君を夢に見た






 

 「おっ、起きたな。風呂沸かしといた。気持ち悪いだろ?洗って来いよ」

 次に目を開けた時、そこには服を着替えて、風呂にも入ったのか、さっぱりした顔の男がいた。

 前髪を分けていて、眼鏡もかけていない。

 こんなイケメン、俺は知らない。こんな奴の部屋に遊びに来たんじゃなかったのに。

 椎は、どこへ行ってしまったんだ。

 「わけが分からない」

 そう言おうとしたら、声が出なかった。口の中が乾ききっている。

 動こうと下肢に力を入れると、アソコが引き攣れたような感じがして痛くて、息が止まった。

 「……」

 これは現実なのか…?俺は椎と…。

 頭の中に、最中の画が浮かぶ。

 夢じゃなかったんだ。夢なら良かったのに。

 

 手首の紐は外されていた。少し赤くなっていたが、痛みはほとんどなかった。

 後ろの痛みに比べたら、なんでもない。

 汗をかいたし、体も汚れているに違いなかったのに、なぜか肌が思いのほかサラッとしている。

 顔も涙の跡を感じない。

 「一応全部拭いたけど、風呂入った方がいいだろ?」

 え…。全部、拭いた?

 椎の言葉の意味を頭がのろのろと理解し、理解した途端恥ずかしくてたまらなくなった。

 顔が熱くなる。

 人に…他人に体を全部拭いてもらうなんて、ありえないっ!

 意を決して起き上がり、ベッドを降りて歩きだすと体がフラついた。

 体中が痛い。特にやっぱり後ろが痛くて、不快な感覚が募る。

 「大丈夫か?」

 椎が俺を目で追っているのを感じたが、俺はそのままシンクの所へ行き、

 黙ってそこにあったコップを勝手に取って水を飲んだ。

 「なぁ、洗ってやろうか?」

 「……」

 コップを持った手が震える。

 「いつからだ?」

 「え?」

 「いつから、こういうことをしたいと思ってたっ!」

 怒鳴ったら後ろに響いて、やりきれない気分になる。

 椎を睨みつけると、奴は何も言わずじっと俺を見つめ返してきた。

 

 何も言わないけれど、何か言いたげにしている。

 何かあるなら言えよ。

 あるいは謝罪でもいい。

 俺は女とだってした事がない。キスさえも。

 とにかく初めてだったのに、なんでヤリたいだけの男にこんな目に遭わされなきゃならないんだ。

 「…帰る。大学で会っても二度と声かけるな」

 何かを訴えかけるような瞳をしたまま、ただ黙っている椎から目を逸らして、コップを置いた。

 床に投げられたはずの俺の服は、そばの椅子にかけられていて、それを手に取って身につける。

 その間も、後ろが気持ち悪くて、着替え終えると、俺はトイレと覚しき場所のドアを開け、黙って借りた。

 椎とは目を合わせない。何も話したくない。

 後ろの引き攣れ具合から、絶対切れていると思って

 そこにソッとペーパーをあててみたが、血は出ていなかった。

 確か奴が中出ししたようだったのに、精液が入っている感じはしない。

 気づかなかったけど、ひょっとして、つけていたのだろうか…?

 トイレを出て、玄関へ向かう。椎は、俺が目を覚ましたときから一歩も動いていない。

 ずっとテーブルの横に立っている。

 今もそこからこちらを見ていた。俺は立ち止まって言った。

 「友達になれるかも知れないと思ったのに」

 「俺は友達になる気なんかない」

 え? 間髪入れぬ答えに驚いて、顔を上げて椎を見た。

 「好きでしかたない人と、友達にはなれない」

 眉間にしわを寄せて、苦しそうで切なそうな顔をする。

 「ずっと好きだった」

 告白され慣れてない俺には、心の揺れる言葉だった。

 

