胸に抱く人 1


 

だんだん暑くなって来て、山城さんは家に帰ると、

スーツから甚平に着替えるようになった。

山城さんは、和服がとてもよく似合う。

和服は、彼のしっかりと肉がついて、でも引き締まった体をより綺麗に見せて、

俺は思わず見惚れてしまい欲情せずにはいられない。

だけど、当の山城さんは、そんなことには全然気づいていないみたいで、

もう蛇の生殺しみたいな毎日だ。

 

「俺は若いんだから、もっとヤりたい。もっと俺を抱いてよ」

「貪欲だな。でも私は若くない。寝る」

マジ、泣けてくる。

俺を欲しいと思ってくれている気持ちを、山城さんは初めての夜、

ちゃんと示してくれた。

でも、俺が山城さんを欲しいと思う度合いと、

山城さんが俺を欲しいと思ってくれるそれとは、

天と地ほどの差があるように思える。

本当に、たまにしか抱いてくれない。

 

そりゃ、好きになって我慢できなくて、押し倒したのはこっちだけど。

もうちょっと構ってくれてもいいんじゃないだろうか。

それとも、山城さんは超ドSで、俺を焦らしに焦らしてから

抱くことにしているのだろうか。

いや、そんな風に考える人じゃない。

単に淡白なんだよな…きっと。

いろんなことを考えてグルグルしていると、疲れて、もう溜息しか出てこない。

 

 

そんなある日。

俺は、タンスの中に、指輪を見つけた。

銀色の指輪。

緩やかなひねりが入っているけれど、

いたってシンプルな何の装飾もないリング。

箱や袋などに入れられもせず、裸のまま無造作に、

タンスの一番上の引き出しの端っこに転がっている。

 

これは…結婚指輪?

取り上げて内側を見ると、W&Cと刻まれていた。

Wは渉のWだから山城さんのイニシャルで、Cってのは…。相手の人のだよな。

山城さんって、結婚してたのか?

俺は、ちょっとだけ裏切られたような気分になる。

 

以前、人を好きになったことがあるか、という俺の質問に、

山城さんはあると答えた。

あのとき、そりゃいい年なんだしあるだろうと俺も思ったけれど、

なぜか結婚とかまでは考えが及ばなかった。

だけどこんな指輪があるってことは、確かに結婚してた、ってことで…

今一人なのは、離婚したからだろうか。

それとも、ひょっとして先立たれた?

 

なんにしろ、今の山城さんからは女の人の気配は感じられない。

「……」

俺は、山城さんの過去を知らない。

結婚してたことだって、今これを見なかったら、想像もしなかった。

彼の人生にいろいろあったとしても不思議じゃないってことに、

初めて思い至っている。

「ハハ…」

なんだか笑いがこみ上げて来て、声に出して笑った後、

それを元の場所に戻して引き出しを閉めた。

 

山城さんの過去なんて、どうだっていいじゃないか。

俺は今の山城さんを愛してる。

こんなものを見たからって、その想いが変わるわけでもない。

もう終わっているのだろう過去にこだわったって、何の意味もない。

そう思いつつ…

俺は、指輪のしまわれた引き出しを見つめた。

「……」

くっそ…。すんごい気になる。

頭をかきむしった。

見なきゃよかった、あんな物。

 

 

山城さんは、大抵仕事が終わると真っ直ぐ家に帰ってくる。

誰かと一緒に飲みに行ったり、どっかに寄って遊んで来たり、

サラリーマンのイメージってそういう感じだと思っていたのだけど、

山城さんはそういうことをしない。

遅くなることはあっても、それは残業したときか、

どうしても出なければいけない仕事絡みの飲み会があったときくらいだ。

知り合いとは広く浅く付き合っているようで、

特別親しくしている人の名前とかを聞いたこともない。

 

夕飯の後、テレビを見ながら、ちらちら山城さんを見ていると、

本を読んでいた彼が顔を上げた。

「何だ。どうした?」

今日も甚平姿で、かっこいい。

そんなに太いわけでもないのに、筋肉質でバランスのいい足が、

惜しげもなく俺の眼前に晒されている。

盛り上がる気持ちを必死に抑えて、俺は、山城さんが気づいたのをいいことに、

彼に少し近づいた。

 

