胸に抱く人 4


 

 

ベッドを出て、スーツを身につけ、玄関へ向かう。

下着とズボンを履いて、後ろからとぼとぼとした足取りでついて来た森野が、

玄関の段差の上から、靴を履く私を眺めた。

私は靴を履き終えると、顔を上げて、森野に向かって手を伸ばす。

そのまま強く抱きしめた。

 

「また来る」

それを聞いて、森野の手がそっと、私の背中に触れる。

「…無理しなくていいよ」

森野が私を包むようにして、上から声を落とす。

私は森野を見上げて、首の後ろに手を回して引き寄せ、唇を合わせた。

それから離れると、

「来ると言ったら、来る」

そう断言した。

 

「またな」と言うと、奴が薄く笑って「うん」と頷く。

私はドアを開けて、外に出た。

私流に言っても、そして、森野流に言っても、これはもう完璧な浮気だった。

千里の待つ家へと向かいながら、私の想いは森野へと向かっていた。

 

 

千里には、残業で遅くなったと告げた。

「仕事が忙しくて、当分帰りが遅くなりそうだから、飯、先に食ってていいよ」

なるべく自然に聞こえるようにそう言うと、千里は頷いていたが、

その試みは成功しているかどうか怪しいものだった。

嘘などつき慣れていない。

もうバれたらバれたで構わない、と覚悟は出来ていたけれど、

でも、自分から進んで彼女に明かそうとは思わなかった。

 

森野への想いにだけは正直に、思う通りに動くが、それ以外は特に気をまわすつもりもなく、

どうとでもなるようになれという気持ちで、私は翌日仕事を終えると森野のアパートへ直行した。

呼び鈴を押して出てきた森野に、

「ただいま」

と言うと、ちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに笑って

「おかえり」

と返した。

 

靴を脱いで上がり、森野を抱きしめ口づける。

「なんか食ったのか?」

離れて聞くと、首を横に振った。

「食欲ないから…。あ、お前が腹減ったならカップラーメンあるけど」

私は、それの入った袋を指差す森野に呆れた。

 

「お前は変わらないな。あの頃もインスタント物ばっか食ってた」

私が言うと、森野は私に言われるなんて心外だという表情をして、不満げに唇を尖らせる。

「そういうお前はどうなんだよ。どうせ奥さんがいなきゃ何にもできないんだろ」

図星をさされて、私は言葉に詰まった。

確かに、私は料理が苦手だ。本当に簡単なものしか作れない。

 

「お前だって、あれから独り身だったくせに、なんか作れるようになったのか?」

言い返してやると、森野も黙る。

私たちは、どちらも料理が下手で、興味もセンスもなく、

同棲時代の食卓はいつまでたっても淋しいままだったのだ。

「い、いいんだよ。俺はこれで」

 

ムッとする森野に、溜息をついて、私はもう一度靴を履き直す。

「山城?」

奴が後ろから不安げに声をかけて来て、

「なんか買ってくる」

私はそう告げると外に出た。

近くの、味が良くて人気の手作り惣菜の店に行き、弁当を買って戻る。

昼にたまに利用している店だ。

 

「食欲ないとか言ってないで、食え」

半ば強制するように言って、二つ買ったうちの一つを手渡すと、

森野はそれをじっと見てから、顔を上げて、

「ありがとう」

と呟いた。

 

小さな卓袱台を挟んで座り、弁当を一緒に食べる。

ふと視線を感じて顔を上げ、そっちを見ると、森野がじっと私を見つめていた。

「どうした?」

と聞くと、少し顔を赤らめて俯く。

「お前はかっこいいな。あの頃と変わらない」

そう言われて、私は驚いて箸を止め、笑った。

「三年経ってるんだぞ。変わらないわけないだろ」

 

何を言ってるんだか、と思ったが森野は首を横に振る。

そして、顔を上げ、告げた。

「俺は、すっげぇ好きだったんだ」

森野の言葉に、私は自分のあの頃の気持ちを探る。

「俺だって、好きだった」

と言うと、

「嘘ばっか」

森野が少し怒っているように笑って、そう口にした。

 

