁の眼鏡をかけた男が口をきいた。

「三杉鷹也は、いるかい」

 

俺は、眼鏡の奥の細い目が、

ゾッとするほど冷たい色を浮かべているのを見ながら首を振った。

三杉鷹也は、俺の親父の名前だ。

「いないけど…あの、どんな用事ですか」

俺が聞くと、男は口の端を上げて笑った。

「三杉の息子か。お前さんの親父、

うちに借金があるのにちっとも返してくれないんだなぁ」

 

それから、笑いながら困ったような表情を浮かべ、

「いろいろ探し回ってるんだけど、なかなか見つからなくてね。

息子に話した方が早いかも知れないな」

眼鏡越しに俺の顔を、まるで品定めするようにじっと見た。

「借金て…いくら?」

俺の質問に、男は煙草を取り出して火をつけてから答えた。

「んー、三百万」

俺は、その額に驚いた。

そんな金なんてうちにはもちろんないし、とても今すぐ返せる額じゃない。

だけど、待ってもらえるなら、なんとか出来なくもない気がした。

 

「俺がその金なんとか作るから、待ってもらえないかな」

男は、煙草の煙を吐きながら、「ふ…ふふ…」と息を漏らすようにして、

おかしそうに笑った。

つられて、後ろにいた他の男たちもニヤニヤと笑った。

「なあ、ボウズ。期限はとっくに切れてんだよ。

それに、お前がいくら必死で働いたって、たかが知れてる。

いったいどんだけかかって返す気だ?」

 

そこで煙草を地面に落とし、足裏で踏みつけるようにして消した。

「俺はそんなに気が長くないんだよ」

一瞬、怒気が噴き出しそうな雰囲気を見せてから、

すぐにそれをおさめて俺の顔を窺うようにして見る。

「体で払ってもらおうか」

男の言葉に、『売春』とか『ソープ』とかいう言葉が脳裏に浮かんだ。

だけど、それって女の話だろ?うちに女はいない。

それとも臓器を売るとかって意味だろうか?

 

俺は、以前見た映画で得た少ない知識で考えてみたが、

よく分からず眉間にしわを寄せた。

男がにやけた笑いを浮かべて続けた。

「お前ぐらいの年恰好の男を抱きたいってお客さんがいてな。

気前のいい人だから、三百万ぐらいすぐ返せる」

俺は、それを聞いて固まった。

やっぱりそっち方面の話だったのか。だけど、なんだよそれ。相当キモイ。

 

「何言ってんだよ。そんなの、おかしいだろ。俺、男だし相手も男なんだろ?」

「そういう世界もあるんだよ」

男は「胸糞悪い」と小さく吐き捨てるように言って顔を歪めたが、

俺だって同じ感覚だった。

男に抱かれるなんてとても考えられない。

 

「ま、俺は痛くも痒くもないわけで、

その世界で誰がどうなろうと知ったことじゃないが」

今、同じ感覚を共有した男だったのに、

次の瞬間にはあくまでも冷たくそう言い放って、

「なんの悪さもしてないボウズには気の毒だが、

恨むならあんな親父のもとに生まれたことを恨むんだな」

いきなり俺の手を強く掴んだ。

 

「考えようによっては、いい話だろ?寝るだけで借金から逃れられるんだぜ」

男が鼻でせせら笑うようにしながら、冷徹な視線を投げてくる。

「何をされるかは知らんがな」

その言葉の響きの気色悪さに、ゾッとした。

男が手を引っ張って、俺を外に引きずり出す。

 

抵抗する間もなく強い力で外に出されると、

他の男たちに両腕を掴まれ拘束された。

男たちが歩き出し、俺も一緒に歩かされる。

「離せよっ」

立ち止まろうとしても、腕を外そうとしても、

男たちにがっちりと周りを固められていて、それは無理だった。

まさか、このまま俺はどこかの変態ホモ野郎にヤられてしまうのだろうか。

体中から血の気が引いていくのを感じた。

 

アパートの前にとまっていた黒塗りのベンツに押し込まれて、車は走り出した。

「鮎川さん、事務所でいいですか?」

運転手が銀縁眼鏡の男に尋ね、男(鮎川というらしい)は、「ああ」と頷いた。

心臓がバクバク言っていた。

なんでこんなことになっているのだろう。

これは現実なんだろうか。嘘みたいだ。

拘束されて、車に乗せられて、…男なのに、男にヤられる…?

