花ぬすびと 5


 

俺は山城さんと一緒に暮らし始めた。

今までだって一緒にいたが、いつまで、

という期限を考えなくてよくなった日々は、

落ち着いた時間と気持ちに余裕を与えてくれる。

朝六時に起き、山城さんと朝食を摂り、

山城さんはスーツを着て市立図書館へ出かけ、

俺は私服でバイト先へ出かける。

 

夜は夕飯を食った後、山城さんとテレビを見たり話したりして過ごす。

山城さんは、大抵いつも何か本を手にしていて、それに目を落としているが、

話しかけると、顔を上げてちゃんと聞いてくれる。

彼はよっぽど本が好きみたいだ。

ベッドのそばにある本棚には、ぎっしりと本が詰まっていて、

入りきらなかった分が脇に積まれている。

本が好きだから、図書館の司書になったんだろうけど、

仕事でも本を触っていて、帰ってからも読むなんて、

本を読まない俺にはちょっと信じられないことだ。

 

「明日は、何か用事があるのか?」

金曜の夜、山城さんが聞いてきた。

「ないけど、どうして」

「服でも買いに行くか、と思って。お前、あんまり持ってないだろ」

確かに雨の日が続いたら、着るものがなくなる程度の枚数しか持っていない。

今だって、2パターンくらいをグルグル着まわしているだけだ。

 

「一緒に買い物?」

「ああ。嫌か?今どきの服なんて私はよく分からないから、

一人で行って好きなのを買ってきた方がいいか」

俺は、それを聞いて激しく首を横に振った。

「ううん。一緒がいい。山城さんが見て、俺に似合うの選んでよ」

 

翌日、山城さんは、俺の買い物に付き合ってくれて、

俺は上下二枚ずつ、計四枚の服を買った。

試着室での着替えは面倒くさかったけど、山城さんが店員と相談しながら、

何着もとっかえひっかえ持ってきてくれるのは嬉しかった。

着て見せるたびに、似合ってるか似合ってないか言ってくれたが、

そのうちちょっと飽きてきたらしく、どれを着ても

「敦也は細いからなんでも似合う」

と言うようになってきて、俺は結局、

始めのうちに彼が似合うと言ってくれた中から四枚を購入した。

 

というか、山城さんがプレゼントしてくれた。

「買ってやる。退院祝いみたいなもんだ。」

俺は、自分で払うと言ったけど、

山城さんはそそくさと財布を出して先に払ってしまった。

退院祝い…って。

怪我の治療させられて、借金肩代わりさせられて、その上そんなものまで。

いったいどんだけお人よしなんだか。

と思ったが、口には出さず礼を言った。

 

次の日、日曜日には、

「ちょっと見たい映画があるんだが、一緒に見に行くか?」

と山城さんに言われ、生まれて初めて映画館で映画を見た。

でかいスクリーンで見る映像は、信じられないくらい綺麗で、

俺は画面の細部にいたるまで全部を覚えておきたくて、

上映中ずっと目を皿のようにしていた。

「敦也、ポテトが冷めるぞ」

「あ、うん」

 

映画館に入る前に買ったポテトを食べ、

ジュースを飲みながら映画を見たその時間は本当に幸せな時間だった。

こんなに楽しい想いをすることが出来る日が来るなんて、思ってもみなかった。

その後は夕飯を外で食べて、満腹の状態でアパートに帰り、

そのままのんびりする。

テレビをボーッと見ながら、今日の出来事を思い返していたら、

こんな言葉が口から出た。

 

「俺、どうしてあんな親父の元に生まれたんだろう」

山城さんが本から顔を上げて、俺を見る。

ちょっと考えるようにしてから、静かに言った。

「親父さんの元で過ごした時間にも、きっとなにか意味があるんだろう」

俺は、山城さんの言葉に驚いた。

「本当にそう思う?」

そんなふうに考えたことなんて、なかった。

 

「『人生には無駄なことなんてない』」

山城さんが改まった口調でそう言った。

なんか不思議な言い方で、俺はちょっと違和感を感じながら彼を見た。

山城さんが笑みを浮かべる。

「私の言葉じゃないが、きっとそうなんだろう。

どんな出来事もきっと意味があるんだと思う」

「私の言葉じゃないって、じゃあ誰の言葉だよ」

 