森野を好きだったという言葉に偽りはない。

「嘘じゃない。好きだった。…けど、俺の中で、恋愛と結婚は別だった」

「……」

自分の想いと考えを正直に告げると、森野は黙り、まだ半分も食べていないのに、箸を置いた。

「どうした?もう食べないのか?」

 

大した量でもないのに、と思って聞くと、

「なんか…いっぱいいっぱいで」

胸の辺りを手で押さえて、照れくさそうにする。

「変だろ。女々しいって笑っていいよ。

こうやって一緒に食事できるなんて思ってなかったから、嬉しくて喉を通らない」

私は手にした弁当を少し持ち上げた。

 

「食事、ったって、弁当だぞ?」

「なんだって構わないよ」

それから、その表情のまま、ちょっと躊躇うようにして聞いてくる。

「奥さん、料理上手いんだろ?」

「…まあな」

 

私が素直に頷くと、眉を寄せて苦笑した。

「多分、俺じゃあ敵わないんだろうなぁ」

「なにが」

「ん。いろいろと」

そんなことを話していると、なんだかモヤモヤした気分になる。

 

その後、黙って食べていたら、千里の話題が出ていることが、その原因だと気づいた。

恋愛と結婚を別だと考えてはいたが、森野と千里を比べたことなどない。

ましてや、森野を劣っているなどとは…

食べ終えた私は、容器を袋に入れ、森野を見る。

 

「なぁ、森野。俺といる間は、千里の話はするな」

と言うと、森野は驚いたように私を見た。

瞳の中を覗きこむようにして見つめる。

一瞬、何かを訊ねてくるような素振りを見せたが、

そうすることもなく、やがて森野は、「うん」と頷いた。

 

千里に二人のことを話さないのと同様、私は、森野に私と千里の事情を話す気はなかった。

森野が、食べ残した弁当に蓋をして、袋に入れる。

「一度だけ抱いてもらったら、もう本当に会わないつもりだった」

袋の口をしばりながら、

「だけど、やっぱりもっと抱いて欲しくなってる。…欲深いな。俺」

森野が自分のことを蔑むように言った。

 

けれど、森野がそうだというなら、私だって同じだ。

もとより、私は森野と繋がりたくて、ここへ来ていた。

私が黙っていると、森野が小さく「ゴメン」と付け足し、それを聞いた私は首を振った。

謝ることなど何もない。私が自分で決めたのだ。

森野の手を取って立ち上がり、そのままベッドへと連れて行く。

 

服を脱いで森野の上に乗り、奴の服も全て脱がして、激しく交わった。

何度イっても、足りない気がした。

 

「は…あっ。あっ、んっ」

後ろから貫きながら、森野を力いっぱい抱きしめる。

「あっ、ああっ渉っ」

何度目かの絶頂を迎えて、森野がぶるっと震えて、精を吐き出す。

何度か出したせいで、突き入れるたびに白濁が溢れて淫靡な音をたてるそこへ、

私も、新たな種を注ぎ込む。

 

私のモノを中心に咥えこんだままの尻を揉みしだくと、感じるのか、

「あっ、あっ」

中がしまって私のモノを締めつけた。

私は復活してきた自身のそれを、熱くたっぷりと潤った森野の中へまた突き入れ始める。

想いは際限なく溢れて、私と森野は、終わらないのでは、と思うくらい何度も交わった。

 

夕方の逢瀬は一週間ほど続いた。

時間を忘れるほど体を合わせ、繋がり、愛し合い…

離れがたくて、とても残業とは言い切れない時間になってしまったこともあったが、

隠すつもりもなく、千里は帰って目が合っても、黙ったまま、ふいっと目を背けるようになった。

 

森野の病状は、若かったからか進行も早くて、目に見えて悪くなっていった。

長くは立っていられなくなって、咳もひどくなり、痰がたくさん出るようで、

ゴミ箱がすぐにティッシュでいっぱいになった。

営みにも使うので、「来るときにティッシュを買ってきて」と頼まれ、

少し遠いがドラッグストアまで足を伸ばして、買って行ったりした。

 

そんな日々が過ぎたある日、森野の家に行くと、電気が点いていなかった。

おかしいと思いながら呼び鈴を押しても、出てくる気配もなく、

ノブを回すと鍵が開いていたので開けて入ると、森野はベッドの脇にちょこんと腰掛けていた。

「どうした?」

と聞いても、何も言わない。

電気を点けて、顔を見ると、ひどい顔色をしていて、私は眉を顰めた。

 

