約束






  

 考えてみると、椎と付き合い始めてから、毎日のように、その…セックスしている。

 日曜日だった昨日は、バイトが終わって携帯をチェックしたら、

 「今日は外で食事しよう」

 というメールが入っていて、外で眼鏡の椎と会って食事をした。

 そのあと自分の家に帰ると、椎も一緒について来て、そのまま家でヤッてしまった。

 俺の狭いベッドがあんなことに使われる日が来るとは…

 椎がローションを小瓶に移して、

 まるで香水か化粧品のように鞄に入れて持って来てたことにも驚いたけど。

 それでまたすぐに眠くなって、夜遅く目覚めたらまだ椎がいて、

 結局奴は泊まっていったのだ。

 そして今、午前七時。

 椎がシャワーを浴びてる間に、俺は朝食の用意をしている。

 ハムエッグを作り、トーストを焼き、コーヒーを淹れる。

 完成。と思ったとき、いい具合に椎が風呂から出てきた。

 奴が俺のエプロン姿を見て不満げに言う。

 「なんで裸じゃないんだよ」

 「しないっつってんだろ。それより、お前こそなんか身につけろよ」

 椎は首にタオルをかけているだけで、素っ裸で平気で歩いている。

 俺の言葉に、奴は首のタオルを取って腰に巻いた。

 うちにはバスタオルがなく、スポーツタオルなので、布が足りなくてなんかチラチラと見える。

 しかも、そのまま椅子に腰を下ろした。

 「その格好で飯食うのか?」

 「駄目か?」

 「いや」

 俺はいいけど、俺がお前だったら落ち着かないと思う。

 すごくキッチリしてるかと思いきや、ちょっとだらしないと思えるところもあったりして…

 楽しませてくれるよな。

 椎の向かいに座って食べ始めると、椎が部屋を見回しながら提案してきた。

 「なぁ、俺んちで一緒に住まないか?十分二人で住めるし」

 俺がハムエッグの卵を白身と黄身に分けながら、

 「あんな部屋の家賃の半分なんて、俺に払えるわけないだろ」

 少し笑って言うと、椎は真剣な顔をして、トーストを持った手を揺らしながら返してきた。

 「家賃はここで今払ってる分だけもらえればいいよ。

 今まるまる払ってるんだから俺だって助かる」

 そして、一緒に住むことの利点をあげ始める。

 「玲二は終わったらすぐに眠くなるだろ?

