対峙
次に起きた時、いつもなら裸で寝ているのに、俺は服を着ていた。
エッチの前に着ていたのとは違うけれど、やっぱりおしゃれな感じの格好をしていて、気づいてフーッと溜息をつく。
だから、何がしたいんだ、って。
こんないいもの着て寝たら皺になるだろうが。
そう考えてから起き上がる。
昨日椎は、あのモデルみたいな格好で先輩の家に行った。眼鏡もなしで。
あんなに、自分の姿を隠すことに気を遣っていた椎が、晒してしまったなんて、ちょっと信じられない。
それだけでも目立ったに違いないのに、俺を抱きかかえて運んだなんて、
途中で見かけた人はかなり驚いたんじゃないだろうか。
……。
それはともかく、あの姿を人に見られることは、いい事じゃないと本人は思っているし、俺もそう思う。
椎が、調子に乗ってこれからも昨日のような服を着るんじゃないかとちょっとだけ懸念したけど、
ベッドを降りて台所の方へ行ってみると、奴はいつもの格好をしてそこにいた。
『もう頑張らないことにしたから』
あの言葉を忘れてはいないようで、安心する。
椎のことだから、ちゃんと考えているよな。
「おはよう」
後ろから声をかけると、椎が気づいて手にしていたフライパンと菜箸を置き、俺に近づいて抱きしめた。
「おはよう、玲二」
そう言ってキスをしてきて、俺は抱きしめ返しながら、疑問に思う。
なんでお前はいつもの格好してるのに、俺がこんな格好してんだよ。
「寝てるのにこんなの着せるから、しわしわだぞ。いいのか?」
離れると俺は、手を広げて自分の着ている服を見せた。あちこちに皺が寄っている。
「いいよ。クリーニングに出すから」
椎は事もなげに言うと、もう一度フライパンを手にして、中の厚焼き玉子を皿に移した。
満足そうにしているところを見ると、もうこういうのを着せられることはないかな。
ひょっとして、写メを撮られたかも知れないけど、寝てる間じゃ阻止できないし、撮られてしまったものは、しょうがない。
消せる機会があったら、消したいけど。
俺は、洗面所で顔を洗うと、自分の服を取りに行って、着替えた。
いつもの服を着たら、ものすごく落ち着いた。
俺には、服に気を遣う生活は考えられないな。ファッション業界の人たちは凄いよ。
ファッション業界の人たち…
俺は、洋服ダンスに付いている鏡を見つめる。
あくまでも普通な自分、が映っている。
だけど、椎は違う。
椎がもし、昨夜のことに味をしめて目立つ格好をし続けたら、やっぱりいろんな人に目をつけられるのだろうか。
例えばその業界の人とか。
そしたら、きっと今のような付き合いは出来なくなる。女の子たちだって放っておかないだろう。他の人たちも。
『お前なんかが椎を独り占めしていいわけないだろ』
先輩のあの言葉がまた脳裏をよぎって、俺は少しだけ胸が苦しくなるのを感じた。
「玲二。飯出来たよ」
椎の呼ぶ声がし、俺は振り返って「ああ」と返事をすると、台所へ向かう。
テーブルについたら、椎が向かいに座る俺の表情をじっと見て、眉を少しよせながら言ってきた。
「玲二、どうかしたのか?」
「え…」
「記憶が戻ってからも、ときどき俺を見る目がおかしいよ」
「……」
俺が黙っていると、
「ひょっとして、あいつになんか言われた?」
ズバリ当てられて、ピクッと体が反応する。
でも、先輩に言われた言葉を、俺は椎には言いたくなかった。
「別に」
椎が、俯いた俺に向かって言う。
「なんか言われたんだろ」
俺は、目を合わせられなくて、俯いたまま視線を宙に這わす。
なんでそんなに勘がいいんだよ。
そんな俺に、椎が優しく、でも語気は強く言う。
