第三話 大きな友達と小さな恋人2
僕は、中学の間にどんどん背が伸びて、学年で一番か二番を争う大きな生徒になった。
鏡太郎は、出会った頃、真ん中よりちょっと前くらいに位置していたが、
中学の間ほとんど背が伸びず、高校に入学する頃には、一番背の低い生徒になっていた。
二人そろって同じ高校に入り、その年の秋、
鏡太郎は自分より小さい詩生と出会って一目惚れをした(らしい)。
その後、どういう経過を辿ったのかは知らないが、二人は恋人になり、
詩生とは僕も友達になって、高校を卒業した僕たちは、三人共めでたく大学に進学した。
僕は、鏡太郎と一緒に暮らし始め、その年の暮れ。
それは起こった。
ある冷たい雨の夜。
鏡太郎が交通事故に遭ったのだ。
「真樹君、鏡くん治るよね。きっと、よくなるよね」
事故後、危ないと言われた夜を乗り越えて、なんとか一命を取り留めた鏡太郎を見ながら、
涙を浮かべて聞いてきた詩生に、あのとき、僕は何も言えなかった。
ああ。と頷いてやりたいのは山々だったが、医師の説明を聞いた限りでは、
あまり期待は出来なかった。
無責任なことは言えない。
黙っている僕の様子に、重いものを感じ取った詩生の瞳に浮かんだ涙が、
やがてこぼれ落ち、ハラハラと溢れ始めて、
「詩生」
僕は戸惑い、ちょっとだけ自己嫌悪に陥った。
嘘でも、その場だけでも、きっとよくなると頷いてやれば良かったのかも知れない。
そういうことが出来ない不器用さを、これまでも人に指摘されたことがあったが、
それが僕の性分というものだった。
鏡太郎も、ひょっとして聞いていたとしたら、やきもきしていたかも知れない。
詩生は、一旦泣いてしまったら、止まらなくなったようで、
嗚咽を必死に堪えるようにしながら、顔を覆って泣き出した。
暗い雰囲気に包まれた室内で、僕も項垂れて、悲しい気持ちで鏡太郎を見つめた。
そうして詩生の隣で、黙って彼が泣き止むのを待っていたのだが、
詩生はいつまで経っても泣き止まず、小さい彼が鏡太郎の為に泣く姿を見ていたら、
自然とその背中に手が伸びていた。
「もう泣くなよ」
詩生の頭を柔らかく抱えるようにする。
「泣いても、鏡太郎はよくならない」
僕の腕に、彼の肩の震えが伝わってきた。
「今の鏡太郎が一番嫌なのは、詩生が泣くことだと思う。
自分が詩生を泣かせてると思ったら、それで何も出来ないと思ったら、
きっと歯がゆくてたまらない気持ちでいるんじゃないかな」
僕は、いいことや上手いことを言うのが苦手だけど、鏡太郎の身になって、
必死に考えて言ってみた。
自分が鏡太郎だったら、きっと、
もうこれ以上、泣かないで欲しいと思うだろう。
詩生の肩の震えが止まる。
僕に頭を預けるようにして、しばらくじっとしていた詩生は、
やがてゆっくり顔を上げ、鏡太郎を見つめた。
僕の言動が、詩生をちゃんと励まし慰めたかどうかは分からない。
でも、彼は真っ赤に腫れた目の涙を手の甲で拭うと、
「そうだよね。泣いたって、鏡くん、よくならないよね」
小さな声で言って、
「鏡くんは、きっとよくなる」
続けて自分に言い聞かせるように、そう口にした。
そして、その日の帰り際には、
「僕、鏡くんがよくなるまで、毎日通う」
少し前まで号泣していたとは思えないしっかりとした顔つきで告げ、
その口調が、とても強いものだったので僕はちょっと驚いた。
鏡太郎と一緒にいると大人しく見えるからか、その小ささからか、
彼には、なんとなくか弱いイメージを抱いていたけれど、
その時それは僕の中で覆された。
「鏡くんが目を覚ました時、僕は鏡くんのそばにいる」
詩生の固い決意のこもった言葉に、僕は彼を見つめ、ただ大きく頷いた。
あれから詩生は、本当に毎日通い続けている。
彼は、大学やバイトの時間の合間を縫って、
毎日ここに寄って鏡太郎の様子を見ていく。
もう一年近く、ずっとだ。
