かすみ草


怖い夢を見た時とか、何か失敗して落ち込んでる時とか、志保子はよく抱きしめてくれた。

そうすると、安心した。抱きしめると言う行為が好きだ。心も体も温まるから。

   

雅と二人で某ミュージシャンのDVDを見ながら、居間に布団を敷いて寝た日の朝。

あたしが、雅より早く起きて洗面所で顔を洗っていると、電話がかかって来た。

電話は、居間に置いてある。出てくれないかな、と思ってると、受話器を取る音がした。

「はいっ。はい。あ、はい。はーい」

元気よく答えて、ガチャンと切った。顔を洗い終わってから居間へ行くと、雅はまた寝ている。

揺すり起こして「誰だった?」と聞く。雅は、ぼーっとした顔でしばし考え、首を傾げた。

「忘れちゃった」

悪気のかけらもない言い方に、枕を取り上げて「寝てろ」と押しつける。

雅は、そのままころんと転がってへろっと笑った。諦めて食事の用意をする。

一人で食べていると、ようやく雅が起きて来た。

雅が食べ始めるのと同じくらいに食べ終わり、洗面所で歯を磨き始めた。

と、磨いてる最中にまた電話がかかって来た。雅が出る。

今度は忘れないだろう。と思っていると、やけに長い。裕君かな。

あたしは、歯を磨き終わって新聞を読んだ。

パラパラとめくって面白そうなところだけ拾い読みする。広告も目を通して。

それが終わっても、雅の電話は続いている。ま、いつも割りと長電話なんだけど。

それからトイレに入って、出てくるとちょうど受話器を置いたとこだった。

「長かったね」

と言うと、新聞を手に取りながら答える。

「うん。間違い電話」

あんまり平然と言うので、聞き流してしまいそうだったが、…何て?

「間違い電話、なの?」

「うん」

あたしは、雅の手から新聞を取り上げた。

「間違い電話と長話するんじゃないっ」

あたしが怒ると、雅はあたしの顔をじっと見て言った。

「眉毛、つながってるよ」

あたしは、思わずはっとして眉間を押さえた。あ?

「そんな事はどうでもいいっ」

かぁっとして、怒鳴る。けど、雅は全然こたえてない様子でテレビの電源を入れた。

「いいじゃない。料金、向こう持ちなんだから」

……。そっか。いや、そういう問題じゃないような。

と納得してしまいそうになった時、またも電話が鳴った。

よく電話がかかってくる日だ、と思って今度はあたしが出ると、いきなり怒鳴られた。

「何長々と喋ってんのよっ!!」

この声は志保子だ。

「志保子?」

「こっちは夜なんだからねっ!ぱっとかけて寝ようと思ってたのに、どこの誰と喋ってんのよっ!!」

かなり頭に来てるらしく、凄い剣幕でまくしたてる。

長々と、ほんとに誰と喋るんだ。あたしは。

「そんな事言われたって。あたしじゃないよ。雅」

それを聞いて志保子が黙る。人のせいにする気はないけど、ほんとの事だもんね。

「久しぶりだね。どうしたの?」

険悪な雰囲気を受話器越しに感じながらも、こっちから問いかけると、

ほんとにかわいくないとか何とかいつまでもブツブツ言っている。

「用がないなら切るよ」

と言うと慌てた。

「あーっ。あのね、もうすぐゴールデンウィークでしょ。こっちに来ない?」

こっち?