「なんて言われたかは知らないけど、あんなやつの言うことに、心動かさなくていい。
どうせろくなこと言わなかったんだろう?」
「……」
だけど、きっと先輩のように思ってる人が他にもいるんだ。
だから、背中を押された。
俺を消してしまいたいと思うくらい、憎んでいる。
俺は顔を上げて、自分の考えていたことを口にした。
「俺、思うんだけど、先輩は椎のことが好きなんだ」
すると、それを聞いた椎が、
「それは…」
ちょっと言い淀むようにして、でもその後認めた。
「知ってる。最初は玲二のことを好きなんだと思ってて、
恋敵だと思ったからあいつのとこ行くときもキメて行ったんだけど、どうも違ったみたいだな」
それから、ここにいない先輩に向かって言うかのように責める口調で、
「でも、それならそれで、直接、俺に来ればいいだろ。なんで玲二に矛先を向けるんだよ」
椎はそう言ったけど、それが出来ないのが、きっと好きってことなんだ。
好きな椎に、俺と言う恋人がいて、告白することも、つきあうことも出来ない。
だから、嫉妬の気持ちが湧いて、どうにかしたいと思った。
「あいつが言ったことなんて、想像がつくけど、玲二。玲二はもっと自分に自信を持っていい。
俺は、玲二が好きなんだ。他の誰でもなく」
「……」
「玲二のことどんだけ好きか、言っても言ってもやっぱり十分の一くらいしか伝わってない気がする」
「……」
「玲二じゃなきゃ駄目なんだ。玲二じゃなきゃ」
「……」
俺が何も言わずにいると、次から次へと、言葉の逆暴力みたいにどんどん俺を、甘い弾丸が攻撃してくる。
椎は、それだけ言ったら弾みがついたのか、その後、さらにまくし立てた。
「俺たち、もうどんだけの時間を一緒に過ごしたと思ってるんだよ。
タラタラ流れてるようでも、俺の中ではどんな小さなことも全部ちゃんと思い出になっていってる。
俺たちを繋いでるものは、もう、ちょっとやそっとじゃ壊れないくらい強いし、
あいつの言葉ぐらいでどうにかなるもんじゃないって、俺はそう思ってるんだけど、玲二は?」
奴の勢いに気圧されたってのもあるけど、どっちかって言うとあえて黙っていた俺は、
それを聞き終わると、大きく息を吐いて椎を見た。
「お前ってほんと…」
そう言ってから、顔を歪めつつ背けて、
「ムズがゆい」
そう呟くと、椎は笑った。
「ひどいな」
そんな椎を見て、俺はもう一度溜息をつく。
「そっちこそ、俺が自分なりに答えを出そうとしてんのに、どんどん喋って、言いたいだけ言ってくれちゃって」
俺は、苦笑した後、先輩の言った言葉を頭の中で繰り返してみた。
そして、納得して頷く。
うん。もう苦しくならない。
俺は、胸にあった重苦しいものが消えたのを感じた。
椎を見つめる。
「先輩だけじゃなく、誰がなんと言おうと、俺は椎のそばにいる。もう決めたんだ。
っていうか前から決めてたのを思い出した」
みんなに目をつけられて、期待されて、人の前に出て行って頑張ったりしたら、
椎はまた病気が再発しないとも限らない。
そうならないように見張ろうと思っていたはずだった。
先生とも約束したし、とっくに決めていたはずじゃないか。
何より、椎が俺を好きな以上に、俺は椎が好きなんだ。
先輩の言葉に、心が揺れたことは否めないけど…
でも、俺は…何があろうと椎のそばにいる。椎を離れない。
「玲二…」
嬉しそうに俺を見る椎に、俺は、礼を言った。
「…ありがとな」
すると、椎は「え」という顔をする。
「俺、バカだから、また忘れるから、そしたら」
「そしたら?」
「今みたいにして、思い出させて欲しい」