「具合、悪いのか」

額に手を当てると、熱くて、かなり高い熱があるのが分かる。

「病院へ行こう」

そう言ったが、森野は首を横に振った。

その後咳き込んで、自分で慌ててティッシュを取り、それで口を塞ぐ。

私は、見ていられずに携帯を取り出した。

 

救急車を呼ぶつもりだったが、それを見た森野が、血相を変えて、私の携帯を取ろうと手を伸ばす。

私が気づいて避けると、森野はそのままベッドから落ちた。

その様子に、驚く。

 

「まさか、森野…」

ひょっとして、足に力が入らない…のだろうか。

だから、動こうとしなかった?

「いやだ」

床にペタンと座った状態の森野の目から、涙が零れ落ちる。

「入院なんかしない」

「でも、こんな状態じゃ…」

動く事が出来ずに、看てくれる人もいなくて、これから、どう過ごすというのか。

 

私が二十四時間ずっとそばにいられるなら、それでもいいがそんなこと出来やしない。

私は意を決して、携帯で救急車を呼んだ。

森野は、絶対嫌だと大声で喚いて暴れたが、足が動かず、

力も弱っていたので割りとアッサリと車に乗せられ、病院へと運ばれた。

私はこのとき以来、救急車を見ると、森野の暴れようを思い出し、

胸が痛んで、凄くつらい気持ちになる。

 

 

がんは体中、足の骨にも転移していて、動かなくなったのはそのせいらしかった。

この辺りでは一番有名で大きな病院に運んでもらい、森野はそこに入院した。

翌日、仕事が終わってから、電車とタクシーを使って、森野に会いに行く。

病室へ入って行くと、奴は透明なマスクをつけ、酸素を吸入していた。

私の顔を見ると、微笑んでマスクを外す。

 

「つけてなくていいのか?」

「いいんだよ。こんなのは気休めみたいなもんだから」

「そんなことないだろう。ちゃんと意味があるから用意されてるんであって…」

言いながら森野を見ると、昨日よりはずっと顔色が良くて、安心する。

やっぱり入院させて良かったのだ、と自分に言い聞かせる。

 

「何かして欲しいことはないか?」

と聞くと、「エッチ」と言うから、「バカッ」と小声で怒ったら、

笑って「冗談だよ」と返してくる。

森野はその後、少し考えるようにして、

「ちょっと、車椅子借りて来てくれないかな」

と言った。

 

「ここ、駐車場の一角に広場みたいなのがあって、車椅子で散歩できるようになってるんだ」

どうやら、散歩がしたいらしい。

外はもう暗かったが、森野がそうしたいなら、と私は部屋を出て車椅子を借りて来た。

足の動かない森野を抱き上げて、車椅子に乗せる。

 

車椅子を押すのは初めてで、慣れないとなかなか操縦が難しかった。

思うとおりに動いてくれないそれを、私は慎重に押しながら、

ゆっくりと廊下を進み、エレベーターに乗って階下に降り、外へ出る。

「勝手に散歩に出たりしてもいいのか?」

そこまで来て聞くことでもなかったが、そう聞くと、森野は笑った。

「大丈夫だよ。今日は調子がいいんだ」

 

そして、続けて呟く。

「もう外にも出られなくなるだろうから」

私は、何も返さないまま、広場があるという駐車場の方へと車椅子を押した。

広い病院の敷地内の片隅にそれはあって、ちょうど車椅子が通れるくらいの小道が設けられていた。

脇には、桜や楓などの季節を感じられるような木々と、花々が植えられて、

なかなか整備が行き届いていて気持ちのいい場所だった。

時間が時間なので、他に人もいなくて、二人で小道を進む。

 

「いい月だなぁ」

言われて足を止め、空を見上げると、本当にいい形をした黄色い月が浮かんでいた。

「ああ、綺麗な三日月だ」

しばらく月を眺めた後、唐突に森野が言う。

「俺たち、結婚しようか」

「何言ってるんだよ。男同士じゃ出来ないだろ」

私が笑うと、森野も黙って薄く笑った。

 