どんな現実だよ。信じられない。

 

今までだっていい事なんか何もなかった。

それでも、犯罪に走ることもなかったし

(初めての犯罪はおっさんに阻止されて未遂だし)自棄になることもなかった。

 

自分は誰からも愛されることなく死んでいくのだと。

誰からも愛されず、誰かを愛することもなく、空しい人生を終えるのだろうと。

そんなふうに感じながらもどこかで、夢見ていた。諦めていなかった。

 

いい人生なんか望んでいない。ただごく普通に生きていきたい。

望みはそれだけだ。

だけど、今の俺にはそれさえものすごく遠くて、

もうとても叶えられないことに思えてきた。

このまま誰かのいいようにされてしまうくらいなら、俺は…

 

俺がある決意を固めた頃、車はどうやら目的地に着いたようだった。

腕を掴まれ、周りを囲まれて、逃げる隙を見つけることも出来ないまま、

俺は街の表通りから少し奥に入った場所にある建物に連れて行かれた。

外階段を登って二階に上がり、ドアの中に入ると、

そこには革張りのソファが一式と大きな机が置かれていた。

机の向こう側に、昼間ならちょっと眩しすぎるくらい日差しが入るだろう

大きな窓がある。

 

鮎川より少し若く見える黒眼鏡の男が、机の椅子に座って、

足を机上に投げ出した横着な格好で部屋の中にいた。

細身の体に黒シャツに黒いスーツ。長い黒髪。

全身黒ずくめで爪切りを持って、左手の爪を切っている。

 

「若。三杉の家に行ったんですが、やっぱり本人はいませんでした。

息子がいたので、倉松様の件にどうかと、連れてきました」

若と呼ばれた男は、切り終わった爪をふっと吹いて、俺を見た。

「いくつだ?」

口を開けて、今度は爪にやすりをかけながら、

大して興味もなさそうに聞いてくる。

俺が黙っていると、鮎川が俺を睨みつけた。

 

無言の圧力をかけられて、俺は、「十九」と小さく呟いた。

若と呼ばれている男(どうやら若頭らしい)は、フンと鼻を鳴らした。

「いいんじゃねぇの?あの人の趣味からすると、

ちょっとトウがたってる気もするけど、年より若く見えるし、大丈夫だろ」

選りによって俺が密かに気にしてる「童顔」をストレートに指摘されて、

俺はムッとした。

だいたい、言ってる内容が気色悪くてたまらない。

そんな趣味の変態親父に抱かれると思ったら虫唾が走った。

 

「借金を返したいなら、大人しく言うことを聞いて働けよ。

相手に失礼のないようにうまくやれば、すぐに返せる」

それが普通の仕事なら、どんなにキツくても、頑張って働くだろう。

だけど、俺はそんなのは我慢できない。

それに、親父は俺を見捨てて逃げたんだ。

そんな親父のために、体を売ったり、しない。

「じゃあ、早速稼いで来てもらおうか。鮎川、連絡を入れろ」

 

若頭が、机の上の電話を顎で指した瞬間、

俺は頭の中でGOサインを出した。

事務所まで来て油断したのか、

緩くなっていた俺を掴む腕を振り払い、走り出す。

机の上に駆け登り、驚く黒ずくめの男の頭上を飛び越え、

体を丸めて窓に向かって突っ込んだ。

ガラスの割れる凄まじい音がして、俺の体は建物の外へ飛び出した。

次いですぐに落下感に包まれる。

 

バコッという音がして、背中に痛みが走った。

何かから落ちて、ゴロゴロと土の上に転がる。

慌てて体を起こしてみると、俺は積まれたダンボール紙の横にいた。

一番上のダンボール紙の、俺の体重を受け止めた箇所が、

見事にひしゃげている。

二階から鮎川が顔を出した。

「あのクソガキっ!逃げたぞっ。捕まえろっ」

 

舎弟たちに向かって言っているのだろうその大声を聞いて、

それを合図のように立ち上がり、俺は駆け出した。

死ぬかも知れないと思いながら、二階から飛び降りた。

だけど、無事だった。次はどうすればいい?

捕まったらただでは済まない。

逃げるしかない…でも、どこへ。

アテもない俺だったけど、俺の足は走り出していた。

 

一心不乱に走る。

走って、走って、走って。街の外れ辺りまで来た。

息が切れ、焦る気持ちもあって足が思うように動かなくなって絡まり、

それでもとにかく手足を動かして進もうとする。

そんな俺の前に、車が二台現れて、俺の行く手を阻むようにして止まった。

ハッとして、足を止める。

ドアが開いて、中から男たちがバラバラと降りてくる。

最後に鮎川と黒ずくめの男が出て来て、俺は踵を返して走り出そうとしたが、

後ろから追ってきた男に腕を捕まれ、捕らえられてしまった。

 

