深い青い海の魚


 

「嬌子ーっ」

雅が叫ぶのが聞こえた。

「手紙来てるよー」

「ほんと?持って来て」

   

志保子から手紙が来た。

あいつは筆不精なもんだから、四ヶ月もたつのにこれがやっと二通目だ。

一通目の手紙だって、すぐ書くからって言ったのに二ヶ月も書いてよこさず、

あたしの方から出して請求したらやっと返事として書いて来たのだ。

その時は思わず電話しちゃったね。志保子のアパートに。志保子は言った。

「忙しくて書いてらんなかったのよっ」

「嘘つきっ。もうあたしの事なんかどうでもいいんでしょっ」

「そんな事ないってばっ。電話代もったいないから切るよ」

「電話代とあたしとどっちが大切なのっ」

「あーもうっ。あんたに決まってんでしょっ」

「よし。じゃ切るね」

なのに、また二ヶ月も音沙汰なしだったのだ。

これでしょーもない内容だったらただじゃおかんぞ。

あたしは、手紙の封を切って便箋を取り出すと、中を開いた。

雅が横から覗き込む。その頭を手で遠ざける。

「ケチッ。見せてくれたっていいじゃないっ」

「あたしが読んでから」

あたしは、雅と向かいあうようにして手紙を読み始めた。

『愛する嬌子へ』

げっ。あたしは、出だしだけ読んでびっくりしてしまった。

いきなり書くなよ。恥ずかしい。

「どうしたの?ねぇ。顔が赤いよ」

雅が不審気に聞く。あたしは、雅を見て。でも、また続きを読み始めた。

『こんちわ。嬌子、元気にやっていますか。

しばらくご無沙汰してしまい、また怒ってると思うけど、ごめんなさい。私はとても元気にやってます。

やっぱり、この街の空気は私に合ってるようです。毎日がとても忙しいけど、楽しいの。…嬌子もそうだといいけど。

学校は楽しい?何か困った事はない?

あんまり手紙書いたり電話したりしないけど、嬌子の事を忘れた事なんて一日だってないから。

本当だって。毎日写真眺めてるし。改めてかわいいな、なんて思ったりして。』

あのね。

あたし、写真眺めてる志保子を想像して、ムズムズし始めたこめかみを押さえる。

志保子が、出かける数日前に、向こうへ持って行くあたしの写真を物色していたのを思い出した。

「あたしの写真?」

「そう。だって、欧米の人って家族の写真持ち歩くって言うじゃない。私も向こう行ったら娘の自慢するの」

あたしは、恥ずかしいから時々出して眺めるだけにしてよ、と言ったのだ。

『いつでも愛してるから、忘れないで。いつでも愛してて。それじゃあ。』

えっ。もう?

『From嬌子の大好きな志保子。

あ、そうそう凄く遅くなったけど十七歳おめでとう。HAPPY BIRTHDAY!

この間の手紙に書き忘れちゃって。』

あたしは、愕然とした。それから手がわなわなと震える。

ハ、ハッピーバースディって、いつの話をしてるんだっ。あたしの誕生日は5月だぞっ。

もう三ヶ月も前の話じゃないかっ。

しかも、こんっな大きな文字で枚数増やしやがって。それに、言葉が若者してるぞっ。

全く意識だけはいつまでも若いつもりなんだからっ。

それにっ。

「嬌子、嬉しそう」

……。

うん。嬉しいんだ実は。どんな事が書いてあっても。心で悪態ついても顔が笑ってしまう。

読み終わったのを知ると、雅が催促の手を出して来た。

「あのさ。やっぱりこれ読みたい?」

「えーっ。どうして?見せてくれるって言ったじゃない」

「うん。言ったけど…」

「じゃあ見せてよ」

「他人の手紙読んだら駄目なんだよ」

雅が目を大きく見開く。

「信じられなーいっ。そんなーっ。嘘つきっ。わーん、読みたいっ」

抗議の声を挙げる。そのあまりの凄まじさに、あたしは手紙を渡した。でも。

恥ずかしいなぁ。もう。

雅が静かになって、読み始めた。と思ったら、だんだん表情が真剣になって来た。

真面目になるような内容かなぁと思い返していると、雅が手紙を見たまま呟いた。

「いいな」

ちょっと拗ねてるような表情。そして、顔を上げるとあたしを見て笑った。

「ねぇ。今日泊まってっていい?」

「別にいいけど、明日学校だよ」

「うん。朝早く帰るから」

   