 だけど、そんな言葉を真に受けたってしょうがない。

 たとえそれが本当だとしても、椎は俺の気持ちも聞かずにあんなことをしたのだ。

 「好きだったら何してもいいのかよ。想いを伝えるったって順番があるだろう?」

 俺は椎を見つめて、自分が正しいと思うことを口にした。

 「じゃあ、玲二は男に『付き合って下さい』って言われて、『はい』って言えるのか」

 「……」

 「言えないだろう?」

 椎の言うことも、もっともだった。

 だけど。

 「だからって、いきなりあんなこと」

 「あんなふうにしかアプローチ出来なかった。これだけ待って嫌われたらイヤだと思ったけど、

 どう切り出せば男の俺を本気で考えてくれるか分からなくて…

 それに、なんか、やっとここまで近づけたと思ったら、我慢できなくて」

 椎がますます苦しそうな顔をするのを見たら、あの最中のことが思い出されて、

 いろんなシーンが頭の中をグルグルまわる。

 それを必死に振り払い、冷静になろうと努める。

 「だから、その『ずっと』ってのが分からない。

 男同士ってのを抜きに考えても、知り合ってからまだそんなふうに言えるほど経ってない。

 いつ俺を好きになったっていうんだよ」

 好きになるには、お互いあまりにも相手を知らなすぎるだろう。

 少なくとも、俺は椎のことをそういう意味で好きになれるほど知ってはいない。

 椎が照れくさそうにする。

 「二年前…」

 思ってもみなかった答えに、

 「えっ!?」

 俺は驚きの声をあげた。

 「もう何もしないから、もし話を聞いてくれるなら、そこに座って」

 椎がテーブルの椅子を指差す。その手が微かに震えている。

 なんかこいつ、怖いよ。話を聞いても聞かなくてもなにかされるんじゃないだろうか。

 もし、本当に二年前から想われてるとしたら、ストーカーみたいなもんで…

 俺はホモのストーカーに知らずに二年間想われた末にヤラれて、しまいには殺されるんじゃ…

 なにしろ、ものすごく力があるし、それに椎がいるのは包丁が収納されているだろうシンク側なのだ。

 「頼むから」

 椎が、少し青ざめてきている。俺は、テーブルに寄って、椅子を引き座った。

 奴がホッとした表情で向かいの椅子に座る。

 「告白するのがこんなに怖いとは知らなかった。平気で断ってたけど、

 今からでもみんなに謝りたいくらいだ」

 椎は笑ったが、俺は笑えなかった。

 「みんな」って、そんなに大勢かよっ、とチラと思ったが、今は余計な話はいい。

 何を話したいというのか、それを聞きたいだけだ。

 俺は黙って椎を見つめた。

 椎は大きく一つ息を吐いて、それから同じように黙って俺を見つめ返す。

 弱気になっていたらしい椎の瞳が、少し強気を取り戻した色を浮かべる。

 そして、少し間を置いてから、落ち着いた調子で切りだした。

 「俺の親、C’s(シーズ)デンタルクリニックっていう歯医者やってるんだ」

 え? シーズ…デンタルクリニッ…ク?

 その名前には聞き覚えがあった。

 急に、自分に馴染みのある名前が出てきて頭が反応する。

 俺は、その建物の外観と内装を思い出した。

 古いがセンスのいい建物で、広くて清潔な感じのする医院だった。

 一昨年だったか虫歯になり、それが思いの外ひどかったので長く通った歯医者が、

 その『シーズデンタルクリニック』だ。

 家から近かったからなんとなくそこに決めただけで、他に選んだ理由もないのだが、

 先生が物腰が柔らかくて優しい人で結構気に入っていた。

 俺は、驚いた顔のまま椎の顔を見つめた。

 C’s、って、椎の、という意味だったのか。

 まさか椎と関係があるだなんて、今の今まで夢にも思っていなかったから全然気づかなかった。

 唖然としたまま、何も言えずにいると、椎はおかしそうに笑った。

 「もちろん、俺が時々手伝いをしていたことも知らないよな」

 「え」

 手伝い?

