料理白書
四月。あたしと雅は、めでたく高三になり、志保子が行って一年がたった。
同居生活もすっかり落ち着いた。穏やかな春である。
雅が裕君と電話で話している。
聞くつもりはなかったのだけど、何やらいやらしい専門用語が飛び交っていて、
あらゆる分野に勉強の余念がないあたしは思わず聞いてしまった。そして、呆れた。
「何つー話じゃ」
話の内容はいわゆる猥談で、大晦日にやると十月十日生まれだの、
「凄い」と言う漢字はその手の本で覚えただのと言うかわいいレベルのものと、ヘビィなのと両極端だった。
ヘビィなのは、一歩間違うととても危ない。明るい雰囲気だから救われている。
わざわざ電話で、そんな話するなよ。二人で会ってる時にすればいいだろーが。
ちょっと不機嫌になりつつ本を読んでいると、やっと雅が電話を切った。
「ご飯だよ」
本を置いて、雅を台所へ呼ぶ。電話が終わるのを待っていたのだ。テーブルについて、二人で食べ始める。
食事の途中、雅が煮物の皿を箸で自分の方へずり寄せた。あたし、すかさず雅の頭をペンッと叩く。
「箸で寄せるんじゃないっ」
「だってぇ」
雅が、頭をさすりながらあたしを拗ねた目で見る。
だってもへったくれもない。何度言ったら分かるんだ。それに。
「口つけたもんを元の皿に戻すなっ」
あたしは目の前の皿の、歯型のついた蒲鉾を指摘した。
すると、雅は、ぷいっと横を向いた。唇を尖らせて不満げだ。
不満なのは、あたしだ。
「聞いてんの」
雅の顔を見ずにドスを聞かせた声で言うと、慌てて笑顔を浮かべてこっちを見た。
「はいっ。えへっ」
「あんたの為を思って言ってんだよ」
「はい」
全く。テレビを見ながらスナック菓子を食べて、ポロポロこぼしてるのも気にならなかったり、
喫茶店で平気で食べ物を残したり、あたしは雅の食に対する態度が許せない。
別に難しい事を言ってるとは思わないんだけどなぁ。
お菓子をこぼせば不衛生だし、掃除するのも嫌になるし、
作った人の身になれば残さず食べてあげようと思うじゃないか。
よっぽどまずかったり大量だったりするのは別として。
それに最低限のマナーくらい知っておいた方がいい。
と思うのに、どうも雅は「うだうだうるさいなぁ」くらいにしか思ってないらしいんだよなぁ。
…いいんだ。うるさがられても言い続けよう。雅の為だ。
「後で買い物に行くよ」
「えーっ。見たいテレビがあるのに」
あたしの言葉に、雅が抗議する。
「明日、一日空腹で過ごすつもりなら別にいいけど」
「……行く」
渋々承知した。一人で行ってもいいけど、やっぱり行かせなければ。
ただでさえ、当番さぼりがちな奴だから。
近くのスーパーは、七時半までやっている。テレビは録画する事にしたらしい。
食べ終わると雅がDVDのタイマーをセットした。
あたしは、雅がカゴに入れたお菓子をことごとく菓子コーナーに戻した。
ちょっとよそ見してるうちに、カゴがお菓子で溢れてたのだ。びっくり。
「おかずになるものを入れろっつってんの。おまーは幼児かっ」
懲りずに今度は、乳製品売り場からプリンだのアイスクリームだのを持って来た雅に、眉間にしわを寄せて言う。
雅がキョトンとした後、
「一個だけ。いい?」
プリンを両手で大事そうに持って見る。
「う、まあいいよ。冷蔵庫の中が栄養のないもので溢れなければ」
雅は喜んで、プリンとアイスクリームを入れた。しょうがないなぁ。
甘いもの好きなくせに太らんのが羨ましい。
それから肉を見ていると、餃子の試食をやっているおじさんがいた。
餃子を焼きながら、通りかかる客に声をかけている。
「お嬢さん、食べてって。ニンニクが入ってないから、臭いも気にならないよ」
雅が立ち止まる。あたしは無視して通りすぎた。後ろから声がする。
「嬌子ー、買おうよ」
あたしは、振り返って雅の所へ戻ると、彼女の腕をムンズとつかんで引っ張った。雅が不思議そうに聞く。
「何嬌子、どうしたの?おいしそうだったよ。ニンニクも入ってないし」
雅を引っ張って行き、おじさんから遠ざかったところで、あたしは足を止めて顔を寄せた。
「ニンニクの入ってない餃子なんて、邪道」
雅は、またキョトンとして、あたしの顔をじっと見た。そして、プッと噴き出す。
