それぞれの想い






 「椎先輩ですよね」

 確かめるように、またちょっと責めるように、畠中が問う。

 「…そうだけど」

 椎が頷くと、キッと睨むように奴を見て、彼は続けた。

 「俺の顔見ても、名前聞いても、何にも思い出さないんですか」

 そう聞かれて、彼の顔をじっと見た椎は、少しだけ相手の雰囲気に飲まれているのか、

 それとも忘れられる悲しさを知っているからか、申し訳なさそうな表情をする。

 「悪い、覚えてない」

 畠中は、よっぽど悔しい想いをしているらしく、唇を噛み締めた。

 「俺は、高校の頃、先輩に告白した者です」

 それを聞いて、椎は眉間にしわを寄せ、首を傾げて記憶を辿るようにする。

 そして、ハッとしたように畠中を見た。

 「そう言えば、告白してきた中に、一人だけ男がいたような…」

 上目遣いで、遠い記憶を思い出しているようだ。

 それから、徐々にそれがよみがえってきたようで、

 「俺、ヤローだ、と思ったから、気に止めなかったんだ」

 椎は、そう呟くと、呆気にとられた顔で、畠中を見つめた。

 「なんだ。すっかり変わってるから、分からなかった。

 だって、お前、あのときより今の方が全然イケてるし」

 そう言われて、畠中の、椎を睨みつけていた瞳の力がふっと緩んだ。

 少し照れたようにして、ふいっと視線を逸らす。

 「他にも先輩に憧れてた男子生徒はいっぱいいました。

 でも、男同士だし、なんか大きい存在に見えて、実際に告白する奴っていなくて…

 でも、俺は勇気を振り絞って先輩に告白したんです」

 そのときのことを話すうちに、思い出したのか、また瞳に負の力が宿ってくるのが、見ていて感じられる。

 畠中は、もう一度、睨みつけるようにして椎を見据えた。

 「忘れたとは言わせません。椎先輩、ゲイじゃないって言って俺を振ったんですよ」

 俺は、心の中で「あーあ」と思う。

 選りによって、そう断ったのか。

 ま、ゲイじゃないと思ってる男が男に告られたら、大抵そう言いそうだけど。

 「覚えてない。でも、俺はゲイじゃない」

 椎は、あくまでも冷静に、そう返す。

 畠中が怒りの形相で、大声をあげる。

 「ゲイじゃないならっ。じゃあ、なんで男と付き合ってんですかっ!」

 言いながら、俺を指差してきた。

 でも椎は、その動きにつられることなく、彼に視線を向けたまま尋ねる。

 「なんで俺と玲二が付き合ってると思った?」

 俺たちは、自分たちが付き合ってるなんて大学関係の人に口外したことは、一度もない。

 「だって…なんとなくべたついてるし、キスしてたじゃないですか」

 俺は、俯いた。

 少なくとも二人には見られたんだな…

 「付き合ってるんですよね。違うんですか」

 「…まあ、付き合ってるのは確かだけど、でも俺は今でもゲイかって言われたら違うって言うと思う」

 俺は、椎の言葉を聞いて苦笑した。

 俺と付き合ってるのは認めておいて、ゲイじゃないって言われても、きっと納得できないだろうな。

 畠中は、怒っている筈なのに、ちょっと笑ったような表情をし、声を荒げて、椎に詰め寄った。

 「こいつが勝手に付きまとってんですよね!?しつこいんでしょ?迷惑なんでしょ?」

 奴が、眉を顰める。

 「玲二には俺から告白したんだ。玲二が迷惑だと感じたことはひょっとしてあったかも知れないけど、

 俺がそう思ったことは一度もない」

 あれ、一応そういう考えを巡らしたことがあるんだ?

 いつも人の気持ちなんかお構いなしって感じで、グイグイ来るくせに。

 「俺は玲二だから好きになったんだ。玲二以外の男に興味はない」

 椎がキッパリ言い切って、驚いたような顔をしている畠中に「ところで」と一歩近づいた。

 「なんで玲二を突き落とした?」

 きつい瞳と口調で迫ると、畠中は目を逸らし、

 「この人、突き飛ばしたら鼻血出してて、それ見ながらいい気味だと思ってた。

 そしたら先輩キスして……なんでそうなるんですか。わけ分かんねぇ」

 悔しそうな顔をする。

 俺もわけ分かんねぇ。

 椎が、俺をちらっと見たので、俺は、奴を睨むように見返した。

 お前が浮かれてこんな人目につく場所でキスするから。

 …全部見られてんじゃん。

 「俺、なんか腹立って…」

 畠中が続ける。

 「腹が立ったから、あんなことをしたのか?」

 椎が、見下ろすようにして畠中の目の前に立つ。

 「下手したら、死んでたとこだったんだ。お前の言い分次第ではただでは済まさない」

 彼を睨みつけながら、椎が、彼の胸倉をぐっと掴んで引き寄せた。

 こいつのお前に対する気持ちは無視なんだ?