「私の先輩だ」

「ふーん…」

俺が少しがっかりしていると、

山城さんは顔を上げてどこか遠くを見るような目をする。

「ものすごく落ち込んでいたとき、そう言われて、

私はすごく救われた気がしたんだ」

山城さんの言葉に、思わずその横顔を見つめた。

山城さんも、そんなに落ち込むことがあるんだ。

 

「『若いときにはどうしても許せなかったことが、

年を取るにつれて許せるようになってくる』」

山城さんが、続けてまたちょっと改まった言い方をして、

俺は、それも山城さん自身の言葉ではないとピンと来た。

「それは誰の言葉?」

それで聞いてみる。彼は、嬉しそうにして続けた。

「中学の先生の言葉だ。私が思春期で世の中の全てに腹が立って、

許せないような気がしていたときにそう言われて、

そのときは余計腹が立ったけど、今思い出すとすごく納得できる言葉になった」

「へぇ」

 

こんなに落ち着いている山城さんにも、

そんな反抗期みたいな時期があったんだ。

「許せるようになった?」

「ああ。なったな」

山城さんが明るい表情でそう言ったとき、俺は、心から「良かった」と思った。

彼の気持ちが晴れたことを思うと、

なぜか自分もすごくスッキリとした気分になった気がした。

 

「人生の先輩の言葉もいいし、

本や映画の中にもいい言葉がいろいろ出てくるぞ」

「ふーん…例えば?」

「そうだな」

山城さんは、なにか探しているように上目遣いをすると、

大事な言葉に辿り着いたのか、おもむろにそれを口にした。

「『愛とは決して後悔しないこと』」

「それは?」

「『ある愛の詩』っていう映画の中の言葉だ」

 

愛とは決して後悔しないこと。

普通に口にしたら、恥ずかしい言葉のような気もするけど、

自分以外の人が言ったという形だと、それほどでもなくなる。

俺は山城さんを見た。

「山城さん、誰かを好きになったことある?」

「そりゃあるさ。この年でなったことがないって方がどうかと思うが」

「山城さんって、いくつ?」

「三十五」

 

山城さんが簡潔に答え、俺はそのことについて考えを巡らしてみた。

言われてみれば、確かにそうかも。

誰かを好きになったことぐらいあるだろうなぁ。

愛とは決して後悔しないこと。

俺は、頭の中で、その言葉を繰り返してみた。

潔くって、いい響きだと思った。

だけど、なかなか難しいことなんじゃないかとも思う。

 

「でもさ、後悔ってするよ。どうしても」

「そうだな」

山城さんは頷いて、続けた。

「『人間には人生を失敗する権利がある』映画『アメリ』の言葉」

「うわー、開き直りだ」

俺は、苦笑した。山城さんも苦笑して、

「でもなんか強気でいいだろ」

 

そう付け足すと、もう一つ挙げた。

「『人生は恐れなければ、とても素晴らしいもの』」

「それは?」

「チャップリンだ」

俺の頭の中に、黒い帽子を被ったちょびヒゲのおっさんが思い浮かんだ。

「チャップリンって何する人?」

俺は、時々テレビで見るチャップリンと呼ばれるおっさんが、

どういう人なのかよく分かっていなくて聞いた。

 

「映画監督だよ。自分も出演してる」

「へぇ、そうなんだ」

俺は初めて知って、驚いた後、感心した。

偉い人なんだな。あのおっさん。

人生は恐れなければ、とても素晴らしいもの。

そんな言葉も残したりして。

 

「とりあえず元気になれるね」

「そうだな。名言ってそんなもんだな。

今日の残りの時間くらいは元気にしてもらえる」

山城さんが明るく言って、また一つ挙げる。

「人は『明日を精一杯生きるより、今日を精一杯生きなきゃいけない』からな」

俺が、何に出てきた言葉かを目で催促すると、答えてくれた。

「これは、映画『ゴースト』だ」

 

俺は嬉しくなる。

「俺、本も読まないし、映画もあんまり見たことないから、もっと教えてよ」

そう言うと、山城さんが、立ち上がって風呂を沸かしに向かった。

「今日は終わりだ。また明日な」

行く途中で、俺の髪をクシャクシャとかきまぜるようにして頭をなでた。

俺は思わず目を閉じて、首をすくめるようにする。

そしてちょっとムッとしながら、髪を手で整えて元に戻した。

 

