胸に抱く人 2
(山城視点です)
「じゃあ、行って来る。無理しないで、寝てるんだぞ」
私はベッドで横になる千里に声をかけた。
「…分かってる。行ってらっしゃい」
具合が悪いと言うのに、彼女はこちらを見て笑顔を浮かべて、応える。
私は、複雑な気持ちになりながら、部屋を出て玄関に向かって歩き出した。
千里が体調を崩している。
不妊治療のための検査や薬、精神的なストレスから来る体調不良だった。
これが初めてではない。以前も検査の後、寝込んでしまったことがある。
私は、後ろ髪を引かれつつ、玄関で靴を履き、外に出た。
静かにドアを閉め、鍵をかけて歩き出す。
勤務先である市立図書館には、電車で通っている。駅までは徒歩で7分−。
千里は結婚当初から子供を欲しがっていた。
が、私と彼女の間にはなかなか子供が出来なかった。
私は、自然の流れに任せる気だったけれど、千里は違っていた。
結婚して一年経過しても妊娠の兆候はなく、そのことを気に病んで、
彼女は産婦人科に通うようになった。
会社勤めを続けながら治療を続けたが、やはり子供を授かることができず、
また一年が過ぎた頃、彼女は会社も辞めて、不妊治療に専念することに決めた。
仕事をしながらでは思うように治療も受けられないし、
生活を変えればもしかして、という気持ちもあったのかも知れない。
私は、彼女が仕事を辞めることに反対しなかった。
私の給料だけでもなんとかやっていけたし、近くに彼女の実家もあって頼ることも出来た。
千里がそうしたいなら、夫として協力しようと思った。
彼女と生きて行くことを選んだのだから、そうするのが私の務めで、それが『普通』なのだ、と。
不妊治療というのは、結構ハードで、いろんな検査を受けていろいろ試して、
でもいい結果が出るとは限らない。
事実、私たちの場合、出ていなかった。
そんなことの繰り返しで、千里はかなり疲れているようだった。
私も一緒に病院に行ったし、出来る限りのことをしたつもりでいるが…
やっぱり精神的にも身体的にも女性の負担の方が大きいのだろう。
駅に着くと、人の流れに身を任せて電車に乗り込み、
車窓から見慣れた景色が後ろへ流れて行くのを、ぼんやりと眺める。
眺めながら、小さく溜息をついた。
子供を欲しなければ、体調が悪くなることもないのに、頑張り続ける千里。
その姿を二年間ずっと見続けてきた私は、昨晩、彼女と話し合っていた。
「なあ、千里。もう、治療をやめないか。しばらく自然にして、様子をみよう。
出来ないなら出来ないで、このまま二人で生きていくのも、いいじゃないか」
思い切って、そう提案した私に、彼女は驚いたような顔をして言った。
「そんなの、考えられない」
と。
「私は、どうしてもあなたの子供が欲しいの」
千里の執念に燃えるような瞳を見て、私は眉を寄せた。
病的にも思えて、少しだけ怖いと感じた。
いや、怖い…とはちょっと違うだろうか。引いた、というのが正しいかも知れない。
「そんな顔しないで。大丈夫よ。きっと出来るから」
その笑顔を見て、私は思い知る。
私が何と言おうと。誰が何と言おうと。
彼女は決して諦めないに違いない。
いつ出来るか分からない。出来るかどうかさえ分からない子供。
けれど、彼女の頭に、このままずっと出来なかったときのイメージはない。
諦めるつもりなど微塵もなく、いつか必ず出来ると信じている。
彼女が治療を続けると、そう決めているのなら、私も…
そう決めるべきなのだろうか。
二年ぐらいで弱音を吐くなど許されないのだろうか。
そんなことを鬱々と考えているうちに、電車は下車駅に到着する。
いつものように足が動き、いつものように図書館に向かう。
私に悩み事があろうと、周りはいつもと同じように流れていて、
目の前にあるのは、変わらない一日の始まりの光景だった。
変わらない一日だ。と、そう思っていた。
その日の終業時間がくるまで。
けれど、違っていた。
その日は、後から考えてみれば、運命の一日だったのだ。
憂鬱な気分を抱えたまま、それを極力表には出さないようにしてその日の仕事を終え、
私は、図書館を出た。
出たところで、
「山城」
と呼ぶ声が聞こえ、足を止め、声のした方を振り返る。
すると、そこには一人の男が立っていて、私は驚いた。
短めで空気を含んだ感じに軽く見える茶髪に、黒目がちのやんちゃな瞳。
手足の長い細身の体。
その姿を眺めていたら、懐かしさが胸に湧いてきた。
懐かしい。懐かしい、が、会ってはいけない男だった。
私は眉間にしわを寄せる。
「森野…」
名前を口にすると、彼が私の方へ歩み寄ってくる。
「どうして、こんなところに」