 それにはまったく触れようとしない椎に、俺は思わず心の中でツッコミを入れる。

 椎に胸倉を掴まれた畠中は、始め、口の端に笑みを浮かべて強気を保とうとしていたが、

 しばらく椎の鋭い視線に晒されると、心が折れたのか、困ったように眉を寄せ、

 そのうち一気に相好が崩れて泣き出した。

 涙が頬を伝う。

 「だって、まさか、あんなふうに落ちるとは思わなかったんだ。

 大怪我するなんてことも考えてなくて、ちょっと押しただけなのにあんなことになって、俺」

 しくしくという感じで涙をこぼしていたのが、それまで黙って聞いていた藤沢先輩に、

 「逃げたんだよな。真っ青になって」

 と口を挟まれると、目を大きく見開いてから、小さい子供のように「わーん」と大泣きを始めた。

 驚いた椎が、掴んでいた手を離す。

 「結構血が出てたから、まあ、俺も正直ビビッたし。『こりゃヤバイだろ』って。

 でもその割には、怪我は軽かったようだけど」

 先輩が、笑いながらさらに付け加えた。

 「俺、びっくりして、怖くて、気がついたら走って逃げてて…ご、ごめんなさいーっ」

 わんわん泣く畠中を、少し離れた場所で数人が立ち止まり、どうしたのかと様子を窺うようにして見ている。

 先輩が肩を竦めて、胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点けた。

 椎が困った顔で「ちょっと座れ」と、畠中をベンチに座らせる。

 それから、ハンカチを取り出して彼に渡した。

 畠中が無言で受け取って、それを目に当てる。

 その後、彼が落ち着くのを待ち、しゃっくりが治まってきた頃合いを見計らって、椎が質問をした。

 「この大学を選んだ理由は?」

 聞かれて、彼はしゃっくりを挟みながら答える。

 「俺…ヒック…ここの、学生じゃ、ヒック…ないんです」

 そう言って、目を閉じると、またポロポロと涙が零れた。

 「え」

 「同じクラスだったやつが先輩に会ったって言ってて、…ヒック…先輩がここに通ってるって聞いて…それで」

 「もしかして…そのクラスメイトって、中垣内(なかがいと)?」

 椎が聞き、俺はハッとして顔を上げた。畠中が頷く。

 中垣内…懐かしい名前だ。

 俺は、ハンバーガー屋で出会った、お洒落な後輩君を思い出した。

 畠中は彼の級友で、その情報を耳にしてこの大学に紛れ込んでいただけで、ここの学生ではないらしい。

 「先輩、なんで地味になっちゃったんですか。この人に合わせてるからですか?」

 彼が不満げに椎に聞く。椎は、首を横に振った。

 「いや。俺が、したくてしてんだよ。目立つと、ろくなことがないから」

 言いながら、何気に藤沢先輩を見る。

 先輩はふっと笑い、それと同時に煙草の煙が口から漏れ出た。

 椎の言葉に、畠中は視線を下に落として黙った。

 しばらくの沈黙が訪れ、その間に彼のしゃっくりも止まった。

 しゃっくりを意識して口に当てていたハンカチを、椎に返そうとし、

 「返さなくていいから」

 と言われると、頷いてポケットにしまって、目を閉じる。

 「本当は俺、分かってました。椎先輩が惚れてるんだ、って。いつ見ても嬉しそうで楽しそうだったし…

 でも、認めたくなくて。それに…それはそれで、この人が素っ気なく見えて我慢できなかった」

 さっきまでの尖った雰囲気が消えて、落ち着いた様子で畠中が言う。

 彼の言葉に、俺は、何も言えなかった。

 少しだけ頬が火照るのを感じる。

