朗報
名前を呼ばれて顔を上げると、学年一頭の小さい鮎川さんが立っていた。
彼女は、本当に頭が小さい。
右腕で抱え込んで、左手の拳でつむじをグリグリってやりたくなるほど小さいが、まだやってみた事はない。
同じクラスでもないのに行動範囲の狭いあたしが、何故彼女を知っているかと言うと、
ひとえにその頭の小ささが目立つからだ。
どちらかと言えば頭の大きめなあたしはちょっとうらやましいが、
この脳みそを手放すくらいなら今のままがいいと思っているので、愁うほどの事でもない。
あたしは、すぐ続きを読めるよう、いつも通り本を開いたまま応対した。
「今日、若尾さん休みでしょ。これ、小松先生が渡してくれって」
彼女が差し出したのは、数学のプリントだった。
「ああ、うん。分かった。あの先生も相変わらずだね。わざわざありがとう」
あたしが笑うと、鮎川さんも笑って去って行った。
数学の小松先生は、すぐ置き忘れや渡し忘れをする。
その度に、その辺の生徒を捕まえて使いにやるのだ。頼まれたほうはたまったもんじゃない。
さて。雅だが、今日は休んでいる。昨日も休みだった。どうしたんだろう。
雅はよく遅刻や早退をするので、特別珍しいとも思わないけど、
毎時間雅の分までノートをとるあたしの身にもなって欲しい。
早く出てこんかい、ボケ。と、雅の机に向かって心の中で言うだけ言って、また本に目を戻す。
やがてその日の授業が終わり、あたしは校舎を出た。秋の空が染まりかけている。
そう言えば庭に花が咲いてたなぁ。雅が蒔いたやつ。あれ、切ってもいいだろうか。
そんな事を考えながら、一人で帰り、寝るまでの時間を一人で過ごす。
雅は家にも来なかった。今日も昨日も一昨日も。
雅が二日くらい来ない事はよくある事だけど、ちょっと気になる。
風邪でもひいたのか、それとも何かあったか…。読書の邪魔をされずに済むのは嬉しいけど。
「……」
あたしは、新聞に手を伸ばした。
たまには、テレビでも見てみるか。雅がいつもテレビをつけっ放しにするから、なんか耳淋しい。
あたしは、テレビ欄を見た。普段、ほとんど目を通さないページだ。
九時周辺を見てみるが、やっぱりあたしの気を引く番組はない。
なんかもっと魅力的な内容の番組ってないの?
がっかりしながら、昼間の番組を見てみる。
下から上へと辿って行き、あたしの視線は三時の所で止まった。
呆然とした。
「ちょっと、まさか」
思わず一人で呟く。
まさか、この為に!?そうだったの?
芸能関係のワイドショー番組。そこには、雅の両親の名前が書かれていた。「離婚」の二文字と共に。
あたしは呆然としたまま、いつまでもそれを眺めていた。
それから、電話に手を伸ばす。呼び出し音が鳴り続けるが、誰も出ない。
翌日。あたしは、本屋へ行き週刊誌をかたっぱしから立ち読みして帰った。
情報収集したかったのだけど、思うように行かず、結局何も分からなかった。
帰りに雅の家に寄ったが、誰もいない。
その後、また雅の家へ電話をするが、やっぱり誰も出ない。
次第に不安になって来た。
雅はどうしてるんだろう。まさか、このまま会えないなんて事、ないよね?