こっちと言われて、あたしは改めて志保子のいる場所を思い出した。

一瞬、頭の中が赤白青の三色トリコロールになる。

「こっちって、まさかフランス?」

「そうよ。花の都パリ」

花の都、と言う志保子の口調が浮かれた調子になる。

そりゃ、志保子にとってはいいところなのかも知れないが。

それが、あたしの心も浮かれさせるかと言うと、そうじゃないんだよなぁ。

あたしは、パリと言う街を想像して顔を歪めた。あの感じとは、どうも相性が良くないような気がする。

行きたいと思った事もない。

「せっかくだけど、行かないよ」

悪いけど、正直に言ってしまう。

「どうして」

「だってパリなんて興味ないんだもん。お金もかかるし」

一瞬、ひるんだように志保子が黙った。その後、

「チケット送るから。宿代が浮くから来なさいって言ってるの」

母親らしく、諭すように言う。でも。

「英語もできないのに、フランスだなんて。スリもいるし」

「私がいるから大丈夫」

「興味ないとこに行ったって、つまんないんだもん。休みは日本で過ごしたい」

「……」

志保子が再び黙る。今度は、愚痴もこぼさず完全に黙っている。それから、絞り出すように言った。

「私に、会いたくないの?」

「会いたいよ。だから、一度日本に戻っておいでよ」

志保子は、またしばらく黙った後、一転して恨みがましい口調になって言った。

「ああ。あんたってそう言う子よ。いーわよ。戻るわよ。戻りゃあいいんでしょ。覚えてらっしゃい」

がちゃん。電話は一方的に切られた。

自分の娘に向かって、覚えてらっしゃいっつー捨て台詞もないだろうと思うが。

ふと顔を上げると、そばで聞いていた雅が、あたしを指差して言った。

「悪いんだぁ」

ごんっ。憎らしい言い方をするので、ひとつ殴ってやると「ひーん」と泣く真似をした。

三月二十一日。春分の日のことだった。

   

時は流れ、五月二日。

明日から四日間の休みに入る。

日本に戻ると言っていた志保子は戻って来る様子がない。あれ以来、連絡もない。

「明日から休みだね。どっか行こうよ」

昼休みに、お弁当を食べながら雅がウキウキと言った。

「パリとかさぁ」

からかってるとしか思えない口調で笑う雅を睨む。

「…嫌な奴」

なんだか食欲がないけど、無理してお弁当のおかずを口に運ぶ。

雅もデザートにとりかかり、顔を上げると真面目な表情になって怪訝そうに言った。

「ねぇ、なんだか顔色が良くないよ」

「うん。実は食欲がなくて」

「えーっ、もしかしていつものあれ?まだ夏じゃないよ」

いつものあれ?…ああ。夏バテが胃に来るやつの事か。

と考えてから、そんな事が少しも頭になかったあたしは、

脳裏をあの夏の風が吹き抜けて行く光景がよぎって、嫌ーな気分になりムッとした。

「思い出させないでよね。あれとは違うよ。でも、なんとなく体がだるい」

ほうっ、と溜息をつく。どうしたんだろう。頭も痛い。

「大丈夫?」

「うん。多分すぐ治ると思う」

雅が、あんまり真剣な顔で聞くので、笑って答える。雅は、それを聞いてまた元の表情に戻った。

「良かった。じゃ、どっか行けるね。本気で考えよう」

あたしは、投げやりな気持ちでお弁当と格闘した。

「ゴールデンウィークなんて、どこ行ったって混んでるよ。今から計画するなんて遅すぎるし。

それに、裕君とどっか行けばいいじゃない」

雅は、デザートの苺をフォークに刺して、それに言い聞かせるように目線を落とした。

「ゴールデンウィークは、嬌子とどっか行くって決めたの」

「どうして。気を遣わなくていいよ。それとも裕君とけんかでもしたの?」

「ううん。そんなんじゃなくて」

雅は、困ったように苺をもてあそぶ。それから、あたしを真正面から見据えた。

「嬌子こそだよ。裕君のことなんて考えなくていいのに。あたし、自分から裕君の話、しないでしょ。

嬌子に気を遣わせたくないからだよ。

嬌子の事、同じくらい大事だと思ってるのに、どうして彼氏を優先しなきゃならないの?」

あたしは、箸を持ったままポカンと雅を見つめた。雅は真剣な顔をしている。

どうして?と聞かれても。

一般的には彼氏を優先するものだし、

こっちが少しも気を遣わないのは『気が利かない』と言うことになるのだ。世間では。

それに、よくもまあこう言う赤面ものの台詞を面と向かって言えるものだ。

嬉しいと言えば嬉しいけど。思わず、唖然としてしまう。

「あのさ、雅。その理屈から行くと、裕君、かなり淋しい想いしてるんじゃない?」

苺をもてあそぶ手を止めて、雅は首を傾げた。それから、目を閉じて首を振る。

「分からない。…そうなのかも知れない」

とても憂鬱そうな表情で、思い当たることがあるように一点を見つめる。そして顔をあげると、

「どうしよう」

と聞く。

「どうしよう…って。やさしくしてあげればいいじゃない」

「それは、裕君を選べって事なの?」

雅が悲しそうな表情をし、あたしはドキッとした。雅の瞳があたしを捕らえる。

そうだと言えば、あたしは雅が裕君を選んでも平気で、それほど雅を好きでないと言うことになる。

少なくとも、雅はそう思ってしまう。

違うと言えば、あたしは、裕君よりあたしを大切にしろと言っているよう。

そんな事を言う気はもちろんない。でも、雅はあたしがそう言うのを望んでいる?