椎のマシンガンで、俺を蜂の巣にしてくれればいい。
そうされたら、鈍い俺でもちゃんと思い出せる。
……。
うわー、なんか俺までムズがゆいこと考えてる気がしてきた。
そう思いながらふと椎を見ると、なんだかふるふると震えている。
それから、すっくと立ち上がって俺の側へやってくると、俺を後ろから抱きしめた。
「これ以上好きになれないと思ってたけど、今、もっと好きになった」
「ちょ、ちょっとっ。飯、冷めるってっ」
俺は、食べるばかりの状態になっているテーブルの上を見て叫んだ。
でも、そんなことどうでもいいと言いたげに椎が、耳元で呟く。
「俺は、飯より玲二食いたい」
「もう、いくらしばらくしてなかったからって、ヤりすぎだからっ。俺は寝ないっ。大学行くっ」
俺の言葉を聞いて、椎の動きが止まった。それからゆっくりと腕が外される。
「そうだった。犯人を見つけて半殺しにするんだった」
いや、違う違う。違うだろ。とりあえず見つける、だったろ。
「このままじゃ、不安でしょうがなくて、おちおち学校生活も送れないよな」
椎が呟いて、自分の椅子に戻って腰掛け直し、飯を食べ始める。
とりあえずソノ気は静まったようで、俺もホッとして朝飯に手をつけたが、
大学に行く事を考えるとだんだん気が重くなってきた。
飯を食べ終えてから、
「玲二、ちょっと携帯貸して」
椎は、俺の携帯を手にしてソファに座り、自分の携帯も取り出して、何か操作をした。
「何してんだ?」
隣に座って覗き込むと、椎は、先輩の電話番号とメアドを自分の携帯に登録しているようだった。
そして、先輩の電話番号を表示したまま発信ボタンを押して、電話をかけた。
『もしもし?』
繋がると、携帯越しに先輩の声が聞こえた。
「…椎だけど、話がある」
椎がそう言うと、電話の向こうで先輩が黙る。
俺は、椎の持つ携帯に顔を寄せ、耳をそばだてた。
しばらくの沈黙が続いた後、先輩が口をきいた。
『椎から電話をもらえるなんて、感激だな。…で、何の話』
「直接会って話したい」
『ますますもって、感激だね』
今度は即答だった。続けて先輩が言う。
『どこで会う?今から学校行くけど』
「じゃあ学校で、昼に。場所は学食」
椎が、そう指定して俺は安心した。
誰か第三者がいる開放的な空間じゃないと、密室なんかで二人を合わせたら、
なんとなくやばい事になるような予感がしたのだ。
と、先輩が付け足した。
『…の前の中庭のベンチはどう?ほら、トイレ出て左手に行くとあるだろ』
そう言うのが聞こえて、俺はドキッとした。
そこは、俺が以前鼻血を出して、おさまるまで休んでいた場所だった。
どうしてそこを指定するのか、先輩の言い方もなんだか意味ありげで、俺は鼓動が早くなるのを感じる。
椎もなにか感じたのだろう。ちょっと険しい顔になっていた。
「分かった。じゃあ、昼にそこで」
『ああ。楽しみにしてるよ』
そんなやりとりの後、椎が電話を切り、「やってられるか」と言いたげな顔をして、携帯をテーブルに放った。
「ああっ、いけ好かねーっ!!」
我慢できないという感じで吠える椎に、苦笑する。
「俺がかけても良かったのに」
と言うと、椎は、
「あれと話して欲しくない」
先輩を『あれ』呼ばわりして、その後、大きく息を吐き、
「猛烈会いたくないけど、とりあえず会わないと始まらないからなー」
額に手をやり、それから首をこっちに向けて、しみじみと俺を見た。
愛しげな表情をするので、俺はまたなんか来るな、と直感する。
椎は、首を傾げるようにして、嬉しそうに呟いた。
「あいつに比べたら、玲二は天使だね」
はあ?