言葉で言ってしまうと、なんてことないように聞こえるかも知れないが、
それはとても大変なことだ。
いつ目覚めるかも、目覚めるかどうかさえも分からない恋人が、
よくなることを信じて、通い続けているのだ。
長い付き合いの友達の僕でさえ、実は毎日はきつくて、
三日に一度くらいしか来れていなかったりする。
鏡太郎は、詩生が転校して来て、すぐに彼を好きになったようだった。
鏡太郎に迫られて、押し捲られて、
しょうがなくOKしたようなところもあるんじゃないかと思っていた僕は、
それなのにこんなことになってしまって詩生はかわいそうだと、
本当を言うと事故が起こった当初、心の中で思っていた。
だから、例えば、詩生が僕と同じように数日に一度しか通わなくなったとしても、
最悪気持ちが離れてしまったとしても、しょうがないことで、
僕を含め誰も、彼を責められない。
と、そんなふうに考えたこともあったのだけど…
でも、違った。そうじゃなかった。
病室に二人きりでいるとき。
詩生は大抵鏡太郎の手を握っていて、僕が入って行くと、慌ててその手を離す。
「真樹君」
もう慣れたから別にそのままだっていいのに、恥ずかしいのか、必ずそうする。
「こんちは。どう?」
僕は、大抵行くとすぐに鏡太郎の容態を聞き、詩生は、
「あんまり変わらないんだけど…」
と前置きした後、その日によって、
「でも見て。今日は、顔色がいいんだよ」
と嬉しそうに言ったり、
「今日は、あんまり調子がよくないみたい」
と悲しそうにする。
それだけでも、鏡太郎の一方通行なんかじゃなく、
詩生も、鏡太郎をすごく好きだってことは伝わってきたのだけど、
半年ほど経ったとき、さらに僕は思い知らされた。
半年が過ぎても、変わらず毎日通い続ける詩生に心から感心して、
「疲れてないか?無理すんなよ」
と僕が労いの言葉をかけたら、彼は首を横に振って、
「僕が、したくてしてることだから」
と言って、笑って鏡太郎を見つめたのだ。
その言葉から彼の芯の強さを、
その横顔から鏡太郎への想いが僕が思うよりずっと深いのを、感じた。
二人は、僕が思うよりずっと、強く想いあっている。
こんなにも想いあっている二人が、死別するなんてこと、ある筈がない。
きっと、いつかよくなる。いつかは分からないけれど…
詩生が、鏡太郎のそばにずっといると強く心に決めているらしいのと同じように、
僕も二人を見守って、何か出来ることがあれば、必ず力になる。
僕は、改めてそう思った。
外来診療棟を抜け、長い廊下を歩いて病室に着いた僕は、ドアをノックした。
返事はない。
ノブに手をかけてドアを開け、中を見ると、
ベッドに横たわる鏡太郎の姿が目に入った。
どうやら、お母さんも詩生も来ていないようだ。
僕は中に入り、ドアを閉めた。
ベッドの横に置かれた機械の発する、鏡太郎が生きていることを示す電子音が、
一定のリズムを刻みながら、室内に響いている。
鏡太郎を見下ろし、その寝顔を見つめた。
事故以来一度も目を覚まさないのだから、
正確には、寝顔とは言わないのかも知れないが、
とにかくその顔を見つめながら、僕はベッド脇の椅子に座る。
きっと、いつかよくなる。
そう信じ続けて、気がつけば事故の日から十一ヶ月が過ぎていた。
そして。
昨日、鏡太郎が生霊になって僕の前に現れた。
突然、僕の部屋に姿を現し、僕と僕の彼女、
之江との間を取り持ってから消えていった。
自分の体に戻ると言っていたから、今、ここにいるのだろう。
僕は彼の顔を見ながら、彼に向かって心で話しかけてみた。
『鏡太郎。話せるか?』
しん、としている。
しばらく待ってみたが、返事がない。
動けず意識もない人間に、話しかけているのだから、
本当ならそれが当たり前なのだが、昨日の出来事が幻じゃないなら、
答えてくれる筈だ。
「……」
ひょっとして、生霊になってるときしか能力が使えないのだろうか。
それとも、既に抜け出て外出中?