あたしは、箸を握る手に力を込めた。雅は、ふいっと視線を反らす。

「別れようかな」

「ばかっ。何でそうなるのっ」

「だって、あたしは両方とも好きなの。どっちも選びたくないの。

今のままじゃ駄目なの?彼を大事にするのが普通なの?」

頭が、余計ガンガンしてきた。そんな事、あたしに聞くなーっ。

あたしにだって、分からない事はたくさんあるんだっ。うー、胃もムカムカする。もう駄目だ。

あたしは、お弁当に蓋をした。これ以上食べられない。

思い詰めたようになってた雅は、あたしの動作を見て、ふいに解き放たれたみたいに不思議そうな顔をした。

「もう食べないの?」

「うん。ちょっと保健室行って、薬もらってくる」

雅を残して教室を出ると、あたしは溜息をついた。『とても窮屈』と心が言う。

ああ言う話は苦手だ。まるで崖っぷちに追い詰められたよう。

でも、いずれは考えなければならない。雅がああ言うばかげた事を言う限り、いつか突き放さなければならない。

いつまでも一緒にはいられない。そして、例えば雅が裕君と結婚したなら、雅は裕君のものになる。

あたしは、夫婦を遠くから見守る友達。

突然、とても憂鬱な気持ちになった。雅があんな事言うから。…愚かだよなぁ。

   