「お前は、またそういう恥ずかしいことを。これのどこが天使なんだよ」
俺は顔をしかめて、自分に人差し指を向けた。
椎は、おかしなことを言っているとは全然思わないようで、訂正する様子もなくさらに言葉を足す。
「すっげぇ癒される」
ん…それはまあ、いいとして、「天使」とかって、その言葉の選択が、すっごい恥ずかしいんですけど。
どうにかなりませんか。…どうか、頼むから、先輩の前では言わないで欲しい。
俺は、心の中で空しく願うと、
「そろそろ時間だから出かけるぞ」
椎に声をかけて、家を出た。
大学に着いて、昼になるまでの間、椎は片時も俺のそばを離れなかった。
なんか必要以上にくっついて来るので、
「そこまでする必要ないだろ」
と離れるよう促すと、余計に近づいてくる。
「離れない。玲二に何かあったらと思うと、不安でしょうがない」
「だから、その気持ちはありがたいし嬉しいけど、
そんなにベッタリ引っ付かなくてもいいだろって言ってんだよ。おかしいだろ、どう見たって」
大学でもたまに見かけるけど、俺は、人前でいちゃつくカップルは嫌いなんだよ。
ましてや、男同士だし、カミングアウトする気もないし。
「犯人が何かしてくるかも知れないっつったって、ここまでくっつく意味はあるのか?
だいたいここまでくっついてたら、余計犯人の気持ちを煽るんじゃないか?」
俺が言うと、椎は上目遣いをしてしばらく考えた。
「…言われてみれば、そうかも知れないな」
ちょっとは冷静になれたようで、その後は、椎は俺から少し離れて並んで歩くようにしていた。
午前の講義が終わり、昼飯の時間になって、俺たちは移動する学生たちに混じって、例のベンチへと向かった。
そこに着くと、先輩の姿はまだなかったので、二人でそのベンチに腰掛けて、先輩が現れるのを待つ。
座った目の高さから見えるのは、あの時と同じ景色だ。
ただ、あの日の俺は鼻血出してたけど…
先輩がわざわざここを指定してきた理由がなんとなく分かる。
あれは椎の誕生日で、あの時先輩は見たのだ。椎が俺にキスするところを。
それを考えたら、かあっと熱くなってきた。
だ、だから嫌だったのに…
椎のことを好きな先輩の目に、あの光景はどう映っただろう。
あれについて、何か言いたいことがあるんじゃないだろうか。
「おまたせ」
聞き覚えのある声がして、顔を上げると藤沢先輩が立っていた。
相変わらず、爽やかに見える風貌で、サラサラと揺れる前髪の向こうで、優しげな瞳が微笑んで柔らかく弧を描いている。
こんなに好印象なのに、実はあんなだなんて、今でも信じられないくらいだ。
俺は、先輩の昨日の豹変ぶりを思い出して、ちょっとゾクッとした。
椎が立ち上がり、俺も同じようにして立ち上がると、
「話って何」
先輩が聞いて来る。
椎は、威嚇するように先輩を睨んだ後、一旦、話しかけようとするような素振りを見せて、でも何も言わなかった。
ふいっと顔を背けて、
「あー、話しかけるのもヤダ」
と言い、先輩は呆れたように笑った。
「椎から電話して来たんだろ」
「したくてしたんじゃねぇよ」
椎の言い草に、先輩は笑った表情のまま黙り、椎が口を開くのを待っていたが、
椎がいつまでも何も言おうとしないので、やがて真顔になり、そのうちチッと舌打ちをして、喋り始めた。
「あのさ、俺、悪に見えんのかも知れないけど、でも、服部の恩人なのは本当だからな。
服部が押されて落ちてきたのを見たとき、ちょっといい気味だって気もしたけど、
でもさすがにやり過ぎだろうと思って救急車呼んでやったんだ」
その、上から目線の物言いが気に入らなかったらしく、椎がきつい調子で言う。
「その恩着せがましい言い方、ヤメロ」