 素っ気なくしてるつもりはないんだけど…

 椎は、妙に素直になってしまった畠中に、ちょっと面食らったようだが、

 「玲二は、外でいちゃつくのは嫌いなんだ」

 と微笑みつつ、説明した。

 畠中が、ちょっと驚いた顔をした後、向けられた椎の笑顔に照れたようになって、目を逸らし、

 「もう、煮るなり焼くなり、好きにしてください」

 観念した感じで言った。

 半殺しにする、とかって息巻いてた椎だったけれど、今はもうその気はなくなっているようだった。

 奴は、大きく一つ息を吐いて、

 「二度と玲二に手を出すな。それさえ守ってくれればいい。っていうか、ちゃんと自分の大学に通えよ」

 そう釘を刺して彼に言い聞かせるようにしてから、俺を見る。

 「玲二は、なんか言いたいこと、あるか?」

 「いや。椎が全部言ってくれただろ。

 俺はこうして生きてるし怪我も大方治ったし…本人も反省してるようだし、何もないよ」

 男同士の痴情のもつれから階段から突き落とされた、なんて、訴える気もないし。

 俺と椎が納得し、帰ることを促すと、畠中は途中で何度か振り返って頭を下げながら、遠ざかっていった。

 

 「あいつはあれでいいとして。俺は、こっちの方が問題だと思うんだよな」

 畠中の姿が角を曲がって見えなくなると、椎は、嫌そうに先輩を振り返った。

 「お前はなんで、俺に目をつけた?俺、大学では目立たないようにしてたつもりだけど」

 椎が言うと、先輩は煙草をくゆらせながら、おかしそうにする。

 「俺はゲイだからさ。同じ匂いがする奴らには敏感なんだよ」

 それから何かを思い出すような眼差しをした。

 「ここでキスしてるのを見る前から、二人が恋人だってことは気づいてた。

 なんかいちゃついてるバカップルだなぁと思って見てたら、片方が高校の頃、

 バスケの大会でむちゃくちゃ目立ってた椎だって気づいた」

 薄い笑みを浮かべて椎を見る。

 「俺もバスケやってたんだ」

 「へぇ」

 椎が、大して興味もなさそうに、それでも一応相槌をうつ。

 「それから気になって、ずっと密かに見てた」

 俺は、恥ずかしかった。

 やっぱりキスを見られてたんだ。

 だから嫌だったのに…だから嫌だったのに…

 「どうも椎の方がご執心みたいで、なんでだろうと思ってたら、あの事故が起こった。

 割り込んで行って別れさせてやろうと思ったんだけど…なんか思惑通りには行かなくて、こうなってる」

 先輩がお手上げ、という感じの仕草をしてから、肩を落としてフーッと息を吐いた。

 それから、吸っていた煙草を潰して、地面に落とす。

 それを見ていた椎が指摘した。

 「おい。吸い殻、拾っとけよ」

 先輩の前の地面には、煙草の吸い殻が十本近く落ちていて、

 「灰皿、持ってんだろ?」

 その問いに、先輩は簡潔に答えた。

 「ない」

 椎は驚いた顔をし、マナーを知らない奴め、と顔を歪めて小さく呟いた後、

 「俺のいらなくなったやつ、やろうか?」

 と聞いた。先輩が、奴の顔をじっと見つめる。

 「そう言えば、お前も煙草吸うんだろ?あのとき吸ってたし」

 見つめながらも、また手が箱から煙草を取り出している。

 ほとんど無意識という感じで、ここまで来たら、もうやめられないんだろうなぁと思う。

 ん?でも、俺といる間、一度も煙草吸わなかったけど…

 俺は、先輩の家に行ったときのことを思い出してみた。

 やっぱり一度も吸っていない気がする。

 ひょっとして、違うキャラを作ってたから、煙草も吸わなかった…?