保健室で、先生が季節の変わり目の風邪だろうと言うので、風邪薬をもらって教室に戻った。

役立たずな風邪薬は、いっこうに効いて来る様子がなく、だんだん顔が火照って来たが、

とにかく午後の授業を全部出てから家に帰った。

雅は、昼の話なんか忘れたみたいに、テレビを見て笑っている。結局、どこかへ行く予定も立っていない。

あたしは、痛む頭を抱えつつじゃがいもを剥いていた。夕食の準備を終えたら寝るつもりだ。

動く度に、脳味噌が外枠にガンガンぶつかっているように痛む。

鼻も出て来た。寒気もするし。雅は元気だ。何とかは風邪引かんと言うからな。

「てっ」

くらくらする頭で、じゃがいもを刻んでいたら指を切ってしまった。ひとさし指から血が出る。

その血をじっと見る。

何かが、頭の隅にひっかかっている。大事な事。

釈然としない気持ちのまま、あたしは救急箱のある居間へ、バンドエイドを貼りに行った。

「どうしたの?わっ、切ったの?」

雅が指を見て驚いてから、あたしの顔を見てまた驚いた。

「ちょっと、熱あるんじゃない?顔赤いよ」

「うん。支度できたら寝るから」

なかなか上手く貼れなくて苦労していると、雅が寄って来た。

「貼ってあげる」

そう言って、バンドエイドをあたしの指に巻きつける。血がじわっと広がった。

真剣に貼っている雅の顔を何となく見つめる。

化粧をされた時と同じシチュエーション。真剣な表情の雅は、綺麗だなぁ。

見つめられている事に気付いた雅は、照れくさそうにした。

ドキドキする。あたしは目を閉じた。くらくらする。ドキドキ、する。

「…嬌子。嬌子っ」

雅に呼ばれて、ハッとする。心配そうな雅の顔が目の前にある。

「ねぇ、大丈夫?もう寝たほがいいよ。夕食はあたしが作るから」

「あ…うん。そうする。でも、作れる?」

「あたしだって、やる気になれば」

雅が言い切り、いつもなら何か言い返すところだけど、

そうする気力もなくて無理して笑顔を向けると、言われるままベッドに横になった。

体温計を渡されて測ると、三十八度あった。

平熱が三十六度だし、滅多に熱が出る事のないあたしにしては、かなりあるほうだ。

つらいよぉ。

雅があたしの為に、お粥を作ってくれると言う。ちょっと不安だ。

「ジューリアー、オーシャンチャーイ♪」

雅の歌声が聞こえる。条件反射になっているらしい。…どうでもいいけど、気持ち悪くなって来た。

あたし、立ち上がってトイレに向かう。吐きそう。心持ちからだを前かがみにして歩く。

そして、トイレで少し吐いてからドアに持たれてしゃがみ込むと、動けなくなってしまった。

ちょっと。真剣、つらい。

吐き気が持続しているので、ベッドに戻れない。冷や汗が噴き出してくる。

その後、数回吐き、吐くものがなくなってもまだ気持ち悪かった。きつく目を閉じて気持ち悪さと闘う。

あまり長い間あたしがトイレから出て来ないので、雅が外からノックした。

「嬌子?どうしたの?」

「大丈夫」

うずくまったまま、答える。

「大丈夫なら開けて。お粥も出来たから」

「…めん。食べられそうにない」

「そんな状態なら、大丈夫じゃないんじゃないっ。

大丈夫じゃないのに、大丈夫って言わないでっ。ここを開けて」

少し怒ったような口調に、仕方なく開ける。

あたしは叱られた子供のような気持ちで、雅の目を避けて立ち上がった。眩暈がする。

「病院へ行こう」と雅が言ったけれど、もう病院は閉まっている時間で、明日からは連休だ。

とにかくもう吐きたくても吐けないので、ベッドに戻った。

そうして、気持ち悪いながらも十二時くらいまでうつらうつらしながら浅い眠りの中を漂っていた。

いろんな夢を見た。

小さい頃の夢や、学校で遊んでいる夢。雅が芸能人になって、友達としてスタジオに会いに行く夢。

それから、あたしに似た人が家のそばに現れて、実は本物の母親だったと言う夢。長い夢だった。

あたしが、彼女を自分の母親だと気付くまでに随分長くかかり、絶対認めないと拒み続けるのに、

諦めて去って行く背中に「お母さん」と呼びかけようとする。その呼びかけそうになったところで目が覚めた。

目が覚めると、何と志保子がいた。あたしを覗き込んでいる。

「志保子っ」

あたしは驚いて、叫んだ。

そして、志保子以外の人を「お母さん」と呼んでしまいそうだった自分が怖くて、覗き込む彼女の首にかじりついた。

「え…。き、嬌子?」

でも、驚いたようなその声は雅のそれで、離れて見ると、あたしは雅に抱きついていた。

志保子だと思ったのは、雅だった。見間違い…。

あたしは気の遠くなる思いで腕を降ろすと、目を閉じた。熱い。

「嬌子。ねぇ、嬌子、大丈夫?」

雅が心配そうに声をかける。雅がいる。

こんなに気持ち悪いけど、とりあえず。一人じゃなくて、良かった。

その後、眠れなくなってしまった。起きていると気持ち悪さばかり感じてしまう。

右を向いても左を向いても、どっちを向いても気持ち悪さが減る体勢が見つからない。

逃れられない。気持ち良くなりたいと言う脳に、体がことごとく反発していると言う感じだ。

とてもいつもと同じ体とは思えない。情けない。

「寝ていいよ」

いつまでも起きてる雅に言う。雅は何故か涙目だ。

「だって、志保子おばさんとあたしを間違えるなんて、相当だよ。どうすればいいの?」

「大丈夫。あれは寝ぼけただけ。寝ていいって」

そう言ったけど、実際のところ良くなるかどうか分からなかったし、雅は寝なかった。

あたしは、一晩中気持ち悪さから逃れようと寝返りをうち、やがて東の空が白み始めた。

朝の七時ごろ。いい加減疲れてゲッソリしていると、裕君が姿を現した。

雅が上着を着せてくれる。裕君が、あたしの腕に手を通して担ぐようにして車に運ぶ。

「…裕君。どうして?」

あたしが聞くと、彼は無表情で答えた。

「電話があったんだ。『嬌子が死んじゃうっ』って」

「……」

あたしは、後部座席で転がったまま目を閉じた。胸まで痛くなって来た。

   

