第二話 出会い1
(鏡太郎視点です)
むかーし。むかし。
と言っても十数年ほど前のこと。
あるところに、幼い男の子がいました。
幼稚園児だったその元気な男の子は、ある日、お母さんに向かって話しかけました。
『お母さん』
お母さんは、男の子を振り返り、ニッコリ笑って、
「なーに?」
と返事をしました。
『僕ね。声を出さなくてもお話が出来るよ』
男の子が得意げにそう言って、お母さんは動きを止めると、首を傾げました。
「ん、どういうこと?」
お母さんは、男の子の前にかがんで、真正面から男の子の顔を見つめました。
『だからね。僕、頭の中でお話が出来るんだ。すごいでしょ』
お母さんは男の子が、自分で言っている通り、口を動かすことなく、
声を発することもなく、話していることに気がついて、ハッとしました。
『ね、お母さんもお返事してよ』
男の子は笑いながら、無邪気に続けて話しかけましたが、
お母さんの顔は次第に真っ青になっていきました。
言葉もなく、男の子を見つめていた彼女は、しばらくの沈黙の後、こう言いました。
「鏡太郎。もう、こんなふうに誰かに話しかけちゃ駄目。ちゃんと声に出して話すのよ」
あんまり真剣な顔で言うものだから、男の子はちょっと怖くなり、
じっとお母さんの顔を見つめた後、小さな声で「うん」と頷きました。
お母さんが、何か特異なものを見る目をしていたことを、男の子は今も覚えています。
もう、ずっと前の、出来事。
暑かった夏が往(い)って、
ようやく秋の気配が感じられるようになって来た十月中旬。
俺はいつも通り、歩いて学校へと向かっていた。
家から近いので、徒歩通学をしている。
向かっているのは私立の男子校で、学校が近づくにつれ、野郎共がわらわらと増えてくる。
テンションの低い奴、反対に元気が有り余ってる奴、
低い声やらでかい声やらたまに高い声も混じったり、挨拶や会話を交わす声が聞こえてくる。
俺は、親しい奴の顔も見えなかったので、黙って歩いていた。
学校に着き、門を通って中に入ろうとした時、少し離れた場所に黒い車が止まって、
ハンドブレーキを引く音が聞こえ、俺は何気にそっちに目をやった。
ドアが開いて、中から生徒が降りてくる。
車で登校するって、どこのどいつだよ。具合でも悪いのか?
と思って、足を止めてぼんやり見ていたら、出てきた生徒が顔を上げ、その顔を見た途端、
俺はまるで雷に打たれたような感覚を味わった。
初めて見る顔だったが、俺は彼の容姿と雰囲気に、ものすごく惹きつけられた。
体の小さな生徒で、男なのに顔も体もすごく華奢な造りをしている。
彼のどこに、そんなに惹きつけられるのか分からなかった。
分からなかったけれど、ここに着くまで眠気が払えずボーッとしていた俺の頭は、
一瞬で覚醒した。
完全に目を奪われ、彼をじっと見ていたら、視線が合った。
「あ…おはようございます」
動く事もできないまま凝視する俺に、彼が、なぜか頬を赤らめて挨拶をして、
それを見た途端、俺の中で何かが外れた音がした。
あるいは、何かが開いた、音。
「あの…」
固まって何も言わない俺に、彼が訝しげな顔をし、ようやく何かの呪縛から解かれた俺も、
なぜか自分の頬が熱くなるのを感じながら挨拶を返した。
「お、おはよう」
柄にもなく自分が照れていることに奇妙な違和感を覚えながら、彼を見つめる。
初対面なのに、不思議と親しみを感じた。
彼の体が俺と同じように小さいからだろうか…?