 あの医院には割りとたくさんスタッフがいたし、先生以外意識してないから、全然覚えてない。

 「し…知らない」

 「やっぱり」

 「俺、病院行っても髪切りに行っても、担当してくれた人しか見なくって…」

 俺が言うと、椎はまた笑って、目を伏せ気味にした。

 「俺はいつもでっかいマスクしてたし、個性出してたわけでもないから

 印象にも残らなかっただろうって気はしてた。でも受付で玲二と話したこともあるし、

 玲二の診察の時そばにいたこともある」

 覚えていないことに一瞬、申し訳なさを感じそうになった。

 が、そんなことで責められるいわれはもちろんない。俺は悪くない。

 それにしても、歯医者で俺に惚れたって言うのだろうか。

 あまり惚れるのに適したシチュエーションとも思えないけど。

 「大学に入学してからは、最初からパートナーになりたくて近づいたんだ」

 二年前からいきなり現在の話になった。

 椎の言うパートナーってのは、つまり恋人ってことなのか?

 それより、同じ大学って、まさか俺がいるから…?

 「今年は受験生だね。どこの大学受けるの?」

 そういえばさりげなく先生に聞かれたことがあるようなないような…

 もしそれが本当だとしたら…ちょっと重いかも。いやかなり。

 でも、まあ、それも今は置いといて。

 「あの…だけど、俺と椎は男同士なのに」

 なんか椎があまりに堂々としているので、こっちの感覚がおかしいのかと思えて、

 言いながら語気が弱くなる。

 「玲二の気持ちは分かる。俺も以前は男同士なんて気持ち悪いと思ってた。

 自分は絶対ゲイじゃないと思って、手当たりしだい女の子とつきあってた時期もある。

 なんでかモテたし…」

 なんでか…って、今のこっちの椎なら納得できるけど。てか、なんかムカつく。

 「だけど…だけど、やっぱりどうしてもしっくり来なくて…そしたら玲二が来院して、

 診察椅子を倒したときに見えた足首が、やたらそそって…しかも、あの包帯…!!」

 「ほ、包帯?」

 「そうだよ。あれは反則だ。足首に包帯なんか巻いて」

 俺は記憶を辿って、自分が包帯をしていた時があったか思い出してみた。

 えーと、そういえば野球の練習試合で滑りこんで足を怪我して、包帯巻いてた時期があった…っけかな。

 「足首に包帯が巻かれてるのを見た瞬間、俺はハートを鷲づかみにされたんだ」

 なんだ、それ。

 「それはお前の嗜好だろう。知るかよ」

 「俺は男なんて好きじゃなかったのに、どんどん玲二に惹かれていって、

 来院するたびに、親父と話す姿を見るたびに、ドキドキしてしょうがなかった」

 「……」

 その言い方は…まるで俺のせいみたいじゃないか。

 「男を好きになるなんて、俺だって初めてなんだよ。だけど、今までつきあった誰より好きなんだ」

 