自分が、だんだん変に思えてきて、そんな感覚を振り払うように、
いくつかのあり得る可能性に考えを巡らしてから、もう一度声をかけてみた。
『鏡太郎』
すると、
『…真樹?』
遅ればせながら、声が聞こえた。
ホッとする。
『なんだ。いるのか。
呼んだのに、返事しないから、生霊になって出歩いてるのかと思った』
僕が言うと、ムッとした感じで、『寝てたんだよ』と返した。
確かに、まだちょっと頭が起き切っていないような話し方だ。
『体が動かせないから寝るか、考え事するぐらいしかないんだよ』
『そっか。ゴメン』
僕は謝って、彼の腕に繋がっている点滴の管の先の、液体の入った袋を見上げた。
きっと、今の鏡太郎には一日が凄く長く感じられるのだろう。
でも、動けなくても、彼の体はエネルギーを摂取して、ちゃんと生きている。
『昨日はあれから、また出歩いたのか?』
『いや。外に出るのも、意外に体力使うみたいで、
割と疲れたから、あれからは出歩いてない』
鏡太郎が、目を閉じて静かに横たわったままの姿で、
以前と変わらず強気な感じの口調で、ハッキリと喋る。
『…そっか』
と言うことは、まだ生霊としては詩生には会っていないのか。
僕は相槌を打ってから、昨日のことを思い出した。
外に出られると分かって、そうとう嬉しかったに違いない。
調子に乗って歩きすぎたのかも知れないな。
僕と之江のために…
僕は、
『昨日は、ありがとな』
感謝を込めて礼を言った。
すると、鏡太郎は、そういう時の常で、
『別に、いいよ』
つっけんどんな感じで返してくる。
『昨日も言ったけど、俺は、
詩生とお前がそういうことになる可能性をゼロにしたかっただけだから』
『だから、そういうことになる可能性なんて、
元から1パーセントもないって』
『分かってるけど、そうしたかったんだ』
それを聞いて、僕は密かに嘆息した。
念には念を、ってやつらしいが…本当に、ない。
僕は、男をどうやってもそんな目で見られない…。
『詩生には会うんだろ?』
僕が聞くと、少し間を開けてから、
『…実は迷ってる』
鏡太郎が答えた。
『どうして』
僕が聞くと、鏡太郎は黙り込んだ。
『なんでだよ。会って話してやれよ。会いたいに決まってるだろ。
毎日毎日、変わらないお前をずっと見舞ってるんだぞ?
なかなか出来ることじゃないぞ?』
鏡太郎の考えてることが分からなくて、僕は説得しようと、
思わずまくし立てるようにして言った。
すると、
『分かってる…』
やつがポツリと呟く。
『だけど、生霊なんて姿で会って、気持ち悪がられないかと思って…』
『え?』
それを聞いて、僕は、唖然とした。
そんなことを心配してるのか?
