第四話 明日1
(寧々視点です)
轟々と吹く風に、激しい雨の舞い上がる夜だった。
こんな中を出歩くなんて、酔狂としか思えないと自分で呆れながら、
それでも私は暗い歩道を歩いていた。
前もろくに見えないし、傘もほとんど役に立っていない。
髪は濡れてクシャクシャで、足は靴下やジーンズが貼り付いて重く、
靴の中も水浸しでこの上なく気持ち悪い。
でも、私にはどうしても今彼に会って、やらなければならないことがあった。
肩にかけた鞄。それに添えた手に、ぐっと力を込める。
そして、歩くスピードを少し上げた。
胸に暗い熱を秘め、ある目的の為に進む。
水に濡れた信号の光が、湿気をたっぷりと含んだ世界へと、
赤や青のつややかな色を放っている。
早足で歩いてきた私は、赤信号で歩みを止めた。
その時。
一台の車が、スピードを緩めることなく、信号を無視して進むのを見た。
そして同時に、その車の前に人影があることにも気づく。
青信号側の横断歩道を渡っていたその人は、あっと言う間に撥ね飛ばされ宙を舞った。
目前で展開される光景を、激しい風雨の中を抗うように進んできた私は、
はぁはぁと肩で息をしながら見つめた。
車は少しスピードを落としたが、すぐに加速してその場を走り去っていった。
人のほうへと目をやると、倒れたまま動く気配がない。
身動き一つしないその人を、冷たい雨が打ちつけている。
黒い上着を着ているせいか、雨に打たれて小さくまとまっているその様子は、
こう言ってはなんだけれど、ゴミ袋が落ちているように見えた。
事故の瞬間を見ていなければ、きっとそう思って行き過ぎてしまっていただろう。
「轢き逃げだ」
頭ではそう思うけれど、体が動かない。
そうして固まっている私に、誰かが話しかけて来た。
『助けて』
ハッとして慌てて辺りを見回してみるが、誰もいない。
あまりの雨の激しさと、突然の出来事に動揺したせいで、空耳が聞こえたのだろうか。
そう思った。でもすぐに、次の言葉が聞こえた。
『…頼むから』
「……」
『君の目の前。君の頭に、直接話しかけてる…』
そこで言葉は途切れ、何も聞こえなくなった。
君の目の前。
私は、数メートル先に横たわる人物を凝視した。
まさか。あの…当の本人が?
あんな遠くて、倒れ込んでて、しかも怪我をしているに違いない状態で…
声が聞こえるはずがない。
それなのに、頭の中に響いた言葉の内容ははっきりと私の中に残っていて…
私は前方を見つめたまましばらく呆然としていた。
雨は相変わらず世界の全てを叩きのめすかのように、降り続いている。
傘の存在を忘れ、ずぶ濡れになった私は、体からの「寒い」という訴えで我に返り、
体をブルッと震わせると急いで鞄から携帯電話を取り出した。
半信半疑、ではなかった。
全く信じていなかった。初めは。
確かにあれは耳から入ってきた言葉ではないようだったけれど、
だからって頭に直接話しかけるなんて、そんなこと出来るわけがない。
普通は、出来ない。
でも、やがて認めないわけにいかなくなった。
轢き逃げされたのは男の子だった。私より五、六歳年下だろうか。
私は成り行きで、やって来た救急車にその子と同乗し病院へと向かったが、
彼は頭を強打していて、かなり危険な状態だった。
緊急処置室へ運ばれた彼はとても口がきけるような状態ではなかった。
それなのに、苦しいに違いないのに、様子を伺う私の頭に、またしても直接話しかけてきたのだ。
『救急車、呼んでくれてありがとう。俺は早瀬鏡太郎。君は?』
私は、やっぱり驚いて…でも、信じる信じないとか言ってる場合じゃなくて、
状況からなんだかもう認めないわけにいかなくて、同じように返してみた。
『私は、斉藤寧々(さいとう・ねね)』
『寧々さんかぁ。実はもう一つ頼みがあるんだけど…』
返事があり会話が成立することから、私は、その現象を受け入れざるを得なかった。
『…何?』
自分の頭がおかしくなったのかも知れないと、一瞬だけ思ったけれど、
そうだとしても彼との会話は、ここでやめられるほど軽いものではなかった。
それに私には、「不思議な事」に対する多少の免疫があり、
他の人たちよりは幾分その状況を受け入れ易かった。
『この場に居合わせたのが運の尽きだと思って聞いてくれる?』
彼は治療を受けていて、私は少し離れた場所からそれを見ていたが、
治療を施している人たちには何も聞こえていないらしい。
この会話は、私と彼だけに聞こえる秘密の会話。
『俺、付き合ってる人がいるんだけど、
その人に「愛してる」って、俺が言ってたって、伝えて欲しいんだ』