それを聞いて、先輩がおかしそうに笑う。
「…服部が死んでも良かったんだ?」
「……」
さすがに、それには椎も黙った。
確かに救急車を呼んでくれたのは先輩だし、俺が記憶を取り戻すきっかけをくれたのも結果的には先輩だ。
でも、先輩のした事を許せない椎は、黙っただけでなんらかの感謝の気持ちを込めた言葉を吐くことはなかった。
その話題をなかったことのようにして、雰囲気を切り替えて進める。
「現場を見てたらしいけど、犯人を見たのか?」
「見たよ」
「誰だよ」
「キスしてくれんなら教えるけど」
椎の眼鏡と前髪の下の眉が、ピクリと動いた。
「俺の拳をもう一回味わいたい、と、そういうことだな?」
椎が指を鳴らしながら言って、先輩は焦ったように首を横に振った。
「嘘です。ごめんなさい。勘弁して」
そう言った後、苦笑する。
「って、俺、何にも得しないじゃん」
それを聞いて、椎が間髪入れずに返した。
「玲二の体に触っただろ。むっちゃ得してるじゃないか。大ラッキーだ」
椎の言葉に、先輩が眉間にしわを寄せて「はあ?」と声を漏らした。
二人のやりとりを聞きながら、俺は顔が熱くなるのを感じる。
恥ずかしいよ。この二人の会話。
先輩がそんな俺と椎の顔を交互に見つめてから、息を吐く。
「敵わないな…ったく」
言った後、不敵に笑い、目つきが変わった。
今までとは違う、また新しい顔を見たように思う。
この人は、いったい幾つの顔を持っているのか。
「俺はね、本当のこと言うと、椎になら何回殴られてもいいと思ってる。
椎にならどんな目にあわされても構わない。どんなにむちゃくちゃされても構わない」
「変態だな」
あー、変態に変態って言われてる…
「どう?服部にそんな覚悟ある?」
先輩が、得意げな顔で俺を見ながら聞いてきて、戸惑う。
先輩の言っていることは、確かに変態っぽいけど、つまりはそれほどに椎を好きってことだ。
「お前、また下らない事を。変態目線の思考で比べて考えられちゃ迷惑なんだよ。
だいたいそんな事を話しに来たんじゃない。論点がズレてるだろ」
椎が割り込んで来て、先輩がムッとする。
「お前お前って、仮にも後輩だろ。少しは敬えよ」
「誰が敬うか。お前なんか『お前』か『かっぱ』で十分だ」
そう言われた後、先輩が、一瞬心あらずな感じで、何かを思い描くように上目遣いをした。
それから、うっとりと恍惚の表情を浮かべる。
「…敬語使って、使いながら犯してくれたら最高なんだけど」
変態だな。
俺もそう思っていると、椎があくまでも冷静に返す。
「お前にとって気持ちいいことなんか一つもしてやらない」
なんなんだよ、この会話は。
ちょっとついて行けない感じで、俺は額に手をやった。
その横で椎が、焦れたように、
「で、教えるのか、教えないのか」
先輩に答えを迫る。
先輩は、フッと笑って、学食の方を眺めながら言った。
「いいよ。教えてやるから、明日昼にまたここで会おう」
そうして、俺たちに背を向ける。
「おい、今教えろよ」
椎が声をかけると、先輩は、
「また明日。今日、あいつ、いないみたいだから。俺、あいつの名前知らないし」
と振り返って言ったあと、
「俺って、いい奴だなー」
と言いながら去っていった。
「どこが。自分で言うか?普通」
椎が顔を歪めて呟き、俺は苦笑する。
先輩、多分、普通じゃないし。
それから、先輩との会話を思い出し、
「どんなにむちゃくちゃされても構わない覚悟、はないかも」
と俺がポツリと言うと、椎は、
「なくていいんだよっ、そんなものはっ!玲二も簡単に感化されるなっ」
そう怒鳴ったけど、でも、結構むちゃくちゃされてる気がしないでもないのは、気のせいだろうか?
