花ぬすびと 4
おっさんは、濡らしたガーゼで、俺の顔を注意深く拭いた。ゆっくりと丁寧に。
「最初、誰だか分からなかったぞ」
傷をよけるようにして粘ついた血を拭い取ると、
薬箱らしきものを持って来て、蓋を開ける。
「右目の上が切れて傷口が開いてる。かなり出血してる」
おっさんは、傷の状態を見て、俺に説明をした。
「鼻の骨が折れてるようだし、口の中も切れてるみたいだ…
マウスピースをつけずにボクシングでもやったのか?」
面白い冗談だ、と思ったが笑えなかったし何も返せなかった。
おっさんが何かベタッとしたクリーム状のものを目の上の傷に塗りつけ、
綿と白い布をかぶせてテープで固定した。
顔のどの傷の痛みも、ダイレクトに脳に来る感じで、ズキズキする痛み、
じんじんする痛み、鈍痛、いろんな種類の痛みが、
こぞって俺を攻撃し続けている。
加えて、腹の痛みが息を吸うたびに苦しさと共にやって来て寒気が襲い、
やりきれない気分になった。
今いるここは、おっさんの家で、俺はおっさんのベッドに寝かされている。
俺はどうやらこの方角を目指して走っていたらしい。
誰かに頼るつもりなんて、全くなかった筈なのに…
おっさんも、おっさんだ。
こんな血だらけの怪我人を家に運んで、自分のベッドをあけ渡して、
本当にいったいどういうつもりなのだろう。
おっさんが、体温計で俺の体温を測る。
「微熱ってとこだな」
そう呟いて、掛け布団を俺の顎の辺りまでかけなおす。
「当分痛いばかりだろうが、我慢しろ」
おっさんはベッドの横に座布団を持ってきて、どかっと腰を下ろした。
何も言えずに目を閉じて、痛みを耐えていたら、
俺はいつの間にか眠っていたらしい。
あるいは気を失っていたのかも知れない。
夜中に痛みと寒さで目が覚めた。
体がガクガクと震える。
「寒いのか?」
心配そうな声が上から降ってくる。おっさんの声。
ずっと起きて見ていてくれたのだろうか。
「熱があるし、かなり失血したからな。
…ひょっとすると他に具合の悪いところもあるかも知れない」
おっさんはそう言って黙った。
もしそうだったとしても、救急車を呼ぶなと言ったのは俺だから自業自得だ。
「死ぬなよ」
おっさんがぽつりと呟いて、俺は衝撃を覚えた。
なんだか信じられなかった。
そう言ってくれる人がいるのか。
自分にはこの世界にそんな人は誰もいないと思っていた。
俺はそう言われたことを、嬉しく思っている自分を感じた。
なのに、おっさんの次の言葉はこうだった。
「私の部屋で死なれては、面倒だ」
それを聞いたら、
「はは…ははは」
笑えてきて、声を出して笑ったら涙が零れた。
「…ひっでぇ」
売り言葉に買い言葉で、思わずなじったが、その後切なさで胸が痛くなり、
「もう俺、死んでもいいんだ。生きてたっていい事ないし」
弱音が口を突いて出た。
おっさんは、笑うでも怒るでもなく、静かな声で返した。
「そう言うやつに限って、長生きすんだよ」
それを聞いて、俺は、もう一言加えた。
おっさんに言ったって仕方がないことだったけど、言わずにいられなかった。
「大人が悪いんだ」
口から出た言葉の刺々しさに自分の発したものながら、鳥肌が立つ。
そして、おっさんは、それには何も返さなかった。
夜中にまた目が覚めて、気がつくと、おっさんが俺の足の裏をさすっていた。
俺の冷たい足に温もりを取り戻させようとしているらしく、
熱くなった手の平には強い力が込められていた。
俺は驚いたが、そのまま眠っているふりをした。
なぜか凄く安心して、眠っているふりをしたつもりが、
いつしか本物の眠りについていた。
少し眠っては目が覚め、また眠っては目が覚め、
を繰り返すうちに夜が明けてきた。
朝になって、朝食に、とおっさんがおかゆを作って食べさせてくれようとしたが、
俺は食欲がなくてほとんど食べられなかった。
「体力をつけるにはまず食べることなんだがな…そうだな。まだ無理だよな」
そう言って、今度は水と薬を持ってくる。
「市販の痛み止めだから、あまり役に立たないかも知れないが一応飲んでおけ」
俺は言われた通り、それを飲み下した後、また眠った。
昨夜よりも体が重いし、痛みの度合いも感覚が麻痺してる感じで、
良くなっているのかどうかよく分からない。
その後も、浅い眠りを漂うようにして時間が過ぎていった。
おっさんは、いつ目を覚ましても俺のそばにいる。
ベッドの脇に座布団を持ってきて胡坐をかき、本を読んでいる。
体が大きいので、ちょっと達磨のようにも見えた。
「おっさん、仕事は?」
ずっとつきっきりでいるようなので聞いてみると、顔を上げて
「休みを取った」
と答えて立ち上がった。
俺のまぶたの布をゆっくりと剥がして、具合を見る。