 一緒に住んでれば、帰ることなんか考えなくていいんだし」

 「……」

 「外から帰ったとき玲二がいてくれたら俺幸せだし、

 いなかったら玲二が帰ってくるのを待ってればいいわけで、それも幸せだし。とにかく一緒に住もう」

 簡単に言うよなぁ。

 本当すごいよ。俺言えねぇもん。幸せ×2、とか。

 「うーん」

 感心しつつ、コーヒーに手を伸ばすと、椎も自分のコーヒーを口に運んだ。

 「そうそう。玲二って、頑(かたく)ななようでいて、気持ちよさには従順なんだよな」

 俺は顔を上げた。

 「どういうことだよ」

 聞くと、カップをテーブルに置いて、じっと見てくる。

 「あのとき思いっきり声あげてるの自分で知ってるのかなぁと思って。このアパートじゃ筒抜けだろ。

 俺はいいんだけど。そのせいですっげぇ感じるから」

 顔がかあっと熱くなる。

 「俺の家、ここよりは防音になってると思うよ」

 そんなことを言っておいて、エッチの話題なんか口にしなかったかのような顔でまた続きを食べ始めた。

 椎の言葉に、馬鹿げたことを、とちょっと思うけど、

 でも隣人の出す音が意外と気になるってのは本当のことだ。

 実際暮らしていて、思っていた。

 「……」

 でも引越し&同居かぁ。やっとここでの暮らしに慣れて来たんだけどなぁ。

 それに、付き合い始めてまだそんなに経ってないのに、

 一緒に住むなんて大事なことを決めてしまっていいんだろうか。

 考えていると、ふいに椎が足を伸ばし、向かいに座る俺の股間に足の裏を押し付けてきた。

 なっ。

 指先をグニグニと動かして、俺のモノを揉むようにする。

 俺はふっと笑った。

 「お前、いい加減にしろよ」

 「俺のもやっていいよ。直(じか)だけど」

 椎がニッと笑う。

 誰がやるかっ。

 俺の股間に乗っている、その器用な足の指を掴み上げて、ギュッと捻りつつつねってやると、

 「いでででっ」

 叫んで足を引っ込めた。

 まったく、そんなことばっか考えてからに…

 と思って、奴を見れば、どうしても目の前にある、引き締まった胸筋や腹筋に視線が行く。

 奴は明らかに俺より強くて体力があるようだった。

 自分で言うのもなんだけど、俺だってずっと野球一筋で体も鍛えてきたのだ。

 その辺の男たちには力も体力も決して負けてないと思う。

 なのに、奴には全然かなわない。

 いったいどんな鍛え方したらそんなふうになれるんだよ。

 それとも…エッチ方面に限ってだけ、とか? 何回でも出来そうだよな。

 「有り得る」

 「ん?」

 「いや。なんでも」

 「なんだよ、言えっ。襲うぞ」

 すでに襲われてる気分なんですけど。

 「いや、引き締まったいい体してんな、と思って。

 体力もありそうだし。なんか運動してたのか?」

 俺は奴の情報なんてほとんど持ってないから、こうして本人に聞くしかない。

 椎はえっ、という表情をしたあと、褒められてることに気づいて嬉しそうにしてから、話してくれた。

 「中学高校とバスケやってた。結構練習がきつくてさ。土日も休みなし」

 「へぇ」

 「あと、スポーツジムに通ってる。これは今も」

 俺は驚いた。

 「え。今も?いつ」

 「土曜日。もうバスケやってないから、ジムの時間をもっと増やそうかと思ってるんだけど」

 土曜日…。用事って、ジムに行ってたのか。

 それでは俺がバイトしてる間、椎は俺のところへは来られないわけだ。

 「なるほど。それで、いい体してんだ」

 「そうです。ありがとう」

 おどけて敬語を使う椎に、思わず笑う。

 そうだ。バイトと言えば。

 「俺、平日もバイトすることにした」

 「ええー」

 なんだそのあからさまに嫌そうな顔は。

 「嫌なのかよ」

 「一緒にいる時間が減る」

 う、まあ、それはそうだけど。

 「どこでするんだよ」

 「それがさ、バイト探してるって言ったら、

 店長が『じゃあ、平日も服部君に来てもらおうかな』って」

 「なんだよ。今の喫茶店?」

 俺が頷くと、椎は音に出してこそいないものの、ケッという感じで顔を歪めた。

 「そんなに金が欲しいの?」

 「え」