……。
とりあえず、やっぱり先輩が犯人というわけではないようだ。
もう、最初のイメージはどこかへ、すっ飛んでしまったけれど。
「仕方ない。帰ろうか」
「ああ」
俺が頷くと、椎は、またぴったりとくっついて歩きだそうとする。
「お前…」
少し怒り気味に椎を見たら、
「犯人、まだ捕まってないし」
とぼけた感じで言う。
「犯人は今日は休みだって、今、先輩が言ったみたいだけど?」
「分かんないだろ。油断は禁物」
って、なんでか小指絡んで来てるし。
俺は、ムッとしながら指を外した。
「こういう事を平気で人前でするから、今回みたいなことになるんだろ」
お前はどう思ってるか知らないし、先輩も何も言わなかったけど、
俺にとっては、ここに呼び出されたこと自体、無言の羞恥プレイだよ。
俺がスタスタ歩き出すと、椎は今度は少し離れて、さっきのように一緒に歩く。
先輩は、犯人が休みかどうか把握してないようだったけど、明日来るかどうかも把握してないんだろうか。
もし犯人が、ずっと来なかったら、毎日先輩とこうやって会って話すだけの日々が続くわけで…
何の会合だよ。
明日は現れますように。
翌日。
同じ時間、同じ場所で座って先輩を待っていたら、
先輩が姿を見せ「こんちは」と形ばかりの素っ気ない挨拶を投げて来た後、
「ほれ」
と言って、トイレのある方向を顎でしゃくった。
それで、俺と椎はそっちに目をやる。
それと同時に、
「あっ」
俺は思わず声をあげた。
そこには、こっちをじっと見つめる男が立っていたのだが、俺はその男に見覚えがあった。
あ、あれは、あのとき、俺の顔に鞄を思い切りぶつけて走り去った、あの一年生じゃないかっ。
「え、何、知り合い?」
椎がこっちを見て聞いてくる。
「知り合いっつうか…俺の鼻血の原因」
俺の言葉に、椎が驚いた顔をした。
「あの鼻血って自然に出たんじゃないの?」
そんな簡単に出ないし。
「あの男に鞄をぶつけられたんだ」
今更だけど、真実を告げると、椎は向こうに向き直る。
俺たち三人分の視線を浴びて、彼は、ちょっとビビって固まったようになっていた。
それから、マズイという表情をして、逃げるように走り出す。
「ちょっ」
俺が立ち上がろうとするより先に、椎が素早く立ち上がり、彼を追いかけ始めた。
あっと言う間に捕まって、襟首を掴まれた状態で、引きずるようにこっちに連れて来られる。
「い、痛っ、ちょっと離してくださいよぉ」
「逃げないって約束するならな」
「しますからっ」
彼をベンチの前まで連れて来ると、椎は手を離した。
俺が、立ち上がって男を真正面から見据えると、彼はムッとした顔で見返してくる。
背が俺より少し高くて、椎と俺の真ん中ぐらい、中肉中背の、大学生と言うには幼く見える顔立ちの男だった。
まるで自分には非はないと言いたげな表情をしていて、こっちが面食らう。
本当に、この男が俺を押したのだろうか?
なんで少しも悪びれた様子がないのだろう。
その割には逃げてたけども。
「どうして捕まったか、分かってるよな」
言い聞かせるように、そして、間違っていないか確かめるためでもあるのだろう。
椎が聞く。
男は、目を逸らして黙っていた。
抗議しないってことは、認めてるってことだ。
「名前は?」
「…畠中(はたなか)」
椎が名前を聞き、彼が答えると、俺は学年を聞いた。
「一年生?」
「そうです」
あからさまに不機嫌そうな顔をする。
そしてその後、畠中は、椎に向かって強気に切り出した。