「かなり腫れたな。お岩さんみたいだ」
実際そんな感じに腫れているのだろう。
まぶたが重くて、右目は全く開けられない。
おっさんが、薬を塗り直し、綿と布を新しいものに取り替えてくれた。
「冷やした方がいいのかも知れないが、どうしたもんかな。
濡れタオルでは、布が濡れるしすぐ落ちるし、
氷を袋に入れたものにしても似たようなものだから…」
そう言いながら考えていたおっさんは、立ち上がると薬屋に出かけ、
シート状の熱さましを買って来て、布の上から貼った。
「熱もあるし、これでいいだろ」
おいおい、いい加減だなぁ。
「素人の思いつきの治療だからな。うまくいかなくても文句垂れるなよ」
おっさんは二日間仕事を休んで俺を看てくれたが、
三日目はどうしても休めなかったらしく、俺を置いて外へ出ていった。
静かな昼間の部屋で横になりながら、
なんとなく体が快(よ)くなってきたのを感じる。
体を起こしてみた。腹の方は、もう大丈夫のようだった。
痛みもないし、少しずつ食事も摂れるようになってきている。
回復し始めたら早い。
でも、顔を鏡で見て、ちょっとがっかりした。
お岩さんほどではなくなったが、普通の状態からしたら痛々しいくらいに
まだ目の上が腫れていたし、鼻も触ると
「ひっ」
むちゃくちゃ痛かった。
むちゃくちゃ痛くて…でも、今自分がいる場所のことを思うと、
ふっと安らかな気分になった。
おっさんが仕事から帰るのを待って、一緒に簡単な夕飯を食べる。
種類は少ないけど、おかずもご飯も量だけは多めに用意してくれた。
食べていると、おっさんが俺の顔を見て言った。
「ご飯粒がついてるぞ」
「あ?どこ?」
俺が分からずに聞き返すと、自分の口元を指差した。
俺が顔の同じ箇所に手を伸ばすと、
「逆だ」
おかしそうに笑って、手を伸ばして俺の口元についていたそれを取って、
自分の口に入れた。
俺は、ポカンとおっさんの顔を眺めた。
おっさんは、何もなかったかのように続きを食べている。
今のって、なんでもないことなのか?
俺はものすごく驚いたが、その気持ちを表に出さないようにして飯を食べ終えた。
「テレビ見てもいい?」
本を読み始めたおっさんに、そう聞いて了承を得てからテレビをつける。
片目では見にくかったが、久しぶりに見るテレビはなんとなく新鮮で、
俺は画面をぼんやりと眺めた。
しばらく二人ともその状態で過ごしていたが、俺はふいに聞きたくなって、
テレビから視線をおっさんに移した。
「なぁ」
「ん?」
「何で俺のこと、助けたんだよ」
すると、彼が本から目を上げて、俺を見る。
「人が怪我して転がってたんだ。放っておくなんて出来ないだろう」
「そんなお人よしが、どこにいるんだよ」
俺がそういうと、奇妙な沈黙が辺りを支配した。
漫画なら『ここにいる』とおっさんに向かって矢印が出ているような沈黙で、
俺はなんとも言えないムズムズした気持ちになった。
「私が万引きを止めなかったら、敦也は警察にいて、
こんなことにはなってなかったんだろう?」
おっさんは、それを助けた理由として付け加えようとしたようだが、
俺は首を横に振った。
「…同じだよ。結局奴らはやって来たさ」
そうだ。そして、万引きを止めたのがおっさんでなかったら、
俺はもうここにいなかったかも知れない。
「おっさん」
おっさんに呼びかける。
「まだ名前聞いてなかった。おっさん、なんて言うんだ?」
「表札、出てるだろ」
「見に行けってか?面倒だから教えてくれよ」
おっさんは、ほくそ笑んでいる。
「名前を聞いたって、意味ないだろう」
知らなくていいと?俺は教えたのに。
俺は、チッと舌打ちして立ち上がると、玄関に向かい、外に出た。
自分から首を突っ込んでおいて、なんでこんなときだけそっけないんだよ。
家の前に立って表札を見る。
『山城渉』と書かれた木の札がかかっている。
「山城…渉。山城さん、か」
口に出して言ってみたら、すごくしっくり来る気がした。
その響きを頭の中で繰り返しながら中へ戻ると、山城さんが聞いてきた。
「元気になったら、出て行くんだろう?」
「…ああ」
そう答えたものの、帰る場所がないのは前と変わりなかった。
親父と住んでいたあの家には、帰りたくない。
出ていくことを考えたら、何故かすごく心細くて淋しい気持ちになる。
「何か仕事をしてるのか?」
「バイトを二つ」
「治ったらまた働かせてもらえるように、ちゃんと連絡を入れておけ」
「…うん」
「それまでは置いてやるから」
その日から毎日、夕食後は山城さんと話す時間になった。
最初は他愛もない日常の出来事などを喋っていたが、そのうちに俺は、
これまでの自分の生い立ちや、今回自分の身に起こったことなど、
気づくと自分の全部といってもいいくらいたくさんのことを、
