第三話 大きな友達と小さな恋人3


 

 

 

 鏡太郎の言葉が気になったが、意識を部屋の外に向けて、

 「はい」

 返事をすると、ドアが開いて詩生が姿を見せた。

 「真樹君、来てたんだ」

 僕がいるのを認めて、ちょっと驚いたようにしながら、中へと入ってくる。

 「ああ。珍しいだろ」

 と言うと、いたずらっぽく笑って、

 「ん。珍しい」

 と肯定するので、詩生を軽く睨むように見て、

 「言うよなー」

 僕も笑った。

 「いつ来たの?」

 「三十分くらい前かな。鏡太郎と話してた」

 僕が言うと、その言葉に、

 「そう」

 微笑ましさを感じたらしく、嬉しそうな表情をして、

 「たくさん話しかけてあげてよ」

 と僕を見た。

 詩生は、僕の方からただ声をかけていただけだと思っているらしい。

 ま、当然と言えば当然だけど。

 本当に会話のやりとりをしていた、とは言えない。

 「昨日も寒かったけど、今日も寒いね」

 詩生に言われて、来る時の外の様子を思い起こす。

 確かに、今日も昨日同様、外は空気がキンとして冷たく、

 上着なしでは風邪を引いてしまいそうに寒かった。

 僕は、昨日羽織った上着を、今日もなんとなく羽織って来ていて大正解だったが、

 季節の変わり目のこの時期は、着るものを選ぶのが難しい。

 「病院の中は、空調が効いているからいいけど、来るまで本当に寒かったー」

 詩生が、身を縮めるようにして言い、僕は彼の服装に目をやる。

 詩生の格好は上着なしな上に、着ている長袖のシャツが、

 そりゃ寒いよなー、と自然に思える生地の薄さで、ちょっと苦笑する。

 僕の視線を追って、言いたいことに気づいたのか、

 「急に寒くなったから、油断した」

 詩生が、言い訳っぽい言葉を口にした。

 思わず笑う。

 「風邪引かないようにしろよ。詩生が来れなくなったら、鏡太郎、淋しがるからな」

 僕の言葉に、詩生は一瞬動きを止め、頬を少し赤らめて顔を上げ、恥ずかしそうにした。

 そういうことを言われ慣れていないからか、

 「真樹君…」

 困りつつ笑みを浮かべた表情で僕を見る。

 「だって、ほんとのことだろ」

 僕が言うと、赤い顔のまま、ゆっくりと僕の隣の椅子に腰かけ、鏡太郎の顔を見つめた。

 そうして、しばらく黙っていたが、やがて、

 「…もうすぐ一年だね」

 ポツリと呟く。

 事故から、ということだろう。

 僕は、クリスマスを直前に控えた、あの夜のことを思い出す。

 「ああ。詩生も鏡太郎も、よく頑張ってるよな」

 心から思って、そう口にすると、詩生は薄い笑みを浮かべ、

 「うん。鏡くんは、本当によく頑張ってる」

 と頷いた。

 「詩生だって、頑張ってるよ」

 僕は、なかなか自分を評価しようとしない詩生に、

 言い聞かせるように言って、それから鏡太郎を見る。

 そろそろ出て来てもいいんじゃないかと思い、

 注意深く見つめるが、そんな気配が感じられない。

 いつ姿を現すつもりだろう。

 まさか、まだ躊躇してるってことはないよな。

 僕がそんなことを考えていたら、詩生が、

 「真樹君」

 僕の名を呼んだ。

 「ん?」

 応えて返事をすると、

 「僕がここに来なくなったら鏡くんが淋しがるって、言ったけど…」

 さきほどの話をまた持ち出し、ポツリと

 「僕、怖いんだ」

 と続けて、横を向いた。

 どういうことか分からずに眉を寄せ、詩生の横顔を見ていたら、

 彼の瞳にじわっと涙が浮かぶ。

 「そんなふうに思ってくれるのか…鏡くんの中に、

 僕はいるのか…まだ好きでいてくれるのか…」

 詩生が一言ずつ、噛み締めるように口にして、

 「時々、鏡くんの中に、もう僕はいないんじゃないか、って考えてしまって」

 涙が、ポロリと頬を転がり落ちた。