 俺は、考えた。

 椎が俺を本当に好きなことも(きっかけはどうあれ)、いい加減な気持ちでないことも分かった。

 もし性別に拘らないとするなら、告白された側というのは、こういう時どうすればいいのだろう。

 つきあっている人がいるから断る。いや、いないし。

 好きな人がいるから断る。いや、それもいないし。

 好きなタイプじゃないから断る。それは、まだよく分からない。

 とりあえずつきあってみる。え……ちょっと…なんとも…

 「うーん」

 椎は、真剣な表情で俺の出方を待っているみたいだったが、

 俺の首に視線を移して「あっ」という感じに口を開けた。

 「そういえば、あの…」

 歯切れの悪い口調で切り出す。

 「あの、それ…気づかずに人に見られたら嫌だろうから…言っとく」

 「え?」

 俺は、椎の視線が自分の首に注がれているのを見て、ハッとして首筋を押さえた。

 立ち上がって洗面所へ行き、鏡を見る。

 シャツの襟元から痣のようなものが見える。

 不安に駆られてボタンを三個ほど外し、開いてみた。

 「うおっ」

 見事だった。花が咲いたように、首全体にたくさんのキスマークがついていた。

 「ごめん。玲二が反応するからつい」

 立ち上がってついて来た椎が鏡を覗く。俺は呆然として赤い斑点を見つめた。

 首を吸われたときの感触が蘇える。

 「夢中だったから…それには気をつけなかった。

 傷つけないようにってことにはかなり気をつかってたんだけど」

 傷つけないように…って、何を? あ…あそこを?

 そう言えば、何度も指を出し入れしてたし時間もかけていた。

 「……」

 それを思い出したら体がかあっと熱くなった。

 「玲二」

 後ろから椎が抱きしめてくる。

 「あっ」 俺は慌てた。

 「もう何もしないって言ったのに」

 「しない。しないから。質問に答えて。俺のことは、好きか嫌いか」

 こんな、思考力が働かないときにそんな質問なんて、ずるい。

 「……分からない」

 心臓がドキドキして来て目を閉じる。

 「今つきあってる人はいるか」

 「…いない」

 「好きな人は?」

 「…もいない」

 「じゃあ俺とつきあえるね」

 椎が耳たぶと首筋の間に息を吹きかけた。

 体がビクッと反応する。

 「何も…しないって…言ったのに…バカ」

 体の芯が疼いて、たまらなくなる。

 俺を羽交い絞めにするその手が触れる箇所、椎の息がかかる箇所、とにかくあちこちが感じてきて、

 俺は思わず椎に寄りかかった。

 なんで…触られると感じてしまう。

 「何もしてないよ。でも体は正直だね。気持ちよくなりたいって言ってる。俺に玲二を愛させてよ」

 俺は、必死で首を振った。

 「キスだけ。キスだけだから」

 返事をせずにいると、椎の方に体を向けさせられる。

 椎はごく自然な仕草で俺の顎に手をかけ、上を向かせて唇を重ねてきた。

 「んっ…」

 椎は、キスが上手いのだろうか。分からないけど、口が蕩けてしまいそうに感じる。

 「ん…はっ…」

 奴が舌を差し入れてきて、俺の舌を絡め取る。

 そして、その舌をチュッと音をたてて吸う。

 首筋の辺りを気持ちよさがふわふわと漂って、背中がゾクゾクする。

 キスってどんな感じなのだろうと想像を巡らせてきたけど、考えていたよりも、

 ずっと、ずっと…感じる…

 