彼に話してしまっていた。
山城さんはそれらを、急かすことなく、嫌がることなく、
いつも静かにじっくりと聞いてくれた。
今まで俺の話にこんなに耳を傾けてくれる人はいなかった。
誰かとこんなに打ち解けて話せたことも、今までになかったことだ。
「だいぶ良くなったな」
「うん」
山城さんがゆっくりと布を外して、傷口に分厚く塗られたクリームを、
そっと拭うようにして取り去る。
目の上の傷は塞がって、腫れもほとんど引いていた。
恐る恐る開けてみると、あれだけ重かったまぶたが普通に持ち上がり、
目の機能に支障もないようで、山城さんの顔が間近に見えた。
「見えるか?」
あんまり間近で、ちょっとびっくりして
「うん。山城さんの変な顔が」
思わず笑った。山城さんも笑う。
「変とはなんだよ。恩人に対してあんまりだな」
笑っていると、山城さんが真面目な顔をした。
「ま、傷痕の方は、癒えるのに時間がかかるだろうが、
とにかく…見えて良かったな」
ちょっと感極まった感じで言って、目を逸らす。
それで分かる。
山城さんは、俺の目のことを本気で、相当心配してくれていたのだ。
俺は、そんな山城さんの横顔を、
今まで感じたことのない不思議な気持ちになりながら見つめた。
傷痕の布は、大き目の絆創膏に変わり、俺はバイトを再開した。
体もずいぶん良くなった。もう仕事も出来る。
でもそうすると、これからは外に出ることになって、
俺がここにいることが奴らに知れてしまう。
もう取り立ては諦めているだろうか。
いや、そういうものでもないだろう。
親父が払ってでもいない限り、借金が消えることはない。
「元気になったら、出て行くんだろう?」
この間、山城さんはそう言っていた。
追い出したいというわけじゃなく、
それが自然な流れだと思っている口調だった。
そうだよな。赤の他人なんだし、体が良くなったら、
俺がここにいる理由も、山城さんが俺を置いておく理由もない。
アパートを出て行くことを考えると、すごく寂しい気分に襲われた。
山城さんのそばにいていいなら、ずっといたい。離れたくない。
だけど、俺がいたら、きっと迷惑がかかってしまう。
…やっぱり出て行くべきなのだろう。
俺は、バイトを再開してすぐに、意を決して山城さんに、
出ていくことを告げた。
「そんなこと言ったって、行くところがないんだろ?」
山城さんは、俺の言う事を聞いて驚いた顔をした。
そうだ。もう全部話してしまって、行くところがないことも、
元のアパートには戻りたくないと思っていることも
山城さんに知れているのだった。
「どうにかするよ」
「どうにか…ったって、お前また…」
山城さんはそう言ったきり、しばらく黙って考えていたが、
やがて顔を上げ、ポツリと呟いた。
「ここで暮らすか?」
俺は信じられなくて、山城さんの顔をじっと見た。
本気?本気で言ってるのか?
山城さんがそう言ってくれるのは、すごく嬉しかった。
「でも、奴らがまた来る。山城さんに迷惑がかかるよ」
「それなら心配ない。金は私が払っておいた」
俺はびっくりして、ポカンと口を開けた。
なんだって?
「どうせ、使うあてのない金だ。独り身だし、
墓の中まで持っていっても仕方がないだろう」
親父の借金って、確か三百万だった筈だけど…
そんな大金を、深い知り合いでも身内でもない人間に代わって払うなんて、
どうかしてる。
「嘘だろ?」
「本当だ」
俺は、どうしても信じられなくて、視線を宙に這わせた。
使うあてがないと言っても、これからの生活や老後にだって、
お金がかかるに決まってる。
いくらあったって、ありすぎるなんてことはないはずなのに。
猜疑心にかられた俺は、山城さんを見つめて聞いた。
「何が目当てなんだ?」
「あ?」
「ひょっとして、俺の…体?」
俺は鮎川の言ったことを思い出して、そう口にした。
裏にはそういう世界があって、いくらでも金を出す人間がいる。
確か奴は、そんなことを言っていた。
山城さんは、目を丸くした。
「お前、男だろ?…面白い冗談だな」
それから、少し笑った。思ってもみなかったという反応だ。
あまりにも真っ当な反応で、それを見て、
俺は恥ずかしくなって顔がかあっと火照ってきた。
そ、そうだよな。普通に考えたら、そんなのおかしいよな。
「金は返さなくてもいいが、返す気があるなら、
働いて少しずつでも返してくれればいい」
「……」
「返事は?」
「ああ。うん」
俺は、まだ事態をうまく呑み込めなくて、ぼうっとしたまま頷いた。
でも俺、もし借金を体で払わなきゃならなかったとしても、
山城さんなら、嫌じゃなかったかも知れないな。
一瞬そんな風に考えてハッとし、その考えを振り払う。
な、何考えてんだ、バカ。