 俺は、椎の言い方にちょっとビックリした。

 「…そりゃ、貯金はしたいよ。何があるか分からないし」

 奴がそんなふうに言うとは思わなかった。

 空いてる時間バイトをするって言ってるだけだし、みんなやってる事なんだけど。

 それに、いざ遊びに行こうってときに、金がないってのも寂しいだろうが。

 椎のバイト話への反応は悪くて、その後面白くなさそうにしながら、

 残りの飯を無言でもくもくと食べている。

 いくら一緒にいる時間が減るっつっても、

 自分の行動をそんなふうに言われると、なんかカチンとくる。

 「椎は金があるからいいかも知れないけど」

 「そんなこと言ってない」

 反論しようとしたら、間髪入れず返されてムッとした。

 じゃあ何が言いたいんだよ、はっきり言えよ。

 と思いつつ俺も黙って飯を食べる。

 そのうち、食べ終わった椎が聞いてきた。

 「で、いつからうち来るんだ?」

 「え?」

 「一緒に住むんだろ?」

 不機嫌はどこに行ったのか、いつもの雰囲気に戻った椎に当然のように言われて、

 自分の中のモヤモヤの理由がなんだったか一瞬忘れそうになる。

 「その話は、もうちょっと考えさせてくれよ」

 「なんで」

 「ん…なんとなく、まだ早いような気がして」

 「……」

 椎の表情にまた不機嫌の色が浮かび、じとっとした目で見られた。

 なんだってんだよ。…俺、変なこと言ったか…?それとも椎が機嫌悪しの日なのか?

 いや、さっきまでそんなことなかった。

 「とりあえず、ここの契約の書類、もう一回読んでから決めるよ」

 「ふーん。まあいいけど」

 椎は、気を取り直した様子で、俺が残りの飯を食べるのを見ている。

 トーストの最後のひとかけを口に入れて飲み込み、

 残してあった卵の黄身を口に運ぼうとした時、嫌な予感がして俺も奴を見た。

 今、俺の持ったフォークに乗せられた半熟の黄身の表面は、滑らかでプルンとしている。

 薄い膜の下、傾きに合わせて中身が揺らぐ。

 俺は、これを一口でいくのが好きなんだけど、失敗すると中身がこぼれてしまう。

 あんまり見ていて欲しくないのに、なんか椎が凝視してくる。

 「見んな」

 「見てねーよ」

 見てるだろうが。

 そんな言われ方されたら、俺が自意識過剰みたいじゃないか。

 俺は、もう気にしないフリで大きく口を開けて、一気にいった。

 黄身は上手い具合に口の中に納まって、俺は口中に溢れた中身をごくりと飲み込んだ。

 その味を十分味わってから、コーヒーを飲み、食事を終えると、向かい側で椎が椅子から立ち上がった。

 もちろん身につけているものは腰のタオルだけだ。

 スタスタと歩み寄ってきて、後ろから抱きついて来た。耳元で囁く。

 「したい」

 「バッ…今ヤッたら講義に遅れるだろ」

 というより、今から寝たら絶対遅刻だ。

 いきなり何言うんだよっ。

 椎が、首筋に顔を寄せて、後ろから俺のシャツのボタンを外そうとする。

 「エロい食べ方しといてなんだよ」

 「卵食っただけだっ」

 俺が言い放つと、椎は動きを止めた。

 何か考えこんでいるのかじっとしている。やがて、

 「…そうだな。卵食っただけだよな」

 そう言って離れた。

 「はぁ」

 どうやら冷静に考えることが出来たらしい。

 全く、椎ビジョンでどんなふうに見えたか、なんか想像できてしまうのが嫌だ。

 「とにかく、もう服着ろよ。お前も出るんだろ」

 「ああ」

 椎は、頷いて自分の服を手に取ると、身につけ始めた。

 

 

 椎と一緒に大学に行き、終わってから奴と別れてバイト先へと向かった。

 平日は初めてだったが、意外にお客さんが多いことを知る。

 近所のお年寄りや、主婦が出かけた帰りに寄って喋っていくらしい。

 あんまり暇よりは、適度に仕事があるほうが好きだからいいけど。

 「服部君、そんなにテキパキ仕事したって、時給変わらないんだからさ」

 皿を片付けたり足りないものを補給して、

 店の中で汚れていると思ったところを拭いていたら、菊池さんが声をかけて来た。

 いつも通りの明るく元気な調子で、なんというか『女の子がいる』という感じだ。

 華がある、というのだろうか?