 「玲二…約束だから、これ以上はやめとくよ」

 長いディープキスの後、離れて椎がそう言ったとき、俺はほとんど放心状態だった。

 「玲二…?玲二のこんなになってるけど、大丈夫?」

 椎が確認するように軽く触れてきてハッとし、後ずさる。

 「だ、大丈夫だから、勝手にさわるなっ」

 怒りながら、俺は自分の体の変化に戸惑っていた。

 な…なんでこんな体になってんだ? むっちゃ熱い。何かのスイッチが入ったみたいな…

 「飯でも食いに行こうか。それとも材料買って来て、俺が作ろうか?」

 椎が嬉々として聞いてくる。

 窓の外を見たら、真っ暗だった。いったい俺はどれくらい眠っていたのだろう。

 時計を見ると八時少し前を指している。

 確かに腹は減っていた。

 でも、今こんなに体が火照った状態で、外で食べる気にはなれない。

 それに、また椎に触られたら、自分でもどうなるか分からなかった。

 「帰るよ。家でなんか食う」

 「え」

 椎は驚いて、すごく不安そうな、納得できないと言いたげな表情をした。

 「なんだよ。自分の家に帰るのがそんなに悪いことなのかよ」

 「わ、悪くはないけど、今日は泊まっていけばいいのに。風呂も沸かしたのに」

 言われて、俺は昼間見た風呂を思い出した。

 広々として、二人で入っても余裕だろうあの大きなバスタブ。

 「風呂は…悪い。もったいないからお前もう一度入れ。俺は一度帰って、一人でゆっくり考える」

 椎は、一瞬何か言いたそうにしたが、なにも言わずに、頷いた。

 「分かった。じゃあ、またメールする」

 俺は玄関で靴を履くと、奴の部屋を出た。

 ドアを出るとき振り返ったら、椎は寂しそうに笑って手を振っていて、

 俺は複雑な気持ちになりながら外に出た。

 そして、人と会いそうな場所では、何気なく首筋を手で隠しつつ歩いて、家路についた。

 

 俺は適当に自分の飯を用意して食事を済ませると、早めに風呂に入った。

 頭のてっぺんから爪先まで、石鹸を泡立てたスポンジでごしごし洗う。

 首のキスマークは簡単には消えそうになかった。

 「はぁ…」

 洗い終わって、ぬるめの湯に浸かる。

 体の火照りもまだおさまらない。椎にされたことを、体が覚えているようだった。

 奴が辿った指や唇の跡が、見えないけど体中に残っているのを感じる。

 その夜はベッドに入ってもなかなか寝付けなくて、俺は寝返りばかり繰り返していた。

 メールすると言いながら、椎からのメールは一通も来ない。

 二年間想って、ヤッてはみたけど、あんま良くなかった、とか?

 俺が、思ったような奴じゃなかった、とか?

 でも、それなら離れるときあんな寂しそうな顔しないよな。

 ……。

 二年間。俺は気づかないまま見られていたのだ。

 そして、それでも椎は俺を好きだと言う。

 今まで、俺のことをずっと見ていてくれた子なんていない(と思う)。

 告白なんてイベントは俺には無関係だったし、部活に打ち込んでたからそれでいいと思ってた。

 俺なんて、いたって普通だし、これといって取り柄もないし。

 なんで俺なんだ。そういう対象に選ぶようなキレイな男は他にいるはずなのに。

 ……。

 って、なんで卑屈になってんだよ。

 俺は男なんだ。男となんてつきあうもんか。

 椎は、あれで俺がOKしたと思っているのだろうか。

 自分が断られるとは、全く思っていないようだった。

 ……。

 椎にとっては俺は二年間かけて好きになった相手かも知れないけど、

 俺には椎は、まだ会って間もない男なんだ。

 やっぱりそう簡単に好きになれるかよ。

 

 一人問答が何度も脳内で繰り返されるうち、東の空がうっすらと白んできてゲッソリした。

 結局、一睡もしていない。

 夜眠れなかったことなんて、ほとんどないのに。

 もう横になっていても、寝られないので起きて歯を磨いた。鏡には目の下に隈の出来た自分の顔が映る。

 俺、なんで椎のことでこんなにヨレヨレになってんだ?