『え…?』
それを聞いたとき、私はどうして彼がそんな事を言うのか、分からなかった。
『ね、約束だよ』
でも、次の瞬間すごく嫌な予感に襲われるのと同時に、
彼の言いたいことが理解できた気がした。
『ちょっと待って。何言ってるの?そんな頼み、聞けない。
あなたは助かるのっ。助かって、自分でその子に伝えるの!』
私が心の声を大きくすると、彼は少し笑ったようだった。
実際の彼は、痛々しい姿でベッドに横たわっていて、笑ってなどいないに違いないのだけど、
心に話しかけてくるその気配は確かに笑みを含んでいるように思えた。
『もし、俺が…死んだら、の話』
『その子に連絡するわ。名前は?』
私は鞄から、急いで手帳とボールペンを取り出した。
『名前と、出来れば電話番号も…』
書き記そうとページを開いて、身構える。
が、返事が聞こえてこない。私は訝しく思い、眉をしかめながら顔を上げた。
『ちょっと、あなた。鏡太郎…君?』
しんと静まり返っている。その静けさに、心臓がドキドキし始める。
まさか、まさか…。
嫌な予感が最高潮に達したその時、医師が彼から離れこちらに来た。
「大変危険な状態です。ご家族と親戚の方に連絡を」
医師の言葉を聞いた次の瞬間、思わず叫んでいた。それもかなり大きな声で。
「鏡太郎君!!死んじゃ駄目っ!」
出会って間もない、よく知りもしない子だったのに、私は彼のために絶叫していた。
どうしても助かって欲しかった。
自分のしようとしていたことは棚に上げて。
届いて。届いて欲しかった。
この願いが、鏡太郎君に。いるならば神様に。
なのに…
鏡太郎君の声が聞こえない。
「なるべく早く、ご家族に連絡を」
医師が少し急かすような調子で、もう一度繰り返した。
私は顔を上げた。うまく回転しない頭を、懸命に働かせようとする。
そうだ。こんなことをしている場合じゃない。
「私、彼の知り合いじゃないんです。
たまたまその場に居合わせただけで…だから、彼のご家族のことも知らなくて」
そう告げると、病院側の人たちは納得したように頷いて、私を離れてどこかへ行ってしまった。
きっと彼の持ち物に何か手がかりになるものがあって、家族に連絡してくれるのだろう。
残された私は、横たわる鏡太郎君に再度呼びかけた。
が、やはり返事はなかった。
「どうか、頑張って。死なないで」
そう祈りながら、思わず両手を胸の前で組んだ。
こんな私の願いを、神様は聞き届けてくれたのか、
鏡太郎君は生死の境をさまよった後、なんとか持ち直した。
持ち直しはしたけれど…
鏡太郎君は、命は助かったものの、寝たきりで動くことのできない体になってしまった。
助かって良かった、と手放しでは喜べない状態の鏡太郎君を、私が改めて見舞ったのは、
事故から約一か月が経過してからのことだった。
長い廊下を歩いて病室へ行くと、鏡太郎君と同年代の男の子がいて、私が、
「こんにちは」
と挨拶をすると、彼がニコッと笑顔を浮かべて、「こんにちは」と返した。
友達だろうか。
病院にお見舞いに来ているのだから、きっと鏡太郎君と仲のいい子に違いない。
そう思ってから、彼のなんだかかわいい仕草に、私も思わず笑顔になって、
「あの、斉藤と申します。…ご家族の方は?」
と尋ねたら、
「ああ、あの、今の時間は、僕が付き添ってます」
と答える。
彼の言葉に、どういうことなのかと思っていると、彼は、「どうぞ」と私にベッドの脇の椅子を勧めた。
家族の代わりに付き添っているなんて、親戚か何かなのだろうか。
友達だと思ったけれど、彼の様子からするとどうも違うようでもある。
二人の関係を不思議に思いながらも、それ以上は聞かずに、私は彼が勧めてくれた椅子に座った。
横たわる鏡太郎君を見ると、考えていたより状態はいいのか、顔色が良くて、ホッとした。
見える場所に傷もないし、今、目を開けて動き出してもおかしくないように思える。
私は、彼の顔を見ながら、
『鏡太郎…君?』
そっと心で話しかけてみた。
すると、
『…寧々さん?』
思いがけないことに、返事が聞こえてきて、私は驚きで息を呑んだ。
もしかすると、とは思っていたけれど、まさか本当にまた、こうして話すことが出来るなんて。
それから、ふわっと嬉しい感情で胸がいっぱいになる。
目が開くことも、表情が動くこともないけれど、彼はちゃんと中にいる。
私が、その気持ちのまま『そうよ』と答えると、彼も嬉しそうな声色で言ってくる。
『寧々さん。俺、寧々さんのおかげで、死なずに済んだよ』
そう口にした鏡太郎君は、心から喜んでくれているようだった。