「あれ、知ってるか?」

森野がなんの前触れもなく突然聞いてきて、

「ん?」

分かるはずもない私が聞き返すと、

「ハマちゃんっていう釣りが大好きな主人公の出てくる映画」

と言う。

 

私は、全部は見ていないが、シリーズ物の、その娯楽映画を思い出した。

「ああ、知ってる」

「あれに、こういう台詞があるんだ。

『僕はあなたを幸せにする自信はありません。でも、僕が幸せになる自信はあります』って」

「アハハ…いいな、それ」

私が笑うと、森野も笑って、それからゆっくりと顔を上げ、

後ろの私を振り返り気味に見て真面目に言う。

 

「あの言葉、お前にやる」

その言葉に、私は固まった。車椅子のハンドルを握る手が震える。

「……。あの言葉…って、それ、プロポーズじゃないか」

「…そうだよ」

おかしそうに、森野が頷いた。

 

「多分、俺はお前を幸せには出来ないだろう。でも」

続きを口にしようとした森野に向かって後ろから腕を伸ばし、私は力いっぱい抱きしめた。

「渉…」

「バカ…。もう、俺は十分幸せになってる」

それを聞いて、森野がもう一度、

「渉」

私の名前を囁き、胸の前に回された私の腕を抱きしめ返した。

 

 

私は、それから通える限り、病院に通った。

森野の容態はどんどん悪くなって行き、動けない事に対するケアや、

痛みに対するケアなどが必要になり、大変なことも増えていった。

私は、できることは何でもしてやろうと思っていたが、そんなある日、奴は言った。

 

「今日、おふくろが来るんだ」

「え」

「だから、もうお前の手を煩わせることもない」

「それは…どういう…」

何が言いたいのか分からず問うと、森野は冷たい口調で言い切った。

 

「もう来て欲しくないんだ」

「…森野?」

「おふくろには、俺が男を好きだってことは言ってない。

お前に体裁があるのと同じように、俺にも、あるんだ」

俯いて、私と目を合わせることなく、やはり同様の口調でそう言った後、繰り返す。

「だから、もう来て欲しくない」

 

私は、眉間にしわを寄せ、森野を見た。冷ややかな瞳が私を見返す。

「俺は、お前の優しさにつけこんだんだ。もう…自由になってもいいよ」

続けて、

「さよなら」

突き放すようにそう呟いた森野に、言い返そうとしたちょうどその時、

森野のおふくろさんが姿を現して、私は言葉を飲み込んだ。

 

私は、そのままその話を続けることも出来ず、彼女に頭を下げて短く挨拶を交わすと、

「また来る」

森野に向かって告げ、病室を後にした。

ひどい気分で家に帰ると、追い討ちをかけるような出来事が私を待っていた。

 

玄関を上がってすぐの床に、紙が落ちていた。

よく見るとそれは離婚届けで、落ちているのではなく、多分は置かれていたのだった。

それを拾って入って行くと、千里が台所のテーブルの椅子に腰掛けていた。

身じろぎもせず。

「千里?」

呼びかけると、ゆらりと顔を上げる。

 

「今日、夢を見たの。あなたが、『離婚しよう』って言い出して、

私はばんざいして『ヤッターッ』って叫ぶ夢」

「千里…」

やつれた目で、私を睨む。

「知ってるわ。あなたが浮気してるの」

千里の唇は震えていた。瞳に涙が浮かんでいる。

 

「もうこれ以上、私を苦しめないで」

調べたのだろうか。

千里は全てを知っているようだった。

私は意識を自分の手の内の紙へと向けた。

もう、言い逃れは出来ないのだろう。

もとより、逃れようなどとは思っていなかったけれど…

 

「別れよう。君の望み通り」

私が告げると、千里の頬を涙が零れ落ちた。

「私が望んだんじゃない…」

彼女が両手で顔を覆って泣き出す。

「望んだのは、そっちでしょっ」

私は、心の中でその言葉を咀嚼する。

そうだ。…すべては、私のせいだった。

 

そうして。

千里は実家に戻り、私は男と付き合っていたということが家の方にバレて、勘当された。

千里と暮らした家で引き続き暮らす気にもなれず、小さなアパートを借りて住み…

 

しばらくして、私は、森野が逝ったことを知った。

 

 

 


 

 

 

  BACK     NEXT

  HOME     NOVELS