私は、近づいてくる森野にどう応じたらいいのか分からず、固まっていた。
私が、動くこともできないでいると、私の間近まで来て、奴が私の肩にポンと手を置く。
「久しぶりだな」
もう触れてはいけない筈の体が、私の体に触れるのと同時に、
頑なな想いが、ふっと緩みそうになるのを感じた。
でも、ここで流されるわけにはいかない。
私は、肩に置かれた手を払った。
「森野…もう会わないと言ったはずだ」
私が言うと、奴は少し肩を竦めるようにした。
「分かってる。結婚して、うまくやってるんだろ」
そう返す奴の視線が、チラリと私の結婚指輪に注がれる。
「二人の邪魔するつもりはないよ。山城の今の生活を壊すつもりもない。
ただ、どうしても、どうしても会いたくなって」
そこまで言うと、森野は口を噤み、俯いた。
会わなくなって、三年が過ぎていた。
見た目はあの頃よりも大人っぽくなっていて、少し痩せたように見える。
でも、中身は全然変わっていないような気がして、
「会いたくなったからって、会いに来るな。どうにかなるわけでもないのに」
私は、顔を歪めた。
そして、これ以上話をしたら、
せっかく気丈にして突き放すようにして離れたことが全て無駄になると思い、
「もう来るな。分かったな?」
私は、そう言い置いて、その場を立ち去ろうとした。
すると後ろから、森野の大声が聞こえてきた。
「一度だけ抱いて欲しいんだっ。一度でいいっ」
息が止まるかと思った。
図書館の前で、奴はとんでもないことを叫んでいる。
私は、振り返って慌てて駆け寄り、
「バカかお前はっ」
そう言って、思わず森野の両腕を掴んだ。
それから、奴の耳元で小声で、でも言い聞かせるように強い口調で言う。
「もう終わったんだ、俺たちは」
それを聞いて、森野が私を睨むようにする。
「ああ、そうだ。お前が終わらせたんだ」
「お前だって、了承しただろう」
私も睨み返すと、森野が、眉根を寄せ、苦しそうで切なそうな表情をする。
それを見て、少し怯んだところで、
私は自分たちを見ている視線に気づいて顔を上げた。
図書館で一緒に働いている女性職員が二人、
何をしているのだろうという感じで、訝しげにこちらを見ている。
私は、小さく舌打ちをして、森野の腕から手を離し、「来い」と声をかけて歩き出した。
森野は俯き加減で、黙って私の後をついてくる。
風邪でもひいているのか、コンコンと咳き込む声が何度か耳に入った。
森野がついてきているかどうかを気にしつつ、どんどん歩いて図書館から遠ざかり、
人気のない高架下まで来たところで、私は足を止めた。
「なんだって、今ごろ俺の前に現れるんだよ」
振り返りざま、問い詰める。
「俺を困らせて楽しいか?」
それを聞いて、森野は首を振った。
「困らせるつもりなんてない」
顔を上げないまま、消え入りそうに小さな声で言う。
「ただ、会って…抱いて欲しかった」
私は半ば呆れて、大きく息を吐いた。額に手をやる。
「もう、俺たちはそんな関係じゃない。分かるだろう」
森野とは大学生の頃、同棲していた。
高校の時に告白されて、その頃、奴と遊ぶのが楽しかった私は、
言われるまま付き合い、体の関係も持った。
なんとなくいい雰囲気になったときに、興味本位でセックスしたのが最初だった。
いろんなことに興味があった。なんでもやってみたい年頃だった。
…理由なんて、いくらでもつけられる。
もちろん森野のことは好きだった。
だからこそ楽しかったのだし、奴との交際を断って楽しい日々を終わらせたくなかった。
でも、そういう意味で好きだったかと言うと微妙で、
それよりも、遊ぶなら、今しかないという考えがいつも頭のどこか片隅にあった。
森野とは違う大学へ進んだが、一緒に住もうと言われて、部屋を借り一緒に住んだ。
大学の仲間と遊んだり、奴と暮らしながら、戯れにセックスした。
一方で勉強にも勤しんで、大学在学中に司書資格を取得し、
充実しているといってもいい毎日を送っていた。
けれど、終わりはやって来た。
大学を卒業、就職するにあたって、私は田舎に帰ることを森野に告げた。
つまり、別れを切り出したのだ。
私は、田舎から出てきて全寮制の高校に入学し、大学もそこで過ごしたわけだが、
元々その時期が過ぎたら、田舎に帰るつもりだった。
それを森野に打ち明けたとき、森野は黙って泣いていた。
森野のことはやはりそれなりに好きだった。が、所詮男同士なのだし、
そんな関係がいつまでも続くとは思えなかった。
私は親を安心させなければならず、普通に結婚する道を歩むつもりでいた。
男同士で付き合っているなど、田舎でどんな風に言われ、
どんな扱いを受けるか、私にはよく分かっていた。