 彼女が平日も来ていることは、さっき知った。

 「そりゃ、そうだけど」

 俺が言うと、彼女は俺の耳元に口を寄せるようにして、

 「ゆっくりやればいいんだって」

 小声でそう言って、豪快な感じで笑う。

 一応肯いてはみたけど、俺は自分が客だったら店員にはテキパキしていて欲しいんだよなぁ。

 「そういえば、菊池さんはいつもノンビリしてるね」

 「や、バレてた?あー、もうちょっと動いたら痩せるってんなら動くけどねぇ」

 「そんな、全然太ってないじゃん」

 「うん。ちょっとぽっちゃりしてるだけ…って、何言わせんの」

 そのあと、しばらく彼女と喋っていたら、新しいお客さんが入って来たので仕事に戻る。

 彼女は話し好きで、話し始めると止まらない。

 菊池さんに話しかけられて、仕事がおろそかになり店長に注意された奴も結構いる。

 そうならないように気をつけないと。悪い人じゃないんだけど。

 

 

 バイトが終わって店を出、携帯を見ると、珍しく椎からのメールが入っていなかった。

 着信のない画面を見ながら、淋しいような物足りないような妙な気分に襲われる。

 このところずっと、メールで椎が奴の家に来ることを指定したり、

 そのまま外で待ち合わせて会ったりしてたから、何もないとちょっと迷う。

 どっちに帰ろう。

 って…家があるんだから、やっぱり自分の家だろう。

 俺は、自分の家に向かって歩きだそうとした。すると、

 「玲二っ」

 後ろから声をかけられて、振り向くと眼鏡の椎がいた。

 「あれ、お前なんで」

 「ちょっと用事があって、そっからの帰り。どっかで飯食っていこう」

 言いながら寄って来て、肩に手を回す。

 「よせって公道で」

 「友達同士だってこれくらいするだろ?」

 椎のペースで決められることに、どこかほっとしながら歩き出したら、店から菊池さんが出てきた。

 「あれ、服部君、友達?」

 彼女も同じ時間であがりだったらしい。俺たちの前で足を止める。

 「ああ、うん。大学の。椎って言うんだ。椎、一緒にバイトしてる菊池さん」

 俺が言うと、菊池さんが椎に向かって明るい笑顔を浮かべた。

 「こんばんはー」

 椎が俺の肩から手を外し、ペコッと頭を下げて小さく挨拶を返した。

 続けて菊池さんが椎に向かって喋る。

 「背が高いねー、何センチ?」

 「…178」

 「うわー、私と23センチも違うー」

 椎は少し笑って、顔を上げた。

 「悪い。俺たちちょっと行くとこあるから」

 キッパリ言われて、菊池さんが動きを止める。そして、すぐに笑いながら謝った。

 「あ、そっか。ゴメンゴメン。足止めしちゃって。服部君、またね。お疲れっ」

 「お疲れ」

 小さく、でも激しく手を振る彼女に手を振り返すと、彼女は足早に自転車置き場の方へと歩いていった。

 椎を見る。

 ちょっと愛想がない気もするけど、彼女との話し方としてはあれぐらいでいいのかも。

 「ああいうタイプは付き合ってたらキリがないだろ」

 俺は苦笑した。

 その通り。井戸端会議のリーダー格だよ。

 椎が歩き出して、俺も着いていく。どこに行くのかと思ったら、居酒屋に入った。

 「おい。俺たち未成年なんだけど」

 後ろから椎に小声で話しかける。

 「ちょっとくらい飲めるだろ」

 「いや、だから」

 「固いこと言うな。十九も二十歳も変わりゃしないって」

 席に着いて、椎がビールを注文する。居酒屋でソフトドリンクもなんなので、俺も奴に倣ってビールを頼んだ。

 俺、十八なんだけど。それに結構家が厳しくて、酒はまだほとんど飲んだことがないし、なんとなく罪の意識…

 ほどなくビールが運ばれて来て、椎は一瞬でグイッと空けた。

 俺は、苦いしあんまりおいしく感じられなくて少し口をつけただけで、グラスを置いた。

 そういえば椎のところにはビールがあったよな。

 俺は、初めて奴の家を訪れたときに見た、冷蔵庫の中身を思い出した。

 飲み慣れているのだろうか。

 椎はビールのおかわりを頼んで、運ばれてきた料理を食べながらまた飲み干した。

 「いい飲みっぷりだな」

 「玲二ももっと飲め」

 「俺はいいよ」

 「飲まないとキスするぞ」

 「わあっ」

 やめてくれっ。みんなが見てるっ。もう酔ってんのか?