俺は素早く、彼と自分の身長の差を目測で読み取った。
ほんの数センチだったが、彼は俺より背が低かった。
いつもなら上へ向くはずの俺の目線は、ちょっとだけだが下へ向いている。
この学校に俺より小さい奴はいない。今までは、いなかった。
だけど、惹かれた理由はそれだけじゃない。
ほぼ同じくらいの高さから俺を見つめる彼から目を離せずにいると、
車の中から「それじゃあ頑張って」という声がして、
彼がその声の主に向かって「はい」と答え、車はその場から走り去った。
彼は、車を見送ると、もう一度こちらを振り返り、
俺がまだ同じ場所に立っているのを見て、話しかけてきた。
「僕、勅使河原詩生(てしがわら しお)って言います。転校して来ました」
にっこり笑うその笑顔は、小動物を連想させる。特に口元が。
男なのに、なんかかわいくて、俺はビックリした。
「あ…。あ、そう」
ドギマギしながら、自分も名前を名乗ろうかと思ったが、彼が何年生かも分からなかったし、
これから親しくする可能性があるかどうかも分からずに名乗ることに、少しの迷いを感じて、
なんだか名乗れずにいるうちに、
「あの、職員室はどこですか?」
と聞かれ、「あっち」と指を指すと、彼は笑いながら頭を下げて、
「あっちですね。ありがとうございました」
職員室に向かって歩き出してしまった。そのまま校舎の中へと消える。
ああ…。
俺は、その後ろ姿を見送ったあと、ガックリと首を垂れた。
「もっとましな対応は出来なかったのか?『あっち』って何だよ」
と自分にツッコミを入れて落ち込んだ。
何故か、自分をかっこよく見せられなかったことが、とてつもない失敗に思えた。
好きな女の子にいいところを見せられなかった男の気分って、ちょうど、こんな感じだろうか。
と言っても、今のは女の子じゃなくて男だけど…
「おはよう。鏡太郎。どうした?珍しく元気ないじゃん」
へこんでいると、後ろから声をかけられ、振り返る。
友達の真樹(まさき)だ。学年で一番デカい。
一緒に歩いていると「でこぼこコンビ」に見えるらしく、
実際にそう呼ばれていることも知っている。
ま、面と向かって言う奴がいたら、ただじゃおかないけど。
真樹は、その存在自体が、俺のコンプレックスを超刺激してくる奴だが、
中学の頃からの一番仲のいい友達だ。
中学の頃はまだ、こんなに背に差はなかった。
一緒に過ごした三年の間に、奴はどんどん伸び、俺は伸びなかった。
で、こうなってる。
「おはよう。今、俺より小さい奴見た」
「えっ、ほんとに?」
俺の言葉を聞いて、真樹が半信半疑の声をあげる。
「あー。その感じ、信じてないだろ。ほんとだって。
転校して来たって、今職員室に行った」
「信じてるよ。へぇ。良かったな」
奴は、のほほんとした笑みを浮かべて、おめでとうと言うように俺を見た。
「で、そんないい事があったのに、なんで元気ないんだ?」
そう聞かれて、考える。
確かに、なんでだろう。
もっといい印象を彼に与えたかった…
と、まだ思っている自分がいた。
なんでだろう?
だって…かわいかったんだ。
「一年生?」
「いや…それが、聞かなかった。でもあんなに小さいんだし、多分一年生だろ」
「ふーん」
真樹の反応は悪い。
きっと大して興味もないのだろう。
というか、いつだってこいつの反応は薄めなのだ。
俺はいつも物足りなく感じているのだけど、性格だから治らないし、しょうがない。
まあ、男の転校生が来たからって、男が騒ぐってのも変な話かも知れないが。
でも、すごい気になる。
なんとかっつったよな。名前、聞いたけど、全然覚えられなかった。
その事実に気づいて、さらにテンションが下がる。
今日の俺って、ダメダメじゃん…
名前覚えられないのはいつもの事だけど、彼のはちゃんと覚えなきゃ駄目だろ、
となぜか思った。
「珍しく、落ち込んでるなー。いつもの自信満々ぶりがどっか行ってる。
何があったんだ?」
真樹が、心配していると言うよりは、面白がっている感じで俺を分析して、聞いてくる。
俺は苦笑いを浮かべた。
「別に大したことじゃねぇよ」
真樹に話すことでもないと思って、そう答えた。
俺のことを、さっきの彼にちゃんと知ってもらえる機会が、
話せる機会が、また来るといいんだけど。
同じ学校なんだし。
真樹と一緒に教室に向かって歩きながら、
ちょっとだけ気を取り直して、そんなことを考える。
その後、真樹とはクラスが違うので、教室の前で「じゃあな」と別れ、
俺は自分の机まで行って鞄を置いた。
彼と話す機会は、思っていたよりずっと早く来た。
ホームルームが始まったら、先生が入って来て、なんと先生は横に彼を連れていたのだ。
それを見て、俺は思わず「あっ!」と大声をあげてしまった。
「ん?どうした?早瀬」
先生の視線と、クラスのみんなの視線が俺に注がれる。
「え…いや、なんでも」
俺は、そう呟きながら、彼に目をやった。
向こうも俺に気づいたらしく、驚いたように少し目を大きくした後、
嬉しそうにニッコリと笑顔を浮かべた。
なんかかあっと顔が火照る。
ど、どうしよう。む…むっちゃかわいいんだけど。
心臓がドキドキしてくる。
もしかして、同じクラスなのかっ!?そうなのかっ!?