 情けない思いで歯を磨きながら首元を見れば、やはりまだ赤い花が残っていた。

 ため息をついてタンスのところへ行き、襟付きのシャツを探す。

 なるべく上の方まで隠れるやつ…

 見つけて袖を通し、朝食を摂って、大学が始まるまで時間があるからとテレビを見ていると、

 呼び鈴が鳴った。

 「はい」

 大きく返事をして、玄関へ向かう。応答はない。

 カチャッ。ドアを開けると、そこには椎が立っていた。

 「椎!なんでここをっ」

 驚いて聞くと、奴は「おはよう」と笑った。

 眼鏡をかけていて、前髪を分けていない方の椎だ。

 「玲二の家を知らないはずないだろう?入れてもらうよ」

 「ちょっ、待ったっ」

 勝手に入って来ようとするので、押し留める。

 すると椎は俺の両の二の腕をぐっと掴んで、俺の顔をじっと見つめた。

 「一晩中、俺のこと考えてくれたんだ」

 「え」

 俺は自分の目の下に隈が出来ていたことを思い出した。

 「こ、これは」

 「キスマークもちゃんと残ってる」

 言いながら首筋に顔を近づけてくるので、俺は後ろへ下がった。

 そのまま椎もくっついて来て中に入り、後ろ手にドアを閉めてしまう。

 続いて鍵の閉まる音。

 閉じられた空間になったことで、「逃げられない」という思いが頭をかすめ、怖くなる。

 「椎…俺…大学に行かないと」

 「分かってるよ…なんで震えてんだよ」

 椎が不思議そうな顔をする。

 「え…あの」

 絶対迫ってくるに違いないと思っていた。

 が、今の椎にはソノ気はないらしく、掴んでいた腕もすぐに外された。

 ヤ…ヤラれるかと思った。

 なんて言えない。

 無駄に上がった心拍数が、ほっとすると同時に下がっていく。

 「一緒に行こうと思って迎えに来たんだ。へぇ、これが玲二の部屋かぁ」

 椎が、感心したように中を見回す。

 「狭いだろ。お前んちとは大違い」

 ザッと見渡せば、全てが把握出来てしまう程度の広さだ。

 椎の部屋に比べたら、物凄く小さく感じることだろう。

 と思っていたら、奴が俺を振り返った。

 「狭くたっていいじゃん。玲二がいるんだから。

 『来たら玲二がいる部屋』なんて大金払っても他にないよ」

 明るく発するその言葉を聞いて、俺は耳を疑った。

 そりゃそうなんだけど…それ、お前しか喜ばないと思う。

 本気で言ってるんだろうか。ちょっとバカ? よくそういうこと言えるな。

 「なんだ。玲二んとこだって、大したもの入ってない」

 固まっていると、椎が勝手に冷蔵庫を開けてチェックする。

 昨日遠慮なく奴の家を見て回った手前、文句も言えずに苦笑する。

 「座れよ。お茶入れるから」

 俺はシンク横の椅子を指差した。

 自分が食事するだけなので、台所のスペースには小さなテーブルが置いてあるだけだ。

 でも一応二人がけで、椅子も二脚ある。

 「お構いなく」

 椎は嬉しそうに言って、奥に置いてあるベッドに近づいた。

 ふと見たら、あろうことか枕や布団の匂いを嗅いでいる。

 「あー、玲二の匂いする」

 椎は恍惚とした表情で呟いた。

 「か、嗅ぐな匂いを!!」

 俺は怒鳴った。ものすごく恥ずかしかった。

 恥ずかしいことをしてるのは椎のはずなのに、なぜか向こうは平然としていて、

 俺ばかり恥ずかしくなっている。

 そして俺の様子を楽しむようにこちらを見てから、戻ってくる。

 「変態」

 「なんとでも」

 椎は、満足そうに笑って椅子を引くと、それに腰掛けた。

 俺は実家から持ってきた日本茶を濃い目に淹れながら、奴に話しかける。

 「お前、どっちが本当の姿なんだ?」

 本当の姿なんて言うと、ヒーロー物の主人公みたいだけど、

 実際二つの顔があるようなのだからしょうがない。

 椎は、え?という表情をした後、「ああ」と言って眼鏡を取ってテーブルに置き、前髪を分けた。

 切れ長の目に力を込めると、顔つきが変わる。

 「高校まではこうだった」

 男前でモテそうで、人当たりも良さそうだ。男から見てもカッコイイし好印象を与える。

 しっかりして見えるから、なんか俺より年上みたいだ。

 「でも、今はこっち」

 そう言って、眼鏡をもう一度かけ直し、前髪を目が隠れるように垂らす。

 顔がよく分からないし、暗そうでオタクっぽくて、なんかイメージ悪い。

 「なんで使い分けてんだよ」

 「使い分けてるって言うか、これからは、こっちで行こうと思ってるんだよ。

 もう頑張らないことにしたから」

 ん? なんかその言葉、意味深じゃないか?