泣いている森野を前に、心が揺らがなかったわけではない。
が、夢から覚めて、現実を見なければならないときが来たのだと、自分に言い聞かせ、
「別れてくれるよな?」
「……」
嫌だと言わなかった森野を突き放すようにして、私は田舎へと帰った。
私の家は、一族がほとんど公務員か銀行員という、田舎では割りと名の知れた名家で、
私は帰ってから叔父の紹介で千里と会い、しばらくつきあった後、結婚したのだった。
「一度でいいんだ。一度で…。そしたら、姿を消す」
森野が、それしか言葉を知らないかのように、同じことを要求する。
「俺はもう結婚してる。お前の言うことは聞いてやれない」
私の言葉に、森野がギュッと目を瞑る。
「知ってるよ!!知ってるけど、頼んでるんだっ!」
そう怒鳴るように叫んだ後、懇願するように私を見て、また小さく咳き込む。
そのとき初めて、不自然なものを感じた。
何かあったのだろうか。
いくらなんでも、分別がなさすぎる。
それに、今まで現れなかったのに、もう私のことなど忘れたと思っていたのに、
どうして今になって現れたのか。
「あの時、行くなと言わなかっただろう。なのに、どうして今頃現れるんだ」
「あれは…了承したわけじゃない。お前の話す事情を聞いて、止められなかっただけだ」
森野が、悔しげに唇を噛んで私を見る。
「それにしたってだな…。いいか?お前が言ってることは、つまり浮気しろってことなんだぞ」
森野は、私たち夫婦の邪魔をするつもりも今の生活を壊すつもりもないと言った。
でも、浮気して、それがばれたら今の関係がおかしくならないわけがない。
「違う。山城にも俺を想って欲しいって言ってるわけじゃなくて、
もう…それは無理なんだって分かったから…一度抱いてくれるだけでいいんだ」
それを聞いて、私は眉間にしわを寄せた。
「だから、それを浮気っていうんだろうが」
私の浮気に対する概念と、森野のそれとはどうやら違っているようだった。
森野は、体を重ねるだけなら浮気ではないと思っているらしい。
私は、なんとなく埒が明かないと感じて、話題を変えた。
「三年間、何してた」
「…働いてた」
「恋人は?」
「いない」
簡潔な答えだった。
「あれから、お前が結婚したことを知って、他の人を好きになろうとした。
…でも、無理だった」
少し笑って、そう言った後、コンコンと咳をする。気になる咳だ。
森野の想いが思っていたよりずっと深いらしいことを感じて、私が返す言葉に詰まっていると、
また奴が咳をする。私は、眉を寄せた。
「風邪、ひいてるのか」
聞くと、森野の動きが止まる。
「長引いてるなら、ちゃんと医者に診てもらった方がいいぞ」
医者嫌いだということを知っていたので、私が受診を勧めると、
森野はふっと息を吐いて小さな声で呟いた。
「ガンなんだ」
私は、その単語に驚き、黙って森野の顔を見つめた。
森野も私を見つめ返す。
「咳があんまり治まらないから診てもらったら、末期の肺ガンだって言われた。
あと三ヶ月、もって半年だって」
「……」
頭が、森野の言うことを理解しようとしない。
それでも、それはじわじわと意味を成して私に染みてきて、私は絞り出すように、
「三ヶ月?」
と口にした。森野は返事をしなかった。
でも、瞳は「そうだ」と頷いていて、
「肺…ガン?」
私の次の質問にも、同じようにした。
なんだか現実感がなかった。
ものすごく大切なことのはずなのに、そんな重みをもって聞こえない。
けれど、それを現実だと受け入れれば、森野の言動が、すんなりと腑に落ちるのだった。
余命の宣告を聞くというのは、こんなものなのだろうか。
しばらく森野の顔を見つめた後、
「本当なんだな」
確認するように聞くと、森野は首を縦に振って、目を逸らした。
私は、スーツのポケットに手を入れ、携帯を取り出す。
家に電話をかけ、数回のコール音のあと電話に出た千里に告げる。
「急な飲み会が入って、今日は遅くなる。先に寝ていいから」
用件を伝え、彼女が一瞬の間を置いた後「分かりました」と答えるのを聞いて、電話を切った。
「山城…」
森野が隣で嬉しそうな表情をする。
今までこんな電話をかけたことはなかった。
飲み会がある日は大抵事前に分かっていたし、
誰かに遊びに誘われた日は、その相手の名前を告げていた。
ひょっとして何か勘ぐられるかも知れない、と切った後に考えたが、
でも、もう切ってしまったのだ。気にかけてもしょうがない。
携帯をしまって、森野にキッパリと断る。
「勘違いするな。話をするだけだからな」
「うん」
私がちゃんと向き合って話をする気になった。
それだけでも嬉しかったらしく、森野は私の言葉に、満面の笑みを浮かべた。