ものすごい期待に胸を膨らませていると、先生が、彼を手短に紹介した。
彼が、勅使河原詩生(てしがわら しお)という名前であること、
これからこのクラス、一年A組で一緒に過ごすということが告げられる。
この幸運に、俺は興奮を覚えずにはいられなかった。
A組で良かった!ようこそ、A組へ!
俺は神様なんて信じちゃいないけど、いるのなら、
彼が他の組でなく、この組にやって来た、そのことを感謝したい気持ちになった。
その後、本人からも簡単な自己紹介があって、その背の小ささと、
声と顔のかわいらしさに「かわいー」とふざけて囃す声が、男どもからちらほらあがった。
それを聞いたら、やっぱりかわいいよな。という想いと、
変な目で見るんじゃねぇよという交錯した想いが湧いてくる。
それにしても、同じクラスだなんて、本当に良かった。
彼に近づくチャンスが、これからいくらでもあるってことだ。
それが終わると、先生は教室を見回して、一番前の席の俺に目を止め、
「背は…早瀬と同じくらいだな」
とポツリと呟いた。
ちょっとムッと来る。
だからなんなんだ。
と思っていたら、先生は、一番後ろに運び入れられていた転入生用の机のところまで行って、
それを持ち上げ、一番前まで持ってきた。
体育会系で、いつもジャージを着ているような先生だから、軽々こなす。
それから、俺の隣の席の前に立ち、後ろに向かって、
「おーい、この列一つずつ下がって」
と言い渡し、みんなが一つ分ずつ後ろへずれて一番前が空くと、
先生はそこへ、持ってきた机をはめ込んだ。
そうして、転入生の彼の席は、俺の隣に決まった。
一連の出来事に唖然とする。唖然としたまま、俺は先生を見上げた。
先生、グッジョブ。この恩は一生忘れない。
なんか幸運の大盤振る舞いという気がするけど、
こんなにいいことが続いて、いいんだろうか。
もちろん、先生が俺の気持ちを知っていたわけもなく、
こうなったのは偶然だったのだろうけど、
労しなくてもどんどん彼が近くなってきて、なんだか夢のようだった。
「勅使河原の席は、ここな。小さいから前の方がいいだろ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
彼は、俺の隣の席にやってくると、腰掛けて、自分の鞄の中身を机の中に移した。
その所作と彼自身をじっと見つめていると、
俺の視線に気づいて彼が顔を上げ、こちらを見る。
「なんだか縁があるね。よろしくお願いします」
彼が軽く頭を下げた。
彼の口から、俺と縁があるという言葉が出た、
それがものすごく嬉しくて、舞い上がる。
「こっちこそ、よろしく」
右手を出すと、なんの躊躇もなく握り返してきて、
俺は、その小さくて柔らかな手を、ここぞとばかりギュッと握った。
放したくない。と思ったが、皆の手前だし、
もう授業も始まるので仕方なく手を緩めると、
俺の気持ちに気づくはずもない彼の方から手を引いていく。
ほどなく授業が始まったが、授業の内容なんて、これっぽっちも頭に入らなかった。
俺は、横から彼の顔ばかり見ていて、
「早瀬、勅使河原の顔になんかついてるか?」
気づいた先生に、一度ポカリと頭を軽く叩かれたが、そんなことどうでもよかった。
彼が驚いたようにこっちを見てから、恥ずかしそうに目を逸らす。
「ついてます。かわいい目と鼻と口が」
と思わず言いそうになったが抑えて、仕方なく先生の話をちゃんと聞くフリをする。
いつもの自分でなくなっているのは、分かっていた。
完全に頭がのぼせて、俺が俺でなくなっている。
でも、その状態が心地良くて、そうなるのを自分で止めるのは無理だったし、
誰かに止められたくもなかった。
「なぁ、名前、なんだったっけ」
やがて休み時間になり、俺は彼に聞いた。
「え…詩生」
彼は、俺の質問に、ちょっと戸惑うようにして、そう返した。
「じゃなくて、苗字」
もう何度か聞いたけど、聞くたびに頭から抜けていく。
「ああ。勅使河原」
「そうそう。そのてし、てし、てしがわら?って呼びにくいよな」
なんか、おにがわら、とかやねがわらとか、そんなイメージが湧く。