 俺が後ろで、密かに先輩のことを薄気味悪く思っているのを尻目に、二人の会話は続く。

 「俺は、一日で禁煙した」

 「なんで」

 「玲二が煙草嫌いだって言ったから」

 先輩はそれを聞いて唖然として、俺と椎の顔を眺めてから、プハッと噴き出した。

 俺は、なんか恥ずかしくなって下を向く。

 今の話の流れから、二人の関係が見えてきてしまいそうだ。

 俺はやめろなんて言ってないだろ。

 椎を見ると、いつものようにおかしいとは全然思ってない顔をしている。

 「信じらんねぇ」

 先輩は手にした煙草の断面を、ライターにトントンと打ちつけつつ、クックッと堪えるようにして笑った。

 それから、視線を上げて椎を見る。

 「なぁ、なんで服部なんだよ」

 その問いに俺がドキッとしていると、椎は得意げな顔をして、

 「言っただろ?玲二の良さが分かるのは、俺だけだって」

 そう答え、先輩は、キョトンとした。

 「そんなこと言われたっけ?」

 記憶にないようだ。

 「そっちは知らないかも知れないけど俺は言ったんだよ。

 あんなにしつこく言ってやったのに…まあいいや。もう一回言ってやる」

 椎は、そう言いながら先輩に近づいた。

 「玲二の良さが、お・ま・え・に、分かるわけないだろ」

 言葉に合わせて、上から目線で見下ろしながら、先輩の胸元を人差し指でつつく。

 「かーっ、その言い方腹立つわー」

 先輩が、憎らしそうに言いつつ笑う。

 「どうせならもっと違う触り方して欲しいけど」

 「「変態っ」」

 俺と椎がハモった。

 その後、椎がニヤニヤしつつ、

 「玲二のどこがいいのか、具体的に教えてやろうか」

 改まってそう言い、俺は嫌な予感に襲われた。

 おい、何言う気だよ。変なこと言うなよ。

 ドキドキしながら椎を見ると、奴は先輩に向けて満面の笑みを浮かべた。

 「全部」

 短い言葉が聞こえて、先輩がポカンとする。

 俺は眉間にしわを寄せ、俯いた。

 椎、それ、バカっぽい…完全に色ボケしてる人の言葉だ。

 先輩が、頭を掻いた。

 「なんかムズがゆい」

 それから、肩口や首筋の辺りを掻く。

 ああ、その感覚は分かる気がする。

 共感していると、先輩は顔を上げてこっちを見た。

 「服部、羨ましいな」

 俺に注がれた先輩の視線には、ただ羨ましがっているだけでなく、

 少なからず妬みの感情が含まれているように感じられた。

 椎もそれを感じたのか、真面目な表情になり、先輩に向かって、不穏な言葉を口にする。

 「玲二に今度なんかしたら、殺すから」

 俺はビックリして、口をはさんだ。

 「こらこら。冗談でもそんな言葉使うなよ」

 「冗談じゃないし」

 「椎」

 俺が、たしなめるように強めに言うと、先輩がそれを台無しにするようなことを口走る。

 「椎になら、それもいいかも」

 もういい加減にしてくれよー。

 なんの世界なんだよ。

 