悶々とした数日が過ぎ、月曜日。
あたしの心をあれだけ不安にしておいて、雅はケロッとした顔で登校した。
彼女から言い出すまで何も聞くまいと思っていると、お昼になってしまった。
机をくっつけて、お弁当を食べる。
食べている最中に、彼女が言った。
「いい知らせがあるの」
「いい知らせ?」
「うん」
悪い知らせの間違いじゃないかと思ったが、本当にいい知らせのようだ。両親の事じゃないのかな。
お弁当を食べ終わると、彼女が屋上へ行こうと言い出した。
「いいけど、あそこドアがあって鍵がいるんだよ」
「持ってる」
雅が、ポケットから鍵らしき物を取り出すと、あたしの目の前でプラプラさせた。あたしは驚いた。
「何で鍵のあるとこ知ってんの?」
「この前、ブラスバンド部の子たちが屋上で練習する時、持って行くのを見たの」
…知能犯。あたしは、半ば呆れて半ば感心しつつ雅について屋上に行った。
怒られるかも知れないなぁ、見つかったら。ここまで来て心配する事でもないけど。
暗いドアに鍵を差し込んで開けると、広くて気持ちのいい空が目の前に広がった。
歩いて柵まで行くと、学校にいる事を忘れそうな解放感で胸がいっぱいになる。
「ね、いい天気」
雅が、広い屋上を嬉しそうに歩く。その様子が何だか無邪気で、あたしは笑った。
二人して、柵にへばりつく。
雅がこっちを見て、ちょっと言いよどんでから思い切ったように言った。
「ママ達が離婚したの」
「うん」
あたしは肯いた。雅が安心したような顔をする。
「そっか。知ってるんだ」
その時、校内放送が入った。一時になったら体育館へ入るようにと告げている。
そう言えば、今日は一時から校長先生の話があるんだった。
「雅、行こう。歩きながら聞くから」
そう言うと、露骨にムッとした。
「どうして?校長先生の話なんて全然つまんないじゃない。ここにいようよ。
校長先生の話と、あたしの話やこの空とどっちが大事なの?」
歩き出そうとしたあたしは、歩を止めた。そんな事、考えた事もなかった。
来いと言われたら、行くのが当然と思ってた。
校長先生は時々、思いついたように昼一に話をする時間を設ける。
そして、こう言ってはナンだけど、雅の言う通り話は確かに長い割に中身がない。
だけど、つまらないからと言って行かなくていいものだろうか。
「こんなに気持ちいいのに。
体育館に詰め込まれるなんて、まっぴら。あたし達が行かなくたって、何の支障も来たさないよ」
あたしは、空を見上げた。
いつもは聞いてたけど、確かにつまらない話を無理して聞いたって意味がないよなぁ。
みんな聞きながらあくびしてるし。
雅に視線を戻す。
「分かった。ここにいよう」
そう言った途端、ますます自分が学校にいる気がしなくなった。雅が、とびきり嬉しそうに笑う。
「それで、いい知らせって、離婚の事なの?」
「うん」
肯く雅が笑ったままなのを見て、あたしは眉を寄せた。
「呆れた。嬉しいの?」
「嬉しいよ」
雅が平然と答える。
「だって、あの人達が離婚する日の事は、もう数え切れないくらい想像したもの。
すっかり覚悟が出来てて、悲しいとか辛いとかって気持ちはないの」
雅は、あたしから目を反らすとグランドの方を見た。
「それに、あたし。前にも言ったけど、本当に早く離婚して欲しかったんだもん。
もう考えたくなかった。あの家には何も暖かいものは残ってないもの。
嬌子といる時みたいに、いつも笑っていたいと思ってた。…だから、今凄く幸せなんだ」
それを聞いて、あたしもグランドの方を見た。
しばらく何も喋らなかった。わずかに生徒達の移動する声が聞こえてくる。
吹いて行く風。揺れる雅の長い髪。
雅がこちらを向いた。少しはにかんだような表情。
「兼ねてからの約束通り、あたしを置いてくれる?」
あたしは、笑って肯いた。雅が「ありがとう」と呟く。それから、またグランドを見た。