「何言うかと思ったら」
「餃子が食べたいなら、とびっきりおいしい餃子を作ってあげるから」
雅は真面目な顔であたしを見つめた。それから嬉しそうににっこり笑った。
「うん。じゃあ明日の夜ね」
あたし、ホッとする。
おじさんには悪いけど、やっぱり餃子にニンニクはつきものだよ。
臭いを気にしておいしいものを諦めるなんて、あたしには出来ない。…力説する程のことでもないが。
餃子の材料を買って、魚のコーナーを見る。パックに乗った魚を指差して、
「これがサワラで、これがカジキ。分かった?」
名前を教える。雅はふんふんと肯いて、復唱した。
「三つ入ってる方がサワラで、二つの方がカジキね」
数の問題じゃないって。あたし、がっかりして溜息をつく。教え甲斐がない。
「いい?買ってくのは鰆だからね。食べたら覚えるんだよ」
「…うん」
興味も自信もなさそうに返事をする。
別にいいけどさ。今時、魚の種類知らなくたってそれほど恥でもないし。
知らない子の方が多いよね。あたし、所帯じみてるかなぁ。
料理歴長いから仕方ないよね。贅沢じゃないけど、チープでおいしいものなら大抵作れる。こだわりもある。
あたしは和洋どっちでもOKだけど、時々、無性に食べたくなるのは和食。
春が旬の、菜の花のからし和え。菜の花のふんわり優しい香りが好き。
その香りをからしのつんとした刺激が追って来るのがまたいいんだ。切り干し大根とか豆腐の白和えも好き。
本に載ってる食事の場面も絵になってて憧れる。
小説で読んだイギリスのブレックファーストはベーコンエッグ。皿に残った卵とベーコンの脂をパンにつけて。
お茶の時間はサンドウィッチにスコーンにクッキー。紅茶にクッキー浸す。一度やってみたい。雰囲気で。
麺類は固めに茹でるのがおいしい。雅は洋食が好み。
味覚が子供だから、オムライスとかハンバーグをやると、結構喜ぶ。志保子も洋食好み。
雅には、時々夕飯の手伝いをしてもらうけど、いろいろうるさい。
フライパンの野菜を炒め続けるよう頼むと、手を動かしながら、肉を切ってるあたしの手元を覗き込んで
「あ、あたし、脂嫌い」とかってポツリと言う。
大根をおろすように言うと、あからさまに嫌そうな顔をして
「やだな、やだな。疲れるな」といつまでもぶちぶち言う。毎日作ってるあたしの身にもなってくれ。
でも、今までで一番の事件と言えば、やっぱりあれだろう。今思い出しても呆れる。
同居して一ヶ月くらいたった頃の事だけど、あたしはある催しに出かけて夜遅く帰った事があった。
雅はもう寝たらしくて、家中の電気が消えてた。あたしは鍵を開けて入り、電気をつけて台所へ行った。
すると、水につけて戻した後、ザルにあげてあった筈のひじきがない。
どうしたんだろうと思って探すと、なんと三角コーナー(つまり生ゴミ入れ)の中に捨てられている。
まさかと思ったがどう見ても、捨てられている。
その黒いかたまりを呆然と見ながら、ふつふつと怒りが込み上げて来た。家中に響き渡る大声で叫んだ。
「雅ーっ!!!」
夜遅かったけど、そんな事、忘れた。
ちょっとすると、雅の部屋のドアが開く音がして、台所のドアから寝ぼけまなこの彼女が姿を見せた。
「お帰り。どうしたの?大きな声出して」
目を擦りながら、呑気に言う。あたしは喚いた。
「あんた、何だってひじき捨てるのよっ」
雅は、頭がきっちり起きてない事もあってか、何の事か分からないと言うむーっとした顔をする。
「これよ、これ」
あたしが、もどかしくて捨てられてるひじきを指差すと、かったるそうにおでこに手を当てた。
「ああ。ひじきだったの?ゴミかと思っちゃった」
この悪気のない台詞。どうしろと言うの。ああ。
しばらく肩をがっくりと落として、あたしはもう、怒る気も失せて「おやすみ」と言った。
雅は素直に戻って行った。そして、ひじきの事は考えないようにして、そのあとはすぐ寝たのだ。
しかし、次の朝起きて捨てられているひじきを見たら、またムラムラと怒りがこみ上げて来た。
「信じられない」
せっかくおいしいひじき料理を作ってあげようと思ったのに。
それを、あいつは、あいつはっ。捨てただとーっ!