「そばにいっても、いい?」

上目遣いに聞いてみる。

「本読んでるだろ」

「邪魔しないから」

なんか言ってて照れくさくなってくるけど、しょうがない。

だって、こっちが積極的にならなきゃ、100年かかってもくっつけない気がする。

 

でも、そんな想いをして言ったってのに、待っていてももう何も聞こえてこない。

山城さんの視線は、本に戻ってしまっている。

もういいや。くっついてしまえ。

俺は、ススッと山城さんの横へ移動し、体を寄せた。

少し彼の方へ傾いて、体重をかける。

山城さんの肩と俺の肩が密着して、

ぬくもりとしっかりした肉の感触が伝わってくる。

それだけで、幸せだと思っていたら、彼が「暑いな」と呟いた。

 

確かに暑い。

まだ六月だけど、気温が30度を超えて、今日は真夏日だった。

今もあんまり下がってない気がする。

一応扇風機は回してあるけど、暑い。くっついたら、なおさら。

でも、いいんだ。山城さんの体温なんだから。

と思っていたら、今度は「重い」と聞こえてきた。

……。

確かに重いかも知れない。だけど、いいじゃないか俺の重さなんだから。

と思いつつ、もたれかかるのをやめる。

小さく溜息をつく。

 

なんか空しくなってきた。

なかなか抱いてくれないうえに、ちょっともたれかかったら、

暑いだの重いだの、ちっとも俺のこと好きじゃないみたいだ。

密かに拗ねつつ、離れて、ボーッとテレビを見ていると、

指輪のことがふと頭をよぎった。

「ねぇ、山城さん」

山城さんを呼ぶと、彼が本から目を上げて俺を見る。

 

「なんだ?」

「俺、山城さんに俺についてのほとんど全部と言ってもいいぐらいのこと、

話したよね」

と言うと、山城さんは、ちょっと考えるようにした後、

読んでいたページに栞を挟んで、本を閉じた。

彼は、ソノ気にはなかなかなってくれないけれど、

話はいつもちゃんと聞いてくれる。

 

「そうだな。いろいろ話したな」

そのときを思い出している表情で、山城さんが穏やかな笑みを浮かべる。

俺も、少し笑いながら、続ける。

「だから、今度は山城さんが俺に教えてよ。山城さんのこと」

そう言うと、山城さんの動きが一瞬止まった。

それから、俺の顔をじっと見つめる。

 

「どうして急に、そんなことを?」

山城さんが、訝しげに聞いた。

思いもよらなかったという表情だ。

「知りたいんだ。山城さんのこと」

俺が真剣な顔で見ると、彼は不思議そうに俺を見返した。

 

「いったい何が知りたいんだ?聞いたって、面白いことなんてないぞ」

自分から言い出したことだけど、

そう言われたらなんとなく聞きづらい感じになって、俺は黙った。

結婚相手と離婚したり、死別していたとしたら、山城さんにとっては、

きっと聞かれたくない話に違いない。

俺はそれをわざわざ聞こうとしている。

 

そうするには、覚悟のようなものが必要だった。

それでも俺は知りたいのか。

自問してから、彼を下から見上げるようにした。

心を決めて、切り出す。

それでも、知りたいのだ。

 

「たとえば、指輪の相手のこととか」

「指輪…?」

俺の言葉に、山城さんは首を傾げた。眉間にしわが寄る。

なんのことか見当がつかないらしい。

それで俺は、おもむろに立ち上がってタンスの所まで行き、

一番上の引き出しを開けた。

中に転がっていた指輪を手に元の位置に戻る。

 

「これ…」

座って、山城さんにそれを内側が見やすいようにして差し出すと、

彼は「おお」と声をあげて驚いた顔をした。

「あんなところに入れてあったのか…すっかり忘れてた」

忘れてた?ってことは、大事なものじゃないのか。

俺は指輪のイニシャルを指差す。

「内側にWとCの文字が彫ってある。山城さんの指輪なんだろ?」

確認するように聞くと、彼は落ちついた口調で「ああ」と頷いた。

 

「私の結婚指輪だ。捨てるのもなんだかな、と思って入れておいたんだと思うが。

他の人は別れた後どうしてるんだろうな、こういうの」

山城さんが、ちょっと困ったような表情をしながらも

意外とすんなりと明かしてくれた。

どうやら死別ではないようで、内心ホッとする。

「結婚してたんだ」

「ああ」

「…別れたの?」

 