『俺には、躊躇せず会いに来たくせに』
『お前は変わってるから』
『……』
患者じゃなかったら殴ってやる。
僕はそう思った後、ふーっと息を吐いた。
『詩生は、気持ち悪がったりしないよ。そんなやつじゃない。
俺だって分かるんだから、お前にだって分かるだろ?』
僕が問うと、鏡太郎は、
『…でも…』
と、歯切れの悪い返事をよこす。
いつも強気な奴も、詩生にだけは臆病になってしまうらしいってことは、
奴の態度を見ていてなんとなく分かっていた。
だけど、ここは勇気を出して欲しい。
『なんなら、テレパシーのことも明かしたっていいんじゃないかと、
俺は思ってるくらいなんだけど』
僕のその言葉に、鏡太郎の息を呑む気配がした。
『そうすれば、詩生もこうして話が出来る』
僕としては、いい案だと思ったのだけれど、鏡太郎は呻くような声で、
『…そんなの…無理だ』
搾り出すようにして言った。
動揺してちょっと声が震えているようでもある。
鏡太郎は、力が使えるのを人に知られることを、なぜか極端に恐れていた。
気持ち悪い、と必ず思われると思い込んでいる。
そう思わなかった僕という例があるのに。
ま、僕は変わってるのかも知れないが。
『大丈夫。俺を信用しろって』
『…駄目だ。詩生には絶対言うな。言ったら絶交だからな』
絶交と言う言葉が出て、驚く。
そこまで嫌なのか。
でも、この状態で、絶交とか言われてもなんだかピンと来ない。
……。
それはともかく、奴の頑なな気持ちは変えられないようだった。
そこまでなら、しょうがない。
僕が詩生の立場だったら、想い合ってる恋人に、
秘密を明かしてもらえないのは嫌だと思うとこだけど。
『分かったよ。…だけど、生霊として会う気はあるんだろ?』
『本当は、正直言ってそれだって詩生がどう思うか考えると怖いけど…
どうしても伝えたいことがあるし…仕方ないから、会うよ』
生霊になった自分を見られるのは良くて、
テレパシーが使えるのを知られるのは嫌なんだ…
その線引きがよく分からないけど、まあ、鏡太郎が決めたことだし。
僕は納得して、それから時計を見た。
『詩生は、何時ごろ来るんだ?』
『さあ。でも、まだ帰るなよ?詩生が来るまで、ここにいろ』
『え』
『いいだろ。俺一人じゃ心細いし』
心細いなんて、嘘だろ?と思ったが言わずにおいた。
頼られてるのかもと考えれば悪い気はしない。
それに、今日は、この後大した用事もない。
『詩生と会うとき、俺もいていいのか?』
『ああ。昨日もそう言っただろ。詩生が来るまでは、
人との会話に飢えてる俺の、話し相手になれ』
鏡太郎の偉そうなもの言いに僕は、苦笑した。
ちょっとムッと来ないでもなかったが、昨日のこともあるし、
相手は、口は達者でも深刻な状態にある患者に違いないので、甘受する。
『どうしても伝えたいことって、何だよ』
僕は、さっき鏡太郎がチラッと口にした言葉が気になって、聞いてみた。
昨日彼が僕に言った、お前のことが好きだった的なことだろうか。
でも、何度でも出入り出来て、今すぐ死にそうというわけでもないなら、
今日、僕がいるところで言わなくてもいい気がする。
『ああ…それは、俺が詩生に直接言うから、内緒』
キッパリ言われて、『あ、そう』と返す。
その後、会話が途切れ、少し間が空いてから、鏡太郎が、おもむろに話し出す。
『詩生さ、俺が分からないと思って、いろんなこと喋ってくんだ』
詩生がここに来たときのことだろうか。
僕は、詩生が彼の手を握っているいつもの姿を思い浮かべた。
『もうかわいくて』
奴の口調が、ふいに浮かれた感じになり、
『…ふーん』
僕は気の入らない返事をした。
そりゃあ、鏡太郎にとってはかわいいんだろう。
『帰り際には、キスしてくれるし』
『…ああそう』
でも。もう、それ以上は聞かなくてもいいんですけど。
二人が熱々でラブラブなのは分かってることだし。
鏡太郎が言っていることは、ノロケに違いなく、僕は詩生が来るまで、
このままずっとその手の話を聞かされるのかと、ちょっとゲッソリした。
ところが、
『あんないい奴を、もうこれ以上、悲しませるなんて出来ないよな』
次に奴の口を突いて出た言葉からは、甘い雰囲気が消えていて、
僕は、その変わりようと言葉の内容に、思わず眉を寄せた。
なにか嫌な予感に襲われて、何の表情も浮かべていないし、
見たところで何も読み取れない鏡太郎の顔を、まじまじと見つめる。
その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。