子供扱いするなよな。

頭ではそう思う。

のに。

なんでか嫌じゃなくて、俺はそう感じたことに反発するように、

「フン」

わざとそう口に出してみた。

かきまぜる手の感触が頭の天辺に残る。

 

 

怪我の治療をしたのの延長で、ベッドはそのまま俺が占領してしまって、

夜眠るとき山城さんは、横に布団を敷いて眠っている。

一緒に暮らすことが決まった日の夜に、

「いいよ。俺、下で寝るから」

と言ったのだけど、

「いいから、お前が寝ろ」

と強く言われて、それ以上何も言えずその日からずっと俺がベッドに寝ている。

 

俺は横向きになって、上から山城さんの寝顔をじっと見つめた。

彼が、無防備に寝入っている姿を見ていると、なぜか泣けてきそうになる。

なんだか分からないけど、突き上げてくる衝動のようなものがあって、

抑えるのが苦しくてたまらない。

そんなことなら見つめなければいいのに、見つめてしまう。

 

長いことそうして見つめた後、俺は仰向けになった。

こんなの駄目だよな。こんなの…駄目だ。

俺は自分に言い聞かせる。

何が駄目なのか、知っているけど分からないフリをする。

だって、駄目に決まってるんだ。

 

 

翌日。バイトが終わってアパートに帰り、

夕飯も食って山城さんが帰ってくるのを待っていた。

が、山城さんはちっとも帰って来なかった。

そのうち帰るだろうと思って、風呂にも入らず待つ。

やがて零時をまわった。

山城さんが帰ってこない。待っても、待っても。

だんだん不安になってくる。

電話も鳴らない。

 

テレビも面白くなくて消して、じっとしていると、

遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

ひょっとして、…事故に遭ったりしてないよな。

病気になったりとかも…

そんな考えが浮かんで、胸が苦しくなる。

山城さんがいなくなったら、俺…

俺も生きていたくない。

 

彼と出会う前の気持ちを思い出してしまい、

暗い気分に沈みそうになったとき、外で物音がした。

ハッとして立ち上がると、ノブを回す音がしてドアが開き、

「ただいま」

山城さんが姿を見せた。

 

「なんだ。起きてたのか。寝てても良かったのに」

俺を見てそう言うと、上着を脱ぎながら、入ってくる。

「仕事で本の品抜きに行ったら、高速が物凄く渋滞しててな。遅くなった。

悪かったな、電話も出来なくて。風呂は入ったのか?」

理由を説明してからそう聞いてきた山城さんに、

俺は、ぶつかるようにして抱きついた。

 

「敦也っ!?」

彼が、驚いた声をあげる。

「どうした?」

「……」

俺が黙っていると、少し笑って俺に離れるよう促す。

「疲れてるんだよ。冗談はよせって」

でも俺は離れなかった。余計にきつく抱きつく。

「こらっ、本当に…怒るぞっ」

山城さんが、少し本気になって強い口調で言う。

 

俺は彼を、ちょっと泣きそうになりながら見上げた。

「俺、山城さんが好きだ」

思い切って言ってしまう。

好きだという想いを、これ以上押さえ切れなかった。

「好きなんだ。どうすればいい?俺」

男に好きなんて言われたら、山城さんが困るだろうってことは分かってた。

だけど、言わずにいられなかった。

 

山城さんは、そのまま固まったように動かなくなった。

長い沈黙が部屋を支配する。

俺は、その静けさに耐えられず、抱きついたまま渾身の力をこめて彼を押した。

山城さんが、数歩下がって板張りの床に尻餅をつき、

二人は重なって横たわるような体勢になった。

俺は山城さんの上に乗っていて、俺の下に山城さんの顔がある。

 

俺はそのまま、彼の唇に自分の唇を重ねて目を閉じた。

何の反応もない。拒絶も受け入れもしない。

俺は、何も考えなかった。

ただ大好きな山城さんが欲しくて、夢中で彼の口を吸った。

それから離れて、山城さんを見る。すると彼はじっと俺を見つめ返してきた。

嫌われただろうか。俺はそう思って、少し怖くなった。

 