だけど、それを聞いた私は、彼の明るい感じと、
目の前の機械や点滴のチューブに繋がれた体のシビアな状況を照らし合わせて、切ない気持ちになる。
『うん』
彼は、確かに死なずに済んだ。
『……でも、こんな姿になってしまって…』
どう考えても、前向きな気持ちになるのは難しい状況に思えて、言葉が尻すぼみになった。
なんと励ましの声をかけたらいいのか分からないし、考えるほどに気持ちが沈みそうになる。
すると、逆に私を励ますような口調で、鏡太郎君が言った。
『寧々さん、沈まないでよ。俺、本当に感謝してるんだから』
明るく優しい声音で続ける。
『あの時、寧々さんがいなくて、あのまま放っておかれてたら、
俺、確実に死んでたと思う。寧々さんのおかげだよ』
そう口にされて、私はじっと彼の顔を見つめた。
私を気遣って、そんなふうに言ってくれる本人を前に、
『…うん。助かって、本当に良かった』
やはりちょっと切ない気分になりつつも、気を取り直すようにして、笑って頷く。
本人が明るく振る舞っているのに、私が沈んでばかりいるわけにもいかない。
『今日は、どんな天気?』
鏡太郎君に聞かれて、窓の外を見る。
『ん…、寒いけどいい天気。空が青くて、風がない』
そこから見える空と、病院までの外の様子を思い出しつつ答える。
『そっか。…今日は晴れてるんだね』
それを思い描いているのか、鏡太郎君は楽しそうにした。
そんなことでも、体の動かない彼には嬉しい情報なのかも知れない。
『この部屋にいるとさ、何も変化を感じられなくて…。
体も動かないし、もう、寝るか考え事するぐらいしかないんだよね』
そう不満を打ち明けたけれど、彼からはそれほど落胆しているような感じは受けなかった。
その理由は、鏡太郎君が、また楽しそうな口調に戻って続けた言葉で分かる。
『でも、昼からはいつも恋人が来てくれるんだ』
私は、少し誇らしげでもある、それを聞いて驚いた。
恋人って言うのは、あの時言っていた人だろうか。
『へぇ…。そうなんだ』
私は、鏡太郎君には悪いけれど、
その彼女とはもう破局になってしまったんじゃないかと思っていた。
まだ続いていたなんて。
そうして物思いに耽っていると、鏡太郎君が、
『そうだ。寧々さん、俺の恋人紹介するよ』
急にそんなことを言い出したので、
『えっ』
私は驚いて顔を上げる。
今、ここにいるの?
それとも、もうすぐここに来るってこと?
私は、部屋を見回した。
周りには、挨拶を交わした男の子しかいない。
少し緊張していると、鏡太郎君がフッと息を漏らすようにして、
『そこにいるだろ?世界で一番かわいい奴』
と言う。
『え、どこに?』
『いない?部屋の中にいる筈なんだけど』
鏡太郎君の言葉に、もう一度部屋を見渡してみる。
と言ったって、そんなに広くもない個室で、やっぱりいるのはさっきの彼だけだ。
そうして、どういうことなのかと考えていたら、ふいに、その考えが閃いた。
え、まさか、ひょっとして…
『この子なのーっ!?』
私が声をあげるのと同時に、鏡太郎君が噴くようにして笑う声が聞こえてきた。
彼は、確かにかわいい子だけれど。でも…
鏡太郎君の恋人と考えるには、私の感覚はあまりに常識的だった。
ものすごい違和感を感じる。
ちょっと唖然として、周りにそういう知り合いもいないので、
つい偏見の目で見そうになるのを堪える。
なかなか認めようとしない自分の脳と、なんとか向き合おうと頑張っていると、
鏡太郎君がハッキリと肯定した。
『うん。男なんだ』
本人が言うのだから、間違いない。
鏡太郎君が好きなのは、この男の子で、そして、彼はつまり、
『この子が…あの時、伝えてって言ってた…』
あの雨の中、傷を負って死にそうになりながらも、私に想いを託そうとした相手なのだった。
『そう。詩生。俺の恋人』
鏡太郎君の誇らしげな口調に、なんだか圧倒される。
男同士であることを少しも隠そうとしない。
恥ずかしそうでもなく、堂々としている。
『…詩生君、って言うんだ?』
私が、まだ乱れた思考を収められないままに、聞こえた名前を確認のために繰り返すと、
『うん。かわいい名前だろ?』
愛しげにそう返してきた。
好きでたまらない気持ちが伝わってくる。
『おふくろ、仕事してるからさ。
詩生がいつも、学校終わってからこうやって、昼間に様子を見に来てくれるんだ』
『そうなんだ。…すごいね』
私は、鏡太郎君の話を聞いて、ビックリするのと同時に感心した。
事故に遭った同性の恋人の元へ通い続ける男の子。