 「そんなこと、考えたって仕方ないのは分かってるけど…。

 鏡くんが目覚めることだけを信じようと思うんだけど…」

 悲痛な面持ちの彼を見て、僕は眉間のしわを深くした。

 毎日毎日通っても。どんなに世話をしても。

 何をしようと、何を言おうと、何の反応も見せない鏡太郎。

 気持ちを強く持とうとしても、心許なくて、

 心が折れてしまいそうになってしまうのだろうことは、なんとなく想像できた。

 だけど。

 「いるに決まってるだろ」

 ほとんど間を置くことなく、僕はきっぱりと断言していた。

 「今だって、鏡太郎は詩生のこと、好きで好きでたまらないでいるよ」

 つい強い口調になる。

 だって、ずるいことに、僕はそれを知っていて、それが確かだと分かっていた。

 だから、少なくとも今回は、ハッキリと言って詩生を元気づけることができる。

 でも、本当なら分かるはずのないことを、そんなふうに言い切ってしまう僕に、

 詩生がちょっと不思議そうな顔をした。

 ので、僕は、

 「…に決まってる」

 と早口で、ごまかすように付け足した。

 言っていいなら、もう今すぐにでも言ってしまいたい。

 鏡太郎の秘密を僕の口から明かしてしまいたい。

 でも、それは『してはいけないこと』だろうと思ったし、実際できなかった。

 詩生が僕の顔をじっと見つめ、こくんと頷く。

 そうして、僕の言葉に納得しようとしたようだったが、

 でもまた瞳に新たな涙が浮かんで、頬を伝い落ちた。

 「詩生…」

 それを見て、僕は顔を顰めた。

 「ごめんね。そう思おうとするんだけど、そう思わなきゃって思うんだけど、

 どうしても、そんなふうに考えられなくなるときもあって…」

 彼が俯き、僕は少し困った気持ちになる。

 事故から半年が過ぎたとき、僕は詩生の強さに驚いたわけだけど、

 あれからまた半年近くが過ぎた。

 その間に溜まっているものがあってもおかしくないし、

 その気持ちを誰かに聞いてもらいたくなるときもあるだろう。

 僕がもっと聞いてやればいいのかも知れないけれど、なにしろ僕は、

 そういうことがどうにも苦手だった。

 詩生がそれ以上泣くのを見るのもなんだかたまらず、泣きやませたくて、

 僕は彼の腕を掴むと、彼の顔を覗き込むようにして見つつ、繰り返した。

 「大丈夫。詩生は、鏡太郎の中にちゃんといるし、奴は、今でも詩生のことを想ってる」

 「…そうだよね。そう信じるしかないよね」

 詩生は泣きながら笑って、「ありがとう」と小さく付け加えた後、

 でもやっぱり悲しくなってしまったらしく、顔が歪んだと思ったら面を伏せて本格的に泣き始めた。

 僕が慰めたくらいじゃ下降する気持ちを止められなかったようだ。

 僕は、小さく息を吐くと、半年前と同じように、

 詩生の小さな頭を柔らかく抱えるようにしてから、鏡太郎に話しかけた。

 『鏡太郎、出て来ないのか?』

 聞くと、すぐに返事が返ってくる。

 『ちょっと待て。今集中してるから。

 心から強く抜け出たいと思わないと出られないんだよ。思ってもなかなか出られないし』

 『…そうか』

 出ようとはしてるんだな。

 僕はなんとなくホッとして、泣いている詩生の頭に置いた手に力を込めた。

 そうやって頭を預けられ、嗚咽をあげる詩生を撫でるようにしているうちに、

 だんだん、自分はもう『詩生が泣いたとき、慰める役』でもいいや、と思えてきた。

 相談事をされるのも、泣かれるのも苦手だけど、

 詩生が鏡太郎のことで泣き顔を見せることが出来る相手は、多分僕ぐらいなのだろうから。

 僕たちは、結構長いことその体勢でいたが、

 上手くいかないのか、鏡太郎はなかなか出てこない。

 やがて、ひとしきり泣いて少しは気持ちが軽くなったらしい詩生が、

 鼻をすすりつつ、顔を上げた。

 「ごめんね。また、こんな…泣いたりして」