 と思ったけど、どうやら素のようだった。

 よく考えてみれば、いつもこんなだよな。

 

  

 「なんだよ。酔いつぶしたら面白いとこ見れるかと思ったのに。ちっとも飲まないんだもんな」

 家に帰るなり、椎がつまらなさそうに言った。

 「うまくないもん飲んだってしょうがないだろ。お前は結構飲んでたな」

 俺は、店での椎のペースの早さを思い出す。

 「…本当によく飲んだよな。なんともないのか?」

 椎はいつもと変わらない顔で頷いた。

 「全然。なんともない」

 と言いながらも、ちょっと暑くなっているのか、シャツのボタンをいくつか外してソファに座り、

 ふーっと大きく息を吐いた。

 俺は少なからず酒臭さを感じて、窓を開けてから椎の横に座った。

 椎が話しかけてくる。

 「なぁ。俺と付き合う前、アレのとき何を想像してヤッてた?妄想の女はどんなタイプ?」

 アレって、自慰のことだろうか…?

 「なんでそんな事答えなきゃいけないんだよ」

 「いいから。例えば芸能人だったら?」

 俺は、どうだったか思い出そうとしてみたが、これといった顔は思い浮かばなかった。

 「なんとなくエッチなこと考えてただけで、決まったタイプなんてないよ」

 椎がニヤッと笑う。

 「俺は玲二だけど。玲二のこと考えたら抜けて抜けて」

 「ヤメロ」

 げしっ。俺は椎の顔面を手のひらで押さえて押した。

 ったく、何を言い出すんだか。

 と思ったら、手のひらの下の椎の表情が、真顔になる。

 何かを思い出しているのか、上目遣いをしてから俺を見る。

 「あの女、玲二に気があるよ」

 あの女? 

 「ほら、バイトで一緒の」

 菊池さんのことだろうか。

 俺は、手を離した。

 さっきのやりとりだけで、そんなふうに思うはずがない。という事は…

 ひょっとして見てたのか?いつ?

 土曜日はジムがあるって言ってたから…昨日だろうか。それとも今日?

 気づかなかったけど。

 「まさか」

 「絶対だよ。どうすんの。告られとかしたら」

 俺は手を振って、

 「しないしない」

 笑って言ったが、椎は笑わずに続けた。

 「告られたらどうするのかって聞いてんだけど」

 椎の、嫉妬が混ざったような嫌な言い方に、俺は少し驚いて、それから説明した。

 「だから、されないし、そんなんじゃないって。

 彼女はいつもあんな感じで、誰にでもあのテンションなんだよ。

 俺に気があるなんてそんなわけないだろう?椎と違って俺はモテないんだから」

 ちょっとだけ不快な気分になる。

 あー、めんどくさ。なんでただ明るく接したってだけで、こんな言い合いしなきゃならないんだよ。

 だけど、今の椎の口調…どこかで聞いたことがある…どこだっけ?