「こういうこと、した事あるのか?」

聞かれて、俺は首を横に振った。

こういうこと、とは男と、ってことなんだろう。

俺は男だけじゃなくて、女とだってしたことない。

「だって、誰かを好きになったことなんて、今までないんだ。

こんなことしたいって思うのも、山城さんが初めてなんだ」

 

山城さんが、それを聞いて俺の二の腕をそっと掴むと、俺を離して見る。

「敦也。よく考えてみろ。敦也は私に『恩』を感じてるだけだ」

俺は、山城さんの言葉に首を横に振った。

「違うっ。どうして決めつけるんだよっ」

確かに恩は感じている。感謝してもしきれない。

だけど、今抱いてるこの感情、これは恩なんかじゃない。

なぜなら、鮎川に言われたとき、キモイと思った行為を、

今、俺はしてもいいと思っている。

してもいい、じゃない。したい、と思ってる。

あのとき、死ぬかも知れないのに、

一か八かで二階の事務所から飛び降りてまで、したくないと思ったことを。

 

恩を感じただけの相手に、こんな気持ちを抱いたり、しない。

「恩なんかじゃない。俺、山城さんが好きなんだ」

俺の気持ち、どうしたら分かってもらえるのだろう。

「山城さん、俺、どうしたらいいのか分からないよ」

嫌われたら、そうしたら俺はもう、俺にはもう何もない。

 

そう思ったらものすごい孤独を感じて、

「お願いだから」

俺は彼の首にかじりついた。

どうか受け入れて、俺を…

しばらくして、山城さんの手が動く気配がした。

そうして背中に回された手が、柔らかく俺を抱きしめる。

「敦也…」

 

耳元で名前を呼ばれて、俺は顔を上げて山城さんを見た。

次の瞬間、山城さんの唇が俺の唇を塞いだ。

「ん…っ」

思わず目を閉じる。彼の舌が入ってきて俺の舌に触れた。

山城さんの舌を求めて俺も差し出す。

「あっ…ふっ」

山城さんが俺の頭を支えるようにして優しく舌を絡めてくる。

「ん、…んんっ」

そのキスは、ものすごく気持ちよくて、

俺はこのままとろけてしまうんじゃないかと思った。

 

頭の中が真っ白になって、腰が抜けたようになり、体を支えていられない。

体を完全に山城さんに預けてしまう。

キスでこんなに気持ちよくなれるなんて知らなかった。

キスだけで、イッてしまいそう…

「あ……は…っ、俺もうっ、たまんない、山城さん」

山城さんは、こういうこと、した事あるんだろうか。

ちょっと慣れているような感じもある。

 

そう思ったとき、ふと山城さんの動きが止まった。

「…やっぱり、やめよう」

「どうしてっ」

「私が、敦也の人生を駄目にしていいはずがない」

俺は、呆然とした。俺も動きを止めて、考える。

それは、どういうこと?山城さんとそうなったら、俺の人生は駄目になるのか?

 

「お前は、これから誰かと家庭を持って、子供をつくって」

山城さんが、説明を始めて、俺はカッとなった。

なんでっ!俺はそんなの望んじゃいないっ。

「なんだよそれっ!俺は、そんなものいらないっ。

なんでそれが幸せだなんて信じてるんだよっ。そんなのただの一般論だろ!?

俺は、俺が欲しいのは山城さんなのにっ」

山城さんがいてくれたら、それだけで幸せなのに。

 

「ねぇ、俺のこと欲しいと思ってくれてるんだろ?」

「欲しいとは思う」

俺は、一瞬動きを止める。

山城さんも、俺を欲しいと思ってくれている。

そう思ったらむちゃくちゃ嬉しくなる。

「だったら!」

そう叫んでから、ふと山城さんが泣いているように見えて、ハッとした。

 

だけど実際には、山城さんは泣いてなどいなくて、

ただ苦悩に歪んだ表情をしていた。

俺は戸惑った。

俺は…山城さんを苦しめているのだろうか。

「山城さんは何も悩まなくていいんだ。俺が山城さんを好きでたまらないだけ。

山城さんにも俺を好きでいて欲しいけど、もしそれが無理でも構わない。

何も考えずに抱いて…」

 

身勝手な俺の願い。

だけど。

「俺の望みは、それだけ。他には何もない」

たった一つだけ。どうか、叶えて…。

 

 


 

 

 

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