 恥ずかしそうにしている詩生に、近くのティッシュを取って渡す。

 「構わないよ。鏡太郎に妬まれそうだけど」

 と言うと、笑ってティッシュで涙を拭き、鼻をかんだ。

 そのとき、僕は鏡太郎の体に変化が表れたのを、視界の隅に捉えた。

 鏡太郎から鏡太郎が、ズレて、浮いたように出て来てるのを目にして息を呑む。

 僕は心臓がドキドキしてくるのを感じ、何か言わずにいられなくて、

 「あのさ、詩生。詩生は、ありえないものとか見ても落ち着いていられるほう?」

 思わず詩生に、聞いてしまった。

 「え…?ありえないもの?」

 僕のいきなりの質問に、詩生が僕を見てキョトンとする。

 「ありえないものって、どういう…」

 「例えば、宇宙人とか、…霊とか」

 その単語を聞いて、彼は眉間にしわを寄せた。

 「宇宙人とか、霊?どうして急に、そんなこと…?」

 少し首を傾げながら、訝しげに僕を見てくる。

 「いや、その、どうなのかなと思って」

 僕は、普通の感性を持っていて、超常現象に耐性もないだろう詩生が驚かないように、

 配慮したつもりだったが、なんのことか分からない彼には当然のように上手く伝わらない。

 首を傾げたまま、どういうことだろうと考える仕草をした詩生が、

 気配を感じたのか、鏡太郎の方を見た。

 そのまま固まる。

 その視線の先、ベッドの上では、抜け出終わった鏡太郎が、額に手をやっていた。

 「あー、やっぱり出てすぐは、頭クラクラする」

 半身を起こして、座っている鏡太郎が呟く。

 そのすぐ横には眠っている体勢の鏡太郎がいて、

 まるで、テレビのコントで見る「幽体離脱」のシーンみたいだった。

 みたい、と言うか本物…

 詩生は、何が起こったのか分からず、呆気に取られた表情をしている。

 鏡太郎が顔を上げて、詩生を見た。

 それから笑みを浮かべて、

 「こんにちは、生霊です」

 茶目っ気を含んだ言い方でそう口にする。

 詩生は、ポカンと口を開けて、身動き一つせずに、

 ただじっと鏡太郎を見つめていて、それを見た鏡太郎が、微笑んだままちょっと眉を寄せた。

 「詩生」

 名前を呼ばれて、

 「鏡…くん?」

 やっと、恐る恐るという感じで、詩生が確かめるように言葉を発し、鏡太郎は「ああ」と頷いた。

 「本体じゃないけど、一応、本物」

 そう説明してから、ニッと嬉しそうに笑う。

 「久しぶり。詩生。やっと話せた」

 明るい表情の鏡太郎に、詩生が信じられないという顔をして、脇に置かれた機械類に目をやった。

 それがいつもと変わりないのをチェックして、ベッドの上に座っている鏡太郎に視線を戻す。

 「大丈夫。生きてるよ」

 鏡太郎が優しく言って、詩生が、

 「…どういうこと?」

 呆然と呟いた。

 「んー、どう…って、生霊。ずっと動きたいと思ってて、

 思い続けてたら、昨日生霊になって出られたんだ」

 「うそ…」

 「ほんと」

 「生霊…なの?」

 「ああ」

 鏡太郎が、申し訳なさそうな顔をして、

 「本体の俺じゃなくて、ごめん」

 そう謝ると、

 「信じられない」

 と詩生が呟いて、その目に、

 止まったはずの涙がまたじわっと浮かんで、鏡太郎が笑った。

 「涙もろいよなぁ、詩生は」

 愛しく思っている気持ちが滲み出た言葉を口にして、ベッドを降り、

 ティッシュを取って詩生に近寄り、零れ落ちた涙をそれで拭う。

 詩生が鏡太郎の手にそっと触れて、不思議そうにする。

 そんな彼を、鏡太郎が手を伸ばしてぎゅっと抱きしめた。

 「ああ。ずっとこうやって抱きしめたかった」

 鏡太郎が思いを遂げた満足げな表情をすると、詩生も目を閉じて、鏡太郎に身を寄せる。

 そうして抱きしめながら、鏡太郎が昨日起こったことを、話し始めた。

