夏の海
四時限目が始まってすぐ。あたしは、教科書を忘れたことに気付いた。
やばい。と思った時にはもう遅い。他のクラスに借りに行く時間もないし、わぁ。先生が入って来た。
「きりーつ」
級長の号令がかかる。あたしは、もう焦ってもしょうがないと観念して、着席と同時に手を挙げた。
「先生」
先生がびっくりしてあたしを見る。
「なんだ?」
「岩城嬌子。教科書忘れたんで、廊下で立ってます」
そう言うと同時に立ち上がって、
「お、おいっ」
先生が呼び止めるのも聞かずに廊下に出た。パンのいい匂いが鼻をつく。
学校のそばにパンを作ってる工場があって、昼近くになると風に乗ってパンの香りが流れて来るのだ。
畜生。腹が減ってるって時に流すなよ。
後ろ手に扉を閉める。とすぐに閉めた扉が開いて雅が出て来た。
「何よ、あんた」
「あたしも、教科書忘れたの」
「……」
嘘ばっかり。
あたしは、呆れ顔で雅を見た。
「バカじゃない」
言われる事を予期していたのか、雅あたしの言葉に何の反応も示さず平然としている。窓の外を見て。
あたしも窓の外を見る。南向きの校舎。廊下の窓から見えるのは北側の景色。
空が青い。長い廊下の向こうに見える非常口を開けて、この建物を逃げ出して遊びに行きたい気分。
だけど。
あたしは、ある事を思って、ちょっとげんなりした。
だけど、外を吹いている風は、確実に真夏が近づいている事を告げているに違いない。
雅が家へ来て、テレビを見ている。あたしは、その横で本を読んでいたが、頭は違う事を考えていた。
去年の夏の事だ。つまり雅と知り合って間もない初めての夏。まだ、あたしが雅を全面信用していなかった夏。
あたしは、雅の「海へ行こう」と言う誘いを、去年の今ごろ断り続けていた。雅は既に馴れ馴れしかった。
雅と行くのが嫌だったわけじゃないし、泳ぐのが嫌いなわけでもない。雅は、
「どうしてそんなに意地悪なのぉ!?」
と言ったが、決して意地悪なんぞでもない。
なら、どうして断り続けていたかと言うと、海へ行く頃には体調の悪くなる事が、分かっていたからだ。
夏になると、必ず胃を壊す。
どうにも暑さに弱くて夏バテが激しいんで、みんなが海を目指す頃には体力がすっかりなく、
楽しい夏を送った記憶がない。
ほんと言うと、春に生暖かい風が吹いただけで、真夏の情景を垣間見たようで嫌ーな気分になるんだよね。
それくらい、夏を恐れている。情けない事に。
だから、断り続けたんだけど、あたしの夏バテ具合を目の当たりにした事がない雅はますます燃えて、
なんだかんだと説得して来た。
「意地悪ばばぁっ」
次第に、言葉づかいも悪くなる。でもって、あたしがてこでも動かないと分かると、
「行かないなら、一人でも行く」
と言い出した。
あたしとでなきゃ嫌だと言うところが、友達冥利に尽きると思ったし、
一人で行かせてつまらん男にナンパされても気に喰わんと思ったんで、
泳がないからね、と念を押して仕方なくついていく事にした。
そして、当日。
案の定、あたしの胃は壊れてダウンしていたが、悪魔のような雅が予定通り迎えに来て、あたしは海にいた。 そう。去年の夏の事だ。懐かしくも苦々しい、夏の思い出話。 あたし達は、雅のお父さんの知り合いの人の別荘にいた。裏がすぐ海になっていて、なかなか立派な建物だ。 目が覚めると、胃の具合を確かめてみた。どーんと重い感じがする。 やっぱり泳がない方がいいんだろうなぁ。 雅のベッドを見ると、まだ早朝なのに裳抜けのからだった。 夕べ、「明日早く起きて、浜辺を散歩する」と言っていたが本当に行ったらしい。 さっきあたしに一緒に行かないかと声をかけたような気がするけど、まだ眠かったんで断った。 あたしはベッドを出ると、海側の窓を開けた。白いワンピースの少女が、渚に立っている。 早朝の浜辺は、夏でも人気(ひとけ)がなく、それでいて、 これから始まる元気のいい一日を連想させるまばゆい力を持っている。 少女が一歩二歩と歩を進めるたび、スカートの裾がひらひらと揺れる。 絵になるなぁ。ちくしょー。 彼女がこちらに向かって手を振った。雅だ。 「嬌子ー」 はいはい。何だね。朝から元気な奴。 「泳ごうねーっ」 ……。 あたしは、げっそりしてカーテンを引いた。 昼間になると、海辺に人が溢れ、あたし達もその中にいた。照りつける日差し。はしゃぐ人々。 パラソルの下で、マットを敷いた上に座って本を読むあたしに、雅が聞く。 「ねぇ。泳がないの?」 「泳がない」 あたしの決意は堅かった。泳げば後悔する事が目に見えていたから。 「ねぇ。君達いくつ?」 軽そうな男たちが、定期的に声をかけていく。ほとんど雅が目当てなのが分かる。 雅は慣れてるのか、適当にあしらってすぐにあたしに向き直る。 「泳ごうよ。ほら、沖の方なんかキラキラしてすっごく綺麗だよ。 あたし、帰れなくなるくらい沖まで泳ぎたいなぁ」 どんなに綺麗でも、どんなに気持ち良くても泳がないのだ。問題はそこじゃないのだ。 雅は、あたしの決意がかなり堅いと見てとると、立ち上がった。 「あたし、一人で泳いで来る。泳ぎたくなったらおいでよね」 そう言って、海へ向かって歩きだす。膝まで漬かった辺りで声をあげる。 「嬌子ーっ。気持ちいいよぉ」 何と言われても泳がないってば。 雅はあたしに背を向けると、どんどん沖へ向かって歩き出した。あたしは、本を読みながら様子を伺った。 顔を上げるたびに、雅の姿が次第に小さくなっていく。時々振り返るけれど、止まる様子を見せない。 最初は、その手に乗るかと思って無視していたあたしも、だんだん心配になって来た。 もう随分沖まで行ってしまっている。 あの馬鹿。ほんとに帰れんぞ。足でも吊ったら、どうするんだ。 「帰れなくなるくらい沖まで泳ぎたいなぁ」 雅の言葉が脳裏をよぎる。 本を閉じて、立ちあがる。泳がないとは言いつつ、一応水着姿だ。そのまま雅の後を追った。 必死で水をかいて進んだ。夏は苦手でも、泳ぎは得意だ。 追って来るのに気付いてようやく止まった雅が、追いついたあたしに無邪気に言った。 「やっぱり来てくれたんだねっ」 あたしは、気が遠くなる思いだった。 やっぱり来てくれたんだねっ。じゃねぇよっ。 そのあと。あたしは腹を冷やしたせいで思った通り腹痛に襲われ、トイレとお友達になってしまった。 残りの休み中ずっと、器に残ったかき氷みたいに悲惨な状態で過ごした。 青い顔で、そよ風に吹かれたら倒れそうにさまよい歩くあたしを見て、雅も二度と海へ行こうとは言わなかった。 そう。あれは去年の事だった。また夏がやって来る。が。まさか誘って来たりしないよね。…まさかね。 ふと思い出した夏の出来事だったが、すぐに忘れてその日は終わった。 次の日。放課に雅が来て嬉しそうに言った。 「もうすぐ夏休みだねっ」 「うん」 「海行こうねっ」 バサッ。手から本が落ちた。