「ママがね。一緒に来て住みなさいって言うの。学校も変わりなさいって。
だから、ずっとケンカしてた。あはっ」
「それで、変わるの?」
あたしが雅を見ると、
「変わらないよ。嬉しい?」
雅もこっちを見て、かけひきを楽しむような瞳をする。
ので、「別に」と冷たく言い放ってやると、目を丸くした。
何か言いたげにして、でも感情を押さえたように溜息をついた。
拗ねたようにあたしを見る。
「意地悪」
あたしは思わず笑った。笑うあたしを見て、雅も笑う。
二人して、またグランドの方を見た。
太陽の下の明るい光の中で、あたし達がここにいるって知ってるのは、神さまだけ。
「屋上はいいね」
しみじみそう思って呟く。
新しい日々を迎える雅は、本当に嬉しそうだ。笑顔はキラキラとして眩しいくらい。
「屋上はいいよ」
あたしは、もう一度言った。
しばらく風に吹かれて、その後いつものようにとりとめのない話をする。
あたし達はそうして体育館での集会が終わるまで、二人きり屋上にいた。
不思議な事に、その日。呼び出される事も、教室で叱られる事もなく午後が過ぎた。
体育館から教室へ戻る生徒の波に紛れるようにして戻ったのだが、
あたし達がいなかった事に気づいていないのだろうか。
それとも知っていながら許しているのだろうか。分からない。
「写真なんか撮らないで」
あたしは、戸棚からカメラを出しかけた手を止めた。
雅が、家に来ている。彼女が蒔いた種の花が咲いたので、切って花瓶に生けようと思う。
その前に記念撮影しようと思ったのだが、クレームがついた。
「何でよ。記念にいいじゃない」
雅の蒔いた種は、彼女が袋を捨ててしまって名前も覚えていないので何だか分からないけど、
マーガレットに似ている。
後ろには、元々うちにあったコスモスも咲いていて綺麗だ。
「写真なんか撮らなくていいよ」
雅は繰り返す。
あたしは、彼女の気持ちをつかみかねたけど、いいと言うのを無理に撮る気もないので、カメラをしまった。
カメラがしまわれたのを確認して、雅は俯いた。
「嬌子が花が咲いてるのに気づいて見ててくれて、今も見ててくれる。それでいいの」
そんなわけで写真撮影はやめて、志保子に、雅が家に来る事になった旨の手紙を書いた。
雅に、一筆書きなさいと言うと、素直に「お世話になります」と書いた。
志保子が帰るまで、あと一年と二ヶ月ほどある。その後の事は、またその時考えよう。
あたし達は二人暮らしをするにあたって、家事分担とちょっとしたルールを決めた。
ルールは、生活にかかるお金、例えば水道代電気代等を割り勘にする。
もし男の子と会う場合はお互い外で会う。などがあがった。
男がこの家の敷居をまたいだ事は、あたしが覚えている限りでは、修理屋電気屋の類以外ないのだ。
家事分担は、雅が何も出来ないので少しずつ教えながら、様子を見ることにした。
他はともかく、料理は当分あたしの担当だろう。
そう思ってしまうのは、家庭科の時間の出来事が頭から離れないからだ。
あれは調理実習の時。メニューは鮭のムニエルだった。
雅は、鮭の切り身を見て、先生に大きな声で質問した。
「鮭は洗わなくていいんですか?」
すかさず先生は言った。
「鮭は洗ってはいけません」
あたしは笑ってしまった。切り身の魚ってあんまり洗わないよなぁ。
そして、調理は進み、出来あがった付け合せのブロッコリーは、茹ですぎてドロドロになっていた。
それだけじゃない。雅に任せると、いろんな材料がとてももったいない事になる。おにぎりがいい例だ。
一緒に住むとなれば、今まで以上にそう言う例を目の当たりにする事になるだろう。
困った事だ。読書を邪魔される時間も増えるな。
あたしが、うーむと唸っていると、テレビドラマに気を取られてた雅が不思議そうに聞いた。
「どうしたの?」
「…何でもない」
こうして。あたしと雅は同居する事になった。雅の帰る家もあたしの帰る家も、同じこの家。二人暮らし。