 俺は、一瞬お茶を湯呑みに注ぐ手を止めた。でも何も聞かず、続きを注ぐ。

 「でも、やっぱり玲二の前では少しでもカッコよくいたいって気持ちもあるし」

 椎は、また眼鏡を外して、前髪を分けた。

 「アレのときは、こっち、かな」

 ア、アレって…聞かなかったことにしよう。

 お茶が入ったので、椎の前に差し出す。

 「あ、サンキュ」

 奴は、短く手を合わせてからお茶を飲んだ。途端に顔を歪める。

 「熱っ&苦っ」

 俺も向かいに座って、ずずっと自分のお茶をすする。旨い。

 「俺、苦いのが好きなんだ。それに熱くても平気」

 椎は意外そうな顔で俺を見た。

 「渋いなぁ」

 「悪かったな、年よりくさくて」

 「いや。なんか嬉しい。玲二のこと、もっと知りたいから教えて」

 真正面から、恥ずかしいことを普通の顔で言ってくるよ、こいつは。

 俺はそれには答えずに、お茶を飲む。

 なんか茶菓子でも買っておけば良かったな。

 そんなことを考えていたら、さっきまで喋くっていた椎が黙っている。

 ふと目をやると、なんかすごい集中力を感じさせる見方で見つめてくる。

 「なんだよ」

 「もうこうやってじっと見つめてもいいんだな。って思ったら嬉しくて」

 ……。

 「あ、照れてる」

 「うるさい。お前、もう黙れ」

 椎の言葉は、俺をムズムズさせる。

 

 黙れと言ったら、本当に黙っていつまでも見つめてくる。

 しんとした空気と、熱い視線に耐えられず、口を開く。

 「椎のせいで襟付きのシャツしか着られないんだぞ。そんなに襟付きの服ばっか持ってないのに」

 椎が驚いた顔で、俺の服を見る。それでどう出るかと思ったら、

 「そっか。じゃあ、買いに行こう。玲二と買い物行ってみたかったんだ」

 「いや、そんなことが言いたいんじゃなくて」

 こんなことは困るんだと言いたかったのに、どうやら分かってないらしい。

 「ん?もっとキスマークつけられたいのか?」

 ガタンッ。椎が椅子から立ち上がって顔を寄せる。

 「ちがっ…」

 驚いて慌てて立ち上がり後ろへ下がる。

 「なんでそういちいちビビって後ずさるんだよ」

 椎はムッとしたが、俺にしてみれば当然のことだ。

 俺もムッとして椎を見返す。

 「昨日、あんな目に遭ったんだから、しょうがないだろ」

 そう口にしてから、実感する。

 そうだ。認めたくなかったけど、俺はあのときものすごく怖かったんだ。

 今思い出しても震えそうになる。

 「人を縛るなんて、信じられない」

 俺は、自分の左手首を右手でギュッと握った。

 椎が申し訳なさそうにする。

 「ごめん。もう二度と縛ったりしない」

 殊勝な態度で言った。俺が聞きたかったのはそういう言葉だ。

 本当に反省してんだな、と思ったら、ニッと不敵に笑った。

 「玲二が素直に抱かせてくれるなら」

 「なっ」

 「俺、玲二を気持ちよくさせる自信あるんだ」

 だから、なんでそんな話になるんだよっ。

 「でも、やっぱり経験を重ねないと。

 抵抗せずに全部受け入れてくれたら、きっと気持ちよくなる」

 俺はこの噛みあっていない会話に、ある意味ショックのようなものを受けて呆然とした。

 人間同士の会話じゃないみたいだ。

 と、とにかく、空気と話題を切り替えよう。

 俺は壁の時計に目をやる。もう出かける時刻だ。

 「ほら、時間だから行くぞ」

 キッパリ言ってやると、椎は少し肩透かしを食らったような感じだったが、

 その後納得したように肯いた。

 「そうだな。この部屋にはローションないだろうし。コンドームも。…ないだろう?」

 って、まさか今の勢いでヤル気だったのか?