雅が起きて来て「おはよう」と言ったけど、答えられなかった。
それからその日は、一日中雅と口をきかなかった。視線も合わせなかった。
ひじきごときで、許してあげようと心の片隅ではもう思い始めていたのに、口は貝のようだった。
そして、一言の会話もなかった長いその日の夜。
いつものように居間で本を読んでいると、裕君宅から戻った雅がそのまま台所へ行った。
何かガタガタやっていたが、そのうちあたしの所へやって来て、
あたしが返事をしないのを知りつつ「ただいま」と声をかけて、自分の部屋へこもった。
あたしは、本を閉じて立ち上がり、そっと台所へ行ってみた。
そこには、ボールの中で水に浸っているひじきがあった。
そして、ボールの横に「ごめんね」と言うメモが置いてある。
あたしは、その場で本の続きを二十分ほど読んだ。
それからエプロンをかけて、ふやけたひじきをにんじんと油揚げと一緒に炒めて煮た。
それを皿に盛ったものを持って、雅の部屋のドアをノックする。返事がない。ノブを回して開ける。
雅は、ベッドに座ってしょげた目でこっちを見ていた。あたしは、大きな声で言った。
「バカっ」
それを聞いて雅が嬉しそうに笑った。あたしも笑う。
あたしは、雅の隣に座り、二人してひじきをつついたのだった。
「あ、ねぇ、たこやき買おう」
あの日の出来事を思い出しながらの買い物を終えると、
通りにたこやきの屋台が出ていて、雅が早速目をつけた。
「よく入るね」
「うん。買ってくる」
雅は、屋台に走り寄っていった。
ああ言う食べ物も、家で食べる物とはまた違う雰囲気でおいしいものではある。
あたし達は、夕飯を食べたばかりでパンパンのお腹に、さらにたこやきを詰め込みながら帰り道を歩いた。
「あたしねぇ」
歩きながら雅が、うつむきがちに言った。
「ん?」
もぐもぐ口を動かしながら雅を見る。雅は前方を見たまましみじみ言う。
「嬌子が好きだよ」
あたしは笑った。あのねー。突然、何言うかと思ったら。
「はいはい。ありがとね」
裕君の次に、でしょ。と心の中で言う。
「嬌子は?あたしの事好き?」
「ちょっと、それねぇ。普通の友達の質問じゃないよっ」
「いいじゃないの答えてくれたって。けちっ」
かーっ、二言目にはけちけちって、ねーっ。確かにけちだが…。
「ねぇ、どうなの?」
雅はしつこく食い下がる。あたしはたこやきを飲み込んで答えた。
「さあね」
「意地悪っ」
もう一つの二言目が出た、と思ったら雅が急に真剣な口調で言った。
「凄く不安なの」
あたしは、いきなりの態度の変化に眉間にしわ寄せる。
「何が」
「分からない」
何のこっちゃ。たこやき食べながらそう言う台詞を吐いても、あんまり迫力がないんだけど。
「分からないけど」
そう言って雅が黙り込む。あたしは少し、腹が立った。
原因も分からない事で、ただ漠然と不安だと告げられても、どうすればいいんだ。助けようがないじゃないか。
「何も不安なんてないでしょ。嫌いな親と離れて、裕君と会って、幸せバリバリじゃないの。
何が『凄く不安なの。』なんだか」
「うん…」
雅は、まだ少し元気が出ない声で返事をした。
「そう言うのを贅沢って言うんだよ。世の中には恵まれない人がいっぱいいるんだよ」
だんだん言葉に力が入って来た。
「不安だと思うから不安なのっ。原因も分からない事で不安がる事はないっ。分かったっ?」
返事がない。
あたしは、あまり捲くし立てても逆効果だと言う事に気づいて自分の気持ちを鎮める為にも黙った。
本当はあたしだって時々、いろいろ不安になったりする。でも、一人で元気になろうと頑張る。
情けない自分が嫌いだし、そう言う自分を見られたくないと思うから。
雅はまだ黙っている。あたしは、大きく息を吐いて雅が一番望んでる言葉を口にした。
「大好きだから。元気になる事」
雅の『手』だったのか、本当に不安だったのか分からないけど、
雅はそれを聞いて少し元気になって「うん」と肯いた。