裕君の車で病院へ向かい、急患と言う事で点滴を打ってもらった。

それから薬も飲んでしばらくすると、それまでの気持ち悪さが嘘だったかのように、楽になった。

結局、やっぱり風邪だったらしい。

吐いてばかりで水分を補給しなかったので、脱水症状を起こしていたようだ。

夏以外は病気知らずな体だったのに。これからは気をつけよう。

点滴と薬の力は偉大で、気持ち悪さも熱もすっかりなくなったので、少しご飯を食べてから、ぐっすり眠った。

次に目を覚ました時、もう熱も下がった筈なのに目の前に志保子がいた。

ベッドの脇に座って、見下ろしている。

また雅と間違えているのかなと思って、二度とあんな失敗をしたくない事もあってじっと見ていたら、喋った。

「戻って来いって生意気言うから帰ってみれば、何、このざまは」

あたしは驚いた。本物だっ。

「私の誘いを断った罰よ」

病人相手に、勝ち誇ったように…言うか?普通。

「う、うるさいなっ。帰る時は、連絡ぐらいしてよねっ」

一気に目が覚めて、いつもの調子で強気に出ると、頭がくらくらした。

うーん。良くなったとは言っても、まだ本調子じゃないな。体に力が入らない。

「ほらほら。無理するから」

志保子が、優しく笑ってあたしの額に手を置く。その手の穏やかさを心地良く感じた。

あたしも笑って、志保子を見つめる。

「おかえり」

あたしが言うと、志保子はあたしの頬にキスをして「ただいま」と言った。

あたしも少し上体を起こして、志保子の頬にキスをする。

「会いたかった」

「私もよ。何か欲しいものある?桃の缶詰、食べる?」

あたしは、肯いた。志保子は、缶詰をガラスの器にあけると、フォークを添えてあたしに差し出した。

それをじっと見て思った。

このさい、甘えてしまえ。

「食べさせて」

志保子は笑ったけど、意外とすんなり聞いてくれた。

口を開けると、桃をフォークで切って口に入れてくれる。おいしー。

志保子が口に運びながら、

「あんたの手料理を楽しみにして来たんだけどなぁ」

だの、

「雅ちゃんに迷惑かけるんじゃないのよ」

だのいちいち小言を言う。

「娘の手料理を楽しみに帰国する親も珍しいと思うけど?