 体は動かせないけれど、ずっと意識があって、体を動かしたいと望み続けていたら、

 昨日、何故か体を抜け出ることが出来て、僕と会った後、

 詩生にも会いに行こうとしたら、元に戻ってしまったこと。

 僕と二人で、之江のマンションに行ったことは省いたが、それ以外の全てを話す。

 話し終わった後、

 「…生霊で、悪い」

 鏡太郎がもう一度謝り、

 「ううん」

 それを聞いた詩生は首を横に振った。

 「生霊でも…嬉しい。僕も、鏡くんと話したくて仕方なかったから…すごく嬉しい」

 詩生が笑って、鏡太郎もホッとしたような表情を浮かべる。

 「毎日話しかけてくれて、ありがとな。ちゃんと聞こえてた。

 詩生の声聞くのが、俺の今の一番の楽しみになってる」

 鏡太郎が言って詩生を見つめると、

 「うん…」

 詩生も見つめ返した。

 なんかいい雰囲気になってるけど…

 鏡太郎は詩生に、どうしても伝えたいことがあるって言っていた。

 それは、いつ言うんだろう。

 などと考えていたら、鏡太郎が、僕の背後に視線を向ける。

 突然、

 「あっ、安永さんっ」

 奴がそう叫んで、僕は驚いた。

 「えっ…之江?」

 後ろを振り返る。

 ところが、振り向いた場所には誰もいなかった。

 よく考えてみれば、こんなところに之江がいるわけがないのだ。

 嘘だと気づいて鏡太郎の方を向き直ると、ちょうど奴と詩生の唇が離れるとこだった。

 「……」

 もしかして、キスがしたかっただけ、とか?

 詩生がキスの余韻で、頬を染めて鏡太郎を見つめていて、

 その表情が男ながら色っぽく見えて、迂闊にもちょっとドキッとする。

 鏡太郎がいたずらっぽい瞳でこっちを見てきて、僕はじとっとした目で奴を見返した。

 「キスするならするって言ってくれれば、気を利かせて外に出たのに」

 それを聞いて、鏡太郎はニッと笑った。

 「いいんだよ。もうしたから」

 呆れた奴だ。

 「僕、霊とキスしたの、初めて」

 詩生が笑う。

 それを見て、鏡太郎も笑った。

 「良かったか?」

 「うん」

 あーあー。目の前でいちゃいちゃすんなよな。

 之江に会いたくなるだろうが。

 僕がちょっとムッとしていると、

 「出たいと思ったら、いつでもこんなふうに出られるの?」

 甘いムードのまま、詩生が鏡太郎に尋ねた。

 すると、鏡太郎の表情が曇る。

 「それなんだけどさ」

 言いにくそうにしつつ切り出し、僕を見てくる。

 「昨日は何回でも出られるかと思ったんだけど、今日、もう一回出てみて感じた。

 どうも、これ以上出たり入ったりすると、俺ヤバイみたいなんだ」

 「え」

 そのシステムについては、鏡太郎自身今ひとつ分かっていないのか、

 彼の物言いは歯切れが悪かった。

 ただ、ヤバイと感じているのは本当らしく、つらそうな様子が言葉の端々に窺える。

 肉体を離れて動き回ることは、思いのほかきつく、

 取り返しのつかないことになる可能性があるのかも知れない。

 鏡太郎が顔色を変えて言うぐらいだから、そこにはやはり何かあるのだろう。

 「だから、生霊として会えるのもこれっきりになると思う」

 鏡太郎が真面目な顔で告げる。

 「え。じゃあ…」

 詩生が、不安げな声をあげた。

 「うん。だから、今度会えるのは、本体が目覚めたとき…だな。

 まぁ、目覚めればの話だけど」

 鏡太郎の言葉を聞いた詩生が、

 「そんな…」

 呆然と呟く。

 今度会えるのは、本体が目覚めたとき。

 その事実が、どれほど詩生を落胆させるか、想像に難くなかった。

 また何も話せない。いつよくなるのか、よくなるのかどうかさえ分からない、

 霧の中を歩くような日々に戻るのだ。

 

 

 

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