 先輩とはこれからも同じ大学に通うのだし、これ以上話していても険悪な雰囲気が増すだけだからと、

 二人を引き剥がすようにして、俺は椎と家に帰った。

 その後、数日間、大学で先輩の姿を見ることはなかった。

 ただ、ある場所で、たまたま会って驚いたけど…

 それは、バイトが終わって、喫茶店の裏口から外へ出たときだった。

 同じ五時上がりの菊池さんに、別れの挨拶をして手を振っていると、誰かの視線を感じ、

 ふとそっちを見ると、そこに藤沢先輩が立っていたのだ。

 驚いた顔をしている。こっちも驚いて、ちょっとの間、お互いに無言で相手を見つめていた。

 やがて、先輩が口をきいた。

 「偶然だな」

 少し笑みを浮かべていて、俺も笑う。

 「偶然、って言うか、俺がここにいるのは珍しくないですよ。ここでバイトしてるんで」

 俺が言うと、先輩は喫茶店の看板を見上げた。

 「俺もたまーにここ通るから、偶然じゃないと言えば、偶然じゃないかもな」

 そんな、どうでもいいかもと思えるやりとりがあって、先輩は黙った。

 俺も黙ると、先輩が煙草を取り出して火を点ける。

 そして、フーッと煙を吐き出した後、顔を上げて、俺を見て聞いた。

 「二人はキス止まりなんだ?あのいちゃつきぶりから、

 俺はてっきりヤってるもんだと思ってたんだけど」

 「え?」

 何を言われているのかすぐには把握できなかったけど、

 エッチな単語がいくつか耳に入って、顔が熱くなるのを感じた。

 「服部、言っただろ。『椎とはこんなことしない』って。

 服部って、ああいう時、咄嗟に嘘つける感じじゃないからさ」

 あ…

 俺は、先輩の家で押し倒されたときのことを思い出した。

 あのときは、俺、まだ椎の記憶が戻ってなくて本気でしてないと思ってたんだった。

 俺は、どう返そうか迷い、

 「えと、俺たち、その…キスしかしたことなくて」

 咄嗟に嘘をついてしまった。今度こそ、これこそ、嘘だ。

 通用するだろうかと内心冷や汗ものだったが、先輩は、眉間にしわを寄せて、

 それから下を向いてしばらく「うーん」と何か考え込むようにした後、顔を上げた。

 「ありえない気もするけど、…意外と清い交際してんだな。どうりで椎が怒るはずだよ」

 通用したらしい。なんかどんどん勘違いして行ってくれちゃってる気もするけど…いっか。

 嘘も方便。先輩にはそう思っていてもらおう。

 黙っていると、先輩が言う。

 「…悪かったな」

 俺は驚いて先輩を見た。

 まさか、謝られるとは思わなかった。

 「知ってたら、あんなことしなかった」

 先輩はそう言って、でもすぐに、自嘲気味に笑った。

 「…いや、やっぱりしてたかな。なんか苛めたくて」

 俺は苦笑いを浮かべる。

 先輩、あなたは立派な変態です。

 好きでもない後輩のモノを触って、何がしたいんですか…

 俺は、そう思いつつ、「いいですよ、もう」と呟いた。

 「俺たちはあんなことで、どうかなったりしませんから」

 と続けようとして、やめる。

 先輩に余計なことは言わない方がいいと、脳が警告した。

 大人しく「それじゃあ」と立ち去りかけて、言い忘れたことがあったのを思い出し、先輩を振り返る。

 「先輩」

 呼びかけると、先輩は顔を上げた。

 先輩を煽るようなことは言わない方がいいだろうけど、これだけは言っておきたいと思った。

 俺は先輩を真っすぐに見つめて言う。

 「撤回して下さい。俺、『なんか』じゃありませんから」

 先輩が驚いた顔で動きを止めた。

 何を言われているのか把握するのに、ちょっと時間がかかったようだったけれど、

 そのうちフッと笑って片方の眉を上げた。

 「まぁ、ちょっとは楽しめそうかもな」

 そう言って、先輩も立ち去る気配を見せる。

 「じゃあな」

 と軽く手を上げて、背を向ける。

 その後ろ姿を見ながら思う。