そのまま鮎川の前に差し出される。

もう終わりだ。俺は覚悟した。

次の瞬間、ピシャッと頬が鳴った。

鮎川の平手打ちの音だった。頬が熱くなる。

「ふざけた真似しやがって」

怒りを含んだ低い声が聞こえた。

 

恐る恐る顔を上げると、銀縁の眼鏡の奥の目が、冷たく光っていた。

胸倉をグッと掴まれて引き寄せられる。

鮎川の目がかっと開かれて、一瞬にして、怒りの感情が噴出し、

それが自分に向かうのを感じた。

拳が飛んでくる。

「調子に乗るんじゃねぇっ!」

思い切り殴られて俺は吹っ飛んだ。

 

地面に転がったところを足で蹴られる。

固い革靴の先が鳩尾(みぞおち)に入って息が止まる。

続いて他の奴らの蹴りが容赦なく襲った。

あばらと腹を思い切り蹴られる。

骨が軋み、足先が腹に食い込んで咳き込んだ。

「ゲホッ、ゲホッ」

 

体をくの字に折り曲げ、苦痛に耐えていると、

今度は顔に蹴りが飛んできて目の前に火花が散った。

目の上が切れて血が噴き出すのが分かった。顔の上を伝う血の熱さを感じる。

もう一度、顔を蹴られ鼻の骨が嫌な音をたてた。

「ぐっ…うぅ…」

鮎川が近づいてきて、呻く俺の胸倉を掴み上げ、俺の顔を拳で殴り始める。

ガキッという音がして、口の中に血の味が広がった。

 

鮎川は、執拗に俺を殴り続け、やめようとしない。

「ふふ…」

奴の喉の奥から笑い声が漏れるのが聞こえてきた。

まるで殴ることを楽しんでいるようだった。

若頭の声がした。

「好きだね、お前も。死んじゃうよ」

 

「いいんですよ。死んだって」

鮎川がそう答えたとき、

「そこで何してるっ。喧嘩かっ?」

少し離れた場所から声が聞こえた。

鮎川が手を止める。

若頭と顔を見合わせてから、

血に染まった拳を俺のシャツで拭って立ち上がった。

 

「行くぞ」

若頭の一声で、奴らは、俺を残して足早に立ち去っていった。

声の主らしき男が、俺に気づいて歩み寄ってくる。

「君っ、大丈夫かっ」

暗い中でも、俺のダメージが分かったのか、

緊迫した様子で体を近づけ声をかけて来る。

 

「今、救急車を呼んでやるからなっ」

男が携帯電話を取り出した。

俺は手を伸ばして、電話をかけようとする男の服をつかんだ。

「呼ぶな…」

声を出すのも辛かったが、何とか言葉を発すると、

男がはっとしたように言った。

「敦也?」

告げてもいないのに自分の名前を口にされて、

俺は相手の顔を見ようとしたが見れなかった。

 

暗くて視界が悪いうえに、血が入ったのか目が上手く開けられない。

でも、男の声には聞き覚えがあり、気の遠くなるような痛みの中、

思い出すことができた。

「おっさん…?」

この声はおっさんだ。

「敦也なんだな?なんでこんなことになってんだ。救急車呼ぶぞ。いいな?」

「駄目…だ。呼ぶな」

 

俺はもう一度、歯を食いしばるようにしてキッパリと言った。

そして、おっさんに立ち去ることを促す。

「いいから、もう、放って、どっか行けよ」

なに関わりあいになろうとしてんだよ。

こういう時は、見て見ぬふりすんだよ。

 

体中が痛くて、呼吸をするのさえ、キツい。

フーフー言ってる俺を、おっさんはじっと見ていたが、

そのあと何も言わずに消えた。

俺は目を閉じる。

それでいい…。

 

今夜は冷えてるし怪我はしてるし、明日の朝には俺、

新聞に載ってるかも知れないな。

転がったままそう考えたら、なんだかものすごく惨めな気持ちになって、

泣けてきた。

体を血が駆け巡るのに合わせるように、傷がズキズキと痛む。

こんな思いをして、こんなことが続くなら、もう死んでもいい。

 

近くで、車のドアを開閉する音が聞こえた。そして、足音。

またあいつらが戻ってきたのか…?

と思って、身を硬くしていたら、上からおっさんの声が降ってきた。

「今から車に乗せるからな」

「……」

俺は、何も言わなかった。

おっさんは一度立ち去って、俺のために車を近くまで持ってきたらしかった。

 

おっさんの気持ちが分からない。

そして、今の俺には、おっさんがしようとすることに抵抗する力も残っていない。

俺は、おっさんに身を任せるしかなかった。

 

 


 

 

 

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