それに、いつもは迷惑かけるの雅のほうなんだから。それと、手紙が少ないぞ」

負けじとやり返して、食べ終わってからおまけにポツリと付け加えた。

「化粧が濃い」

器をテーブルに置いた志保子は、自分でもそう思っていたのか慌てて手で頬を覆った。

芸能人でもそうだが、外国に行って長く滞在すると化粧が濃くなるようだ。

「やっぱりそうなのかなぁ」

手で頬を覆ったまま、志保子が不安げに聞く。それを楽しむように見てから、あたしはにかっと笑った。

「でも、似合ってるからOK」

志保子は、それを聞いてほっとしたように手を降ろした。

それから、志保子は向こうでの生活の事をいろいろ話し、あたしの生活の事をいろいろ聞いた。

「学校は楽しい?」

「うん。まあまあ」

「恋してる?」

突然の思いがけない質問に、言葉に詰まる。それから情けなく笑って答える。

「ま、いいじゃないか。ははは」

そんなあたしを愛しげに見て、志保子が呟く。

「いい恋をして、幸せになる事」

お土産も披露する。変な物ばかり買って来るので、大いに笑った。

そして夜遅く。あたしが寝る頃、こっちの友達数人にそれらを渡しに出かけて行った。

あたしの休みが終わった翌日の便で、パリへ戻ると言う事だ。

次の日。志保子は買い物に出かけ、かすみ草を買って来てあたしの部屋に飾った。

せっかく帰って来たのに、あたしがまだ寝ているので、ほとんどの時間をあたしの部屋で過ごしている。

「日本って、花が高いのねー。忘れてたわ」

と言いつつ、両手いっぱいのかすみ草を買って来た。

「『かすみそう』なんて縁起の悪そうな花、病人に買って来ないでよ」

「いいじゃない。死ぬような病気じゃないんだから」

ああ言えば、こう言う。の典型だな。

彼女が楽しそうに花瓶に花を生ける。大量のかすみ草。BABY’SBREATH。

彼女はこの、白を散らした、まさに天使の吐息といった感じの花が大好きだ。

生け終わると、志保子は首を傾げて幸せそうに花を眺めた。

「この花を見るたび、嬌子が赤ちゃんだった頃を思い出すわ」

「悪かったね。こんなに育っちゃって」

志保子はプッと吹き出した。

「そうじゃないのよ」

ひとしきり笑ってから、ふと笑うのをやめて、まっすぐにかすみ草を見つめ直す。

「聞きたい?」

かすみ草を見ながらそう呟くと、瞳に厳かな光を湛えて、志保子があたしに視線を移した。

「え?」

何の事か分からず問い返すと、もう一度かすみ草を見る。

「私が嬌子を引き取った、本当の理由」

あたしは、志保子をまじまじと見た。

まさか、志保子が自分で言い出すなんて思いも寄らなかった。ずっと曖昧なままで通すのかと思っていた。

別に、「結婚はしたくないけど、子供が欲しいから引き取った」と言う理由にしておいたって構わないのに。

言うのは…つらいに違いないのに。

あたしは、志保子から目を反らすと笑って首を振った。それを見て、今度は志保子が驚く。

「知ってる…の?」

あたし、困ってうつむく。もぐもぐと呟く。

「…何となく」

だって、一緒に暮らしていれば分かってしまうよ。

細かい事情までは分からないけど、彼女は子供を産まないのではなく、産めないのだ。

あたしは、自分の生理が始まるまで前記の理由を信じていた。志保子らしい、とさえ思っていた。

心から納得できる理由じゃなかったけど、そのほうが良かった。

彼女に生理がない事に、つまり本当の理由に気付いた時のほうがよっぽど悲しかった。

志保子は、子供が産めない。そして、あたしを引き取った。結婚もせず。

何があったか分からないけど、詰まるところはそう言う事なのだ。

志保子は、拍子抜けしたようにベッドの脇に腰を降ろした。

「そう。知ってたの」

「ごめんなさい」

志保子が、元気に笑ってあたしの頬をつまむ。

「どうして謝るの。つらい事を言わずに済んで助かったわ」

あたしは、せつなくなった。

「お母さん」

彼女は、一瞬驚いて、それから微笑んだ。

「志保子と呼びなさい」

「うん。志保子」

やっぱり。あたしの母親は志保子だけだ。大好きだと思える、この人だけ。

   

志保子は予定通り四日間家にいて、学校が始まると同時に去って行った。

あたしが、学校に出かけた後に。いつもだけど、見送られる側になるのが嫌いで、絶対に見送りをさせてくれない。

出かけ際に聞いた。

「あたしを引き取って良かった?」

彼女は即座に答えた。

「もちろん」

「大人になっても何もしてあげられないかも知れないよ」

「そんな心配しなくていいの。それより、何か不満はない?」

「志保子がいない事が不満かな。…なんちゃって」

またしばらく会えないなぁ。思い出して、あたしはちょっとだけ淋しさを噛み締める。

志保子が家にいる間、雅はほとんど姿を現さなかった。

志保子に挨拶くらいはしたようだけど、親子水いらずと言う事で気を遣っていたようだ。

自分だって、気を遣うじゃんか。フン。と、すっかり良くなったあたしは悪態をつく。

結局、雅は休みの間ずっと裕君と過ごしたらしい。いい傾向だ。

裕君が病院から帰る際に言った台詞を思い出す。彼にお礼を言った時に、彼が複雑な表情で言った言葉だ。

「最近、雅は嬌子さんの話しかしないんだ」

もし、本当だとしたら、彼はいい気がしていないのだろう。

あたしの事が好きだから彼と別れる、なんて馬鹿な事を言う奴だから、

本当にそう言う態度をとってるのかも知れない。

あたしだって、雅は好きだ。好きだけど、失いたくないけど、でも今回雅が裕君と過ごした事は正しいと思う。

あたしは、学校でお昼の時間に雅にお礼を言った。照れ臭かったけど、言わなければ、と思った。

「ごめん。迷惑かけて」

お弁当の最中に、あたしが俯き加減で改まって言うと、雅は一瞬箸の動きを止めて、

それから同じように照れくさそうにして首を振った。

「ううん。そんな事」

そう言うと、俯いて嬉しそうに笑う。

「よくなって、良かった」

その表情がやけにかわいく思えて、あたしは少し見とれた。

見とれてる自分にハッとして、その動揺を隠すようにお弁当の続きを食べ始める。

あたしったら、これじゃあ危ない世界だわ。ふと裕君の複雑な表情が脳裏を横切る。

…なんだか、また頭が痛くなって来た。

   

あたしは、日曜日に街中の図書館に出かけた。地下鉄の入口で、アンケートの人につかまった。

開口一番、彼女が聞いた。今、一番大切だと思うものは?

ぼーっと歩いてたあたしの頭に、雅がふっと浮かんでドキッとする。

あたしは、慌てて別の事を考えて、それを吹き飛ばすように大きな声で言った。

「健康!健康じゃないと何も出来ないからっ」

これは、今回のことで痛感した事だ。ババくさくても本当の事だ。

気持ち悪さと闘うだけに時間を費やすなんてもうこりごり。何もかも、健康だから出来ること。

「ああ。そうよねぇ。今一番大切なのは、健康、と」

彼女が手に持っていた板の上の紙に書き込む。三つくらい年上に見える彼女は、

これからどこへ行くのか、とかどうでもいい事をたくさん聞いて来て、

つきあってるといつまでも終わりそうにないので、適当に離れて図書館へ向かった。

どう言う答えが欲しかったのか知らないけど、…暇な人。

 

 

     

 

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