 強烈な人だったな。…友達が少ないってのは、本当のことかも知れない。

 背を向けたまま足を止めて、先輩がちょっと大きな声で俺に聞こえるようにして言った。

 「椎が幸せなんだから、いいか」

 それを聞いて驚く。

 先輩がそんなことを言うとは思わなかった。

 意外といい人なのかも、と思いつつその背中を少しだけ好意的な目で見ていると、

 先輩は振り返って俺の表情を見、おかしそうにクッと喉を鳴らした。

 「またそんな顔して。俺がそんなキャラだと思うか?お前、単純すぎ」

 ケラケラと笑う。

 「なっ…」

 「もう俺に近づかない方がいいかもな。

 王子様がいる時はともかく…じゃないと、どうなっても知らないよ」

 先輩は、ちょっと離れた場所から俺の顔を窺うようにして、

 瞳にイタズラな色を浮かべて、楽しそうに言った後、

 「心も体もズタズタにしちゃうかも」

 真顔で俺を指差してそう口にし、鋭い視線を投げてきて、俺は一瞬息が止まった。

 背筋を悪寒が走り、ゾッとする。

 それから先輩は、体をくるりと翻して、

 「なーんちゃって」

 とまた大きな声で言うと、今度こそ俺を離れて歩き出した。

 振り返ることなく遠ざかっていく。

 俺は先輩の毒気に当てられて、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

 家に帰って、今日は俺の当番だったので、飯を作って椎を待っていたが、帰りがいつもより遅い。

 何してるんだろうと思いつつテレビを見ていると、帰ってきた。

 ドアを開けて中へと入って来るなり、抱きついてくる。

 「ただいま」

 ぎゅっと抱きしめられて、「おかえり」と返すと、唇を重ねてきた。

 右手に何か縦長の包みを持っているのが気になったが、とりあえず抱きしめ返して、

 離れると、俺はそれに目をやった。

 「なんだよ、それ」

 「これ?」

 椎は、その包みをテーブルに置いて、

 「ワイン。やっと手に入ったのを、実家の冷蔵庫で冷やしといたんだ。

 取りに行ってたから、ちょっと遅くなった」

 それを包んでいた風呂敷のようなものを嬉しそうに、解いて外す。

 なんでワインなんか、と思っていると、ハラリと布がテーブルに広がって、

 中のものが明らかになり、俺は驚いた。

 「こ、これって、あのときの…」

 中には椎が言った通り、ワインが入っていて、そのラベルには見覚えがあった。

 「そうだよ。玲二がイっちゃったときのワイン」

 俺はムッとして、椎を睨んだ。

 そういう言い方するなよ。

 「なんでお前がこれのこと知ってるんだよ」

 「あいつの家で、見たんだ。このラベル」

 「……」

 さすがな記憶力だな。

 椎より長い時間見ていたはずの俺だってうろ覚えで、

 同じもの買ってこいって言われても出来るかどうか怪しいのに。

 でも、これって確か3万するとかって、先輩が…

 「むっちゃ高かったけど、奮発して買った」

 俺がそれを聞いて、思わず

 「3万…」

 値段を言うと、椎は「えっ!?」と声をあげた。

 信じられない、という表情だ。

 「これ、5万したけど…あいつ、どこで買ったんだよ」

 「もらったって言ってた。でも買ったら3万だ、って」

 どっちにしろ、こんなものが何万もするなんて、どうかしてる。と俺は思うけど。

 しばらく黙った後、

 「まあいいや。玲二、今日は飲むぞ」

 椎は、そう宣言すると、俺は飲むなんて言ってないのに、

 そそくさとワインクーラーの用意をし、そこへワインを突っ込んだ。

 俺も飯が食えるように準備をする。

 「今日の飯、何?」

 「竹の子ご飯と、唐揚げと、豆腐とわかめのみそ汁」

 俺がみそ汁の鍋を温めていると、後ろから抱きついてくる。

 「うまそう。どっちも」

 どっちも…って、このまま突入とかやめてくれよ?