俺の問いの後、一瞬の間があった。その後、頷く。

「まあ…そうだな」

俺の差し出した手の平の横に、山城さんが手を差し出して、

俺は指輪を彼の手の上に転がすようにして移動させた。

「相手の人のイニシャル、Cなんだ。なんて名前だったの?」

俺は、もう時効だろうと思って、図々しいかも知れないけれど、

思い切って聞いた。

「…千里(ちさと)だ」

 

山城さんの返事は穏やかで、その様子に、

俺はやっぱりこれはもう時効の出来事なんだと確信して、

もう少し踏み込んで聞いてみることにした。

指輪にもなんの効力もないみたいだし。

「ねぇ、どうして別れたの?別れた原因は何?」

山城さんが苦笑する。

「そこまで聞くのか」

 

「うん。ここまで聞いたら、そこまで聞く。理由も知りたいよ」

山城さんがはにかむようにして笑って、遠くを見る目をする。

「理由か…」

ポツリと呟くのを聞いたら、なんだか急に気後れがしてきて、

「でも…山城さんが嫌なら無理にとは言わないけど」

俺は、小声でそう付け足した。

そんな俺の様子に、山城さんはその大きな手を、俺の頭の上に乗せた。

そして、呟く。

 

「私は、敦也に軽蔑されるかも知れないな」

山城さんの口から発せられた言葉に驚いた。

軽蔑…?今、山城さんは、軽蔑と言ったのか?

「そんな…そんなことあるわけないっ。

俺は、どんなことを聞いたって、山城さんを軽蔑したりしないっ」

逆なら、ひょっとしてあり得るかも知れないけど、

俺が山城さんを、なんて考えられなかった。

 

山城さんが俺の頭から手を退けて、小さく息を吐く。

それから俺を見て、言った。

「理由は…私の浮気だ」

え…。

その言葉に呆然とする。

それは、山城さんらしくないことのように聞こえたけれども、

別にそれで軽蔑するとかってことはなかった。

 

それよりも、俺は、別れた理由を勝手に

『性格の不一致』とかそれっぽいものと推測していた。

でも浮気となれば、そこにはまた別の誰かが存在するということで…

そうすると、その人のことが気になるわけで。

「どうして…浮気したの?結婚してるのに、

好きになるのを止められなかったの?」

そんなに魅力的な人だったんだろうか。

山城さんが、それを聞いて笑う。

 

「ああ。…止めるべきだったんだろうが、止められなかった」

そう言った山城さんは、そのときのことを思い出している瞳をしていて、

少なからず感傷的になっているのが分かった。

「向こうはどうなの?山城さんのこと、好きだった?」

もし両想いだったとしたら、その人とはどうなったのだろう。

奥さんと別れたなら、一緒になれただろうに。

「好きでいてくれたと思っているけど…」

 

そこまで言って、山城さんは急に現実に引き戻されたような表情をした。

「もういいだろう。本当に敦也にとって面白い話じゃないんだ」

照れ臭いのか、それとも何かあるのか、ふいと俺から目を逸らす。

「いいから、続けてよっ。こんな中途半端じゃ、俺、今日とても眠れないし、

ずっと気になって、きっと明日から仕事も手につかないよ」

「……」

山城さんは、俯いて黙った。

 

しばらくそうした後、顔を上げて、

「暑い夜だから、どうせ寝られやしない」

「え?」

立ち上がり、シンクの方へ行き、日本酒とコップを持って戻ってくる。

「一杯やりたくなってきた。素面じゃ話せそうにないしな」

卓袱台にコップを置いて、酒を注ぎ入れる。

「お前も飲むか?」

「え、俺はいいよ」

山城さんはコップを二つ持ってきていたが、俺は遠慮した。

未成年だし、親父が飲んだくれだったから、酒にいいイメージがない。

 

「そうか」

山城さんは、頷くと酒の瓶を床に置いた。

俺は、なんだか長くなりそうだったので、

空の方のコップを手にして冷蔵庫のところへ行き、

麦茶を出すとそれを注いで戻った。

「多分、お前にとって、ツラい話だぞ」

「いいよ。俺が聞きたいと言ったんだから覚悟は出来てる」

 

俺が真剣な顔で言うと、

「まあ、俺にとってもそうだが…」

と呟く。それから、

「でも、たまにはこうしてあいつのことを口の端に上らせるのも、

いい事かも知れないな」

と続けると、山城さんは話し始めた。

 

 


 

 

 

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