こんなちっさくて、かわいいのに。
「長いし、かわいくないよな。それ」
俺は、ただでさえ人の名前(苗字)をなかなか正確に覚えられない。
だけど、彼の名前だけは絶対間違えて呼びたくなかった。
彼は自分の苗字に文句をつけられているというのに、
ムッとすることもなく、屈託のない笑みを浮かべた。
「うん。だから前の学校では、テッシーとかって呼ばれたりしてた。
でも…早瀬君の好きなように呼んでいいよ」
テッシーなんて柄じゃないだろ。
だいたい他の奴が呼んでた呼び方で呼びたくないし。
「嫌じゃなかったらさ、名前のほうで呼んでいい?」
「え…あ、うん。いいけど…『詩生』って?」
「うん。これからはそう呼ぶ」
俺が決めて断言すると、詩生はじっと俺を見つめて、少し頬を染め、
「いきなり凄く親しい友達になったみたい」
と言った。
それから「なんか嬉しい」と付け足す。
その表情に、俺は見とれた。
名前を呼ばれて、「凄く親しい友達になったみたいで嬉しい」
と素直に言える詩生が、俺にはそのとき、まるで太陽みたいに思えた。
俺の、太陽。
「俺、名前で呼ぶからさ。詩生も俺のこと名前で呼んでよ」
「え…でも…」
鏡太郎。って、ちょっと長いけど、呼んでくれたら、俺もきっとすごく嬉しい。
そのまま「うん」と頷いてくれるのを待っていると、
「僕、呼び捨てって抵抗あって…それに早瀬君の名前、長いから…」
だんだん尻すぼみになる感じでそう口にして俯く詩生に、俺は眉を寄せた。
それって、呼んでくれないってことだろうか?
高揚していた気分がちょっと萎みかけた。そのとき、詩生が顔を上げて、
「じゃあ、鏡(きょう)くん。…鏡くんって呼んでもいい?」
明るい表情で、そう提案した。
今の沈黙は、自分なりの呼び方を考えてくれていた時間だったらしく、
それを知って俺は、詩生をじっと見つめた。
「うん…。なんかちょっと照れくさいけど…いいよ」
とか言いながら、頭の中でそれを繰り返すうちに、
俺は詩生が提案した、他の誰も呼ばないその呼び名がすごく気に入った。
そう言えば『鏡太郎』だと、真樹も呼ぶし、
他にもクラスに何人かそう呼ぶ奴がいる。
詩生だけが親しみを込めて呼ぶ、そっちの方が断然いいと思った。
俺は、彼が、その特別な呼び名で呼ぶと言ってくれたことに、
また舞い上がった。
どこまで昇ってしまうのか…
自分でも予測がつかなかった。
「なんか、分からないこととかあったら、俺に聞いて。
それから、遊びとかに誘ってもいい?」
「もちろん。僕、こっちで友達を作りたかったんだ」
その言葉に、ちょっとだけひっかかりを感じたけど、
その場は、うんうんと頷いておいた。
続けて聞く。
「塾とか通ってる?習い事してるとか…」
「ううん。今は…引っ越してきたばかりだから、何も」
「そっか」
それを聞いて、よっしゃ、と思う。
それなら、平日も誘いやすい。
俺が、もう一つ質問しようとした、そのとき、始業のべルが鳴った。
迷ったが、かまわず聞いてみる。
「あのさ」
それは、ある意味一番聞きたくない質問だったが、
それでいて一番重要で、一番興味がある質問でもあった。
「もしかして、付き合ってる人とか、いる?」
いるって言われたら、玉砕。終わりだ。
俺の言葉に、詩生が笑う。
「もう、鏡くん。そんなのいないよっ」
恥ずかしそうにしながら弾けるようにそう言って、
詩生が俺の肩をトンと押すのと、先生が教室に入って来たのは同時だった。
すぐに、授業が始まる。
体中に幸せが満ちていく。
良かった、としみじみ思う。
「早瀬、転入生の顔がそんなに珍しいのか?」
次の授業でも、別の先生に、そんな注意を受けてしまった。
でも、自然に目がいってしまうのだ。
詩生を見ると、ドキドキする。
勝手に体がかあっと熱くなる。
今まで恋をしたことなんかなかったし、恋をする気持ちも全然分からなかった。
真樹が特定の女の子を意識しているのを見ても、ふーん、と何の興味も湧かなかった。
それが、何故か、突然、来てしまったのだ。
それは、なんの前触れもなく。
高1の秋。俺は、詩生に出会って、一目で恋に落ちた。