 そこまで考えたところで、突然今朝の会話を思い出した。

 「そんなに金が欲しいの?」

 そうだ。あれと同じ口調と表情だ。

 思い当たるのと同時に、俺はハッとした。

 平日もバイトするって言ったら、どうして椎が不機嫌になったのか、なんかいま分かった気がした。

 ものすごく納得して、椎と自分が、何て言ったかそのときの会話を思い出していたら、

 奴がソファに置かれた俺の手に自分の手を重ねた。

 え。

 顔を上げて奴を見ると、切なげな表情をしている。

 「分かってない。玲二は分かってないよ」

 「椎…?」

 「玲二、俺に抱かれてどんどんいい感じになってるのに。

 俺は、誰かに取られるんじゃないかって、不安でしょうがないのに」

 俺は椎の言ってることがよく分からずに、眉間にしわを寄せつつ、

 もう一度頭の中で奴の台詞を繰り返した。

 それからポカンとして椎を見つめる。奴が本気以外の何ものでもない顔で俺を見つめ返す。

 「あのなぁ」

 俺はため息をついて苦笑した。見当違いもいいところだ。

 「それお前ビジョンでしかそう見えてないと思うんだけど」

 杞憂に違いないのに、奴は視線を逸らして、悔しそうな表情をする。

 「どう考えても、俺の方が想いが上なんだよな」

 「え…」

 「なんか俺ばっかり玲二のこと好きで、今も右肩上がりでどんどん好きになってるのに、

 玲二はそうじゃなくて、俺、一人で空回りしてるみたいだ」

 「ちょっと待てって」

 俺は、慌てて椎の言葉を遮った。

 椎は俺の気持ちも確かめずに、自分の中だけで、どんどん負の感情を膨らましている。

 「付き合う前の俺はともかく、今の俺は、もう椎がどんな奴か少しは知ってる。

 知りながら付き合ってる。嫌だったら、こうして一緒にいない」

 「……」

 「俺は誰かと付き合うのって初めてで、それに元々器用じゃないし、なかなか追いつけずにいるだけで…

 始めのころに比べたら、ずっと椎のこと…」

 「俺のこと…?」

 そこまで言って、ハタと恥ずかしさが湧いてくる。

 「えっ…と、あの。ほら知ってるだろ?俺がそういうこと言うの苦手だって」

 椎は、キョトンとした顔をして首を横に振った。

 「知らない」

 こいつ…わざとやってるな。

 俺はムッとした。

 「言わなきゃ分かんないのか?」

 椎もムッとする。

 「言わなきゃ分かんないかもな」

 「悟れよ」

 「それじゃあ何も聞けないうちにあの世行きだ」

 俺は二の句がつげなかった。

 あの世行きってのは大げさにしても。

 確かに…

 言わずに分かってもらおうとするところが俺にはあって、

 ちゃんと要求されなければ言わずに過ぎていくばかりかも知れない。

 「体だけ欲しいんじゃない。玲二の全部欲しいのに」

 俺はいたたまれず叫んだ。

 「分かったよ。言えばいいんだろっ」

 うう。

 「……好きだ」

 それから小さな声でぼそっと言った。

 が、椎は喜ぶわけでもなく首を傾げて、何か違うという感じで目を閉じる。

 なんだよ。言ったって駄目なんじゃないか。それとも……態度で示せ、ってか?

 抱けばいいのか?でも今それをしてもなんだか空々しいだけのような気がする。

 誤魔化しているような…

 じゃあ、どうすれば…?

 再び目を開けた椎が俺を見つめる。俺も奴をじっと見つめた。

 いつもエッチなことばかり考えてて、自分の思う通りにことを進めて、自信ありげで、

 世話好きで、馬鹿力で焼きもち焼きで、歯医者の息子で、俺のこと好きで…

 手を伸ばして、奴の眼鏡に触れる。

 フレームをつまんで、それを顔から外し、テーブルの上に置く。

 そして、椎の前髪をかき上げながら分けて、真正面から見据えた。

 「俺は恋愛経験少ないから、こんなときどうすればいいのか分からないけど…」

 俺はもう付き合う前に比べたら本当に、ずっと奴を好きになってると思う。

 奴との想いに比べたらどっちが、なんてことは測ることなど出来ないし、言われても困るけど、

 『俺のもの』と言われればまんざらでもないと感じる自分がいる。

 「とにかく、俺はお前以外の誰とも付き合わない。告られたら断る」

 出来るだけ誠実に、想いを込めて、キッパリと断言した。

 「約束する。…これでいいか?」

 言ってからしばらく沈黙が続いた。お互いを身じろぎもせず見つめ合う。

 椎の表情がふいに和らぐ。

 「今は、それでいい」

 奴が頷き、俺は椎を抱き締めた。

 