彼の想いも相当に強くないと、それは続かないに違いない。
その話から、お互いの想いが、ちゃんとそこにあることを感じた。
「あの」
突然、音声としての言葉が耳に入ってきて、小さく肩が揺れた。
そちらを見ると、詩生君が湯呑に入ったお茶を差し出している。
「お茶、飲みませんか?あと、良かったらお菓子も」
もう一方の手に箱を持っていて、私はお礼を言ってお茶を受け取ると、
箱からお菓子を一つ頂戴した。
気がついてみれば、この部屋に入ってから、私はずっと鏡太郎君と話している。
音声を発していないので、詩生君からすると、
それはただ顔をじっと見つめているようにしか見えないだろう。
変な人に思われていないだろうか。
こういう場合、何と言えばいいのだろうと思いつつ、
「鏡太郎君、思ったより顔色がよくて、良かった」
「ええ。今日は特に調子がいいみたいです」
とりあえず鏡太郎君を見ての感想を口にして、お茶を啜っていたら、
詩生君が、思い切ってという感じで、話しかけてきた。
「あの。お願いがあるんですけど…出来れば、声に出して話しかけてあげてください。
そうし続けることで治った例があるみたいなんで…」
え…。
私は、ポカンと彼を見上げた。
最初何を言っているのかと思ったけれど、どうやら彼は私が、
ずっと心で話しかけてあげていると思ったらしく、どうせなら声に出してということらしい。
ちゃんと会話を交わしていたのだ、ということは、多分言わないほうがいいのだろう。
私が詩生君に合わせ、
「あ、ああ。そうね。そのほうがいいかも知れない」
と答えると、
「なんなら僕、外に出てますんで」
なんの反応も返さない人に話しかけるという行為の恥ずかしさを慮ってか、そんなことを言う。
「いや、あの、出なくていいからっ」
引き留めようとしたけれど、それよりも早く、彼は外に出て行ってしまった。
なんか呆然とした後、笑う。
鏡太郎君に、
『彼、かわいいね』
と言ったら、
『うん。でも、俺のだから、惚れないでね』
しっかりと釘を刺され、キョトンとした後、また笑った。
なんなのだろう。この子たちは。
私が知ってるどのカップルよりも強い絆で結ばれているように思える。
相手のことを心から想っていて…
そんなに想いあえる二人が、ちょっとだけ羨ましい気がした。
『お菓子、せっかくだから、いただくね』
物を食べることの出来ない鏡太郎君には悪いけど、
彼にことわって、詩生くんから渡されたお菓子を口に運ぶ。
『うん。気にしないで食べて』
私にそう勧めた彼が、しばらく黙った後、私の名前を、改まった口調で呼んだ。
『寧々さん』
『ん?』
もらったお菓子を食べながら、脳内での会話を進める。
『あの…驚いたでしょ。最初、話しかけられたとき』
言われて、あの事故の時を思い出す。
『…ああ。うん。驚いた』
驚いた。けど、状況が状況だったのと、自分のこともあって、割と早く順応出来た。
『これは、鏡太郎君の能力、なんだよね?』
『…うん。よっぽどのことがない限り使わないんだけど、あのときは思わず話しかけてた』
『……』
あれは、よっぽどのこと、だったと思う。
話しかけてくれて良かった。
でなきゃ、私はいつまでもあの場所で、動けずにただ突っ立っていた気がする。
『寧々さん』
鏡太郎君が、もう一度、私の名前を呼んだ。
『うん』
相槌を打つと、
『お願いがある』
彼の口から、真剣味を帯びた言葉が吐き出される。
『このことは、誰にも言わないで欲しい』
その申し出に、少しの間の後、私は頷いた。
『オッケー。誰にも言わない』
こんな能力があることが世間に知れたら、少なからず騒がれることになるだろう。
それはマズいことだし、それに、力を持つ人の気持ちは、まったく同じではないにしろ、私にも分かる。
『詩生にも』
心なしか苦しげに聞こえる声が、恋人の名前を口にし、それを聞いた私は、動きを止めた。
鏡太郎君は詩生君に、言えていない。
さっきの詩生君の言葉と態度から、多分そうだろうと踏んでいた私は、またゆっくりと頷く。
『うん。分かった。大丈夫。言わないよ』
そして、ハッキリとそう鏡太郎君に告げた。
そんなにも想いあっている恋人同士なのに。
考えてみれば、今の状態の彼にとって、こんなに役立つ能力はないと言ってもいいほどのものなのに。
やはり、おいそれとは打ち明けられないのだ。
秘密として抱えていなければならない。
私は、鏡太郎君の心中を察して、かなり複雑な気持ちになる。
その後、状況に変化があったら報せてくれるよう詩生君に頼むと、私はその日、病室を後にした。