 「危ないから、離れてもらえないですかね」

 なんかもう、記憶が戻ってから椎のくっつき率が大幅にアップしてる気がする。

 その後、椎が何事もなく離れて、ほっとした。

 飯の用意が出来て、食べ始めると椎がワインのボトルをクーラーから取り出す。

 「開けるのか?」

 「開けるよ。飲むために買ったんだから」

 そう言うと、椎は手際よく栓を開けた。そして、

 「玲二って、何気に金かかる男だよなぁ」

 などと言いながらグラスに注ぐ。

 強引さは、先輩といい勝負だ。言わないけど。

 「なんで買ってくるんだよ。俺は頼んでないぞ」

 勝手に買って来て文句を言われてはたまらない。

 「玲二を酔わせたかったんだ」

 「もったいないだろ」

 「他の酒だと飲まないんだからしょうがないじゃないか」

 「だから飲まなくていいよ」

 「飲まないと玲二酔わないじゃん」

 「酔わなくていいって」

 「酔わせたいんだ」

 会話は平行線を辿るばかりで埒があかない。

 と思っていたら、椎も同じように思ったらしく、俺を説得に入る気配を見せた。

 「玲二、俺はね。今回のことで玲二を疑ったことは一度もないよ。

 心から怒ったことも、あることを除いて一度もない。俺が怒った唯一のことってのはね…」

 ドンッ。椎が手にしたボトルをテーブルに音をさせて置く。

 「俺の酒は飲めないのに、あいつの酒は飲めたこと。それだけ」

 「だ、だけど、もうそのお仕置きは済んだんだろ。俺は悪いと思ったから、甘んじて受けたんだぞ」

 「それはそれ。これはこれ」

 なにーっ。

 「とにかく、今日は絶対飲んでもらう」

 「とにかくって何だよっ。いつもいつもお前はっ」

 怒りがこみ上げて来て怒鳴った俺の前に、椎がサッとワイングラスを差し出す。

 「はい。いいから飲もう」

 目の前で赤い液体が揺れる。香りがフワリと漂う。

 あのときと同じで、いい色で、いい香りだ。

 椎が目の前に差し出したまま退けようとしないので、なんとなく手にしてしまう。

 「乾杯」

 自分のグラスを俺のグラスに合わせて、椎がワインを口にする。

 「……」

 手にしてしまっているし、椎の思い通りってなんか癪だけど、

 いつまでそうしてても仕方ないので、俺もそれを口に運んだ。

 コクン。少しだけ口に含んで、舌に広がる甘味を味わってから、飲み込む。

 やっぱり美味い。

 そう思っていると、椎が感動したように言った。

 「美味いな、これ」

 「だろ」

 「自分で見つけたんじゃなくて、あいつが見つけたってことが腹立つけど」

 椎が悔しそうにして、俺は苦笑する。

 なんでそんなに意識するかな…

 その後、夕飯を食べながら、二人でグラスに注ぎあって、ワインを飲んだ。

 やっぱりだんだん、気持ちよくていい気分になって来る。

 でも、これ以上飲んだら、またあのときみたいに、フラフラになってしまうと思い、

 途中で、もっと注ぎ足そうとする椎の手を止めて、手の平を広げてグラスに蓋をした。

 「もうやめとく」

 「なんで」

 「酔っ払うから」

 「酔うために飲んでんじゃん」

 俺は、先輩の家で飲んで酔っ払ったときのことを思い出そうとした。

 よく覚えてないけど、自分の中では、ありえないくらいみっともなかったような気がする。

 「酔ったら介抱してやるよ。今一緒にいるのは俺なんだから、酔っ払ったって、構わないだろ?」

 そう言って、椎は俺の手を退けると、グラスにワインを注ぎ足す。

 「もう入れるなって」

 俺はムッとして言ったけれど、椎は零れそうな勢いで、たっぷりとグラスをそれで満たしてしまう。

 「残したらもったいないだろ」

 自分のグラスにもなみなみと注いで、ワインじゃないみたいにグイグイ飲むと、椎は嬉しそうに笑った。

 「玲二とこうやって飲むの、夢だったんだ」

 その顔を見ていたら、しょうがないなー、と許す気分になってくる。

 やがてワインもなくなって、飯も食べ終え、片付けようと立ち上がったら、

 足に力が入らなくて、俺はそのまま床にへたり込んだ。

 「玲二っ、大丈夫か?」

 俺の様子を見て、椎が椅子から立ち上がって声をあげ、俺はヘラヘラと笑う。

 「アハハハ…足に力、入らないー」

 体全体が痺れたようになっていて、力が入らない自分の体がなぜか可笑しくてたまらない。

 また立ち上がろうとしたら、そのまま横に倒れて、柱の角に頭をぶつけ、思わず頭を抱える。

 「玲二っ!?おいおい、そんなに!?」

 椎が、慌てて駆け寄って来た。

 頭を押さえている俺の手をはがして、椎が俺の頭の傷を確認する。

 なんともなっていないようで、椎は「良かった」と安堵の息を吐いた。

 その様子を、下から眺めていると、その視線に気づいた椎が見つめ返してくる。

 じっと見つめた後、

 「キスしても、いい?」

 と聞いて来て、俺は回らない頭で考えようとしたが、なにしろ回らない。

 「いい」

 椎の言葉をオウム返しに返すと、唇を重ねてきた。

 舌が差し入れられるけど、なんだかあまり感覚がなくて何をしてるのかよく分からない。

 いつもより長くて、いったいいつ離れるんだろうと思えるくらいだった。

 キスしている最中、シャツの襟元がすごくうっとおしく感じられて、

 ボタンを外そうとしたが、指先が痺れている感じで外せない。

 唇が離れて、椎が聞く。

 「外すの?」

 「ん」

 頷くと、椎が外してくれた。前、全部。

 「サンキュ。…はあーっ」

 体が気だるくて、ゴロリと寝返り、全開になった胸を床に押し付ける。

 床の冷たさが直に感じられて、気持ちいい。

 「玲二…酔ってる?」

 その言葉を聞いたら、愉快な気分になって、俺はうつぶせのまま、また笑いつつ手を振った。

 「酔ってないってー」

 「…酔ってるね」

 椎が苦笑する。

 心臓の鼓動が速くて、血が体中を駆け巡るのを感じる。

 「俺は…酔ってないー」

 目を閉じて歌うように言うと、フワリと体が浮いた。

 俺の体は柔らかいものの上に着地する。

 椎が上から見下ろしながら、俺の脱げかけのシャツを脱がす。

 それから、俺の上に乗ってくると、俺を抱きしめた。

 

 

 

 

 

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