  

 翌日。何か行事でもある日だったのか、学生が早い時間から喫茶店に大人数で押し寄せ、

 ものすごく忙しかった。

 さすがの菊池さんも、のんびりお喋りしている暇はなく、彼らが帰って店が静かになった頃、

 ようやく話しかけて来た。

 もうすぐ仕事終わりだ。なんか今日は早く感じるな。

 「うるさかったねー」

 「ほんと」

 菊池さんに言われるなんて、彼らも心外かも知れないけど。

 「そういえば昨日の彼。眼鏡外して髪型変えたらカッコ良さそうなのに」

 椎のことらしい。さすが女の子、というべきか。鋭い。

 「分かっててやってるみたいだよ。理由は知らないけど」

 「ふーん、そうなんだ。面白いね」

 俺は笑った。

 面白いというか、変わってはいるかも知れない。

 ふと、書棚の雑誌が束ねて置かれているのが目に入り、そこに行き雑誌と新聞を見やすく整える。

 すると、後ろから、

 「服部君、あのね」

 菊池さんが改まった口調で言い、俺は彼女を振り返った。

 「ん?」

 「服部君のこと気になるって言ってる友達がいるんだけど、紹介してもいい?」

 「え」

 俺は、自分にそんな話題が持ち上がったこと自体と、

 昨日の今日で本当にそんな色恋系の会話を交わすことになった事実の両方にびっくりした。

 「ここに遊びに来たとき、服部君のこと見て気に入ったらしくって」

 慣れないことにドギマギする。

 これは現実なのだろうか。こんなことが自分に起こるなんて夢にも思わなかった。

 俺はどう返事をしようか考え、菊池さんは待っているのか、俺の顔をじっと見て黙っていた。

 その子と付き合えないことだけは決まっている。

 昨日、椎と約束したばかりじゃないか。

 そうだ。返事は決まっている。それを彼女に伝えるだけだ。

 俺は顔を上げた。

 「あの…俺、好きな人がいるから」

 今度は彼女が驚いた顔をした。その表情に動揺の色が浮かぶ。

 「あ…そう。付き合ってるんだ?」

 「うん、まあ」

 「前聞いたとき、付き合ってる人いないって言ってたよね」

 決して責める口調ではなく、事実を確認するように言う。

 「うん、その…ちょっと前から付き合い始めて」

 それを聞くと、彼女は何か考えていたが、やがて残念そうに笑った。

 「そっか。最近なんか変わったもんね。彼女の影響かな」

 「ごめん。その子には悪いけど…」

 俺が謝ると、彼女は思いっきりブンブンと手を顔の前で振った。

 「あ、全然っ。だって服部君が悪いわけじゃないから。気にしないで」

 菊池さんは、壁の時計を見ると、

 「聞かなかったことにして〜」

 と歌いながら、スタッフルームに入って行った。

 俺はちょっとだけ呆気に取られ、それから笑いながら思う。

 悪い人じゃないよな。というか、友達の為に動くことのできるいい人なんだ。

 椎は、菊池さんが俺のことを、とか言ってたけど…

 な、違っただろ?

 

 ふと考える。

 もし、椎と付き合う前だったら、俺は彼女の紹介を受けて、

 俺を気に入ったというその女の子と会っていたのだろうか。

 「ありがとうございました」

 だけど、今そんなことを考えたってしょうがない。

 俺は今、奴と確かに付き合っているのだから。

 俺はレジを済ませたお客さんに声をかけ、空いた器を下げた。

 これで、今日の仕事は終わりだ。

 

 

 

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