あたしのベッドの横の床に、お客様用の布団を敷いた。雅にあたしのパジャマを貸した。

今、一緒にあたしの小さい頃のアルバムを見ている。

あたしはベッドに寝て、床の雅が見ている上から見る。

あたしが幼稚園の頃の頁。

海辺を、志保子の長袖Tシャツを袖折り曲げてワンピース風に着て嬉しそうに歩いている写真。

志保子に、頬にキスされてる写真。

二人して写ってる写真は、ほとんどタイマーで撮ったものだ。いつも、

「動かないで。動いちゃ駄目よ。志保子が行くから、そこにいるのよ」

と注文された。

でも、このキスの時は人に頼んだんだと思うけど…。

変に思わなかったかな、その人。あたしも心なしか照れてる。

雅が頁をめくる。当然の事だけど、あたしが徐々に大きくなっていく。

被写体は変わらない。志保子とあたしだけ。二人の成長アルバムだ。

誰が見ても、本物の親子に見える。それが、嬉しい。

雅は、終始無言で頁をめくっていた。表情は見えない。笑っているようにも真剣なようにも見える。

パタム。全部の頁が終わりアルバムを閉じると、雅はほうっと溜息をついて、

「今だけ、落ち込んでもいい?」

いつもの元気が感じられない声で言った。

そんな気はしていた。今日の雅は、なんだか変だ。

「うん」

「今だけだから。ごめん。もう電気消そう」

あたしは、言われた通り電気を消して、ベッドの中であお向けになった。

雅もあお向けになったようだ。こっちに向かって声がする。

「あたし、つくづくうちの親って嫌い。本物でも大っ嫌い。

悪口なんて言いたくないけど、でも言わずにいられないくらい嫌いなの」

雅の両親は、知る人ぞ知る、割と有名な女優と実業家だ。しかも、いつも何かと不倫関係の噂が絶えない。

夫婦仲は冷え切っているし、仕事の事もあって二人とも家にはほとんど帰って来ないと言う。

二人の不仲は今に始まった事じゃない。あたしが雅と出会う前から続いている。でも、別れようとはしないらしい。

「二人とも、あたしの為に別れないって言うの。バカみたい。早く別れればいいのに」

泣きたいのをこらえているような、悔しさと軽蔑の入り混じった声で言う。

「嬌子といる時みたいに、いつも笑っていたい。もう、考えたくないよ」

あたしは、ある事を考えながら黙って聞いていた。

「嬌子?寝ちゃ嫌だ」

雅が不安気に声をかけてくる。

「聞いてるよ。あのさぁ雅。良かったらうち来て一緒に暮らさない?あたしも一人より二人の方が心強いし」

思ってた事を口にしてみたが返事がない。考えてるのだろうか。

沈黙が続いて、もう返事してくれないのかと諦めかけた頃、雅が喋った。

「嬉しいけど。あたし、あの二人が別れるのを見届けてから来る」

強い口調だった。あたしはちょっと驚いて、それから笑って答えた。

「うん。待ってる」

雅の心が揺れてるのが見えるような気がした。深い青い海の底にいるような夜。

   

「ごめんね。嫌な話して」

翌朝。雅が出ていき際に申し訳なさそうに言った。

「ううん」

あたしが首を振ると、急にいつもの元気な顔に戻って笑う。

「あたし、嬌子といると元気出るんだ」

あたしは、驚いた。

「…そんな事始めて言われた。あたしといると白けるって言った子はたくさんいたけど」

雅が一瞬泣きそうな顔をして、その後いきなり抱きしめられた。

「わっ。やめんかっ。あたしにそのケはないぞっ」

雅は離れると真面目な顔で言った。

「嬌子にもしもの事があったら飛んで来る。

あたしに何が出来るか分かんないけど、出来る限りの事をするよ」

あたしは、しばらく雅の顔をじっと眺めて、頭をポンッと叩いた。

「何マジにかっこいー事言ってんの。ほら、早く帰って支度しないと遅刻するよ。忘れ物はない?」

「うん。ない。あ、そうだ」

何だろうと思っていると、あたしの頬にキスをした。

かわす間もなくて、あたしは一瞬何が起こったのか分からなかった。顔がみるみる火照って来る。

「み、雅っ」

「志保子おばさんのキスだよっ」

雅が背を向けて駆け出す。

「待てっ。ばかものーっ」

真っ赤になりながら叫ぶあたしに向かって、雅が手を振る。

「じゃあ、また後でねーっ」

小走りに駆けて行った。その後ろ姿は、角を右に曲がって見えなくなった。あたしは、頬をさすった。

志保子以外の初めてのキス。

軽く溜息をついて、想像する。

…志保子が妬きそうだな。

 

     

 

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