 俺は驚いた。それからちょっと引っかかりを感じる。

 用意する必要もないほど、どうせ俺は独り身だよ。畜生。

 「ああ」

 そっけなく答えると、椎がじっと見る。

 「そういえば、おはようのキス、まだだった」

 「え」

 椎の左手が伸びて頭の後ろに回され、引き寄せられた。

 て、展開が急すぎるっ。どんな思考回路してんだよっ。

 「俺はまだつきあうなんて言ってな」

 あっという間に唇を塞がれてしまう。テーブルを挟んでの、妙な体勢でのキス。

 椎は目を開けたままだ。それが見えてるってことは俺も開けてるわけで。

 「んっ」

 俺は恥ずかしくなって目を閉じた。椎が舌を入れてくる。

 なんでこうなるんだよ。

 だけど…。あれ、どうしてだろう。このキスは昨日ほど気持ちよくない。

 椎もそう思ったのか、短いキスの後、腑に落ちない顔をした。

 「やっぱり体が離れてると、物足りないな」

 椎が考えながらそう言うのを聞いて、ああなるほど。と思いハッとする。

 共感してんじゃねぇよ、俺。

 なんて頭でやってるうちに、椎がスッと動いて、テーブルのこちら側に来た。

 「やっぱ体ごとじゃなきゃ」

 あっと言う間に抱き締められて、奴の顔が間近に迫る。

 「おはよう」

 またキスをされるかと思ったら、しないままじっと俺を見つめる。

 鼻が触れ合うほどの至近距離だ。

 「お、お、」

 俺は素直に朝の挨拶をする気にもなれず、かといってなんと言っていいかも分からず、

 でも抱き締められている感触はすごく気持ち良くて、ドキドキしながら目を閉じて俯いた。

 耳元で声がする。

 「玲二…俺のパートナーになってよ。本当に好きなんだ」

 それから、椎の左手が俺の頭を撫でるように動く。

 なんだか安らかな気持ちになってくる。

 二年間、俺をずっと好きだった椎。俺はどうすればいいんだろう。

 「俺、それほどのものじゃない…と思う。二年分の責任なんて取れないし」

 「そんなに固く考えなくても、他のカップルと同じだよ。どちらかが告白してつきあいが始まる。

 そして、上手く行くか行かないかは、つきあってみなけりゃ分からない」

 「……」

 「だろ?」

 うーん。正論のような、うまく言いくるめられてるだけのような。

 でも真剣な椎の気持ちを聞いているうちに、

 俺はその気持ちに応えようとし始めている自分がいるのを感じていた。

 椎の背中に手を回す。椎の腕にも力がこもる。

 「キスしたい」

 椎が言い、俺が動かずにいると唇を重ねてきた。やっぱり気持ちよくって、流されそうになる。

 でも…

 「ストップ!本当にもう行かないと」

 俺は椎を離れて、時計を指差した。

 奴はまだ物足りなそうな表情をしたが、気持ちを切り替えたのか笑って、

 「じゃあ、続きは後で」

 そう言うと眼鏡に手を伸ばした。

 

 「日本茶のキスって、いい感じ」

 椎が眼鏡をかけて、前髪を降ろしながら、感心したように呟く。

 口の中に残ったほろ苦さは、確かにキスに合っている気がした。それに、

 「ああ。緑茶には殺菌作用もあるし」

 「って、俺、菌扱いかよっ」

 え、いや、そういうわけじゃ…

 喚く椎に苦笑しながら湯呑みを片付けると、俺たちは揃って家を出た。

 

 

 

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