将来


同居を始めて一週間ほどした頃の夕方、雅の留守中に彼女のお母さんが尋ねて来た。

ドアを開けた時は驚いた。テレビの画面で見る華やかな顔が、すぐ目の前にあったのだ。

志保子より年上の筈だが、とてもそうは思えない。

若くて、美しかったし、何より芸能界で磨かれて垢抜けている。やっぱりプロだ。

化粧も装いも完璧だし、この人が「隣のおばさん」だったら、ちょっと怖い。

でも、それほど雅に似ていると言う印象は受けなかった。

どっちかと言えば、お父さん似だ。お父さんも二枚目だからなぁ。

彼女は、忍ぶようにして玄関口にいた。

「嬌子さん?」

「はい。あの、雅は今出かけてますけど」

「ええ、いいの。あの子には黙っておいて。ここへ来たなんて知ったら怒るから。これを渡しに来たの」

彼女が差し出したのは、雅名義の貯金通帳だった。雅に必要なお金はここから引き出してくれと言う。

「いつもお世話になってるわね。挨拶が遅れてごめんなさい」

「いえ、こちらこそ。あの、どうぞ上がって行ってください」

薄暮に紛れる時間帯を計算して訪れたかのように、日が沈んで、そのシルエットが滲んで見え始める。

彼女が首を横に振った。

「あの子が帰る前に退散するわ。わがままな子だけど、よろしくお願いね」

彼女は、それだけ言うと待たせてあった車に乗り込んで飛ぶように去って行った。

あたしは渡された通帳をじっと見た。

あたしは雅の何なのだろう。

自分の部屋へ行って、中身は見ずに通帳を鍵のかかる引き出しにしまった。

雅は、困らない程度のお金は持っている。いつか必要になるまでしまっておこう。

お母さんが来た事も、雅には言わなかった。話せばまた、思い出すだろう。

わざわざ雅の気持ちを荒立てることもない。

おかずの厚焼き卵を作りながら、思う。

雅に嫌われた母親は、通帳を渡しに来た。

そして、お金と愛情は引き換えに出来ないけど、それでもやっぱりお金がなければやっていけない。

志保子も、月に一度送金してくる。

彼女は日本で勤めてた会社のパリ支店で、ファッション関係の仕事をしている。

一応仕事をしているのだが、向こうで暮らすのが夢だったし、あんまり楽しそうなんで、

遊んでばっかりいるような気がする。ちぇっ、今ごろ何やってんだか。

悔しがりつつ、夕飯の厚焼き卵を作り終えて、テーブルへ運ぶ。

「わぁ、ふっくら。ほんとに上手いね。料理」

待機していた雅が、箸を持ったまま厚焼き卵にみとれる。

「厚焼き卵なんて…へっ」

志保子は元から出張の多い、帰りも遅い人だったから、料理は今ではお手のものって感じだ。

「必殺料理人と呼んでくれいっ」

尊敬の眼差しを浴びて調子にのる。

こんな時、あたしの産みの親は料理人だったのかも知れないと思う。

いやいや、本好きだから作家だったかも知れない。

まてよ、運動神経も捨てたもんじゃないから、スポーツ選手かも。

どっちにしろ、ただもんじゃないに違いない。その血を継いでるんだから、あたしも大したもんだ。

などと、勝手な想像をして楽しんだり出来る点、親が分からんのも悪くない。とかって自分に言ってみる。

捨てられた事を悲しむだけじゃ能がないもんね。

ただ、どうやらあたしにはファッション関係の仕事に就けるような才能はないらしいって事が、

現実的な話でちょっと悲しい。

「おいしいっ」

雅が叫ぶ。その幸せそうな顔を見て、作った甲斐を感じる。

やっぱり食べてくれる人がいてこそ、作る気も湧いてくると言うものだ。

あたしも、雅と一緒に卵をつついた。幸せな味がする、する。

笑っていたいと言った雅は、今では本当にいつも笑っている。そばにいる人が笑っているのはいい。

みんな幸せだといいのに。

   

「また難しそうな本読んでるね」

夕食の後のくつろぎタイムに、雅があたしの読んでいる本を見て言った。

今日は寒いので、灯油を使いきってしまおうと言う思惑もあって、ストーブを焚いている。

暖かい心地良い部屋。

「ちょっと難しい。でも、勉強になるよ」

あたしが今読んでいるのは、心理学に関する本だ。

「この間は宇宙の本だったでしょ。そんなに本読んで勉強してどうするの?」

「どうするって…。あたしはただ本が好きだから読んでるだけで、まだまだ知らない事はたくさんあるし」

「将来何になるの?」

「え。そうだなぁ。あたし、何でも出来ちゃうからなぁ」

「……」

雅が絶句して、それから笑った。「将来」は、もうそう遠い事じゃない。

多分、あたしは普通に大学行って、普通に就職するだろう。

「雅は?女優?」

雅は、それを聞いて即座に首を振った。もったいない。と思ったけど言わなかった。

「女優になんかならない。あたし、英語の先生になりたいんだ」

あたしは驚いた。雅が先生になりたがってるなんて、全然思わなかった。

でも。ちゃんと決めてるなんて凄い。突拍子もない事じゃなくて、自分の特性を見極めてるのも偉い。

びっくりしたけど、あたしはすぐに賛成した。

「いいじゃない。英語、好きだもんね」

雅が嬉しそうに笑った。

「嬌子なら、そう言ってくれると思ってた。別に学校の先生じゃなくてもいいんだ。塾でも何でも。

英語を教えることを仕事にして、食べていければ」

「うん。いいなぁ、それ」

感心してしまって、言葉に力が入る。

好きな事に向かって頑張る人と言うのが好きなんだよなぁ、あたしは。自分は頑張らないけど。

その後、雅はいつも通り好きなバラエティ番組を見て笑っていたけど、

あたしにはいつもより何倍も偉く見えた。

   

「先生、教えてください」

「岩城さん、それは関係代名詞を使ってですね…」

お風呂上がりに、英語の宿題をやった。

「先生、分かりません」

「若尾さん、ちゃんと復習してますか?どれどれ」

数学の宿題もやった。あたしは英語以外は割と平均して出来るし、

雅は英語が出来るので、二人でやると効率良く進む。

あたしは、英語とはどうも相性が良くない。

歌の歌詞なら覚えられるが、文法とかになるとさっぱり頭に入らないし、

あの暗号のような言葉で気持ちを伝達するのが恥ずかしくて、照れてしまうのだ。

でも、とりあえず雅とやる宿題は楽しい。

せっせと鉛筆を動かす雅の真剣な顔を見て、あたしはふと馬鹿な事を考えて淋しい気持ちになった。

将来。この目の前の人間と、こうやって過ごさなくなる日と言うのが、いつか来るのだろうか。

 

 

     

 

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